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49 ひみこ十七歳

これから五章に入る。今までより長い章であり、全部で26話となる。前章から二年が経過し、鈴木ひみこは十七歳となった。

物語は、アレックス・ダヤルの夢から始まる。

 透き通る亜麻色の髪とエメラルドの虹彩を持つ少女が、アレックスを見つめている──久しぶりだ。君とはピラミッドで出会ったね。考古学者を目指していたね……君の発掘調査が発表されるたび、僕は幸せになれた──男は少女に呟く。

 アレックスは、今、自分が夢を見ていることを自覚していた。エメラルドの少女と別れてから、どれほど長い時が経ったのだろう……。


 ──ひどいよ、アレク……私のこと、嫌いなの?

 エメラルドの少女が涙を浮かべている。

 ──君を嫌いになったことは一度もないよ。今は別の道を進んでいるが、僕は君を忘れたことはないよ。

 ──アレクの嘘つき! 本当に愛しているなら……キスしてくれるはずよ。

 ──それは違う。愛とは関係ないだろ?

 ──そんなの嘘よ! お願い、キスして!


 エメラルドの少女の唇が、男の眼前に迫る。

 ──やめろ! やめてくれ!

 少女の腕を払いのけたいが、男は身動きが取れない。


 その時だった。

 遠くから、馬に引かれた古代戦車が駆け付ける。戦車から女戦士が飛び降りた。ドレッドヘアを揺らしエジプト式の鎌形の剣を、亜麻色の髪の少女の首に突き刺した。

 途端、少女は塵となりはて、空気に溶けていく──。


 ──君は何をした!

 ──アレッサンドロ、お前が夢魔に苦しめられていたから、退治したまで。

 ──君は……アイーダじゃないか! 何も殺すことはなかった!

 ──見ろ、お前を食い殺そうとする夢魔があそこに集まってきた。


 エチオピアの女戦士、アイーダは鎌形の剣で遥か彼方、地平線のピラミッドを指し示す。

 ピラミッドの入り口から黒い霧が湧き上がってきた。

 女戦士は、ファラオの顔と獅子の体を持つ聖獣、スフィンクスに変身した。


 ──私は門番だ。あのピラミッドには、お前の大切な夢を食らおうとする魔がひしめき合っている。気をつけることだ。


 スフィンクスは、黒い霧の元へ去った……ほどなく邪悪な空気は消え去り、砂漠の輝く青空が天を輝かせる──


 ──待ってくれ、アイーダ! まだ行くな! 僕には君が必要なんだ!


「アイーダ!」


 アレックスは自分の叫び声で目が覚めた。



 久しぶりに嫌な夢を見た。エメラルドの眼の少女のことはよく知っている。実際の彼女は、今、第一線の考古学者として活躍中だ。もう会わなくなって何年だ?

 アレックスは、来日して四年間、女と夜を過ごしたことはない。一人で眠る生活になってどれぐらい経っただろうか。


 目覚めと同時にホテルのスタッフがアレックスのベッドルームに入ってきた。


「おはよう、頼むよ」


 アレックスはガウンを羽織りソファに座った。ゴム状の手袋を着けたスタッフが、彼の両頬を手で包み込む。

 僅かに頬が熱を帯び、ゴム手袋からジェルがにじみ出る。と、スタッフは手を離し、今度は濡れたタオルで頬を拭いた。

 朝のシェービングサービスは一分もかからない。

 スタッフが笑顔を向ける。


「ダヤルさん、毎朝ありがとうございます。よかったらご自分でやってみますか? このクリームを塗って三十秒、置くだけですよ」


「ありがとう。しかし僕は、自分でシェービングはしたくないんだ」


 人に毎朝のシェービングを頼むなんて、本当にこの人は王様みたいだな、とスタッフは感心する。


「見たくないものがあるからね……さて」


 アレックスはソファから立ち上がり、ドアを開けた。

 リビングでは、別のスタッフがカプチーノを入れている。朝は必ずカプチーノと決まっている。


「ありがとう」


 男はシナモンの香りを味わい、一口、啜る。

 と、向かいのベッドルームの扉が開いた。


「おはよう、アレックス」


 鈴木ひみこは、いつも半袖のTシャツにハーフパンツを着ている。流行りのローブ付きのワンピースは動きにくいとのことで好まない。

 彼女がナイトウェアのままリビングに現れたのは、初めて会った時だけだ。


 ひみこはテーブルに着いたアレックスの傍に寄って、頬を差し出した。伏し目がちにアレックスのキスを待つ。

 悪夢が作用したのだろうか、アレックスは、少女のうすい唇に自らの唇を近づけた。


「ぎゃああああ、やめろおお! それはなしだろ!」


 少女の見事な拒絶ぶりに、アレックスは笑い転げる。彼女の日本語の叫びの正確な意味はわからないが、フラれてしまったことはわかる。


「ははは、悪かった。いつも僕からキスしているから寂しくなってね」


 アレックスは、ひみこの頬にそっと唇を寄せた。


「そ、それは、ごめんなさい」


 少女は頭を下げた。四年間暮らしてきたが、彼女が自分からキスを求めたことはない。なぜなら日本語族だから。彼はよくわかっている。

 わかっているのに、つい今朝はいたずら心が芽生えた。

 今朝の悪夢……亜麻色の髪の少女……キスを何度も求めて泣き出した彼女……そんなこと、忘れていたのに……。


「そろそろ、アイーダを呼ぶか」


 ぼそっと、アレックスは呟く。と、見上げると、黒髪の少女がホテルのスタッフから、朝食を受け取り、テーブルに並べ始めた。

 男は、決して自分に口づけを求めない少女の腕を、形の良い脚を、じっと見つめた。

 鈴木ひみこは十七歳になった。



 ひみこは、アレックスに引き取られた時とは比較にならないほど、「正しい」日本語を覚え、国際共通語も日常会話なら使いこなせるようになった。

 彼女の名を知らない日本人を見つけることは難しい。大統領主催のパーティに呼ばれ、声をかけられる。

 最後の日本語族はティーンエージャーの少女。先住民族の国際会議に、他の少数民族と共に出席した。国際的なメディアからの取材も受けた。


 アレックスはマネージャーのごとく、ひみこの傍に控えていた。


「ひみこ! 君は素晴らしいマスターでありナビゲーターだ」


 彼はイベントが終わるたび、彼女を抱きしめ頬にキスを送る。


「ありがとう。アレックスのおかげね。でも私のロボット・パーラはもっと上手よ」


 ひみこのAIを転送させたロボットは、人気の面ではリアルのひみこより劣るが、共通語の発音・語彙、そして日本の文化歴史といった知識では圧倒的に優れている。

 忙しいアイドルのひみこの代わりに、ひみこのロボットのプログラムもあちこちに転送され、活躍している。

 何より、鈴木ひみこ本人では参加が難しいVRイベントで重宝されている。


「パーラはその人間性をよく再現しているんだよ。アーンは僕の部下だが、不満がある時右に首を傾ける癖まで再現している。しかも、アーンよりロボットの方が日本語を理解している。生身の彼が話せるのは、オハヨウとイチニーサンぐらいだからね」


「アレックス、あなたのお母さんはすごい人だね」


 ひみこは、一日に一度、必ず彼の母を称えた。彼の機嫌がよくなるから。いつの間にか彼女は、そのようなことを覚えた。


「ありがとう。ロボット・パーラは、人間性と知性を兼ね備えた上で、気軽に誰もがどこでも使えるツールなんだよ」


 ひみこは微笑を絶やさない。


「ロボットを使えば、時差のある国でライブができるからね。なぜか人は昔から『生中継』に弱いんだ」


「私、夜更かし平気よ。だから、私も外国の配信ライブ、やるよ。東京にいたとき、連続ドラマ十話分を一気に徹夜して観ました」


「ひみこ!」


 アレックスの目が吊り上がる。


「君は過去を捨てたんだろ! 君は可哀相に両親に愛されず育った。お休みのキスすらしないひどい親と」


 少女の身体がビクッと跳ねる。基本、この保護者は優しいが、怒ると怖い。


「ごめんなさい」


 だから、少女は身を竦めるしかない。

 アレックスはひみこの頬をすっと撫でた。


「美しい……シルクのようだ……ああ、僕としては不適切な例えだったがね……可哀相な虫を煮炊きして生地を作るなんて残酷なことだ……でも、それだけ君の肌は、素晴らしい」


 そういってアレックスは少女の肌に何度も指を滑らせる。


「君のこの美しい肌を損なうわけにはいかない。いいね? ロボットが夜中、講義をする間、君はバスタイムのミストに身をゆだねて、よい夢を見るんだよ」


 そう言いながら、彼はひみこの額にキスをする。

 彼女はアレックスにキスをされるたびに、一瞬、ビクッと身構えるが、すぐ微笑みを返した。



 ひみこが東京から札幌に移って、四年が経った。その間、両親の鈴木太郎と花子からは、何も連絡がなかった。

 彼女に優しさを与えてくれた人々……札幌新都中学校で出会ったモーガン・ベスに教師リー・ジミー、前の日本語族保護局長グエン・ホア、そして初めてエントリーしたプレゼンテーション・コンテストで助けてくれた彼……誰からも連絡はない。


 ひみこは、以前のように、アレックスや他のアジア文化研究センター日本支部のスタッフに、自分宛てにメッセージが届いていないか、尋ねたりしなくなった。

 最後の日本語族の少女は、忙しくて感傷に浸る暇はない。

 身は札幌にありながら、火星のオリンポス山登山ツアーのPR番組に出演する。

 各地で出会う人々は、最後の日本語族を教祖のように崇めたて、娘のように可愛がってくれる。

 寂しく思うことはない。孤独を嘆く必要はない。これだけ多くの人に愛されている。

 それに──アレックスがいる。ずっと家族だと言ってくれる人がいる。

 彼がいる限り、不安におびえる必要はないのだ。


「アレックス、いつもありがとう」


 ひみこが笑いかけると、男は「僕こそ君に出会わせてくれた神に感謝しているよ」と言って大げさに抱きしめてきた。

 男の腕の中でひみこは自分に言い聞かせる。


 ──あたし、全然ヘーキだよ。あんたらと二度と会えなくたって。どーせ会っても下らない喧嘩するだけ。そんなことに『日本語』を使うなんてもったいない。それぐらいなら、ちゃんと真面目に日本語を勉強したい人と会って話すべきなんだ。


「可哀相に。心配しなくていいんだよ。僕が君を守るからね」


 男は、さらに強く抱きしめきた。

 ひみこは、アレックスのガウンの袖をギュッと掴み、彼の胸に頭を押し付けた。

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