蜜酒2
すうっと指先から冷えていく感じがした。告げられた内容が理解できずにとまどうイブリンを、国王と王弟は別室に誘う。
長椅子に腰掛け、出されたお茶でなんとか落ち着くとイブリンは説明を求めた。
「――どういった事情なのでしょうか」
「あなたと貴国には礼を失してしまい、申し訳ない。弟は……アレクシスはあなたと婚姻できなくなった」
重苦しい空気の中でアレックス・ハロルド・レイランドの声も沈みがちだ。侍従に目配せをすると盆にのせた書簡を捧げ持ってくる。
促され取り上げると、それはイブリンあてだった。
数度よこされた書簡と同じ、優美な筆跡はまぎれもなくアレク殿下のものだと判断しているのに、封蝋を破る手はかすかに震えている。
同席している兄弟は、イブリンが書簡に目を通すのをじっと見守っていた。
書簡には以前から漠然と抱いていた聖職者になりたい欲求が絶ちがたく、婚約が成立した後も続いていたと記されていた。立場や両国の関係、イブリンのことも考え諦めようとしたが、いよいよイブリンが自国に向かうに及んで自分の気持ちを偽れなくなった。
どうか不実な自分を忘れてほしい。そして幸せになってほしいと結ばれている。
のろり、とイブリンは視線をあげた。
「つまり……」
「弟は側近とともに密かに国を抜け出し、オーバル聖教国に向かったようだ。正式に聖職位についたと連絡があったのが、あなたが国境に到着する五日前だった」
「五日前」
アレクシスはイブリンを迎えに行ったのだそうだ。その途中でまっすぐ行けば国境、折れ曲がればオーバル聖教国という地点に宿泊した夜に出奔したと。
慌てて捜索と、王都への連絡を取りながらどうにか混乱を収めようとしたが、結局かなわなかった。
「私があなたを迎えに砦に赴き、できるだけゆっくり王都までお連れしたのはそのためです」
「それでは、時間稼ぎをされていたのですね」
婚約者が婚儀を厭って行方不明になるなど、失礼の極みだ。しかも相手が王女、それを実行したのが王弟となると戦にもなりかねない。
血眼で捜索したのだろう。ラフォレーゼの国力を相当使ったのは、容易に想像がつく。
それでも結果は。
「自国の国教会に逃げ込まなかったのは、おそらく強制的に連行されると思ったのだろう」
「そう、されるおつもりだったのですか?」
どこか他人事のように、イブリンは尋ねている。教会は一種権力のおよばない場所の一つだ。罪人でさえ条件を満たせば引き渡されない。それを強制的に連れ出すとなると、国教会、ひいてはかなりの権力を有するオーバル聖教国と対立するだろうに。
イブリンの問いを受け止めたのは、国王だった。
「国と国の盟約を違えるなどありえない。当然、首に縄をつけてでも引き出すつもりだった」
アレク殿下は兄の性格を見越し、国内の教会ではなくオーバル聖教国に逃げ込んだのか。
さすがに中央教会から引きずり出そうとすれば、たいそうな騒ぎになるだろうから。あの優しげなアレク殿下の意外な意思の強さや、思い切りのよさにイブリンはある意味で感心した。
王子と生まれたからには死ぬまで国のために動く。それが王族としてのつとめだ。
イブリンも国のために政略の駒となる、その状況を受け入れていた。窮屈さは覚えても、身分や立場を捨ててなんて考えたこともなかった。
「さすがに、これでは婚姻は無理ですね」
一生を神に捧げる聖職者になった相手とは、婚儀はあげられない。ラフォレーゼ側は苦悩しただろう。
それで、婚約破棄か。ただそこからの提案は飛躍しすぎだろう。
「殿下についての事情は理解いたしました。ただ、陛下がわたくしと……というのはお話がよく見えませんの」
この成り行きはラフォレーゼ側の落ち度だ。挽回したいのは当然としても、国王との婚姻となると話が大きくなりすぎる。
イブリンとしてはこのまま国に戻ってもよかった。アレク殿下との婚姻だったから受け入れた側面もあったかあら。ああ、でもかなり惨めになるのは確かか。だんだんと痛み出した胸が、頭がそう訴えている。
婚約者に逃げられた王女。
「こちらが全面的に悪いのに、あなたを醜聞に巻き込んでしまった。本当に申し訳ない」
婚姻が二年延びたのはキアーラ側の事情だが、この仕打ちでは今後まともな縁談が来るか疑わしい。
最悪修道院入りかと考える。キアーラは直系は兄王と王女のイブリンだけだ。そのイブリンに醜聞が持ち上がるのは痛手だ。
「では、さきほどの提案はわたくしへの救済策ですの?」
「アレクシスと同等の身分は私か、もう一人の弟のアレクサンダーだ。ただアレクサンダーはまだ年も若く、アレクシスが聖職位についたからにはこれには軍を統べてもらわなければならない。とても今すぐ婚姻をという状態ではないのだ」
長男が王位、次男が軍、三男が聖職位。この次男三男の立場が入れ替わったと考えると、元の婚約と同等かそれ以上の格は国王か王弟のみ。
王弟の線がなくなれば、残るのは必然的に国王。
アレックス・ハロルド・レイランドは苦々しい表情のまま、イブリンを見やる。
「あなたには不本意だろうが、公爵夫人より上の立場をと考えた。あなたの意にそわないなら、帰国されても結構だが。もちろん、わびは充分にさせていただく」
ああ、帰国という道は残されているのかとイブリンは安堵する。
こちらが駄目だからはい、次。そんな風にはすぐには切り替えられない。できれば帰国して今後のことを考えたいのはやまやまだが。
イブリンは国王に対し、慎重に切り出す。
「わたくしのことを思いやってくださるのには感謝いたします。ただわたくしの一存で決められる話ではありません。本国の兄とも協議したいと思います」
「そうしていただくのが当然だ。貴国にも事情を記した書簡を遣わしているので、返書があるだろう」
では返書を待ってからとイブリンは客室に引き上げる。
立ち上がった国王がわざわざ扉までイブリンを見送る。
「本当に申し訳ない、幾重にもわびたい。私はあなたより年長で一度婚姻した身だ。ふさわしくないのは承知している」
「そのような。わたくしの方こそ、ラフォレーゼの王妃という立場にはそぐわないのですから」
国力の差があるので、ラフォレーゼの王弟との婚姻さえイブリンには格上だった。それが王妃となると荷が重い。
イブリンの言葉に国王は一瞬唇をひき結んだが、何も言わなかった。
あてがわれた客室でイブリンは長椅子に崩れ落ちた。緊張の糸が切れただけだと侍女をいなし、お茶を頼む。
行儀は悪いが数滴酒を垂らして一気に飲み干した。
「姫様」
「アレク殿下はわたくしとの婚儀を嫌がって、かねてからの望みだった聖職者になってしまわれたわ」
「そんな。姫様はどうなるのですか?」
「――哀れに思った国王陛下が、妃にしてくださるんですって」
投げやりに説明すればセレストの顔から血の気が引く。イブリンにとっても思いがけない話だ、侍女にとってはそれ以上だろう。
「姫様が……王妃様になるんですか?」
「どうかしら。お兄様の意向をうかがわないことには。ああ、ギーズをここに」
気を張っているが、イブリンは芯から疲れを覚えていた。ここまでは王女としての矜持で自分を保っているが、本音は泣きたくて仕方ない。
初恋の王子様はイブリンを顧みることなく去ってしまった。残されたのは婚約者に逃げられた惨めな王女だけ。
笑いものになる未来しかない、おかわいそうなイブリンだけ。
「どう、して」
語尾が震えるが、意地でもセレストやギーズの前では泣きたくないと歯を食いしばる。
ギーズはより詳しい情報を得ていた。概ね国王の説明通りだが、ずいぶん兄弟間で言い争いがあったようだ。次男が聖職位を、三男が聖職位より軍にと望んでいたのでこれ幸いとアレクシスは弟に軍の長を譲り出奔した。
ただイブリンのことも考えてほしかった。きっと国王が悪いようにはしないと思ったのだろうが、女性に降りかかった醜聞はその後もつきまとい人生を潰してしまう。
そこまでは考えが至らなかったのか。
「これは明らかに王女殿下と我が国への侮辱です。かなりの要求をしても、ラフォレーゼは従うでしょう」
「そう。持参金相当の補償か、港湾の開発費用の援助をお願いしてもいいかも」
「いえ、国の予算の二年分くらい要求してもよいと思います」
国の面子がかかっている。無茶な要求でも通るだろうとは、ギーズのほかの外交官も同意を示した。
返書が来たらまた協議ということで、やっとイブリンは一人になれた。食事をする気分ではなく、早々と寝台に潜り込むがとても眠れない。
いつもならアレク殿下の絵姿が心を慰めてくれたが、今は心を波立たせる元凶だ。
きつく目をつぶり、イブリンは枕を握りしめる。
ここは一人だ。誰も見ていない。
だから、イブリンはようやく泣けた。泣いて頭痛がするほどに、泣き続けた。