蜜酒8
寝室に入る際、イブリンはひどく緊張していた。久しぶりのアレックスとの『夜』。
何も知らなかった頃には戻れない。しかもひどく困難な問題を解決しなければならない。
セレストにの手によって今夜のイブリンは念入りに装われたが、意識を向ける余裕はない。
アレックスが先にいても後から来ても、気まずいことには変わりない。
寝室に、アレックスはいなかった。侍女と侍従が控えているだけだ。
「陛下におかれましてはこちらにおいでになるのが遅れると、伝言を賜りました」
「そう。では、お酒を置いてあなた達ももう下がって」
蜂蜜酒の瓶と杯が卓に置かれ、扉が閉ざされればイブリン一人きりになる。
――避けられている。顔を合わせればなんとかなるかも知れない事態も、アレックスが来てくれなければ全く進展しない。
どっと疲れを覚えてイブリンは一人がけの椅子に座り込んだ。波立つ気分は安らぎを求め、目にとまったのは蜂蜜酒だった。杯に蜂蜜酒を注ぎ、口をつける。
甘くとろりとした酒が喉を滑り落ちる。遅れてじわりと躰が熱くなる。
普段なら一杯だけの蜂蜜酒を機械的に何杯もあおり、いつの間にか瓶を空にしてしまった。
あまり食事をとっていない状態で酒を過ごせば、当然ながら酔いが回る。蜜月の象徴の蜂蜜酒も、今のイブリンには空しいだけ。
杯を卓に置き、ぐらつきそうな頭を何度か振って、イブリンは椅子に座ったまま目を閉じる。
吐息は甘い。でも、気分は苦々しいだけだった。
木に登ったはいいが、いざ下りようとすると思った以上に高くて、イブリンは木の上で硬直してしまう。
どうしよう。どうしたらいいの。誰か呼ぶ? でも侍女を薔薇園に置き去りにして庭園に抜け出したから、誰かを呼べばきっと叱られてしまう。
下りられたら自室に戻れるのに。もうすぐお茶の時間で、お菓子が食べられるはずなのに。
泣きたい気分で木にしがみついていたイブリンの眼下に、見知らぬ人が現れた。
金色の髪、薄青い瞳の優しげな男性がイブリンを見上げて、目を丸くしている。やがて笑みを浮かべて手を差し伸べた。
『小さな姫君、どうなさった?』
『……おりられなくなったの』
『それはお困りだろう。さあ、身を乗り出して。私が受け止めるから』
少し怖かったけれど思い切って枝から手を離し、イブリンは両脇に手を差し入れられて無事に地上へとおりたつ。
ほっとしたらなぜか涙が浮かんで、イブリンは座り込んでしくしくと泣いてしまった。
助けてくれた男性はちょっと困ったようにイブリンの頭を撫で、手を引いて花を植えてある区画へと連れて行く。ぶちぶちと何本かの花を手折って、イブリンの傍らに腰を下ろした。
『泣かないで。ほら、綺麗だろう? ここの庭師は腕がいいようだ。見事に咲いている』
手先は器用に花冠を作ってイブリンの頭にのせてくれた。その頃には涙も止まり、おずおずと見上げる先には目を細める男性がいる。
『ありがとう。あの……おなまえはなあに?』
『アレク。ラフォレーゼのアレクだ』
ラフォレーゼのアレク。その名前と笑みは幼いイブリンにしっかりと刻み込まれた。
結局は抜け出したのを叱られたし庭師を嘆かせたのだが、綺麗で優しい王子様がイブリンにとって大切な人になったのだ。
あれから十二年。イブリンの人生に根を張り、すくすくと育ち、結実しようかという想いを覚えたあの日から十二年……。
懐かしい思い出がどうしてよみがえるのか。それはあの時と同じように抱き上げられているから。
しっかりとイブリンを支えてくれたあの手と、腕を感じているから。
「ん……」
しっかりと運ばれて寝台に横たえられた。気配はイブリンから離れようとしている。
違う。この後は花冠を作ってもらうの。その考えのままに、肩から抜かれようとする手を握る。
「行かない、で」
ほんの少しの間をおいて、大きく熱い手がイブリンの手を握り返す。それから、頬に手が移り優しく押し当てられた。
そのことにひどく安心して、イブリンは満足げに想い人を呼ぶ。
「アレク、殿下」
瞬間乱暴に手が離れる。その感触は酔いと眠りにたゆたっていたイブリンを、覚醒させる。
悪態が聞こえた、気がした。うっすら目を開けたイブリンの頭が乗っている枕のすぐ側に、拳が振り下ろされる。
かろうじて悲鳴はあげずにすんだが、振動は伝わる。拳はイブリンに当たってはいない。が、恐怖を覚えさせるには十分だった。
イブリンの上にかがみ込み、拳を寝台に押し当てていたのは。
「――陛下」
「目が覚めたか。あのままでは風邪を引くと思い、寝台に運んだのだが」
かがみ込んでいた姿勢からすっと背筋を伸ばしたアレックス。だが、その拳はかたく握られたままだった。
間近で加えられた暴力に、イブリンの自制が追いつかない。言葉もなく見上げるしかないイブリンから、アレックスは距離をとり扉へと向かう。
「陛下」
「怖い思いをさせてすまない」
それだけを告げて、アレックスは立ち去った。かたく閉じた扉と空虚な寝室は、イブリンが一人きりなのを否応なく突きつける。過去を夢見ていたはずが現実で、愚かにもアレク殿下の名を呼んでしまい結果アレックスの怒りを買った。イブリンからすがりついたのに、相手を間違えていた。
自分の失態を悟るしかない。
しばらく待って――アレックスは現れなかったが――イブリンは自室に戻る。驚くセレストには頭痛がひどいと言い訳して、寝台にもぐりこんだ。
実際飲み過ぎた蜂蜜酒のせいだろう、ずきずきと頭が痛い。
眠れないまま躰を丸くして、イブリンはきつく目を閉じる。
これは、修復などかなわない。