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2 プリンスの来日

 真夏の首都、札幌。

 大通公園沿いのビジネス街に「アジア文化研究センター日本支部」がある。高層建築が並ぶ中、このオフィスビルは五階建てと小さい。

 外で、ゴーグルを被った小柄な男が頭をグルグル巡らせ、新しい上司の到着を待っていた。


 上司が暮らすホテルからこの研究センターまで、車で五分ほどだ。この距離なら普通に地上のタクシーで来るだろう。いや、地下鉄かもしれない。まさか、空からやってこないだろうな、と、ゴーグルの男は、顔を上や左に向け、何かと忙しい。


 まもなく待ち人が現れた。思ってもみなかった場所だ。

 上司は、ビルから三十メートル先の歩道を進んでいた。人種の坩堝と言われる札幌でも、百九十センチもあれば目立つ。

 ゴーグルの男は、歩道の人ごみをかき分け、速足で上司を迎えに行く。


 上司のことはずっと前から知っていたが、実際に会うのは初めてだった。

 小麦色の肌に黒いくせ毛。白い歯がまぶしい。サングラスの奥の目も笑っているのだろう。裾の長いゆったりとした白いシャツに細身のデニム。この雑踏の中で、自然と目が引き寄せられる。

 サングラスが外された。青い虹彩が真夏の空のように光っている。


「ハーイ! 僕はアレックス・ダヤル。知ってるかい?」


 男は快活に呼びかけた。

『知ってるかい?』と呼びかけるとはジョークなのだろう。アレックス・ダヤルとは、彼の着任が決定してすぐモニターで一度やり取りした。それ以前に、研究センターの職員でアレックスを知らない者はいない。

 笑っていいものか、ゴーグルの男は決めかねていた。


「もちろんです支部長。私たちはあなたを歓迎します」

 ゴーグルの男は、オールバックに揃えた金髪を整え、新しい上司の大きな右手を軽く握った。


「私はフィッシャー・エルンスト、今日からあなたの秘書を務めます。業務はタスマニアの前任者から引き継ぎました」

 フィッシャーは四十代。アジア文化研究センター日本支部で二十年近く働くベテラン職員だ。


「嬉しいね。エルンスト……アーンと呼ぼうか。僕のことは誰もが呼ぶように、アレックスか、アレクと呼んでくれ」


 生まれながらの日本人フィッシャーは、ファーストネームで呼び合う習慣に抵抗がある。が、生まれながらの日本人として、上司の意向に従う。

「……それではアレックス。あなたが歩いてくるとは思いませんでした」


「ホテルから歩いて三十分。ちょうど良い距離だね。むやみに機械輸送に頼ってはならない……二十二世紀の地球人なら当然だろ? ダヤルの人間なら、なおさらだ」


「すばらしいです、アレックス」

 フィッシャーは、どうにも好きになれないタイプだ、と思いつつ「アジア文化研究センター日本支部」に新任の上司を招き入れる。

 ロビーでセンターのスタッフが二十人ほど、待機していた。


 新支部長は、快活に笑った。

「あっはっはっはっ! 僕はアジアのことよくわからなくてね、でも覚えたよ。ここは日本だ。中国でもインドネシアでもない。点心が伝統料理で、昔は両班(ヤンバン)が支配していたんだ」


(点心は中国で、両班は朝鮮だろ!)

 スタッフだけに通じる方法で愚痴をこぼす。

(こんなもんだろ? 俺たちだって、アフリカや南米にどんな国があるか、よくわからないしね)

(でも、あたしたちはともかく、日本支部長がそれでは……)


 スタッフは新任の支部長に笑顔を見せつけ、『心の声』でトークを盛り上げた。スタッフだけにチャンネルを解放している『心の声』で。

『心の声』は滅多に使わないが、新支部長の出迎えに不備があってはいけないと、フィッシャーの指示で、メンバーと時間を限定して使うことにした。


「点心は中国で、両班は朝鮮か。覚えておくよ」


 アジア文化研究センター職員の顔が凍り付く。笑顔をキープすることをすっかり忘れてしまった。


「そう、君たちは賢い。僕が誰かわかっている」

「さ、さすがですね、アレックス」


 フィッシャーは引きつった笑顔で返した。

 新支部長アレックスは、センターの経営母体、ダヤル社の御曹司。

 スタッフは、プリンスの前では『心の声』の通信が無意味だと悟る。

 アレックスは満足げな笑顔を見せつけた。


 多くの人々が脳情報を送受信できるチップを脳に埋め込んでいるとはいえ、機能も使用時間も限定されている。

 が、ダヤルのプリンスが使う脳チップは特別製らしい。メンバー限定の脳内チャンネルにやすやすとアクセスできるらしい……違法なハッキングではないかとみな思うが、そんな気持ちも、目の前の大男はお見通しに違いない。


「さて、僕の来日を迎えてくれる政府高官とは、つながったかい?」

 スタッフは顔を見合わせる。彼らが発言する前に、アレックスの顔から笑顔が消えた。彼らのためらいも、この御曹司はお見通しらしい。


「貿易大臣でもデジタル大臣でもなく……文化省の局長とはね……日本政府は君たちと違って、賢くないようだ」



 アレックスは、支部長室のソファにゆったりと構えた。

 日本文化省文化財局長、チャン・シュウインは五十歳、モニターの向こうで丸顔を揺すっている。人懐っこい笑顔で日本文化の現状を語り始めた。

 新任の支部長は、抑揚なくチャンの言葉を聞いていた。いや、聞き流していた、青い眼をうっすら開けて。


「すみませんね~ダヤルさん。うちの大臣たちはみんな委員会でしてね、てへへへ」

 チャンは、新任のセンター支部長の機嫌を取ろうと、笑顔を張り付ける。


 アレックスの母、ラニカ・ダヤルは、天才的な技術者そして実業家として名高い。

 彼女は、量産型携帯ロボット・パーラや、脳情報を送受信する装置ウシャスを発明して財を成し、世界の富豪十人の仲間入りをした。フィッシャーたちの『心の声』も、ウシャスを使っている。

 アレックスは、ラニカが産んだ唯一の子供。正真正銘のプリンスだ。なのにアレックスの来訪を出迎えたのは、実務担当の局長だった。


 チャンも不満だった。母のラニカ・ダヤルはすごいが、こいつはただのボンボンじゃないか。外国の要人の応対は観光局が対応すりゃいいのに、管轄違いじゃないか。


 モニター越しでは『心の声』の能力は限定される。が、そのようなものを使わなくても、互いの不満はいやになるほどわかる。

 互いの不満をわかったうえで、チャンは日本文化について説明し、アレックスは青い目を眠たげに細める。


「オーケー。君の共通語の発音に癖はあるが、まあいい。ありがとう。ところで僕も日本語を学びたい。日本語教師を紹介してくれないか」


 アレックスの意欲的な願いに、チャンはのけ反らんばかりに驚いた。

 本当にこの男は日本の現状を全く知らないのか! だから「日本語教師」なんてファンキーなことを、笑顔で言ってのける。

「ダヤルさん! 日本語教師なんてこの国には一人もいませんって」


 チャンがこの国の元となった言語の状況について説明すると、アレックスは飛び上がらんばかりに驚いた。

「待ってくれ! この国で僕はアジア風な文字をたくさん見た。空港でも駅でも……あれは日本語ではないのか?」

 アレックスは、眠たそうにしていた青い目を突如輝かせた。


 チャンは軽蔑の気持ちを隠さず答えた。

「アジアは一つの国ではありませんよ。ダヤルさんが見たのは中国語でしょう。古い建物には日本文字が残っていますが、文化局のあたしですら、全ては読めません」


「なんだって!」

 新任の日本支部長は、ソファから立ち上がった。

 チャンが畳みかける。

「この国で日本語が話せるのは、鈴木太郎、鈴木花子。そして一人娘のひみこ。以上の三人です」


 日本という国で、日本語ネイティブが三人しかいない? アレックスはこの国に来て、さっそくエキサイティングな心地を覚えた。


「オーケー、シュウイン。僕をその日本語が話せる三人の鈴木『サン』の元に連れてってくれ」


 ダヤルのプリンスは、文化局長に満面の笑みを見せつけた。

 チャンは、勘弁してくれよ、日本語族の件は自分の管轄ではない、大統領府直轄だろ、とうんざりした。


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