蜜酒7
セレストのよこした本を棚の奥にしまおうと手にしたものの、イブリンは本に目を落としそっと頁をめくる。こんなに刺激の強い本を読んだことはなかった。
立ち会いの儀。見届け人の前で、このような行為をしなければならなかったのか。異性に裸をさらしたことなど、もちろんない。ましてや秘めた場所を侍女以外に触れさせたことも。
貞淑であれ、と教えられ育ってきたのにと、ついため息が漏れる。
「抱かれる……ってわたくしが思っていたのとまるで違うわ」
ただ一緒に眠るのではなかった。裸になり、男性しかないものと女性しかないもので……部屋に一人きりなのはわかっているのに、つい誰かがイブリンを見ていないかと顔をあげて見回してしまう。
この次の頁は最初に目にした時からイブリンには衝撃しか与えない。私的な本をおさめてある棚の奥にぐいぐいと押し込んで、ひとまず本からは離れる。
そしてアレックスのことを考える。
世の政略で婚儀をあげた人々は、信頼や思慕が深まる前にこの立ち会いの儀をこなしているのか。確かにこれは決心を迫られる行為だと、しみじみ思う。
同時にイブリンを思いやって、待ってくれたアレックスには申し訳なさしかない。見限られても当然だろう。
まだ残っている蜜月の夜にどう向き合い、過ごすべきか。どう詫びればよいか。
アレックスの考えはあの夜の言動で痛感した。向き合うのは、とても怖い。でも逃げるわけにはいかない。
久しぶりに朝食の間に赴けば、すでにイブリン以外は席に着いている。
「どうにか快癒いたしました。見舞いをありがとうございました」
イブリンの言葉に頷いてくれたのはアレクサンダー。イブリンが伏せっていてつまらなかったと言うのはアーチボルト。
アレックスはかすかに身じろぎしたのみ。イブリンの中でみるみる勇気がしぼんでいく。まだ十分とはいえなかった食欲もさらに落ちて、重苦しい気分のままに食事を終える。
自分専用の執務室代わりにしている部屋には、たくさんの見舞いの書簡が机にのせられている。ギーズがラフォレーゼの文官と一緒に、直筆の礼状や署名を求めてきた。
その際に相手がどんな身分で、ラフォレーゼにとってどんな間柄なのかを説明してくれる。ギーズもイブリンと同等かそれ以上にラフォレーゼについて学んでいて、人物について把握していた。
「病が癒えたばかりですので、これくらいにいたしましょう」
延期した公務の概要をつめてから、イブリンは解放された。ラフォレーゼの文官が退室したのを確かめて、ギーズに男性の心理について尋ねる。
「男性はよほどのことがない限り、一度した決心はくつがえさないものかしら」
「人によると思われますが、一般的にはおっしゃるとおりでしょう」
「そう……」
アレックスはまず決心を変えないだろう。国王が方針を安易に変えるほうが不安を呼ぶ。
そのアレックスがああもきっぱりと告げたのだ。つまり、お先真っ暗ということに他ならない。
妻が他の男性を想っているのは、愉快ではないだろう。
自分におきかえれば素直にうなづける。アレク殿下が他の女性をと想像するだけでつらい。実際には神を想っていたのだから、よけいに打ちのめされたのだが。
男性は概して自尊心が高い。国王陛下たるアレックスなら、誰よりも高いだろう。それを傷つけたイブリンは、けして――赦されない。
「疎まれて当然ね」
そうまとめるイブリンの前でギーズは眼鏡に触れ、居住まいを正した。
「王妃陛下。私に事情を説明してください」
「――言いたくないの」
「私には把握する義務があります」
口を開きかけ、イブリンはぎゅっと唇を引き結ぶ。セレストから伝わっているかもしれないが、イブリンが告げると事実となり、重みを増して国同士の対立になりかねない。
小国のキアーラが立ち回り生き残るためにどう振る舞うべきか。イブリンもギーズもこの大前提で動いている。
不和の原因を作ったのがイブリンなら、解決できるのもイブリンのみ。
「いずれ必ず伝えます。でも今は嫌」
「――承知いたしました。では、私はこれで」
うやうやしく一礼して立ち去ったギーズには悪いと思うが、イブリンの心を占めているのはアレク殿下とアレックス陛下だった。
どうすればいいのか。どう振る舞えばいいのか。
考え込んで塞いでしまい、セレストに小言を言われてしまう。
「また病になってしまいますよ」
「熱を出せばアレク殿下のことを忘れられるかしら。ああ、ものを忘れられる薬があればいいのに。ねえ、セレスト、あなたはそんな薬を知らない?」
「そのようなものはございません」
ぴしゃりと告げられてイブリンは力なく相づちをうつ。そんな都合のいい薬などあるはずがない。
ただイブリンがアレク殿下を想っているのが、想いを引きずっているのが問題なのだから、アレク殿下への諸々をなくすのが解決への早道だ。
アレク殿下のことをきれいさっぱり忘れてしまうには、どうすればよいのか。
「そうだわ。頭をひどく打てば、自分の名前も忘れてしまうと聞いたことがあるわ。ねえ、セレスト。わたくしの頭を何かで殴ってくれない?」
湯浴みの後で躰の隅々まで丁寧に拭かれ、よい香りのついた化粧水を塗り込められながらイブリンはセレストに頼んでみる。
キアーラにいた頃より時間をかけて念入りに手入れされる、その意味は今さらだが理解できた。
いくら肌を整えても、髪を梳かしても無駄な努力なのに、と乾いた思いがわく。アレックスはイブリンと婚儀を完遂するつもりはないのだから。
萎れていても、憂いている風情が人の目を引きつけているイブリンだが、自身はまるで気づいていない。今も夜の用意が調ったイブリンは美しく、病から癒えたばかりのはかなげな雰囲気や不安に揺れる瞳は、はっきり言って男心をそそる。
セレストはイブリンの意気地のなさに腹立ちを覚え、同時に同情せざるを得ない。
わざと明るく、イブリンを突き放した。
「ご冗談を。王妃様に手を上げれば罪を問われます。それに命に別状なくものごとだけを忘れてしまうような殴り方など、誰も知らないでしょう」
さあお時間ですよ、とイブリンを寝室に送る。
セレストの前では弱気だが、ラフォレーゼの人間の前では弱みを見せられない。イブリンが優雅な足取りで寝室に消えるまで、セレストはお辞儀をし続ける。
六歳からこれまで、イブリンの人生の実に三分の二はアレク殿下で占められていた。
それを忘れる、あるいはなかったことにするのは容易ではない。それこそ事故で頭を打つような偶然がない限り。
ただ蜜月の残りはわずか。それまでに事態が好転するのか。
大事に大事に育てた姫が悲しみ、苦しんでいる。希望を胸に赴いた国で、混乱に陥っている。
姫の幸せを願ってきたのに。姫の幸せを願っているのに。
セレストの祈りも、厚い扉の向こうは見通せない。