鶏モモ肉の塩唐揚げ しょうが風味
それは、下間祥子の十七年の人生において、まさに青天の霹靂ともいうべき事態だった。あまりのことに呼吸の仕方も忘れ、息が詰まり全身が硬直する。ぐるぐると、思考だけが廻り続ける。
「それじゃ、返事、待ってるから」
さらりとした言葉を残し、祥子の前から高岡が駆け去ってゆく。サッカー部のユニフォームに包まれた颯爽とした姿に、すれ違う女子たちが熱い視線を送る。祥子はその光景を、ぼんやりと見送ることしか出来なかった。
高岡雅史は、祥子と同じ二年生である。同じクラスになって、まだ一か月と少し。祥子と高岡の接点は、祥子の記憶する限りではそんなものだった。
スポーツ万能、頭脳明晰、爽やか系イケメンの顔立ち、と三拍子揃った高岡は、クラスカーストの中で上位に君臨している。性格は陽気でパリピっぽく、ムードメーカー的存在であるといえた。
一方で祥子はといえば、運動音痴、成績低迷、そして三色団子と揶揄される贔屓目に評してふくよかな体型と、引っ込み思案をこじらせクラスカースト下位の道を邁進しているのである。
そんな祥子に、高岡が告白した。放課後の廊下で、のんびりと歩いていた祥子に駆け寄ってきた高岡が、
『祥子ちゃん、俺、祥子ちゃんのことが好きだ。付き合ってくれない?』
爽やかな笑みと共に告げられた言葉の意味を、祥子が呑みこむには数秒の時間が必要だった。理解が及んだところで、今度は高岡の行動の意味を、測りかねた。何故、クラスの人気者、リア充の高岡が自分などに声をかけてきたのか。質の悪い冗談なのか、罰ゲームでもさせられているのか。生じた疑念に祥子は高岡の顔をちらりと見上げてみるが、屈託のない可愛げのある笑顔からは何も読み取れない。表情から何かを知ることが出来るほど、交流は無かった。
無言で顔を俯かせ、ちらちらと視線を向けるうちに高岡が先ほどの言葉を残し、軽やかに駆け去っていった。跳ねるようなリズミカルな足取りには、彼の陽気な性が強く表れているように思えた。
時間にして数十秒、祥子は立ち尽くしていた。そうして、ゆるり、ゆるりと太い足を一歩ずつ踏み出してゆく。その足取りは覚束ないもので、さながら夢遊病者のようであった。
ふらふら歩き続けて下足箱で靴を履き替え、学校を出た祥子はカバンからスマホを取り出し操作する。メッセージアプリを起動して送信すると、ものの数秒で返答があった。スタンプの応酬を数回続けたあと、祥子はスマホを仕舞い駅前へ向けて歩き出した。
駅前のハンバーガー系ファーストフード店の二階、窓際の席を確保して待つこと、数分後。
「やほー、祥子! お待たせ!」
一人の女子高校生が座する祥子へ手を挙げつつ、朗らかに声を上げた。
「あみちゃん、早かったね。私、全然、待ってないよ」
祥子と同じ高校のブレザーとは思えないほど可愛らしく着こなしたそれと、揺れる明るい茶色のポニーテールに目を奪われそうになりつつ、祥子も手を挙げて応じる。そして少女、香椎有海が祥子の正面席へと腰掛けて、手に持ったトレイをテーブルに置く。祥子の前に置かれたトレイにはフライドポテトが二つあり、有海の前にあるトレイには三角形のチョコレートパイが二つあった。
綺麗な桜色の唇で、有海がパイをさくりと齧る。彼女の人差し指の爪には、ピンク地に白の桜が描かれていた。
「ほんで? 今日はどしたの祥子? 真剣な悩み?」
問われて、祥子は目を真ん丸にする。
「よくわかったね、あみちゃん。私、まだ何も言ってないのに」
「ポテトのサイズ。いつもより小さいじゃん。今日からダイエットするってことなら、ココに来ること自体が間違いだしさ」
にへ、と笑って有海が指さすのは、祥子のトレイである。おお、と内心で深い納得をした祥子の前で、有海の顔から笑みがふっと消えた。
「そんで? 誰かに、何か言われたの? クラスのいけ好かないお局様とかにでも」
「そんな子いないよ。新しいクラスでも、何とかうまくやってるから。そこは、心配しないで?」
「そっか。そんならいいけど……何かされたんなら、真っ先に言ってね。裏でシメるから」
にぱっと笑いながら、さりげない調子で有海が言う。祥子は微笑を引きつらせつつ、うなずいた。
「気持ちだけ、貰っておくね。ありがと。でも、今日は、そうじゃなくって……」
「なになに? 気になる人でも出来たの?」
「……うん。ちょっと、違うけれど」
うなずいた祥子に、今度は有海が目を真ん丸く見開いた。
「んええ? マ!?」
本当、と聞きたいらしい有海に、祥子はもう一度うなずき先刻の顛末を有海に話した。そして祥子が話し終えると、興味深げに耳を傾けていた有海が深く息を吐く。
「そっか。雅史のやつ、もう言ったんだ……」
有海の口から漏れた呟きに、祥子はぱちくりと目を瞬かせる。
「雅史? それって、高岡君の、こと?」
「あ、うん。あいつ、私と幼馴染なの。家が隣同士で親も仲良いからさ、色々と付き合いがあって。あ、でも、別にそういうんじゃないんだけどね? 二年に上がって落ち着いたら、祥子にも紹介しよっかなって、思ってたんだけど」
「そうだったんだ。でも、幼馴染でお隣さんって、何だか漫画みたいだね」
「そんな目を輝かせるようなことなんて、何もないけどね。手のかかる弟みたいな存在だし。あいつんち、両親共働きだから、うちによくご飯食べに来るの。そんで、その時に私が祥子のこと話しちゃって、あいつの琴線に触れたらしいのよ。写メとかも見せてたら、ますます気に入ったみたいで……変にこじらせる前に、告白でもしたら? って勧めてみたんだけど、まさかいきなり動くなんて思わなかったの。ごめんね、びっくりさせちゃって」
上目遣いになった有海が、両手の指を合わせる。それは真剣な、謝罪の仕草だった。
「ううん、いいよ。どんな風に私のこと話していたのかは、気になるけれど……」
首を横へ振り、祥子は有海に言った。
「別に、普通だよ。写メも見せられるやつだけしか、見せてないし。最近だと、お花見行ったときのこととかかな。お弁当に、祥子が唐揚げ作ってきてくれて、めっちゃ美味しかったやつ」
「そう? あみちゃんが気に入ってくれたなら、嬉しいよ。今度、また作る?」
「いいの!? それじゃあ、またお弁当持ってどっか行こうよ!」
ぱっと明るく笑った有海が、祥子の手を取って飛び跳ねる。ポテトとチョコレートパイの包装が、トレイの上で一緒に跳ねた。
しばらく、次のお出かけ先についての話題で盛り上がり時間が過ぎた。スマホを見ると、十八時を少し回る頃合いになっていた。
「あ、そろそろ帰らなきゃ。祥子、雅史のことだけど、もし嫌だったら、私から後腐れないように断っとこうか?」
カバンを持ち上げながら言う有海に、祥子はふるふると首を振る。
「高岡くんには、よく考えてから、自分で返事をするよ。あみちゃんと話してたら、落ち着いてきたみたい。今日は、ありがとうね、あみちゃん」
「祥子……うんっ!」
立ち上がった有海が、祥子へぎゅっとハグをする。ほっそりとした有海の身体を、祥子も軽く抱き返す。
「ああ、癒されるぅ……この感触を、雅史なんかに渡すのは、やっぱ勿体無いかも」
「あみちゃん、もう」
肉の乗った二の腕や背中をぎゅっとされて言われた言葉に、祥子はまた少しだけ、落ち着かなくなった。
「あいつ、見かけはあんなだけど、多分祥子のこと、マジに考えてるから。よろしくね?」
ファーストフード店から出て手を振りながら、別れ際に有海がそんなことを言う。うん、とうなずきながら、祥子は駅へ向かい、帰路についた。
帰りがけに寄ったスーパーの袋を片手に、祥子はマンションの玄関をくぐる。ただいまを小さく言うが、応える声は無い。
「高岡くんも、お揃いなのかな……」
ぽそりと呟く自分の声に気恥ずかしさを覚え、祥子はキッチンへと向かう。夜半過ぎに帰って来る両親のためにも、食事を作る必要があった。買い物を袋から出し、必要なもの以外は冷蔵庫へと仕舞う。そうして自室へカバンを置いて、エプロンをして再びキッチンへ戻る。まな板の上には、タイムセールで購入した鶏モモ肉がある。
「……よし」
少し考えてから、祥子は包丁を出してモモ肉をぶつ切りにする。一口で食べやすく、けれどもボリュームを感じられるように。包丁はよく研いであるので、皮もすんなりと切れた。
ボウルに切ったモモ肉を移し、塩と味の素を一つまみ程度振りかける。それから、野菜室から出した生姜を軽く洗い、おろし金でボウルに擦り入れた。
フォークを二本取り出して、モモ肉に突き立ててゆく。ぷつり、ぷつりと皮の中へフォークが入り、薄皮と肉の継ぎ目に幾つもの穴が開いた。
揚げ物鍋に油を入れて、強火にかける。温度計を見やりつつ、ボウルの中の調味料をモモ肉へと馴染ませるため、よく揉み込んでいく。
一分ほど、揉み込みを続けるとモモ肉に生姜が馴染んでくる。戸棚から片栗粉を出して、ボウルの中に塗し入れる。粉の付きにむらがあると、焦げてしまうので満遍なく擦り込んでゆく。そうしているうちに、油の温度が百七十五度になった。
じゅわり、と一片ずつ、油の中へ衣のついたモモ肉を投入する。しゅわしゅわと、湯気と油の泡が上がる。底へ沈んだモモ肉がぷかりと浮かべば、出来上がりである。まな板を洗い、祥子は付け合わせのサラダ野菜を刻み始める。レタスとタマネギ、そしてトマトを切って盛り付けるだけの簡単サラダだ。ゴマ風味のドレッシングとは、相性が良い。
耐熱皿にクッキングシートを敷き、皿の準備をする。そのうちに、揚がったモモ肉を一片ずつ、油の上で軽く振って油をきる。揚がり立ての揚げ物は、空気に触れさせることでカリっとなる。
揚げ油の中に浮いた片栗粉の焦げた破片を、網で掬っておく。それは、油を綺麗に保つために必要なことだった。
ゴロゴロと山になった唐揚げを、五つほど別の皿へ移す。サラダに使ったレタスの余りを敷いて乗せ、レモンを添えれば完成だった。
「いただきます」
山盛りご飯を添えて、テーブルについた祥子は手を合わせる。香ばしい唐揚げの匂いに、くぅ、とお腹が鳴った。箸で唐揚げを摘まみ上げ、一口に頬張る。さくり、と祥子の口の中で軽やかに唐揚げが音を立てた。
「熱っ……でも、美味しい」
薄くカリっとした衣の中から、じゅわりと肉汁が溢れて流れ込んでくる。程よい塩味の鶏モモ肉が、生姜のおかげでさっぱりと口の中で蕩けた。思わず祥子は、山盛りご飯へ箸を伸ばす。保温をしていない冷たい米の温度差が、熱くなった口内をほのかに甘く、じんわりと冷ましてくれる。もぐもぐと、祥子はしばらく無心に箸と口を動かし続けた。
「……どうすれば、いいのかな。高岡くんのこと」
箸休めのサラダを口にしつつ、祥子は呟いた。トマトの酸味とゴマ風味のドレッシングが、舌の上に新たな刺激と味わいを滑らせてゆく。二つ目の唐揚げへと、箸が動いた。
「あみちゃん、高岡くんと、幼馴染だったんだよねぇ……うん、おいし」
サラダでさっぱりとした口の中へ、再び唐揚げの旨みが拡がる。山盛りのご飯の半分が、消えた。
「付き合うって、どうするんだろ……ううん」
三つ目の唐揚げを頬張りつつ、祥子は少し想像をした。ピクニックシートを敷いた上に、高岡と並んで座る。弁当箱に、山盛りの唐揚げ。美味しいよ、と笑う高岡。にへら、と祥子も笑みを返して見せる。
「……何話せばいいか、思いつかないよ、あみちゃん」
四つ目を、残ったご飯と一緒に口へ放り込む。想像上のピクニックシートの上に、有海を置いてみた。あーん、と祥子が高岡へ差し出した唐揚げへ、横から有海が奪い取るように齧りつく。あんたには十年早いのよ、とか何とか、言いながら。有海の悪戯に、少し高岡が怒って見せる。まだまだあるから大丈夫、と祥子は二人を宥める。頭の中に、三人分の笑い声が、溶けていく。
「……うん、それが、いいかも知れない」
五つ目を、名残惜しさを込めて咀嚼する。沢山揚げた残りの唐揚げは、お腹を空かせて帰ってくる両親のぶんだ。手出しはできない。
「残ったら、明日のお弁当に、しよう」
丸い顎をこくんとうなずかせ、祥子は箸を置いた。ごちそうさまでした、と手を合わせ、洗い場へ食器を運ぶ。洗い物をしつつ、祥子はふと、冷蔵庫へ目を向けた。タイムセールの鶏モモ肉は、もうひとパックある。仕込んでおけば、弁当の分は確保できるかも知れない。
しばらく考えたあと、祥子は冷蔵庫の扉を開ける。柔らかな笑みが、丸い顔に浮かんでいた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今作も、お楽しみいただけましたら幸いです。