序、始まりはいつも傍に……
R15の表現があります。
赤い惑星と白い月。
その二つの光が仄かに差し込む広く豪奢な部屋。
浮かび上がるように開け放たれた窓に、一人の女性がそっと歩み寄る。
吹き入る風が、彼女を外の世界へと誘う。
白く柔らかな生地のカーテンが包み込むように優しく揺れ動いた。
シルク仕立てのネグリジェを着た彼女は、落ち着いた足取りでその窓枠へと手をかける。
繊細な彫り込みの入った木製の窓枠に触れ、片手を下の窓枠に置いて。
片足をその隣に置く。
踏みしめて、もう片足も窓枠にのせる。
窓枠を掴んで、彼女はゆるりと窓に立ち上がっていき――。
彼女の長い黒髪が波打つように舞い上がる。
まるで何かに誘われるかのように。
ふいに。
部屋の扉が二回ノックされた。
彼女は動きを止める。
驚いたわけでもなく、ただ普通に。
何事もなかったかのように返事をする。
「はい」
扉の向こうから少年の声。
「……姉さん。僕だ、クレイシスだ。入っていい?」
彼女は普段通りに言葉を返す。
「どうぞ」
扉が開いていく。
「明日開かれる、姉さんの婚約式の件で話したいことが──」
扉の向こうから十四歳ほどの小柄な少年が姿を見せる。
黒く清潔感のある短い髪。
着ている紳士としての正装は一人の権力者として認められた者の証であり、しかし認められた者にしてはまだ幼き、世間知らずを残す少年だった。
呆然と目の前の光景を見つめ、部屋の前に佇んでいる。
「……何……している……?」
彼女は真下に広がるコンクリートの地面を見つめ、平然と答えた。
「私は鳥になったの。ここから飛び立つのよ」
「と……飛び立つって……!」
少年の表情はしだいに青ざめていった。
焦りの色濃く浮かべながら、左右の廊下に視線を走らせる。
誰の声も聞こえない静かな廊下を助けを求めるかのように、何度も。
やがて自分しか助けられないと悟った少年は、彼女へと視線を戻した。
動揺を隠し切れないまま、恐る恐る部屋の中へと一歩踏み込む。
「姉さん……いいからこっちに来て。話は僕が聞くから」
彼女に手を差し伸べる。
しかし、彼女は首を横に振って拒んだ。
「もういいの。ここを飛び立てば、私は鳥として自由に生きることができる」
「何言っているんだよ、姉さん。窓から飛んだって自由にはなれない。
さぁ、この手を掴むんだ。こっちに来てくれ、お願いだ!」
彼女はようやく少年へと振り返り、そして見つめた。
少年の手をジッと……。
彼女の表情からみるみる戦慄が広がっていく。
小刻みに震えながら、ゆっくりと首を横に振り、
「嫌……」
「姉さん!」
「嫌よ、もうたくさんだわ! 私はただ自由になりたいだけなの!」
「婚約式のことなら僕がなんとかする! だから早まるんじゃない!」
「どうせ何もできないくせに、そんなこと言わないでよ!」
「姉さん!」
「来ないで!」
少年がびくりと身を震わせる。
差し伸べた手は力無く下りていき、どう言葉をかけるべきかと不安そうに唇を戸惑わせる。
そんな少年に向け、彼女は必死に懇願した。
「お願いだから私のことはもうほっといて。自由になりたいだけなのよ……」
少年は首を横に振る。
もう一度手を差し伸べ、慎重に言葉を選んで話す。
「みんな姉さんのことを心配している。大丈夫だから。約束しただろう? 姉さんのことは僕が守るって。何も心配しなくていい。政略結婚は僕がするし、姉さんのこれからの幸せだって僕が――」
彼女の表情がフッと緩んだ。
「ありがとう……」
頬をつたう一筋の涙。
「でも無理よ。もう遅いの。何もかも……」
最期に、彼女は優しく微笑みを見せた。
「ごめんね……クレイシス」
「やめろ!」
彼女の姿が窓から傾いていく。
叫び、少年は駆け出した。
懸命に伸ばした右手は届くことなく空を切って――。
その後、窓の下から響く鈍い音。
少年は駆けつけた勢いのまま窓から身を乗り出し地面を見下ろした。
地面に広まっていく血だまり。
そこに横たわる彼女の姿。
少年は現実を拒むように首を横に振りながら、窓から離れていった。
そして崩れるようにその場に膝を折って座り込んだ。
「姉さん……」
少年は目の前の出来事を受け入れきれずに声を震わせて呟く。
空っぽの右手。
届かなかった右手を。
少年は膝を抱えて蹲ると、小さく声をあげて泣き始めた。
そして、
彼女の死から数日後――。
少年は忽然と屋敷から姿を消した。