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歌を忘れた歌姫

作者: 春川メイ

***


 ある所に歌を忘れた歌姫がおりました。


 歌姫は歌を忘れてしまったので、今までの職場をクビになってしまいました。

 

 途方に暮れているところに一人の魔法使いが現れました。魔法使いは「行くあてがないのなら自分の所においで」と言って、歌姫を人間の住む街から遠く離れた山にある自分の森へと連れ去ってしまいました。

 

 さてこの歌姫、今まで歌ばかり歌っていたので、掃除も洗濯も料理の支度もできません。


 それでも魔法使いはいつも捉えどころのない笑いを浮かべてそれを見守っていました。

 

 魔法使いの森で歌姫はまったく仕合せでした。


 よく晴れた日には庭で小鳥たちと遊びましたし、時には森の中を歩くこともしました。そうしてしばらくの時が経ちました。

 

 ある晴れた日に、歌姫はいつものように庭の草の上に座り、小鳥たちのさえずるのを気持ちよく聴いていました。空を見上げると、茂った木々にふちどられた青い空に白い雲がいくつか可愛らしく浮かんでいます。頬や髪を撫でる風も心地良く吹いています。

 

 歌姫は知らず知らずのうちに目を閉じ、ゆっくりと口をあけていました。


 しかしその小さな口からは何の旋律も出てきません。歌姫は歌を忘れているのですから。歌姫はあきらめて再び小鳥たちの声に耳を傾けました。


 そのときに後ろの茂みからくすくすと笑う声がしました。振り返るとそこには長い黒髪に黒いワンピースを着た少女が立っていました。少女は笑いながら歌姫に近づいて来ます。


「あなたがシギの連れてきた歌姫ね。本当に歌を忘れているの」


 歌姫は呆気に取られて少女の顔を見つめました。


「あら失礼。シギの所にいるという人間を見てみたかったの。私は隣り森の魔女よ」


 隣り森の魔女は魔女特有の張り付いた笑いを浮かべて歌姫に話しかけ、歌姫の隣に座りました。歌姫も慌てて挨拶を返しました。


「初めまして。私はメリアといいます。あの、魔女さんはここにはよく来るんですか?」

 

 魔法使い以外の存在に初めて出会った歌姫は少しく緊張しながら尋ねました。


 歌姫の質問に魔女の眼差しが一瞬鋭くなったことに、歌姫は気付きませんでした。魔女は特有の笑顔で答えます。


「ここはシギの領分だから他の者は基本的に入れないのだけど、私は特別に許されているから。それでもそんなに頻繁には来ないわね。月が一巡りするのに一、二度くらいかしら」


「魔女さんは魔法使いさん……シギさんとは親しいんですか?」


 歌姫は隣り森の魔女が呼ぶまで、魔法使いの名前さえ知らなかったことに気が付きました。いつも十分すぎるくらい自分に良くしてくれる魔法使いのことをもっと知りたいと思い、思わず身を乗り出して尋ねていました。


 隣り森の魔女は元々細く吊り上った目をいっそう細くしてにったりと笑って答えました。表情は笑っているけれど、歌姫は魔女の感情は読み取れませんでした。


「私はシギの古くからの知り合いなの。シギのことはよく知ってるわ」


 一旦言葉を止めてから、今度は魔女が歌姫を覗き込むように身を屈めました。


「だから、どうしてシギが、何の役にも立たない、あなたみたいな人間を連れてきたのか不思議でならないわ。家事が出来るわけでもない歌を忘れた歌姫なんて」

 

 笑いながらもむきだしにされた棘のある魔女の言葉に、歌姫は一瞬何を言われているのか理解できませんでしたが、歌を忘れていることを指摘されると、わずかに身を強張らせました。魔女は続けて言います。


「ああ、そうね、あなた、シギの家で毎日おいしいものをたっぷり食べさせてもらっているでしょう。きっとシギはあなたを丸々と太らせてからばりばりと食べちゃうつもりなんだわ。きっとそう。あなたのように若くて脂の乗った娘は柔らかいから。……あら、ごめんなさい、私ったら。何も悪気があってこんなことを言ったわけじゃないのよ」


 魔女は少しも悪びれずに言い、わざとらしく謝罪しました。その目には楽しそうな光さえ宿っていました。


 魔女の話を聞いていた歌姫は沈黙の後、静かに言いました。


「……ええ、そう、ですね。……本当に。魔女さんの言うとおりだと思います。魔法使いの方が人間を、その、食べてしまうというのも、聞いたことがあります。悪気だなんて、そんな」

 

 歌姫の言葉には、魔女が期待したような怯えも絶望も感じられませんでしたが、一通りは満足して、魔女は自分の森へと帰って行きました。


 残された歌姫はしばらくそのまま座って、辺りが暗くなるまで考え込んでいました。



***


 魔法使いは優しかったですし、毎日出される食事もどれもおいしいものばかりでした。歌姫は地上にいた頃よりもずっといい暮らしをしていました。


 だから、元々あまり物事を深く考えない性格もあって、いつか食べられてしまうかもしれないということは次第に気にならなくなり、代わって歌姫は魔法使いに対して申し訳ないと思う気持ちが強くなっていきました。自分に出来る事は多くはないが、なんとかして魔法使いの恩に報いたいと思い、魔法使いに尋ねてみました。


 けれど、魔法使いは相変わらず微笑みながらこう言います。


「いいのですよ。私の望みは姫が仕合せでおられることです」

 

 ところでこの魔法使いは歌姫のことを「姫」と呼びました。メリアという名を名乗っても、変わらずに姫と呼んできます。初めの頃は、もう歌も歌えないのだし、「歌姫」ではないのだと訂正を入れていましたが、一向に聞き入れないのでそのまま放っておくことにしました。元々細かいことにこだわる性格ではありませんし、自分も魔法使いのことを名前で呼んでいないので釣り合いが取れているような気もしましたから。


 魔法使いの親切に触れるたび、歌姫は何かをしてあげたいと考えていました。そうしてひとつの思いにたどり着きました。

 

 その夜はちょうど隣り森の魔女が魔法使いの所へやって来ていました。歌姫は魔法使いに気付かれないように魔女に相談してみることにしました。


「魔女さん、こんばんは。お久しぶりですね」


 魔女はいつものように黒い服を身にまとっていました。前回脅かすようなことを言って別れたのに、普通に話しかけてくる歌姫の胆力に内心驚きながらも、そんなことはおくびにも出さず、ぺったりと張り付くような笑顔で応えました。


「ええ、こんばんは、娘さん。お久しぶりね。今日はどうかしたの?」


「はい、実は魔女さんに相談があるんです。聞いていただけますか?」


「相談?」


 魔女はわずかに怪訝な表情で聞き返しました。


「はい。……あの、私、いつも魔法使いさんにお世話になっているばかりで申し訳なくて、考えたんです。いつか食べられてしまうとしても、その前に何か私にできることはないかって。それで、私にできることはやっぱり歌を歌うことだと思って、でも今の私は歌えないから、だから『歌』を買おうと思ったんです。街にならきっと『歌』も売っているだろうから、それを買って歌えたら少しは恩返しが出来るんじゃないかって」


「……そう。それで?」


「それで、あの、相談なんですが、私を街まで連れて行ってもらえませんか? それが無理でしたら街へ行く道を教えて頂けるだけでも嬉しいのですが……。お願いできないでしょうか」


 魔女は歌姫の話を聞き終えてにったりと満足そうな笑顔を浮かべました。そして快く歌姫の願いを聞きました。


「ええ、それはとても良いことだと思うわ。ええ、街まで、私が運んであげるわ。……ねえ、いつにするの。せっかくだから早い方がいいんじゃないかしら。そうよ、今晩はどう。ええ、ええ、それがいい、それがいいわ。ねえ、今からにしましょう。ええ、ええ、そうしましょう」


 そう言って魔女は歌姫が言葉を発する前に、箒のうしろに乗せて飛び立ってしまいました。



***


 街に下ろしてもらった歌姫は何とか歩いて自分の家へたどり着きました。


 しばらくぶりの自宅の中へ入ると母親が一人で酒を飲みながらテーブルに突っ伏していました。

 

 歌姫は小さく声を掛けました。


「お母さん、黙って出て行ってごめんなさい。私です。今、帰りました」


 母親は焦点の合っていない目でしばらく玄関の影を見ていましたが、歌姫の姿を認めると突然火がついたように怒鳴り散らしました。


「お前は……今まで勝手にどこに行っていたんだい、連絡のひとつもしないで!」


 母親は勢いよく立ち上がり、叫びながら玄関に近づき歌姫に向かって腕を振り上げました。


「お前がいなくなって、私がどれほど苦労したか分かるかいっ! それで何かい、歌は歌えるようになったのか? ええ? ……?」


 そこで母親は何かに気付き、急に荒げていた声を静め、今まさに打とうとして振り上げていた手をそのまま下ろしました。久しぶりに母親の目に映った歌姫は肌艶も良く、髪もきちんと手入れされて輝きを放っていました。


 母親はしばらくじっと歌姫のことを見ていましたが、今度は歌姫に背を向けてなにやらぶつぶつと独り言を零しています。


「あの、お母さん、歌はまだ、歌えないんです。今日帰ってきたのは、今までお世話になっていた方にお返しがしたくて……」


 歌姫が言い終わらないうちに母親はくるりと振り返り、先程までとは打って変わっていかにも優しそうに、作られた笑顔で言いました。


「細かいことはまた後にしようじゃないか。今日はお前も疲れているだろう。さあ、お休み」


 歌姫は言いたいことはまだありましたが、確かにたくさん歩いたので足が棒のようでした。母親に説明をするのは明日になってからにしようと、自分の部屋へ行って眠ることにしました。長いこと放置されたベッドは寝返りを打つ度に埃が舞い上がりましたが、歌姫は気にせず眠りに就きました。

 

 翌朝歌姫は昼前に目を覚ましました。


 すっかり慣れてしまった魔法使いの家の部屋ではなく、懐かしい自分の家だと気付き、少し混乱しましたが、すぐに身支度をして、母親のいる部屋へ出て行きました。


 居間では母親が誰かに向かって電話をかけていましたが、歌姫の姿を認めると乱暴に切ってしまいました。そして歌姫に向かって満足そうな笑顔を向けました。


「おはよう、お前。昨夜はよく眠れたかい。さぁ、こっちへおいで。火に当たって朝食をお食べ」


 朝の挨拶を返しながら歌姫は母親の向かいに座りました。テーブルの上の籠の中には冷めた、石のように固いパンが盛られていました。魔法使いの所へ行くまでは毎日食べていたパンです。歌姫は中からひとつを取ってちぎりました。一緒に出されたスープはうっすらと色のついたほとんど味のしないものでした。それでも歌姫は何も言いませんでした。母親がご飯を出してくれたのは何年振りでしょう。


 歌姫がぼんやりとそんなことを考えていると、母親がじっと自分を見ているのに気が付きました。歌姫と目が合うと、母親は待ちかねたように言い始めました。


「ねぇ、お前。昨夜、歌はまだ歌えないって言っていたねぇ、ああ、いいんだよ、今はそれを責めてるんじゃない、まぁ、それはそれで仕方の無いことだよ。……それでも人間、生きていくためには金を稼がなくちゃいけない、でも、ほら、ご覧よ、私はもう年だし、何の技があるわけじゃないから、今から働き口を探していても、ろくなもんはない。お前が今まで稼いだ金も、もうほとんどないんだよ、ほら、人が生活するのにはどうしても金がかかるからねぇ」


 母親は言い訳を挟みながら言い、酒で喉を潤しました。歌姫が仕事をして稼いだお金は主に母親の酒代に消え、実際にはほとんど無いどころか、母親が方々に作った少なくない借金に変わっていました。そんなことは知らない歌姫に、母親は話を続けました。


「そこでねぇ、お前には良い話があるんだよ」


 ここで母親は目を細めてにんまりと歌姫の顔を見ました。


「ちょっと見ない間にお前は本当に綺麗になったねぇ、いや、元々私に似て器量良しだったがね、それでも、お世話になった所でよい暮らしをしていたんじゃないのかい? 本当に、金の髪も長く伸びたし、それにこの透けるような肌も滑らかじゃないか」



 母親は言いながら指の背で歌姫の頬を撫でました。歌姫は黙ってそれを見ていました。


「そうそう、お前、良い話っていうのはね、お前の美しさを写真にとって、広告なんかに使ってくれるっ

ていう人がいるんだよ。お前はそんなに綺麗なんだから、きっと沢山稼げるよ。ああ大丈夫、お前はただ人形のように座っていればいいんだからね。どうだい、こんなに良い話はないよ。お前は歌を歌えないんだし、黙って座っていいものを着せてもらって稼げるなんて、全く良い話じゃないか」


 歌姫は母親の言うことに共感は出来ませんでしたが、お世話になった魔法使いへのお礼として『歌』を買うと決めたからには、その為のお金も必要だと思いその話に頷きました。


 そうして歌姫はモデルとして仕事を始めました。


 歌姫の美しさに広告の仕事は次から次へと入り、街には歌姫のポスターがあらゆる所に貼られました。新聞や雑誌の取材もひっきりなしに入ってきました。歌姫の特集が組まれ、その美貌で一躍時の人となりました。評判が評判を呼び、歌姫自身の写真も飛ぶように売れて歌姫は毎日休む暇もなく働き続けました。



***


 歌姫が魔法使いの森を出てから、気が付けば数ヶ月経っていました。


 その間歌姫の人気は衰えることはありませんでしたが、忙しさのあまり、歌姫の珠のような白い肌は少しずつ荒れていき、それにつれて母親も神経質になっていきました。そして母親は渋々久しぶりの休みを歌姫に与えることにしました。


 わずかな休みの間、母親は酒を飲みながら今後の計画を立てていました。


「いいかい、お前は今その顔しか取り柄がないんだ。その顔は大切な商売道具なんだよっ」


 酒が入ると母親は決まってこう言いました。次第に歌姫はあの魔法使いの森へ帰りたいと強く願うようになりました。出て来るときに魔法使いに何も言わなかったのも気掛かりでしたし、当初はもっと早く帰る予定でした。優しい魔法使いに心配をかけているかもしれないと思うと心苦しくなり、なにより歌姫自身が魔法使いに会いたくてたまらないのです。しかし魔法使いへのお礼を買おうにも、歌姫の稼ぐ沢山のお金は、一つも歌姫のところへやって来ることはありませんでした。全て母親の許へ行ってしまいます。


 休みの最後の日、歌姫は思い切って母親に頼んでみることにしました。居間で予定表を開いて勘定していた母親に、歌姫は言いました。


「お母さん、お願いがあるんです」


 声を掛けられた母親は煩わしげにするだけで、返事もしませんでした。


「私、劇場の仕事を失ってからずっと、ある方にお世話になっていたんです。その方はとても親切で、何にも出来ない私に随分良くしてくださったんです。それで私、その方にお返しをしようと思って、『歌』を買おうと思ってるんです」


 母親は視線を上げ、怪訝そうに眉をひそめて上目遣いに歌姫を見ました。


「『歌』?」


「はい。色々考えて、私に出来ることはやっぱり歌を歌うことだと思ったんです。でも今の私は歌を歌えないので、街のどこかには売ってるんじゃないかなって。それを買ったら歌えるようになるんじゃないかと思ったんです」


 歌姫は息を吐き、震えそうになるのをこらえながら言いました。


「それで、あの、『歌』を買うためのお金を少し、都合してもらえませんか……?」


 絞り出した声は小さくなっていましたが、歌姫はしっかりと母親を見つめながら最後まで言い切りました。


 一方話を聞いていた母親は、耐え切れずのけぞり大声を上げて笑い出しました。歌姫は表情を変えずにじっと返事を待っていました。


 母親は鼻で嗤って言いました。


「だからお前はお人形さんがお似合いなんだよ。『歌』を買う? そんなのこの街のどこにも売ってなんかいないよ。歌は人が歌わなけりゃ形なんて無いんだ。もし売ってる『歌』なんてもんがあったとしても、それは他所様の歌だろう。お前の歌にはなるわけないよ。どうやってそんな馬鹿な事を思いついたんだか。いいかい、お前、歌なんてものは忘れてしまったらもうお終いなんだよ。そうじゃなきゃお前だって前の仕事続けられただろうさ」


 母親はテーブルに肘をつき、体重を掛けながら歌姫を見上げました。


「歌を忘れてしまったお前がどうやって歌って恩返しをするつもりだ。そんなことは無理なんだよ」

 

 そう言った母親の顔には蔑みや怒りだけでなく、色々な感情がないまぜになって表れていました。


「……話ってのはそれだけかい。じゃあもういいだろう、さっさと自分の部屋へおかえり」


 母親は再び帳面に視線を落とし、もう歌姫のほうを見ることはありませんでした。


 歌姫は何も言えず、下を向きながら狭くて埃っぽい自分の部屋に戻りました。静かに戸を閉めると声を殺して言いました。


「帰りたい……。あの人……シギの許へ帰りたい……」



***


 時は数ヶ月遡り、隣り森の魔女が歌姫を連れて行ってしまった夜の魔法使いの森では、歌姫の姿が見えないことに気付いた魔法使いが慌てて周囲を捜しました。隣り森の魔女の姿もいつの間にか消えていましたが、魔女は気紛れなので魔法使いは大して気にしませんでした。家の中も隅から隅まで、それこそ床下から天井裏まで捜しましたが、歌姫は見つかりません。一晩中捜して、翌朝になっても歌姫は帰ってきません。深く広い森の中もくまなく捜したけれど、歌姫はどこにもいません。いきなり、何も告げず、姿を消してしまったのです。


「……どこに。……姫は、私の姫は無事なのか……」


 歌姫の不在に魔法使いは心が潰れるほど心配し、歌姫の安心を確認するまでは何も手につかず、なにも喉を通りません。


 ほとんど眠れないまま数日が経ちました。


 毎日森に出かけては歌姫の姿を捜しますが、一向に消息の手がかりさえも掴めません。森を彷徨う様はまるで亡者のようでした。


 すっかり憔悴し、やつれて、生気も無く、魔法使いはひとり昏く果てのない絶望の淵に立たされていました。


 魔法使いの魔力の影響を受けている森の木々もやせ細り、枯れるものも出てきました。


 そうして数ヶ月の月日が経ちました。


 相変わらず魔法使いは毎日森へ出て歌姫の姿を捜しています。使いうる限りの魔法や使い魔を使って歌姫の消息を追いますが、歌姫の消息は杳として知れません。そしてくたびれてボロボロになって誰も待っていない家に帰るのです。


 その夜、明かりもつけない暗い部屋の中で、魔法使いはいつものように歌姫のことを考えていました。


(……姫はどうして……何処にいるんだ……。……もしやここに不満があって出て行ってしまったのか……もしくは自分に。いや、そうだとしても彼女は黙って出て行くなんてことはしない。そんな人ではない。ではどうして……。)


 いくらぐるぐると考えていても答えは出ません。


(……いや、もし姫が自分の意志で出て行ったのならば、それならそれでいい……。ああ、無事でさえいてくれるのなら……!)


 歌姫の存在を失ってから、魔法使いの魔力も生命力も消えかけた蝋燭の火のように儚くなりつつありました。


 その時ふと、あの晩には隣り森の魔女もいたことを思い出しました。彼女に聞けば何か分かるかもしれない、万策尽きた魔法使いは藁にもすがる思いで隣り森の魔女を訪ねることにしました。




「まぁ、シギが私の所に来るなんて珍しいわね」


 隣り森の魔女の森までやって来て、家の前の庭で魔女を呼ぶと、いつものように黒ずくめの魔女が現れました。


「突然訪ねて来て悪い。訊きたいことがあるんだ」


 久しぶりに会った魔法使いは随分とやつれて、まるで別人のようでした。 


「姫の消息を知らないか。どこにもいないんだ」


 魔女は密かに笑みを深くしましたが、魔法使いには悟られないようにいつもと変わらない表情でいけしゃあしゃあと答えました。


「さあ」


 魔女はいつものように笑っていましたが、その笑みに信用ならないものを感じ、魔法使いは問い詰めました。


「知ってるの」


 射抜くような魔法使いの視線に、魔女はくすくすと笑います。


「たとえ知っていても、教えてあげないわ」


「知っているの」


「……」


「知っているんだね」


「……ええ、そうよ。知っているわ。だって私が連れて行ったんだもの」


「どこ」


「……」


「どこにいるの」


「……」


「姫の居場所を教えて」


「……」


 いくら魔法使いが尋ねても魔女は澄ました笑いを浮かべるばかりです。

 

 そのとき、魔法使いが突然、地を這うように低い声で魔女の名前を呼びました。


 反射的に魔女の体は竦み上がり、一切の身動きができなくなりました。呼吸をするのもままなりません。魔法使いの目は今まで魔女が見たこともないほど激しい怒りに燃えていました。


「……私は本気だよ」


 今まで余裕の笑みを浮かべていた魔女は魔法使いの迫力に押され、苦しげに顔を歪めましたが、魔力を込めて叫びました。


「な……何よ……っ! どう、してシギは……っ、あんな……何の役、にも、立たない、人間を、側に置いておくの……!」


 魔力を込めて名前を呼ばれることによって、喋るのも困難なほど体の自由は奪われたままでしたが、魔女も必死で抵抗し、これまで抱いていた想いを魔法使いに向けて爆発させました。


「あの人間は何もできないじゃない! 歌も忘れてしまって、家事の一つもできないあんな人間、どうしてシギはそんなに大切にするの!」


 魔法使いは全身に怒りを宿したまま、魔女を見つめて静かに口を開きました。


「……姫は、私の『唯一のひと』だ」


「……っ!!」


 魔女は予想だにしていなかった返答に、衝撃のあまり言葉を失いました。


 魔法使いは続けます。


「君も知っているように、私たち魔法使いや魔女は伴侶を人間の中に見つける。……数年前、私は何気なく降りた地上で大勢の人間を前にして歌っている姫を見つけた。一目見た途端、分かったよ、この子が私の『ひと』だと。それから私は姫の姿が見たくて何度も地上へ降りて行った。そしてやっと、この腕に迎えることができた。……姫は、どんなことをしても失いたくはない……いや、失うわけにはいかないんだ。……だから、お願いだ。姫の居場所を教えてほしい」


 切々と語る魔法使いの体からはいつの間にか怒りは消え、代わりに身を切るような切なさが伝わってきます。全存在を懸けてただ一人の娘を求めるその姿に、疑う余地はありませんでした。拘束されていた魔女の体の自由も元に戻っていました。


 ことの重大さを知った魔女は決まりが悪そうに口ごもりながら言いました。


「……街よ」


「街?」


「ええ、そう、人間たちの街。あの子、あなたへのお返しに『歌』を買いたいと言って、街まで運ぶように頼んできたの。本当に何も知らない子なのね。『歌』なんてどこにも売っているわけないのに」


 隣り森の魔女は早口で吐き捨てるように言いましたが、魔法使いは黙ってその場に立ち尽くしたままでした。


「何よ、行けばいいじゃない。あの子の居場所はもう分かったんだから」


 魔法使いは青い顔で、搾り出すように言いました。


「……だめだ……、今の私にはもう迎えに行くだけの力がないんだ……」


「なんですって」


「地上に降りて帰って来るには大きな力が必要だが、今の私にはとてもそれだけの力がない……」


 魔法使いは歌姫を捜すために数ヶ月間、十分な睡眠もとらずに力が枯渇する寸前まで魔法を使っていました。疲れ果てて、やつれたその体からはごく弱々しい魔力しか感じられません。


 予想外の深刻な告白に隣り森の魔女が驚きで目を見開きました。


 生命力の源であり、魂の伴侶である『ひと』が側にいれば枯渇した魔力も乾いた大地が勢いよく水を吸うように見る見る間に潤っていきますが、一人で再びその身に魔力を宿すには、長い長い年月が必要になるでしょう。一刻も早く歌姫の元に向かいたいという狂おしいほどの気持ちと、それが叶わない現実とに焦り、絶望し、憔悴しきった魔法使いはおぼつかない足取りで魔女に背を向け、自分の森へ帰ろうとしました。


 長い付き合いの中、今まで見たこともない魔法使いの後ろ姿に、隣り森の魔女は思わず声をかけました。


「私が……私がシギを街まで連れて行ってあげる」


 魔法使いはかけられた言葉に思わず足を止め、信じられない、といった表情で振り向きました。魔法使いにとっても長い付き合いの中で、隣り森の魔女がそんなことを言い出すだなんて想像もしないことでした。たとえ自分がどんなことをしたとしても、隣り森の魔女は罪悪感や反省といったものと全く縁の無い性格でしたから。


「いいのか……?」


 魔法使いは藁にもすがる思いで隣り森の魔女の提案を受け入れました。そう尋ねた声は少し掠れていました。


 隣り森の魔女はばつが悪そうに横を向いて言いました。


「私、あの子がシギの『ひと』だなんて考えてもみなかったわ。ただの気まぐれのおもちゃだと思ってた」


 そして魔法使いの方に向き直しました。その瞳には、いつもの人をあざ笑うような光はありませんでした。


「街まで運んだのは私だし、シギがあの子を捜すのに底を突くまで力を使うなんて思ってもなかったから」


 隣り森の魔女に対する怒りは最早どこにも湧いてきませんでした。魔法使いの心の中はもう一度歌姫に会えるという希望の光でいっぱいでした。

 

「ありがとう」


 二人は隣り森の魔女の魔法で人間の街へと降りていきました。



***


 歌姫は埃っぽい自室の床に座りベッドに顔をうずめたまま、魔法使いの名を呼び謝罪を繰り返しながら、静かに泣いていました。


 こっそり恩返しをして驚かせたくて、魔法使いに何も言わずに出てきてしまったことも後悔していました。心優しいあの人に心配をかけてしまっているとしたら申し訳なさで胸が張り裂けそうです。そして何よりも歌姫自身が魔法使いに会いたくて、彼が恋しくてたまりませんでした。自分勝手だと分かっていましたが、涙は止まることなく流れ続けました。


 しばらく泣き続けて、気がつけば辺りは真っ暗になっていました。暗い部屋の中、歌姫はぼうっと宙を見ていました。これからどうしたらいいのか、頭がさっぱり働きません。


 そのとき突然部屋の中に目も眩むほど明るい光の球が現れ、広くはない部屋いっぱいに満ち、その中から二つの影が出てきました。眩しさに手をかざして見てみると、その影は見覚えのあるものへと形を変えていきました。


 歌姫は目の前の出来事が信じられず、呆然としていました。あまりにも恋しく想ったため、願望が形を持ったのでしょうか。光の中から現れたのは、大分やつれて容貌が変わっていましたが、歌姫が会いたくて会いたくてたまらなかった魔法使いその人でした。後ろには隣り森の魔女もいるようです。


 魔法使いは光の中から歌姫に近づき、手を伸ばしました。その手は微かに震えていました。そして壊れ物を扱うようにそっと、ゆっくりと、歌姫を腕の中に閉じ込めました。


 歌姫は何が起こっているのか理解できず、夢を見ているんだと思い、目を閉じました。魔法使いの腕に包まれて、歌姫は仕合せを感じていました。その仕合せをより感じていたいと思い、今度は歌姫が魔法使いの背に手を伸ばし、ぎゅっと抱き締めました。そのとき魔法使いの体がわずかに強張った気がしましたが、夢だと思い大して気にしませんでした。魔法使いも応えるように歌姫を抱く腕に力を込めました。いまや寸分の隙間もなく抱き締めあっています。なんてしあわせな夢でしょう。いつまでも続けばいいのに。


 すると、魔法使いの後ろからわざとらしい咳払いが聞こえてきました。すっかり存在を忘れられていた隣り森の魔女です。


「私の役目はここまでよ。帰りは何とかなるんでしょう」


「ああ。ありがとう」 


 魔法使いは声だけで返事をしました。隣り森の魔女はそのまま光の球の中に溶けるように消えてゆき、眩しい光も収束していきました。

再び暗闇に包まれた部屋には魔法使いと歌姫が残されました。


 しばらくして歌姫は自分を抱きしめている腕が夢や幻ではなく、本物であることに気が付きました。歌姫はゆっくりと顔を上げ、懐かしい魔法使いを見つめました。魔法使いは優しく歌姫の頬を撫で、心の底から安堵した表情で歌姫を見つめ返しました。


 沈黙を破ったのは歌姫でした。歌姫は震える声で言いました。


「あの、勝手に出て来てしまってごめんなさい。心配、お掛けしましたよね……」


 暗い部屋でもわかるほど、魔法使いの頬はこけ、目の下には隈が濃く出ています。長く艶やかな黒髪も輝きを失っています。歌姫は胸が苦しくなりました。


「私、ずっとずっとあなたにお世話になってるばかりだったから、何かお返しがしたくて……でも、やっぱりそれも出来ないみたいで……本当に、私は何の役にも立たない……。ごめんなさい……」


 再び溢れ出した歌姫の涙を拭いながら、魔法使いは言いました。


「そんなことありません、姫。姫は在るだけで私の幸いなのです」


 そして、今までになく真剣な目をして続けます。


「姫。改めて言わせてください。私と一緒にあの森で暮らしませんか」


 歌姫の瞳からは次から次へと涙が流れてきます。しかし、今流しているのは悲しみの涙ではありませんでした。


 魔法使いの問いかけに歌姫は迷わず、はい、と答えました。

 

 二人は早速森へ帰ることにしました。前回は何も告げる間もなく魔法使いの許へと行ってしまったので、今回は家を出て行くとき、歌姫は母親へ最後の別れの挨拶をしに行きました。

 母親は寝台ですでに寝ていましたが、歌姫は小さく声をかけ、母親を起こしました。歌姫の呼びかけに母親は寝返りを打ち、小さくうなりながら目を開けましたが、その目は焦点が合っておらず、意識は夢の中にありました。歌姫は母親に語り掛けました。


「お母さん、私はこれから遠いところに行きます。お仕事、続けられなくなってしまってごめんなさい。私はきっともう帰ってこないでしょう。お母さん、私がいなくなったら、本を書いてください。伝記でもお書きになれば、これから暮らしていけるくらいにはなるでしょうから」


 歌姫がモデルとして仕事をしていたときに、いくつかの出版社から自伝を書いてみないかという話があったことを思い出し、そのことを母親に勧めました。母親は夢現のまま曖昧に頷きました。


 歌姫は母親の手をとってそっと頬に当てました。そうして再びその手を寝台に戻して言いました。


「さようなら、お母さん」



 二人は魔法使いがどこからともなく取り出した敷物に乗って、魔法の森を目指して夜空を飛んでいました。


 眼下に広がる街の灯りをぼんやりと見ながら、歌姫はポツリポツリと語り始めました。


「……昔は、お母さんはああではなかった。私たちは母と娘二人きりで、お母さんはいつも夜遅くまで働いていたの。生活は貧しかったけれど、その分お母さんは誰よりも私のことを愛してくれた。とても優しかった。私、お母さんが大好きだった。私が歌うとお母さんは喜んでくれて、私、それがすごく嬉しかった。お母さんが笑ってくれるから、歌を歌うことは楽しかった。……ある時、地区の歌のコンクールに出たの。そこで大きな賞をもらってから、少しずつ歌の仕事が入ってきた。お金持ちの人たちに呼ばれ、今まで見たことない額の報酬も受けたの。その頃からお母さんは変わってしまった。それまでの仕事を辞めて、私に歌の仕事を持ってくるようになった。私が歌うと、たくさんのお金が入ってくるって言ってた。嬉しそうにそう言ってたけど、私にはお金に執着していくお母さんがどうしても好きになれなかった。以前のお母さんが好きだった」


 きつく瞼を閉じながら、歌姫は続けました。


「前のお母さんに戻ってほしかった。どうしてこんなことになってしまったんだろうって思った。……ああ、そうだ。私が歌でお金を稼いでいなければ、いいえ、私が歌わなければ、こんなことにはならなかったって気づいたの。私が歌いさえしなければこんな風にはならなかったのに……。大好きなお母さんが変わってしまうのなら、私に歌なんてなければいいのに。……そう思ったら、忘れていたの。歌い方がまったく分からなくなっていた。演奏を聴いても、他の人が歌うのを聞いてもさっぱり分からなくなってしまった。『歌』そのものを忘れてしまったの」


 ゆっくりと語る歌姫の頬をつたい落ちる涙を拭いながら、魔法使いは黙って聞いていました。


 歌姫は目を閉じたまま魔法使いの広い胸に頭を預け、微かに震える声で言いました。


「……でも、私が歌を歌わなくても、お母さんはもう以前のお母さんには戻れないのね……どうやっても、きっと……。私がいる限りは……」


 声を詰まらせた歌姫の肩を、魔法使いは優しく抱き寄せ、柔らかくささやきました。


「姫。どんな悲しみもあなたに近付けないくらい、私はあなたを愛します。あなたを、生涯大切にすると誓います。あの森で、姫と私と、しあわせに暮らしましょう。」


 魔法使いの言葉に歌姫は目を開け、ずっと抱いていた疑問を口にしました。


「魔法使いさん、あなたはどうしてそんなにも私に良くしてくださるんですか? 私は何の役にも立てないし、迷惑ばかりかけてしまっているのに……」


 すると魔法使いは、蕩けるような眼差しで歌姫を包み込み、いつくしむように言いました。


「迷惑だなんて、思ったことはありません。姫から与えられるものならば、どんなものでも私の幸い、生きる喜びになるのです。あなたはいてくださるだけでいいのです。私の側に、いてくださるだけで」


 魔法使いや魔女にとっての魂の伴侶というべき存在である『唯一のひと』のことを知らない歌姫は納得はできませんでしたが、元々深く考える性質ではなかったので、魔法使いの主張を受け入れることにしました。


「……そういうものなのですか?」


「ええ。魔法使いとは、そういうものなのです」


 二人を乗せた敷物は満天の星空の下、滑らかに泳ぐように懐かしい魔法使いの森へと向かっていくのでした。



***


 二人は魔法使いの森に戻って、ずっと仕合せに暮らしました。


 そして数年後、歌姫は可愛らしい女の赤ちゃんを産みました。


 とてもとても可愛い赤ちゃんだったので、すっかり虜になった隣り森の魔女もかなりの頻度で遊びに来るようになりました。


 ちなみにあの一件のことで歌姫が隣り森の魔女を敬遠したかといえば、そんなことはありませんでした。歌姫は細かい事を気にする性格ではなかったし、そもそも意地悪されていたとは思っていませんでした。


 それでもしばらくは隣り森の魔女が魔法使いの森に来ることはなかったのですが、赤ちゃんがあまりに可愛かったので、わずかに残っていたわだかまりもいつのまにか解けて消え去っていました。


 そんなある日のこと、歌姫と魔法使いと赤ちゃんと隣り森の魔女と小鳥たちが庭先で遊んでいると、魔法使いの腕の中で赤ちゃんがぐずって泣き出してしまいました。

 

 魔法使いがどうあやしてみても泣き止まないので、歌姫が受け取り、腕の中で優しく揺らしていると次第に落ち着いてきました。赤ちゃんは仕合せそうに目を閉じています。歌姫は愛おしそうに赤ちゃんを揺らし続けています。

 

 その時、森は静寂に包まれました。


 小鳥たちはさえずるのをやめ、木々も風に葉を鳴らすのを忘れ、動物たちも動きを止めました。


 隣り森の魔女も驚きに呼吸をするのも忘れ、聴き入っていました。


 魔法使いは久し振りに耳にするガラスのように透き通り、春の風のように温かい旋律に胸が満たされ、思わず涙がこみ上げてくるのを感じました。


 何をしても取り戻すことのなかった『歌』が、愛しい我が子を安らかな眠りへと誘うため、自然と歌姫の口から溢れ出てきたのです。


 歌を取り戻した歌姫の子守唄は、誰も聞いたことの無いほど優しい響きで魔法使いの森の隅々にまで沁み渡りました。




〈完〉


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