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22 鈴木夫妻の事情

 勝手にホテルを飛び出したひみこは、アレックスの叱責を覚悟した。

 が、彼は「ジョギングは楽しかったかい?」と笑顔を向ける。


「アーンに言われたよ。美術館や博物館を訪ねるのはいいことだ。札幌特別区内の施設は自由に出入りできるようにした。左手を施設のゲートにかざせばいい。何かあったら『フィッシャー・エルンスト』と左手に叫ぶんだ。すぐプログラムを転送されたロボットが君を助けるよ」


 ひみこは左手を広げじっと見つめる。

 正直、あの時計台の中に入るのは怖い。もう一度入ろうとは思わない。日本語族の重い歴史など、知りたくない。


「では、買い物できますか?」


「欲しい物があれば、僕に言えばいい」


「でも、お腹すいたときとか……」


「はは、そういうことか。それなら大丈夫だ。ドラッグストアのキャッシャーで同じように手をかざせばいい。ただし」


 アレックスは、ひみこの小さな手を取った。


「乗り物には使えないよ」


「え? 私は電車やバスに乗れないんですか?」


「君のためなんだ。札幌から出られたら、君を守ることはできない」


 青い目でじっと見つめられると、ひみこは何も答えることはできなかった。



 ソファで眠りこけている上司にコーヒーを出す──アジア文化研究センター日本支部長秘書の、ほぼ毎日の習慣だった。

 ソーサーがテーブルを叩く音で上司が目を覚ますのも、いつものことだ。


「アーン、君のエスプレッソは最高だよ」


 アレックスは体を起こしてカップに手を取った。


「日本語族保護局が知らせてくれたよ。ひみこの両親は大学病院に入院した」


「え! まさか重病なのですか?」


「保護局からはそれ以上、何も聞いていない」


 フィッシャーは頭を傾け、一つの可能性を提示した。


「アレックス、鈴木夫妻が出ていった理由は、病気のためかもしれません」


「ん? 彼らは病気のため、精神に異常をきたし、一人娘を捨てる、という愚行をしたとでも?」


「いえ、病気で先立つ親のことで娘が悲しまないよう、憎まれる行動を取ったのだと推察します」


 フィッシャーは、なぜ鈴木夫妻が娘を捨てたのか理解できなかった。理解したかった。どんな親でも子供にひとかけらの愛は持っている、と信じたかった。病が理由なら納得できる。

 

「あはははは、アーン、君はなんて優しい男なんだ! しかし、ひみこには言うな。そんなことを言ったら彼女は……」


「病院に連れて行け、と暴れるでしょうね。ところでアレックス」


 晴れがましく披露した可能性を笑い飛ばされたフィッシャーは、気持ちを切り替えるためゴーグルを掛け直した。


「あなたは本当にニューイヤーをアイーダと過ごすのですか?」


 秘書は、あえて上司のプライベートに踏み込む。


「ああ、僕は、彼女に会いたくて仕方ない。いや、会わないといけないんだ。僕が僕であるために」


 フィッシャーは、アレックスの言葉から「アイーダ」が彼にとって特別な存在だと思い知らされる。しかし、今はどうでもいい問題だ。


「その……ニューイヤーは鈴木ひみこさんと一緒の方がいいかと。彼女が立ち直るのは時間がかかります」


「大丈夫だよアーン、君がいる。ホテルのスタッフは優秀だ。彼女は一人にはならないよ」


 アレックスは、支部長室の窓に顔を向けた。白い半月が札幌の市街地を見下ろしている。


「ニューイヤーの日食を見たいんだよ」


 ゴーグルをかけた小柄の中年男は首を傾げた。

「日食? いえ、一月に起きるのは月食です。それに日本では完全には観測できません。月の出と重なるので……ああ、そういうことですか、月食が観測できる外国に行くということで」


 青い目の大男は、何かを企んでいるかのように微笑む。

「いいんだ日食で。最高のビューポイントは、ちょっと遠いんだよ」



 ひみこは、札幌市街地を走るようになった。時計台で脚を止め「今日も、がっかりちゃんだね」と挨拶する。そのまままっすぐ豊平川の河川敷に向かう。

 ちょっとした買い物はできるようになったが、ジョギングの帰りに自動販売機でジュースを買うぐらいだ。いろいろな施設に入れると聞かされたが、そこに入る勇気はなかった。

 時計台の展示室で見たような日本の歴史など、知りたくない。


 ホテルに戻りバスルームでミストを浴びる。肌を動き回る粘着質のボディソープにも慣れた。

 フード付きワンピースに着替えると、いつものようにフィッシャー先生のロボットがベッドルームに入ってきた。


「ひみこさん、自主的にジョギングを続けるとは、感心します。継続は力なり、ですから」


 少女は顔をしかめる。何か目標があって走っているわけではない。

 高層ビルに囲まれた時計台、そして故郷を思い出させる川。彼らに会いたい。少しでも体を酷使して、どうにもならない重苦しい気持ちを忘れたい。


 フィッシャー先生の授業は、幼児を対象としたゲームを取り込んだものに変わった。

 ひみこは、それも面白くない。気遣われているようで面白くない。

 アレックスとは、ようやく日常会話はできるようになった。

 何の希望もないまま、札幌で初めての冬を迎えることになった。



 夕方ひみこは、勤務先のセンターから戻ったアレックスに「今から出かけよう」と誘われた。


「今日はクリスマスイブだよ。教会でミサが行われるんだ」


「クリスマス?」


 ひみこは、両親との不愉快な会話を思い出す。



「母ちゃん、ケーキ作って~」

 ドラマで見たクリスマスの世界。クリームたっぷりのケーキにキラキラのクリスマスツリー。プレゼントを配るサンタさん。

「あたしにできるわけないだろ!

「父ちゃん、ケーキもらってきて」

「役所はケチだからな。何を頼んでも国民からいただいた税金を無駄にできないって。ああ、俺たちは税金の無駄遣いで、とっとと死ねってことらしい」


 ……いやだよ、あたしは死にたくない。ケーキだって食べたい。



「ケーキ食べられますか?」


「ははは、よかったよ、ひみこらしくなってきて。教会にはないがホテルに用意させるよ。ミサが終わったら二人でクリスマスを過ごそう」


 ひみこにとってクリスマスは、ドラマの世界だった。

 クリスマスイルミネーションに輝く東京に舞い降りる雪。街を歩く恋人たちが「ホワイトクリスマスね」と囁く──。


「クリスマスの雪が楽しみです」


 アレックスは寂しそうな表情を浮かべ、ひみこの頭を撫でた。

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