ウサギとライオン
鎖骨あたりで揺れるお下げが愛らしい女子生徒、塩原北斗は目をギラギラと輝かせながら前のめりに問う。おさげよりも揺れる胸囲に目が奪われそうになるが、見ないように努めた。
「『色々な特典』ってなにっ!? あんなことやこんなことをして貰えるってこと?!」
膝裏で座っていたパイプ椅子を弾き飛ばして詰め寄る北斗。高まる鼓動に息を荒げて、爆走寸前の猛牛のようだ。
「え?! ええと、あの……?!」
深窓の令嬢を思わせる儚さを身に纏った女子生徒、足利美南は接触ギリギリまで詰め寄られてあたふた。
そんな様子でさえ可愛くて愛しくて堪らないとでも言わんが如く、鼻息荒く壁際まで彼女をジリジリと追い詰める。
(まるでウサギとライオンのようだ……)
影も幸も薄い男子生徒、宇都宮真央は今まさに食べられようとしている美南を助けるため、パイプ椅子から重い腰を上げて、北斗の襟首を掴んで引き剥がす。
ライオンはウサギを狩るのにも全力を出すと聞くが、時と場所を選んでほしいものだ。
「ああん、もうちょっとだったのにぃ!」
「なにするつもりだったんですか……」
見ようによってはカツアゲのように映ったし、変態に襲われそうになっていたようにも見える。
「そんなの決まってるでしょ。ア〜ンなことやコ〜ンなことよ!」
「変な声出さんでください」
ア〜ンなことはニュアンス的に分からなくもないが、コ〜ンなこととは一体……。
そのまま引き摺って今一度パイプ椅子に座らせ、実南の安全を確保。
「で、足利さん。その『特典』っていうのは?」
「あうぅ……」
見てみれば、美南はいまだ壁際で涙目になりながら硬直していた。北斗相手でも、不意な急接近はまだハードルが高いらしい。
というよりは、本気で何かされると思ってしまったのだろう。北斗の飢えた獣のような目を見れば、覚悟を決めざるを得なかったのかもしれない。
(これ、もしかして二人きりにしたらヤバイことになるんじゃ……?)
美南を守るためにも、監視の目が必要だと感じる真央。そうなると当然、その役目は彼が担うことになる。
実際、合同体育などで彼が介入出来ない場面は何度もあった。その度に神が救いの手を差し伸べてくれているのか、運良く助かっている。
北斗からすれば余計な邪魔が入ったに過ぎないが。
「足利さん、もう大丈夫だから。話してくれないかな?」
「あ……ハ、ハイ……っ!」
声を裏返しての返事。
まだまだ真央に対する対応が硬い。これでも最初と比べれば幾分かマシになったと言えるが、まともな会話は今の段階ではまだ望めない。
彼女から話を引き出すためには同性である北斗の力が必要なのに、肝心の本人がこの調子なのだから先が思いやられる。
「スゥ〜、ハァ〜……山岳部って言っても、その……本格的な活動をしてるわけじゃないんです。アウトドアクラブ、程度に受け取って頂ければ……」
深呼吸で息を整えてから、美南。
ほとんど息声で音になっていないのに、しっかりと内容が聞き取れる不思議な声。内気でハッキリとものが言えない彼女にはありがたい特殊な性質だった。
もし滑舌が悪かったりでもしたなら、誰ともコミュニケーションは図れなかっただろう。
「アウトドアクラブって言われても、私そっちもよく分かんないわ。アスレチック的な?」
北斗の疑問に、即座に真央が答えた。
「近いとは思うけど多分そっちじゃなくて、野外活動だから……キャンプとかバーベキューとかじゃないかな?」
合っているか確認のつもりで美南の方へ視線を向けると、必死に目を合わせないようにしながらも小刻みに首を縦に振っていた。どうやら合っていたようだが、悪いことをしているわけでもないのに、何となく良心が痛むのはなぜだろう。
まるで小動物をイジメているような罪悪感に襲われる真央だった。
「さっきから思ってたんだけど、アンタなんでそんなに分かるのよ? 名探偵?」
「……ちょっと考えれば分かることでしょ。塩原さんが考えなさすぎなんじゃないかな」
意外な風に首をかしげる北斗に、彼は苦笑いを浮かべる。
ちょっとの言葉から正解を手繰り寄せるのは、家での日常生活で培われた彼の特技みたいなものだ。言葉足らずな父親の言いたいことをちゃんと汲み取らないと、訳も分からず怒られてしまうから。
そこで目を見開いて、北斗がはたと何かに気付く。
「って……ちょっと待って、キャンプ……? 美南ちゃんと一つ屋根の下……じゃなくて、一つテントの下でお泊まり出来るってこと……!? 想像しただけで滾ってきちゃうんだけど!」
抑えきれない興奮が、声となって吐き出される。北斗の脳内ではきっとピンク色の光景が広がっているのだろう。
「僕はテントの中で過ごさせてもらうからね」
「だからアンタは揚げ足とるなっての! ていうかアンタは外よ外! なに贅沢しようとしてるのよ」
「それはいくらなんでも酷すぎませんかね……!?」
もはや人間として見られていないような扱いだ。もちろん男子なので最初から同じテントで過ごすつもりはなかったが、テントの使用すら認められないとは思っていなかった。
「グフフ……それはそれとして、これでいよいよ〝栃木県同好会〟の活動を始められそうね。これからが楽しみだわ……!」
ニヤリと表情を歪めて楽しげに笑う。
いま彼女の脳内では早速これからの予定がどんどん組み上がっていることだろう。新たに得た山岳部という拠点の地の利を生かして、どんなことが行われようとしているのか。
楽しみ半分、恐怖半分といった心境の真央。
(いきなりぶっとんだことだけは勘弁してよ……)
まだ知り合ったばかりで長い付き合いとは言えないが、塩原北斗という女子生徒がどんな人間かは重々承知しているつもりだ。どんな人間か分かりやすくても、突飛なことを平然と思い付く子供のように、どんな行動を起こすかはサッパリ予測出来ない。
なにやら熟考していた北斗は「うん、そうね」と頷くと、二人に向かって大きな胸を張り、宣言する。
この宣言が、彼にとって死の宣告に近しいものになろうとは、夢にも思っていなかった。
「とりあえず、ゴールデンウィークは空けときなさい? ちょっと遠出することに決定したから」
「え、いや、僕ゴールデンウィークは——」
「アンタは強制参加よ」
「拒否権ナシですか!?」
「ふっ、あたぼうよ」
「ドヤ顔すな」
宇都宮家では毎年、ゴールデンウィークにはとあることを行っている。それは小さな行事として近所に知れ渡っているのだが、もしこのことを北斗に知られたら恐らく、いや、確実に、喰い付いてくる。
それはそれは引き千切らんばかりに、しつこく。
(出来れば、なんて生温い……これは絶対に隠したい……!)
だからこそ友人関係は最低限に留めてきたし、影を薄くする技術だって自然と身に付いた。おかげで幼少期から誰にも知られず、気付かれず、ここまで来れたのだ。
だが忘れてはならない。そんな彼を人混みから一発で見つけ出したのもまた、彼女だということを。
真央の意識が、ほんの僅かだけ右ポケットへ注がれたのを、北斗は見逃さなかったのだ。
「ハハァン? さてはアンタ、何か隠してるわね?」
(どうしてこういう時だけは鋭いんだ!?)
突然にやってきた境地に、冷や汗が止まらない真央。
彼女の追及からは、逃げ切れそうもなかった……。