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26 月面の恋人たち

 予定通り、アレックスは恋人の女優アイーダと二人で過ごした。

 彼女はフードのついた白っぽいローブを着ていた。彼女らしさが表れているのは、フードの隙間から覗く、輝く大きな黒い眼と愛らしい唇だけ。

 この数年アイーダは、アレックスと会う時は、必ずそのローブで全身を覆っていた。


「ああ、ハニー。本当に会いたかったよ」


 アレックスは、アイーダを優しく抱き寄せ顔を近づけた。


「だめよアレク。これ以上は」


 アイーダは首を振って、彼の動きを押しとどめた。


「わかっているさ。これでも僕はダヤルの一族だ。こんな形でも君と会えるなんて夢みたいだよ」


「私は『夢を現に、現を夢に』のアイーダだもの」


「嬉しいよ、ずっとそのコピーを使ってくれて。僕が君のために考えたからね」


 彼と彼女の視線の向こうには、白く輝く岩石の荒涼たる平原が広がっている。

 地平線は、暗黒の宇宙の境界を示す。

 二人の見る風景は、何もかも地球とは違っていた。

 彼らの感じる重力は、地球の六分の一、すなわち月の重力だった。


「すごいわね。月で日食が見られるなんて」


「日食はもう始まっているよ。もうすぐあの燃える太陽が完全に消える。地球によって」


 地球で月食が起きるとき、月では日食となる。月は、太陽と地球がなす影を通り過ぎる。

 宇宙エレベーターが実用化されてから、月への観光は人気が高い。

 特に、月から見る日食は競争倍率が高く、通常の十倍ものツアー料金を設定しても、申し込みが殺到する。

 環境保護のため、どこの国でも娯楽目的の長距離輸送は制限され、輸送には莫大な環境税が課せされる。それでも富裕層は、金を惜しまない。


「アレク、あなたのおかげで、他にはない体験ができたわ」


 二人は互いを見つめ、微笑む。


「すべて君のためだ」


 この月面日食ツアーは、ダヤル社の傘下にある観光会社が企画した。

 アレックスは、ツアーの運営に直接は関わっていないが、プリンスだけあって、彼の友人を競争倍率が高いツアーによく招待していた。

 なかでも世界的な大女優アイーダは、一番恩恵を受けていた。

 二人は、月の平原に設置された全面ガラス張りの展望施設で、消えゆく太陽に体を向けた。

 百平方メートルの観光客用VIPルームは、二人だけの世界。


「このツアー、あなたが考えたの?」


「僕はタッチしていないよ。ああ、逆パターンのツアーは提案してみた」


「逆?」


「地球が日食の時、月でツアーをやったらどうかってね」


「あら、ステキじゃない」


「ハハハ、スタッフに一蹴されたよ。月は小さいから、地球に小さな黒い染みを残すだけ……それでもリッチなマニアは、月や宇宙ステーションに行くけどね」


 アレックスが瞬きをすると、ゆったりとしたオペラの旋律が流れる。


「嫌だわ。これ『アイーダ』じゃない」


 イタリアの作曲家ヴェルディの手によるオペラ『アイーダ』は、十九世紀終わりの誕生以降、世界中で愛されてきた。

 凱旋行進曲といった勇ましいマーチが有名だが、今、二人の間に流れているのは、女奴隷たちがエジプト王女の衣装の支度をする場面の歌だ。ナイル川のようにゆったりとした旋律がエキゾチックな雰囲気を醸し出している。


「踊ろうか」


 アイーダは微笑み、アレックスと手を重ねた。

 二人はゆっくりと回る。月の軽い重力を感じるためか、心もどことなしか浮き立つ。


「君は本当に素晴らしい『アイーダ』だ」


 大女優は目を伏せた。


「そろそろ、太陽が消えるよ」


 青白く縁どられた巨大な闇の円、地球が現れた。微かに漏れこぼれる太陽の光──巨大なダイヤモンドリングが、月の暗黒の空を支配する。


「アレク、あなたには、何度見せてもらったかしら。空のダイヤモンドリングほど美しいものはないわ」


「いや、君より美しいものは、宇宙のどこにもないよ」


「そう? でも、あなたからダイヤモンドリングをもらったことはないわ」


 女は左手の薬指を見せつける。

 男は苦笑いを浮かべた。


「君は、何度も他の男から、ダイヤモンドリングを受け取っただろ?」


 男は女の左手を取るが、誇り高い女優は、彼の手を振り払った。


「何度も? たった二回よ」


 アレックスは、寂しさを紛らわせる。


「君とは、ハレー彗星ツアーに行ったのが始まりだったね」


「ええ、もっとキラキラしているかと思ったら、岩の塊が不気味で……怖かった」


 ダヤルの本社が宇宙観光事業に乗り出したとき、宇宙船に乗ってハレー彗星を近くで観望するツアーを企画したところ、多くのセレブが申し込んだ。


「あなたは全然変わらないのね」


 大女優は、彼の頬をそっと撫でた。男の小麦色の肌はみずみずしく輝いている。偉大な実業家である母と、ビザンツ帝国皇帝の末裔である父を持つ、まぎれもないプリンス。


「君は……いつも大胆で、強くて、美しいね」


 アイーダは口を捻じ曲げ、アレックスの唇を人差し指でなぞる。


「ふふ、また、小さい子猫を拾って育てているんでしょ?」


 アレックスが日本語族の娘を引き取ったことは、ゴシップサイトで話題になっている。


「また、とはどういうことだ? 彼女は可哀相な少女だよ」


「私みたいに?」


 アイーダは、内戦に明け暮れる東アフリカの国に生まれ、幼い時に亡命する。ダヤル財団が運営するNGOが彼女を保護した。


「残念ながら、君のような女優にはなれそうもないな」


「アレク楽しそうね」


「アイーダ。君が妬いてくれるなら、こんな幸せなことはないよ」


 太陽のダイヤモンドが姿を消した。白く輝く地球の境目。月の大地が赤黒く染まる。


「まさか。その日本の女の子に同情するだけ。あなたなんかに育てられるなんて本当に可哀相」


「可哀相? 嫌だなアイーダ。僕の育てた子は、みな素晴らしい女性となり世界へ羽ばたいた……でもアイーダ、君は特別だ」


「勘違いしないでアレク。私を育てたのはマンマ、ラニカよ」


 女の声が、一段と低くなる。


「それは認めるよ。僕は、花畑で舞い踊る蝶を見つめていただけだ」


「見つめていただけ?」


 黒曜石の眼が、男を捕まえる。


「妖艶な女神の力に抗えなかったよ」


「よく言うわ。ああ、忘れてたわ。あなたに一つだけ教えてもらった技」


 思わせぶりな女の物言いに、男は眉を寄せる。


「男の体を満足させる技は、丁寧に教えてくれたわね。過去の夫たちや恋人たちも、私が一番上手だって褒めてくれたわ、あはははは。アレク、あなたのおかげよ」


 男の顔が、みるみるうちに、月の大地と同じように赤黒く変色する。


「やめろ! そのような言い方で自分を貶めるな!」


 アレックスは、軽くアイーダの頬をはたいた。

 瞬く間に、アイーダの身体は崩れ落ちた。プシューと空気の抜ける音が虚しく響く。彼の足元には、ローラーに繋がったゴムの膜、そしてロボット・パーラを覆っていた布が転がっている。


「アレク」


 目の前のモニターで、大女優が呼びかけた。


「アイーダ、すまなかった!」


 男は心の底から詫びた。


「いいのよ。だって私たち……もう直接会わなくなって何年経つかしらね?」


「君は、今でも新作の撮影に忙しいしね。わかっているよ」


「違うわ。私はね、地球から月食を見たくてカリブにいるの。中々ミステリアスで、今、いい気分よ」


 アイーダの身体は、月ではなく地球にあり、ロボットを通して月にいるアレックスと通じていた。


「アイーダ! ウシャスがあれば、どこにでも行ける! 君は感じたはずだ。月の闇を、大地を、重力さえも。僕の感覚を、心を感じたはずだ。僕らはどこにいてもつながることができるんだ!」


 アイーダの声が沈んだ。


「ウシャス……あなたの素晴らしいお母様の発明品ね。人の心と心を直接結ぶなんて……さっきは驚いたわ。本当に体が軽くなったもの」


「だから僕にはわかる、君の心が。君は一人の男では満足できない。今、隣に誰かいるんだね?」


「……さすがに、目の前にはいないわよ」


「僕は、女神に仕える下僕の一人で構わない! それでも僕には君が必要なんだ」


 アレックスは、モニターの前に跪き、頭を垂れる。


「そうね、私もわかるわ。なぜ、あなたが私を必要とするのか」


「それは、君を誰よりも愛しているからだよ」


 モニターの向こうで、アイーダは厳かに囁いた。


「わかったわ……今回も、あなたが求めるままに、今からあなたの中にいくわ。さあ、目を閉じて」


「もったいないな。あの禍々しい色をした月の大地を見たいよ」


「目を閉じても、あなたならウシャスの力で見えるはずよ」


 言われるがままアレックスは瞼を閉じた。


「……僕の女神……君は何て温かいんだ……わかるよ……今、僕と君はつながっている……」


「ラニカに言われたもの。あなたを守るようにってね。だから、あなたを襲う禍々しい物を、退治してあげるわ」



 目を閉じた男が見たのは、晴れ渡る古代エジプトの砂漠。

 が、ピラミッドの入り口から黒い霧が湧き上がり、青空を覆い尽くし、砂漠は暗黒と化す。

 そこへスフィンクスが現れ、雄たけびを上げる。

 瞬く間に黒い霧は晴れ、砂漠の輝ける青空が戻った……。



 男は瞼を開いた。澄み切った笑顔をモニターの女に見せる。

 青い虹彩が色づく角膜に、赤黒い地球が映っている。


「アレッサンドロ・ダヤル・パレオロゴ。助けるのは今日で終わりよ。もう二人では会わないわ」


「君にそう言われるのは何度目だろうね」


 アレックスは微笑んだ。長い付き合いの中、別れを告げられるのは二度や三度ではない。


「いいえ、本当に会わないわ。だって」


 アイーダは寂しく笑った。


「あなた、自分が見えていないもの」


 月の日食──

 地球の大気で屈折した赤い光は、月の大地を禍々しく染めていた。

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