36 別れ
ひみこはいつものように札幌市街地を走り、時計台に立ち寄った。周辺の超高層ビルが、時計台に影を落とす。
「へへ、なんか、がっかり感ますますだね」
影が差した時計台の白い木肌の壁を撫で、ポツリと日本語をこぼす。誰にも理解されない呟きを。
「ひみこさん?」
後ろからの声に振り返ると、小太りの女性がいた。
「最後に、もう一度あなたに会いたかったんだ。ここによく来るって聞いたから」
西日を背中に受けた保護族局長の顔は、ひみこにはよく見えなかった。
時計台そばのホールは、一階がカフェになっている。
ひみこは局長と、カフェの茶色い丸テーブルを囲んだ。
「ごちそうするよ」
紅茶とフルーツケーキが二つずつ並ぶ。
あまりこの手のデザートは食べないが、一度、例の畜産研究所で、バターと生クリームを使ったケーキを食べたことがある。あれは本当に美味しかった。
局長には悪いが、研究所のケーキに比べると、クリームもケーキのスポンジもあっさりしすぎで物足りない。
「美味しいです」
しかし、すでに十四歳となったひみこは、ご馳走になるのに悪態をつくことはしない。
「気を遣わなくていいよ。あなた普段、ダヤルさんと豪華なスイーツ食べてるんでしょ?」
そんなことないんだけど……アレックスは、無味乾燥な大豆ミートを食べながら、牛やサーモンの味を呼び起こせるけど、自分はそうではない。
なまじたまに豪華な食事を食べてる分、普段の食事が一層惨めに感じられる。
「ひみこさん、優しくていい子ね」
日本語ではなかったが、そのような言葉を掛けられたことはなかった。
アレックスには、きれいだのかわいいだのいい子だの散々言われているが、彼以外の人間に褒められたことはない。
自分を捨てた親からは、「可愛くない」「生意気だ」だの罵倒されてきた。
少女の目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。
「ひみこさん!?」
グエン・ホアの大きな目が揺れた。
「今まで、保護局は、何も考えていなかった……日本語族は自分たちと違うから、好きにしておけばって……あなたたちも私たちも同じ人間で、同じ日本人なのにね……」
「す、すみません……私は優しくない、悪い子です」
ひみこの目から涙が止まらない。親切な保護局長は知らないのだろう。優しくていい子なら、親に捨てられるはずがないのだ。
「いいえ! 悪いのは、日本語族保護といって何もしてこなかった私たち……十四歳だもの、友達だって彼氏だってほしいよね……だから、後輩のジミー君と協力して学校に通えるようにしたかったんだ」
「え? グエンさん、そんなこと考えてくれたんですね」
グエンは頷いた。
「保護局に異動してすぐ考えたの。ジミー君が先生だから相談してね……でも、彼も私も異動するの」
ソーサーの音がカチンとカフェに響く。
「聞きました。私が悪いからです」
赤毛の中学生が教えてくれた。日本語族のひみこが中学校に押しかけ、リー・ジミーが親切に接したから、学校をクビになったと。ひみこが学校に顔を出さなければ、リーは中学校にいられたのだ。
「ひみこさん! あなたは何も悪くないの!」
グエンは、かぶりを振った。
「いい? 今は待つのよ。十八歳になるまで」
「十八歳?」
十四歳のひみこにとって、それは随分遠くに思える。
「成人になれば、ひみこさんの好きにできる……もしダヤルさんではなく……あ……」
グエンにその先を話す時間はなかった。
なぜなら、ひみこの両隣に、ロボット・パーラが二体構えていたのだ。
「鈴木さん、今日のプログラムはまだ終わってませんよね?」
フィッシャーとそっくりの声をした二体のロボットに、ひみこは腕を掴まれた。
振り払おうとするが、ロボットには水が充填され重くなっているので、逃れることができない。
「女同士のティータイム、邪魔しないでほしいな」
グエンの訴えは、ロボットには効かない。
ひみこは慌てて立ち上がった。
「やめて、私は戻ります! グエンさん、ありがとうございました。おいしかったです」
両腕をロボットに掴まれたまま、ひみこはペコっと日本式にお辞儀をして、引きずられるよう、カフェを去った。
グエン・ホアは、ロボットに抱えられるようにして消える日本語族の少女を見送った。
大統領府直轄の日本語族局長に赴任して早々、グエン・ホアは鈴木家三人の状況を何とかしたかった。
一人娘のひみこが、アレックス・ダヤルという独身男性に引き取られていることに、引っかかりを覚えた。
独身の富豪とホテルで二人暮らし──普通の一軒家より大きな部屋だが、勘ぐり過ぎだろうか?
彼の経歴を確認する。恵まれない少女の親代わりを務めてきたが、なぜ、全員少女なのだろう?
そのうちの一人、世界的な女優アイーダは彼の母が引き取ったので、兄妹のように育っているが、この二人は、付き合いと別れを繰り返している──調べれば調べるほど、思春期の女子の保護者として疑問が残る。
グエンは、二人とホテルで初めて会った日を思い出した──。
ひみこは、グエンに向かって『マグロもステーキも食べ放題』と叫んだ。
アレックスがひみこに日本茶を入れるよう指示する。
少女が席を外した途端、男はグエンの隣に移ってきた。
このような状況にグエンは慣れていた。だから「ダメですよダヤルさん」と、肩に回された腕を振り払おうとした途端、彼はグエンに囁いた。
「ホア、君は今、ウシャスに、君の目に映ったひみこの姿を記録したよね? その記録をどうするつもりなんだい?」
「ダヤルさん……何をするんです……違法なハッキングです! 人の脳チップにアクセスするなんて!」
「違法? 僕の了解を得ず、ひみこの醜態を勝手に記録した君の問題は?」
「まって! なぜ、なぜあなた方が保護局へ提出する養育レポートは、文字だけなの? 文字だけなんて、今どき役所内でもありえない。私はこの子の様子をご両親に伝えたいだけ……あ、消さないで……あ、いや、やめて」
その後、鈴木ひみこは、アレックスに茶をぶちまけた。残念ながら、ひみこの言動を記録したグエンの脳内データが消去された後だった。
グエン・ホアの疑問が確信に変わった瞬間だった。
彼女はすぐさま、アレックスに文化大臣とのミーティングを提案する。彼女の働きかけで、文化大臣だけではなく大統領もミーティングに参加することとなった。
表向きは、日本語族の保護に尽くすアレックスを労うことだが、グエンの真の目的は、ひみことアレックスを少しでも引き離すことだった。
アレックス・ダヤルのことだ。文化大臣と大統領が出るミーティングを断るはずがない。
グエンの試みは成功したかに見えた。アレックス・ダヤルが席を外した間にコンテストが進められた。ひみこは、リー・ジミーに彼の生徒、そして中国地方から来た高校生といった、新しい出会いを得ることができた。
ひみこは中学校に通い、普通の十四歳の日本人として生きられる……はずだった。
ホールのカフェに差し込む西日が、女の赤い唇を照らす。
「ごめんね、ひみこ。アレックス・ダヤルをあなたの養育から外したかったのに……」
日本語族保護局長として最後の日、グエン・ホアは、すっかり冷えた紅茶をすすった。




