4 父母が消えた日
「国の偉い奴が、明日、うちに来るらしい」
鈴木太郎は、いつになく深刻な表情で、娘に告げた。花子も隣で、太郎と同じような顔で重々しく頷く。
居間のモニターに、『偉い奴』の顔が映し出される。
「こいつが日本の偉い奴、で、こっちが外国から来た偉いお客さんだ」
モニター左側の丸顔の中年が、文化省文化財局長チャン・シュウイン、右側の面長の外国人が、アジア文化研究センター日本支部長アレックス・ダヤル。
確かに偉そうな顔だ、と、ひみこは素直に納得する。
ひみこが、両親以外の人と会うのは、月に一~二回ぐらい、物資の支給、家の修理に医師の訪問といったところ。
ひみこたち先住日本語族の保護は、大統領府直轄の日本語族保護局が担当するが、彼らが直接来たことはなくモニター越しの面接しかない。
だから、ひみこはワクワクした。いいじゃん、偉い奴って会ってみたい。この単調でお互いを罵りあう日々に、刺激をもたらしてくれる出来事なら大歓迎。
なので、父の言葉にひみこは落胆する。
「父ちゃんと母ちゃんは偉い奴が苦手だから、出てくことにした」
情けない、と、ひみこは両親に失望するが、この人たちってそんなもんだよね、と、娘は無表情に頷いた。母親も畳み掛ける。
「あたしさ、狭い家に閉じこもってるの飽きた。毎月、国から食い物が届くたび、やれ体重がどーとか血液があーとか、メンドクセーこと聞かれてうんざりだ」
ひみこも「うんざり」には同意した。母の言葉に珍しくも共感する。こんな暮らしを「うんざり」に思ってたのは同じだ。だから、この家を出てどこかへ行く、というのは悪くない気がする。
が、その前に『偉い奴』には会ってみたいし、不安もある。この情けない親たち、引っ越し先に当てがあるのか、この人たちに任せて大丈夫なんだろうか。
が、次に母が告げた言葉で、ひみこは硬直する。
「あんたは、一人で残りな。その偉い奴に、父ちゃん母ちゃんは死んだとでも言っときな」
母が何を言ってるのか理解できなかった。
何も努力せず争ってる両親を、ひみこは軽蔑していた。呆れていた。ずっとコイツらと一緒かと思うとうんざりしていた。いつか、ここから出てってやる、と思っていた。
でも。
出ていくのは自分であって、コイツらじゃなかった。
ひみこの顔が泣きそうに歪んだ。な、なんで? あたし一人でそんな、偉そうな知らないおじさん達に会わなきゃいけないの?
泣きそうな娘に父は追い打ちをかける。
「俺はな、おめーみてーな、生意気なガキは嫌いなんだよ。ずっと我慢してたがウンザリだ」
娘は父のあまりの暴言に言葉を失う。
母も父親に同調した。
「あ、ああ、そうさ。あたしも、自由になりたいんだよ! ガキの世話なんかで終わりたくないんだ」
ひみこは、凍り付いた顔を母親に向けた。
どうしてこんな奴らに自分がそこまで言われなければならないのか、腹が立ってくる。
長年の両親に対する鬱積が爆発した。
「あんたに世話されたことなんかねーよ! ドラマの母さんたちみたいに、パンもケーキも焼けないだろ! あんたは、袋を開けて出来上がったイナゴの佃煮を皿に並べるだけ! 父ちゃんの釣った魚だって、あたしが鱗やはらわた取ってるじゃん!」
娘の反撃に両親は顔を見合わせつつも、父親が反撃する。
「育てた恩も忘れて親に何てこと言いやがる!」
ひみこは、父親に向き直った。
「あんただって、難しい手術できないし、犯人だって逮捕できない! 家で寝っ転がって、グダグダしてるだけだろ! いっつもまずーい魚獲ってきて、しかも自分だけ食べようとしてるじゃないか!」
娘は怒りをつのらせる。
「タマの方がずーっとマシだよ! 下らねえテレビばっかり見せるけど、ちゃんと教えてくれる!」
ひみこは両親に、黒いリストバンドの腕時計を見せつけた。
一人娘にドロドロドラマの解説をする漫画猫のタマは、モニターから離れるとこの時計に顔を出す。鈴木家に訪れる人々は日本語がわからないため、そのままでは一家と話せない。すると腕時計からタマが現れ共通語に通訳する。黒いリストバンドの腕時計は、太郎も花子も着けている。通訳したりドラマを解説したりと、活躍ぶりもひみこのタマと一緒だ。
太郎は、ひみこの発言でますます厳しい顔つきになった。自分の時計を巻いた手首を上げて、ひみこと同じように時計を見せつけ、唾を飛ばした。
「お前、これはただのCG猫だぞ。いいか! 猫の言うことなんか聞くんじゃない!」
ただのCG! 父は娘に禁句を告げた。
ひみこの怒りは収まるところを知らない
「あんたらに親の資格なんかねーよ! タマの方がよっぽど親だよ。今すぐ出てけよ! 二度と帰ってくんな!」
息も絶え絶えにひみこは両親に言い放った。
母親は一瞬顔を歪ませたが、ひみこの放言を投げ返す。
「痛い思いして産んだげたのに、何だよその言い草。あんたがそのマンガ猫の方が親より大切ってーなら、今すぐ出てってやるよ!」
二人は既に用意してあったリュックサックを取り出して、玄関で靴を履いた。
ひみこの顔は怒りから悲しみにさっと変わった。今にも泣きだしそうだ。
うそ……本当に出てっちゃうんだ、この人たち……やだ……今、謝れば……
が、二人の親は娘の謝罪を待たず、木製の重たい扉を開け出ていった。
扉が閉まり数十秒したところ、ひみこはいたたまれなくなり、家を飛び出す。
しかし。
目に映るのはいつもの風景。ボコボコに歪んだアスファルトの道と、それを囲む椰子の林。
「とーちゃん! かーちゃん! どこだよー!」
少女は、歪んだ道をまっすぐ走る。叫びながら走る。
が、いつもなら気をつける道のくぼみに躓いて、したたか膝を打った。
「い、いたいよー! チクショー!」
ひみこは、そのままペタンと座り込む。が、東京の外れで痛みを叫んでも、親たちが戻ってくることはなかった。
真夏の東京で、一分以上クール・ウェアを纏わず走り回るのは、自殺行為。ひみこは捜索を断念し、スゴスゴと家に戻る。
灼熱に晒された少女の身体には、もう両親を探し求める体力も気力も残されていなかった。
居間のモニターには、明日やってくる『偉い奴』の顔が映し出しされたまま。
「泣かない! ぜーったいに泣いてやるもんか! タマぁ、あたしは絶対泣かないんだあ!!」
ひみこは黒い腕時計を握りしめ、泣き崩れ落ちた。