宇都宮はジャズの街
午前の授業も終わり、お昼休みに入った。半数の生徒はお昼を食べに食堂へ向かい、残りの半数は持参した弁当を机を寄せ合わせて談笑しながら食べている。
高校生活最初の壁といえば、まずは勉強よりも先に友達作りとなるだろう。小中学校の経験から、初めに友達になった人とは結構長い付き合いになる。
つまりは最初が肝心。
——しかし、そんな空気をものともしない猛者が一人。
影も幸も薄い男子生徒、宇都宮真央だった。
(4、6、6、6、4、5、7、8、——♪)
自分の席に座り、目を閉じてイヤホンから音楽を聴きつつ、音に合わせて謎の数字を思い浮かべる。
はたから見ればただ音楽を聴いているだけなのだが、この思考は彼にとって非常に大切なことだった。
曲を聴きつつ、真央も他の生徒に続いてお弁当を取り出し、包みを開こうとしたその時——、
「宇都宮真央ぉー!!」
教室の後方にある扉を乱暴に開けて怒鳴り散らすように叫びながら入ってきたのは、鎖骨あたりで揺れるおさげが愛らしい女子生徒。
有無を言わさず彼を無理やり〝栃木県同好会〟なるものに入会させてきた張本人。
——塩原北斗。
「…………」
「って無視かーい!」
イヤホンで聴いている音楽のボリュームが大きいのか、後方からの怒号にも気付かず固結びの包みに苦戦していた。
「ハハーン? さてはアンタ、わざとやってるわね? いいでしょう……この私と根比べよ!」
本当に気付いていないだけなのだが、意地でも真央から気付いてもらいたいらしく、仁義なき戦いが今、幕を挙げた。
3組の生徒たちは他のクラスの女子が大声上げて入ってきたことに驚きつつも、校門で見覚えのある顔だったので何となく察した。
……関わってはいけないと。
「あぁっ!? あんなところに空飛ぶ黄色い鮒が!?」
窓の外を指さして、致死率40%を誇る病原菌が流行った時に偶然釣れてその身を食べたところたちまち治癒してしまったという田川に伝わる伝説の魚〝黄鮒〟が飛んでいるという大嘘を……声高々に。
ちなみにその鮒を張り子で模したものが、宇都宮市の郷土玩具で縁起物になっている。
周囲でそれを聞いていた3組のクラスメイトたちも何のことかサッパリでぽかんとした表情を浮かべていた。
これに反応できるのは恐らく彼女だけだろう。
「なんで固結びかな……」
「アンタも固結びのように頑固ね……!」
依然として気付かず妙に硬い固結びに苦戦して、用意してくれた親に文句をこぼす真央。
対する北斗もこれくらいでは諦めない。
「だったらコレでどう!?」
持ってきていたお弁当のフタをオープン。空腹を刺激するような宇都宮餃子の香ばしい香りがたちまち教室中に充満する。バランスが良いんだか悪いんだか、一つのお弁当に焼き餃子、揚げ餃子、水餃子を隙間なく詰めるという、餃子一色弁当。
「餃子が嫌いな人間はいない! この匂いで絶対に気付くでしょう!?」
「ハックシッ! アァ……さっきの移動教室ちょっと埃っぽかったからな……あそこの掃除当番誰だよまったく……」
ちゃんと掃除が行き届いていなかったらしく、埃のせいで鼻が詰まっていた。
「そのくしゃみは私が噂してるからよ! うらで堂・々・と・ねー!」
とムキなってもやっぱり真央は気付かない。
(堂々としてちゃ噂じゃない……)
この心の声は真央を除いた3組の総意である。
それどころか——、
「うわ、やっと解けたと思ったらまた固結び……!? 新手の嫌がらせか……」
「嫌がらせてんのはそっちでしょうが!?」
ようやくお弁当を食べられると思ったら、もう一つ固結びが待っていた。帰ったらわざわざ面倒な固結びにしなくてもいいと教えないとダメだなと真央は激しく思った。
しかも一つ目より明らかに硬い。正真正銘の固結びだ。
「って、よく見てみればイヤホン? 音楽聴いてんじゃないの」
ようやく彼が自分の存在に気付いてくれない理由を発見し、今までの苦労は何だったんだと落胆——は、しなかった。
「どれどれ、何を聴いてるの?」
「おわっ!?」
これ以上の小細工はもはや不要とばかりに、イヤホンの片方を奪取して耳にあてる。
途端、北斗の目はキラキラと眩しいくらいに輝いた。
「ジャズ?! アンタこんな洒落たもん聞いてるの?!」
「塩原さん!? ビックリしたぁ……」
「ビックリしたのはこっちよ! どうしてジャズ聴いてるの?!」
「どうしても何も……その、家庭の事情で」
奪われたイヤホンのケーブルを引っ張って取り返す真央だが、どうも歯切れが悪い。彼にはあまり公にはしたくない理由があるのだ。
ただ単に、恥ずかしいという理由が。
だが傍若無人を地で行くこの女子生徒にそのような事情は関係ない。
水に濡れた障子のように、いとも容易く突き破って踏み込んでくる。
「家庭の事情で高尚なジャズを聴くの?! いったいどんな家庭よ!」
「……高尚なんだ」
「あったりまえじゃない! 宇都宮市はジャズの街よ! ジャズと言えば宇都宮、宇都宮と言えばジャズ。これ常識!」
「他のクラスにズケズケ入ってきて捲したてるのも常識?」
「細かいことは気にしない! そんなんじゃ男になれないわよ!」
「男ですけどね!?」
真央という女っぽい名前を密かに気にしているのを知ってか知らずか、心のデリケートな部分を剣山でグサグサ殴ってくる。
心の修復作業と並行しながら、平静を保つよう努めた。
「それから……あまり『宇都宮』って連呼しないでもらえるかな。紛らわしいから」
「そっか、アンタも『宇都宮』だものね。じゃあ『真央ちゃん』と呼ぶことにするわ」
「よろしく北斗ちゃん」
「私が悪かったわ……」
異性から下の名前をちゃん付けで呼ばれるダメージの大きさをその身で感じ取った北斗は、間髪入れずに謝罪。女ならまだしも、真央は男なのでダメージの比率が違うことを察したのだ。
「で、何の用ですか塩原さん?」
「そうそう忘れるところだったわ! 一緒にお昼食べるわよ!」
言うが早く真央の手を掴むと、万力に負けず劣らずの力で引っ張って廊下へ連れ出す。そのまま道行く人を押し退ける勢いで、隣のクラス——つまり北斗のクラスに押し込まれると、そこには真央と同じ境遇の女子生徒、足利美南が身を縮こませて所在無さげにとある席に座っていた。
「おまたせ美南ちゃん! 一人にして悪かったわね」
「い、いえ……」
小鳥のさえずりのごとく、小さいながらも澄んだ音が耳に届く。
黒い長髪に白い肌、華奢な身体は守ってあげたくなるような儚さを有した女子生徒だ。
「やっぱり親睦を深めるには裸の付き合いか同じ釜の飯を食らうのが一番よね!」
言いつつ、三人分の机を乱暴に動かして付き合わせる。
見知らぬ人からの刺さるような視線を感じつつ、真央は流れのままに着席した。
「こういうのは『同じ食卓を囲む』って言うんじゃないかな……違う釜の飯だし」
「そうとも言う!」
真央が冷静に突っ込むが、彼女に反省の色は見えない。
「えっと……足利さん、だっけ。もしかしてこんな感じで連れて来られたの?」
「は、はいぃ!」
「お互いに災難だね……」
「いえ……そ、そんなことは……」
あはは、と引きつった笑みを浮かべて答える美南。人見知りの激しい彼女には、男との問答はまだハードルが高いらしかった。
「さぁ、楽しい宴の始まりよ! いただきます!」
両手を合わせる音が鳴り響いて、騒がしい昼食が始まったのだった。