18 ひみこの古代エジプトVR
翌朝ひみこは、アレックスの出勤と共に、アジア文化研究センター日本支部に出かけた。
ロビーで秘書が二人を出迎えた。
「はじめまして、フィッシャー・エルンストです」
「はじめまして……あれ? フィッシャー先生ですか?」
「あれはAIです。私が知っている日本語は、コンニチハとアリガトウぐらいです」
ひみこは、フィッシャーの分身AIを転送したロボットから、ほぼ毎日、国際共通語を中心とした授業を受けている。ロボットのモデルが、名前だけは知っているアレックスの秘書だとも聞かされていた。
ロボットと見た目は大分違う。先生はフードをかぶり魔法使いのようなローブを着ている。が、人間のフィッシャーの頭はむき出しでオールバックにまとめた金髪が目立つ。それより目立つのが大きなゴーグル。ロボットの彼は茶色い吊り目をしているが、人間の彼は目が隠されているため、ロボットよりも冷たく感じる。
服も茶色いジャケットに白いシャツと、ひみこにとって馴染みのあるオーソドックスな男性の服だ。
が、よく見ると、ロボットと体型はほぼ同じ。百九十センチもあるアレックスと比べて小柄だ。青白い肌もロボットと一緒。それに……。
「先生とあなたは、声が同じです」
「私は先生ではありません。私の業務は、アレックスの秘書と日本文化研究です」
取り付く島もない。
(人間の方がロボットみたい)
ひみこは、目の前の中年男性とロボット先生が別物だと理解した。
支部長室でアレックスは、いつものように笑顔をフィッシャーに向けた。
「さあアーン。僕のひみこの世界が開けるよう、素晴らしいチップを頼むよ」
「ウシャスの設定はダヤル本社ですからね。こちらは鈴木さんの脳機能を測定し、データを送るだけですよ」
「任せたよ……そうだ! 彼女に『アイーダ』を体験させるのはどうだ?」
フィッシャーは上司の提案に、やはりそうきたか、とため息を着く。
「『アイーダ』ですか。あなたは本当に、お好きですね」
「ああ、初めて作った映画だからね……あのオープニングなら、脳機能の測定にちょうどいいだろう」
ひみこはアレックスに促され、支部長室の角に移った。五センチほどの厚みがあるゴムの黒いマットが、五メートル四方に敷き詰められていた。表面はギザギザ波打っている。
このマットならよく知っている。ひみこがホテルのジムで使うランニングマシーンと一緒だ。
おずおずとひみこは、マットの上に立つ。足元から凸凹した感触が伝わる。
アレックスは、大きな青いゴーグルをひみこの頭に被せた。
「え? あ? なに?」
戸惑う少女の声を無視して、アレックスはゴーグルのバンドを小さな頭にフィットするよう調節した。
「さあ、今から君は、古代エジプトに行くんだ!」
男の宣言と共に、少女は砂漠の砂嵐に飲み込まれていった。
え? こ、これは、何?
ひみこは頭をグルグルまわす。さきほどまで、事務所のスタッフに囲まれていたはずなのに。
青空に高く輝く太陽が、ひみこの目を刺す。
「痛い!」
反射的に目を閉じるが、なぜか青い空と太陽が「見える」。
足の裏が焼けるように熱い。そこはサラサラした砂。一面、砂の平原だ。
が、見上げると彼方に、よく知っている様々な大きさの巨大なオブジェがいくつも並んでいる。
「ピラミッド! スフィンクスもいる!」
タマに教えてもらった有名な観光スポットだ。
が、その喜びもつかの間、砂嵐が巻き起こる。目と口を閉じているはずなのに、砂が入り込み、痛くてかなわない。砂嵐は収まることがない。
と、ピラミッドの反対側から、耳慣れない轟音が襲ってきた。耳をふさいでもますます音は大きくなる。
二頭の馬に引かれた二輪の戦車が何十台も一列に並んで迫ってくる。馬のいななき、車軸の軋み音、そして煽る御者の怒号、いくつもの喧騒がひみこを襲う。
逃げなくっちゃ!
が、ひみこの足は一歩も動かない。え? 足ってどうやって動かすんだっけ?
いくら念じても、足は砂に囚われたまま、動いてくれない。このままじゃ、あの馬たちにぶつかってしまう!
『ひみこ! 動くんだ! 君が望めばどこへでも動ける!』
アレックスの声が、光り輝く太陽から聞こえてくる。
「無理! 動かないよ! 動けないんだって! いや! いやああああ!!」
叫びもむなしく、少女の身体は戦車の軍団に踏みつぶされてしまった……。
「やだ! 死にたくない!! 父ちゃん! 母ちゃん! タマあああ!!」
ゴーグルを外しても、ひみこはアレックスの腕の中で暴れ続けた。
男はスタッフとともに彼女を抱え、事務所の仮眠室に寝かせた。
「あ……あたし……」
少女は、だらしなくベッドに手足を投げ出している。
「起きられるかい?」
仮眠室のベッドに腰かけたアレックスが、ひみこの背中に腕をまわした。彼の長い腕を支えにしてひみこは、のそのそと起き上がる。
「ひみこさん、これをどうぞ」
スタッフの一人がお茶を入れたマグカップを差し出す。日本の伝統的なお茶の香りで、ひみこはようやく人心地つく。
少女は、自分を支えてくれる男を、不安げに見つめた。
「あ、あの、あれは何だったの? ピラミッドとか出てきて、そのうち馬とかの群れがやってきて、あたしは逃げられなくて……あ……すみません」
気がまだ動転して共通語で話すことをすっかり忘れてしまった。が、アレックスの耳に埋め込んだスピーカーは、彼女の日本語を理解した。
「……君に簡易版ウシャス装置を体験したらどんな反応を示すか、ちょっとしたテストをした。その反応を元に、君に適したチップを作るつもりだった」
『だった』
過去形。最後まで言われなくても、ひみこはその意味を理解した。
「アーン」
ベッドの傍らに立つ秘書に顔を向け、アレックスは促した。
「ひみこさんに試してもらったのは、有名なインタラクティブムービーのオープニングです。普通、あの場面で、VRでの身体の動かし方を覚えるのですが、鈴木さんは一歩も足を動かせませんでした。また、通常、脳に過剰な情報が流入した場合、要するに見たくない映像を見せつけられた場合、『心の眼』を閉じて避けることができます。が、鈴木さんは情報が流入するままに任せたままでした」
「アーン、はっきり言ってくれ」
「つまり……鈴木さんは『ウシャス』のチップを着けても、脳情報を送信することはできないでしょう。逆に受信する立場になれば、入ってくる情報量をコントロールできず、イメージの波に翻弄されてその……失礼ですが、自分を保つことはできないでしょう」
「ひみこ、わかるね? 君に、チップを着けることはできないんだ」
少女はマグカップを持ったまま、コクンと頷いた。
「私は、プレゼンコンテストには参加できないんですね……他に方法はないのですか?」
「……ゆっくり考えよう……今まで君はがんばってきた、これからも同じようにがんばればいい」
アレックスの声が震えている。その震えでひみこは、他に方法がないことを理解した。それでも少女は食いつく。
「……じゃあ、勉強とか、スポーツとか、音楽とか、えーと他にはダンスとか、何でもいいんです!」
が、アレックスも、傍らで見下ろすフィッシャーも、表情を暗くしている。またアレックスが顎でフィッシャーを促した。
「鈴木さん。今の学習プログラムは、ウシャスのチップ装着を前提としています。少なくともトップクラスに出るためには、チップは必須でしょう……日本語族が急速に減った原因の一つとも言われていますので」
「フィッシャー!」
ゴーグルの秘書は、反射的に上司の言葉に身を竦めた。
「ひみこ、少し前の世界の人間は、目と耳だけで学習を勧めてきたんだ。もっと前はコンピュータもなかった。古代ギリシアでは望遠鏡もなかったのに、地球は丸く太陽の周りを回っていると唱える人すらいたんだ。だから充分、今の君でも何かを成し遂げることはできるんだよ」
古代ギリシアの話を持ち出されても、今のひみこには、何の救いにもならなかった。




