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 街中を彷徨っていても、だれも王子に気付きませんでした。それは、かれが名前を失って王子でなくなったからではなく、ここがどこか遠くの町だからでした。

 かれは知らない町を、行く当てもなくただ歩いていました。自分はもう王子ではない――そう思いながら、唯一残っていた名前を思い出しました。

 エルジーオ。いままでとくに好んで名乗っていたわけでも、いつもらったのかも覚えていないその名前が、自分に残された、たったひとつの名前でした。

「ぼくはもう王子ではない、ただのエルジーオなんだ」かれは下を向いて呟きました。

 日も暮れかけてきたころ、エルジーオは空腹を感じていました。王子だったころは時間通りに食事の用意がされ、それでもお腹のすいたときにはいつでも食べ物をもらえました。ですから、かれはひとりぼっちの状況で、どう食べ物を手に入れたらいいのかわかりませんでした。

 途方に暮れながら歩き続けていると、広場に行き着きました。広場は夕暮れ時でもにぎやかで、露店で買い物をするひとでいっぱいでした。

 エルジーオは、これまで自分が困ったときにしていたように、ひとりでは解決できない問題をひとに尋ね、助けてもらおうとしました。

「ぼく、お腹がすいちゃったんだけど」

 だれにともなく言ってみたものの、みな自分の用事で忙しく、エルジーオの声に反応するひとはいませんでした。

 エルジーオは不安になり、もう一度声をだそうにも勇気がでませんでした。ひとの波に押されるまま流され、なにかにぶつかりそうになって立ち止まると、すこし歳を取った男がエルジーオを見下ろしていました。

 エルジーオがぶつかりそうになったのは、この男がパンを売っている台でした。男は台に並べてあるふっくらとしたパンのような体型で、エルジーオにはやさしそうな男に見えました。

「どうしたんだい、坊や。大丈夫かい?」

 男のやさしい言葉につい、これまでの不幸を話してしまおうかと思いましたが、自分の失敗を見ず知らずの他人に打ち明けられるほど傷は癒えていませんでしたので、ちいさく頷くだけにしておきました。

 それでも、声をかけてくれたのだから助けてくれるのだろう、と思い、「ぼく、お腹がすいちゃったんだ」と伝えました。

 男はエルジーオの全身を一通り眺め、こんなに立派な服を着ている子どもが腹をすかせて街中をふらついているとは何事か、と疑問に思いました。

「坊や、親御さんはどこへ行ったんだい? おまえさん、もしかしてはぐれちまったのかい?」

 エルジーオは何も話す気になれず、ただ首を横に振るばかりでした。

「ぼく、お腹がすいちゃったんです」

 ほかに頼る者もいなく、心細さが胸をしめつけていたせいで、いまにも泣き出しそうな顔をしていました。

「パンが欲しいんだったら、いくらでも持っていくがいいさ」男は言いました。

「いくらでも持っていっていいの?」

「おれはパンを売るのが仕事だ。お金があるんだったら、好きなだけ交換してやるよ」男はエルジーオの身なりを見て、裕福な家の子どもだろうからお金はあるはずだ、と思ったのです。

 けれど、「ぼく、お金を持っていないよ」とエルジーオは言いました。

「なんだ、おまえさん文無しか。それじゃあ諦めな」

 と、男は言いましたが、失望によりふさぎ込む憐れな子どもをじっくり見て、しかしこのまま帰してしまうのはもったいない、などと考えていました。

 エルジーオはすぐに立ち去ろうとはせず、男がなにか自分のためになるような言葉をかけてくれないだろうかと期待していました。

 しかし、男はエルジーオの白くかわいらしい右手の指に光る宝石を発見し、「お金がないんじゃあ仕方ないよ。でもお金でなくてもこの指輪なら、ここのパンと交換できるよ」と親切を装って言いました。

「本当?」物の価値を知らないエルジーオの顔は明るくなりました。

「ああ、いいともさ。3つでも、4つでも、持っていきな」

 男はエルジーオの指から指輪をするりと外すと、適当にパンを紙袋に詰めて渡しました。

 エルジーオは男に礼を言い、別れました。

 生まれてはじめて自力で困難を乗り越えたのだと勘違いをし、エルジーオは晴れ晴れとした気分でいましたが、世間知らずとはなんと愚かなことでしょう。



 さて、パンを手に入れたエルジーオは休む場所を見つけようと、疲れた足取りで見慣れぬ道を歩いていました。

 少し前から誰かにあとをつけられていると感じていましたが、気のせいかもしれないと思い、しばらく放っておきました。

 周りが建物ばかりの小路にはいり、座るのにちょうどよい石段を見つけたので、エルジーオはそこへ座りました。やっとの思いで手に入れたパンを食べようとしたとき、エルジーオは自分と同じくらいの年齢の男の子に声をかけられました。身なりはひどく、何日間も身体を洗っていないような様子のその男の子は、いままでのんびり過ごしていたエルジーオとはだいぶ印象が異なり、悪賢そうな顔つきの子どもでした。

 エルジーオは城を出てからずっと心細かったので、話しかけられて嬉しくなり、仲良くなりたい気持でいっぱいでした。

 しかし、相手の男の子はそんな平和な考えなどすこしも持ち合わせてはおらず、無邪気なエルジーオを心底ばかにしていました。

「おれ、さっき見てたんだけど」男の子は、エルジーオが大事に抱えているパンのはいった紙袋に視線を移しました。「このパン、指輪と交換しただろう?」

 エルジーオは素直に、「そうだよ」と答えました。

「やっぱり! じゃあおれの間違いってわけじゃなかったんだ!」

 男の子がなにを言いたいのか、エルジーオは理解できずにいました。

「きみはなんて損をしたんだろう! あんな高価な指輪が、こんなパンと同じ価値なわけないだろう!」

 じっさい男の子はエルジーオの指輪が高価なものかどうかなど知りもしませんでしたが、場合によっては何事も大袈裟に言うのが効果的なのです。

 不安になってエルジーオは、「どういうこと?」と聞きました。

「だから、きみはさっきのパン屋に騙されたんだよ、ひどいよな。あんな宝石だったらこんなパンなんかじゃなくて、店ごと買えるぜ」

 それを聞いてエルジーオは悲しくなり、いまにも涙がでそうでした。あんなに親切に見えたひとに騙され、そして自分の不注意のせいで大きな損をしたことにひどく傷つき、落胆しました。

 言葉がでないエルジーオをなぐさめるように、男の子は肩を抱き、「大丈夫、おれがなんとかしてやるから元気だせよ。いまならまだ間に合うし、おれがパン屋に行って、取り返してきてやるよ」と言いました。

 愚かなほど純粋に育ったエルジーオは希望を見つけたときのような気持になり、男の子の言葉を信じました。

 それでも、このとき自分も一緒に行くと言っていれば事態はそこまで悪くなりませんでした。けれど、なんでもひとにやってもらうことに慣れきっていたうえに、正直なところ、自分を騙した人間に会いに行くのが怖かったエルジーオは、パンの入った紙袋を男の子に渡してしまいました。

 エルジーオはしばらくその場で待っていましたが、その男の子とはもう二度と会えませんでした。



 城を出てから数日経ちました。エルジーオは町の大通りを避けるようになりました。自分の身なりがひどいので、大勢のひとにこの憐れな姿を見られたくなかったからです。

 ひとを信用しなくなったエルジーオは、お腹がすいたら身に着けている宝石と食べ物を交換するときだけ表通りに行き、それ以外は裏道や廃墟に身を潜めていました。

 寝場所もない、話し相手もいない寂しい夜がまたやってきました。エルジーオは適当に辿り着いた廃墟の入り口に腰かけ、休んでいました。中に入れば風を凌げますが、あまりにも心細い夜でしたので、エルジーオはずっと月を眺めていました。

 ――ぼくはもう王子ではない。ただのエルジーオなんだ――何度も心の中で呟きました。

 名前なんてあげなければよかった――いまさらどうにもできませんが、エルジーオはただただ深く後悔していました。

 しばらく夜風にあたっていましたが、そろそろ休もうと立ち上がったとき、ふたりの男の子がこちらへ向かってくるのが見えました。嫌な予感がしましたので、エルジーオははやく姿を消そうと、ふたりに背を向けました。そして廃墟へ入りかけようとしたとき、うしろから呼び止められました。

「そこをどけ」

 そう言われたエルジーオは、後退りしながらふたりの顔をよく見ました。ひとりは、頼る者がいないと自然と出来上がる気の強そうな顔。もうひとりは、他人の持つ盾にうまく隠れられる狡そうな顔。

 エルジーオは最大限の勇気を振り絞って、「どかなくても通れるでしょ?」と、弱々しくではありますが、言い返しました。エルジーオが勇気を出せたのは、それが嘘の主張ではないからです。じっさいに、エルジーオがどかなくても、十分にふたりが通れる幅はありました。

「うるさい、どけって言ってるんだ。ここはおれたちの場所だ!」気の強そうな男の子はエルジーオの胸ぐらを掴み、自分の強さを示すために右手をあげ、殴る素振りを見せました。

 あまりの恐怖にエルジーオは目を瞑りました。「わかったよ、すぐにどくから放して!」

 エルジーオは一刻も早く立ち去りたい気持でいっぱいでしたので、掴まれている胸ぐらの手を引き離そうと必死でした。

 相手の力が少しだけ緩んだときに、エルジーオはとっさにその場を離れ、一目散に逃げだしました。走っても走っても、すぐ背後にあの男の子の影が迫るような気になったので、なんども振り返りました。追ってこないとわかるとエルジーオは足を止め、どこまで来てしまったのだろう、と辺りを見渡しましたが、見慣れない建物ばかりでした。

 町のどこにいるかもわかりませんでしたが、ひとつの恐怖は過ぎ去って、幾分落ち着きを取り戻しました。

 しかし、エルジーオはある異変に気が付きました。身に着けていたペンダントがなくなっていたのです。走っているあいだに落としてしまったのかもしれないと、戻ろうとしましたが、エルジーオはこう考えました――さっきの男の子に盗られたのではないだろうか?

 胸元を掴まれたとき、男の子はペンダントごと掴んでいました。男の子の狙いはエルジーオを脅すことではなく、ペンダントだったのです。

 とうとうエルジーオはその場に泣き崩れました。取り返しにいく勇気もありませんし、自分の不注意につくづく情けなくなり、悲しみが心を襲ったからでした。

 長い間涙がとまらず、エルジーオは建物の隅に一晩中うずくまっていました。

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