第8話 アメリカにて・その4 ――愛の歌――
アメリカの市民合唱団で歌うようになって丸二年が経過、三度目の春の演奏会は「ブラームスの夕べ」と題したコンサートだった。演奏曲目は、18曲から構成される『愛の歌』と15曲からなる『新・愛の歌』。
それぞれいくつかのソロ曲が含まれており、例えばテナーならば『愛の歌』17曲目と『新・愛の歌』10曲目がテナーソロだ。
ソロの歌い手は、団員の中から希望者を募って、指揮者が決めることになり……。
僕も手を挙げたのだった。
テナーソロのオーディションは『愛の歌』17曲目で行うと言われたので、当然あらかじめ練習した。
ピアノ伴奏付きの約2分程度の曲だ。
譜面を開けると、いきなり打ち消しの意味の歌詞から始まっている。2小節目までは五線譜の下側の低い音で、そこからちょうど1オクターブ跳躍。3小節目と4小節目は五線譜の上側の音で、歌詞も明るい。
歌を歌う上で重要なのは、曲に合わせた声や歌い方だろう。音だけで単純に考えるならば、低かったり短調だったりしたら暗く悲しく、高かったり長調だったりしたら明るく楽しく。どんな曲であれ、それが僕の基本的なアプローチだった。
今回の『愛の歌』17曲目の場合、最初の2小節目は低く、次の2小節目は高い音だ。歌詞で考えても、否定的な言葉と明るめな言葉だから、先ほどの原則通りで問題ないはず。特に『明るめな言葉』には文字通り光の意味も含まれており、思いっきり輝かしい響きで他と区別して歌おう。
……などと考えながら、自分なりの解釈で約2分の曲を読み込んでいく。
オーディションは全体練習の後で行われた。他の団員たちが帰った後、数人の希望者が残り、一人ずつ指揮者の前で歌わされる。
他人事として面白いのは、その中の一人が「その部分は頭声で歌って」と指揮者から言われたことだ。約2分の曲の最終盤、音量を抑えながら高めの音を出す箇所だ。
僕個人としては最も得意な音域であり、音量を絞るならば「声」というより「響き」だけになるので、自然と頭声になる。自分の歌い方が間違っていなかったと確認できたのも嬉しかったが、
「ヘッドボイスって何ですか?」
「ファルセットみたいなものだよ」
という会話も興味深かった。ファルセットと頭声、厳密にはイコールではないはずだが、わかりやすく答えれば同じという認識になるのだろう。
音楽的な意味とは別に「頭声は英語でも『ヘッドボイス』なのか」という感慨もあった。
日常会話でも研究生活でも出てこない英語訳。こういう機会でもないと、一生知らずに終わっていたはずだ。
なお、この時のオーデションは「今回の演奏会のテナーソロを決める」というものであり「『愛の歌』の17曲目で判断する」という話だったが……。
実際には『新・愛の歌』10曲目の方も歌わされた。
話が違うと思ったのは僕だけではあるまい。誰一人まともに歌えなかった。
結局『愛の歌』17曲目は僕がソロに決まり、しかし『新・愛の歌』10曲目の方は、指揮者が団外から呼んでくることになった。
自分がソロに決まった喜びよりも「また外部の助っ人に頼らないといけないのか」という悔しさの方が強かったかもしれない。
昔のような「ソロを歌いたい!」という自己顕示欲ではなく「歌うべき実力のある人間がやるべきだから、この合唱団ならば僕が相応しい」という気持ちで立候補していたからだ。自分がソロを任されたのは順当と思うと同時に、一曲しか任されなかったことで未熟さを思い知らされたのだった。




