34 学校
日本語族は今、ひみこを含めて三人しかいない。残りの二人は会ってくれそうもない。もしかすると一生、このままかもしれない。
ロボットのフィッシャー先生との授業は日本語が多いが、それ以外、アレックスなど生きた人間との会話は、共通語だ。
何も気を遣わず当たり前のように母国語で話せることが、どれほど恵まれたことなのか、一年が経って、ひみこは嫌というほど思い知らされた。
その貴重な言葉で話したことは……魚食わせろ、暑い、うざい……互いを思いやることもなく、向上心もなく、欲求をぶつけ合うだけだった。
太陽系の彼方まで散らばった九十億人もいる人類のうち、ひみこと本当の意味で話せる人間は、絶縁された両親だけ。
下らない使い方をした言語は、もうすぐ消えてしまう。
自分が死ぬこと以上の恐怖が、ひみこを襲う。
その恐怖に一筋の光を見出したのが、コンテストのできごと──。
あの少年は、日本語を知っていた。たどたどしかったが、生きた人間の日本語だった。ひみこが転んだ時、真っ先に駆け付けてくれた。
日本語でプレゼンができるよう、設定をしてくれた。
なのに彼女は、彼に「あっちへ行け!」と怒りをぶつけた。
彼に気の毒な障害者扱いされて、腹が立った。
が、彼に悪意があったわけではない。みな転んだ自分をただ見つめていただけなのに、彼は声をかけてくれた。
終わった後、彼は忘れ物を届けてくれて「ゴメンナサイ」と日本語で謝ってくれた。
名前を知らない少年に、お礼を言いたい。
何かと気にかけてくれた教師リー・ジミーと少年は知り合いらしい。彼はリーのいる札幌新都中学校の生徒なのだろう。
いつものようにひみこはホテルを出て、札幌市街地を走る。
中学校がホールの近くにあるとリー先生から聞いた。ホールまで走り通行人に教えてもらう。
学校は、昨年クリスマスを過ごした教会の近くにあった。
閉ざされた門の脇に高さ二メートル、幅八十センチメートルほどの茶色いボックスがある。ボックスの正面に、人の頭より大きい四角い白い透明なパネルが、ちょうど頭の高さの位置に貼り付けられている。
ひみこが門の前で立ち尽くしていると、そのボックスのパネルがキラキラ輝き、声を掛けられた。
「学校に何か用ですか?」
パネルには本物の猫のような顔が映し出されている。タマと違って三毛猫ではないが。
「あ…あの……、私は、鈴木ひみこです。昨日、プレゼンテーション・コンテストで、リー・ジミー先生が助けてくれました」
ほどなくパネルは、知らない女性の顔に変わった。
「鈴木さんね、昨日はお疲れ様。先生たちは、授業中なの。今、行きます」
パネルに現れたと顔と同じ若い女性が、ひみこを迎えに来た。
空いた教室に通され、授業が終わるまで待つことになった。
教室を見渡す。ドラマで見た時よりは、カラフルだ。ピンクやブルーの壁紙が可愛らしい。
『言葉でしっかり伝えよう』『秘密の通信グループはやめよう』
そんな標語が壁のサイネージにキラキラと、表示されている。
しばらく待つと、リー・ジミーが現れた。
「鈴木さん、よく来てくれたね」
「はい、あの……お礼を言いたくて……」
「こちらこそありがとう。プレゼンコンテストを見学した生徒たちに、感想文を書くよう課題を出したんだ。みんな文章を書くのが苦手だからね」
「ええ! だって失敗したし……」
「そういうことも含めて、感じたことを書くのは大切だから」
うわあ恥ずかしい。感想文書くなら、成功したプレゼンにしてほしい。
「みんなはどこにいますか?」
本当の目的……あの少年に会いたいとは言えなかった。
「今、休み時間だから、行きましょうか」
教師に連れられそのまま教室に向かった。
リーが生徒に呼びかける。
「プレゼンコンテストの鈴木さんが、お礼を言いたいって来てくれたよ」
一斉に、ひみこに教室中の注目が集まる。
「あれ、鈴木さんだ。言葉わかる? こんにちは」
「昨日と全然違うね。普通の服、着るんだ」
誰かが気がつき、次々と先住民族の少女に声をかけてきた。
ひみこも微笑み返す。
「みんなに会いたくてきました。ありがとうございます」
「魚って美味しいの?」「いいなあ、女王様と同じ名前なんて」
次々と、生徒たちはひみこに集まって声をかけてきた。
「泣いちゃったけど大丈夫?」
ぎこちなくも、大丈夫、元気、魚は美味しくない、などと答える。
「本当は魚、うまいよね?」
ひみこは、アレックスに散々言われたことを思い出して答える。
「本当に美味しくない。大豆ミートの方がずっと美味しい」
「鈴木さん、嘘ついてる!」
赤毛の女子中学生がひみこの頬を小突いてクスクス笑った。彼女には見覚えがある。
リー先生の隣にいて「反抗期?」とからかった女の子だ。
学校って楽しそう、みんないいな、羨ましい……が、ひみこは、大切な用事を思い出す。
「あ、あの……昨日、前の席にいた人、えー、私が転んだ時、来た人」
生徒たちは顔を見合わせ頷いた。
「あの人はね、修学旅行で来たんだって。この学校じゃないよ」
途端、ひみこは肩を落とした。それでは、この学校に来ても彼には会えないのだ。
「うん、あたしたちより年上。中国地方の高校だって」
そうか、高校生なのか。言われてみると、しっかりしている。通訳アプリの設定変更を教えてくれたのも高校生だからか。
「鈴木さん、好きになった?」
赤毛の女子中学生が笑った。
ひみこは途端に顔を赤くし「ち、違う! ただ、お礼を言いたいだけ!」と切り返す。
「鈴木さん、女の子なんだ」
ひみこは、手を振り回して、全力で否定する。
「そうじゃない!」
が、否定すればするほど、周りの少女たちがはやし立てる。
「すごいピュア」
「遠距離恋愛になっちゃうね。中国地方じゃ、交通費すごいかかるし」
休憩時間が終わっても女子生徒らはひみこを囲んでのおしゃべりをやめなかった。
若い教師は、その様子をニコニコ眺めている。
「ジミーせんせー、鈴木さんに彼氏、紹介してあげて。あのカッコいい高校生、好きなんだって」
赤毛の中学生がお節介する。おしゃべりはやがて若い教師を巻き込む。
「や、やだよ! そんなんじゃないの!」
ひみこは共通語ではなく日本語で訴える。ムキになった様子を生徒たちがからかう。
教師も「鈴木さん、よかったら高校にメッセージを送るよ」と勧める。
ひみこは「それなら……『ありがとうございました』って伝えてください。お……お願いします」と小さく呟く。
リーは「わかった。ちゃんと伝えるよ」とニコニコ頷いた。
「じゃ、そろそろ授業始めるけど、どう? 鈴木さん、せっかくだからこのまま聞いていく?」
教師が促し生徒たちも強く勧め、ひみこも大きく頷いた。
「じゃ、今日は鈴木さんがいるから、いつもと違った授業になるけど、図形の証明問題だよ。鈴木さん、難しいと思うけど、がんばってね」
ひみこは申し訳なく「すみません。ありがとうございます」とペコっと頭を下げる。
が、思ったより授業は理解できた。
通訳アプリにも頼ったが、数学というのが幸いだったかもしれない。
ひみこの学習プログラムの多くは、日本文化と共通語が主だったが、義務教育の勉強も含まれていた。
図形の合同は、初めて知った項目だが、ひみこは食い入るように聞き入った。
授業が終わると、リーが声をかけた。
「鈴木さん、今の授業がわからなくても、補習でフォローするよ。どうかな? みんなと一緒に学校に通うのは?」
学校に通う?
ひみこにとって学校もドラマの世界だった。吹奏楽の大会をがんばる、カッコいい男の子に壁ドンされる、難関大学を目指して勉強する、帰りに友達とタピオカを食べに行く──夢の世界だった。
そんな夢の世界に、自分も入れるのだろうか?
「学校、行きたいです」
少女は大きく頷いた。
赤毛の女子生徒が「ずるーい、わたしもジミー先生の補習受けたい!」と教師の腕を引っ張る。
が、楽しさは、かき消されてしまった。
教室に年配の大柄な女性が入ってきた。
「リー先生、来てくれる?」
「え! 校長!?」
若い教師の額から汗が噴き出した。
校長はひみこを向いた。
「ね、鈴木さん。学校に通うには、いろいろ手続きが必要なのよ。学校から連絡するから、それまで待っててくれるかしら?」
少女は満面の笑みで「はい! 楽しみに待ってます」と答えた。




