それぞれの時間
母親と並んで立つ台所はいつも楽しい。
幼少期の、物心つく前から続けている食事の用意の手伝いはいつしか当たり前になっていて、だから母親が仕事でたまにしか帰ってこられなくなった時は少し寂しかったりもしたけれど。
こうしてまた並んで料理ができることが、素直に嬉しかった。
包丁とまな板が醸し出すリズミカルな音を母親が奏で、娘がフライパンの上で踊る食材を操る。
だが、彼女が嬉しく思うことは他にもある。
「どうしたの美南? なんか嬉しそうじゃない。いいことでもあった?」
「え? そ、そうかな……?」
内気で恥ずかしがり屋な性格がゆえ、普段は俯いてばかりの足利美南も自宅では肩の力が抜ける。
おまけに顔まで緩んでいたのを目敏く見抜いた母親は、さすがに彼女が生まれた時から母親なだけあって鋭かった。
「なんか、ウキウキしてる」
隣で野菜を炒めている娘の横顔を盗み見て、素直に感じた感想だ。
普段は自分の気持ちは心の内にしまい込んであまり表に出したがらない。というよりは、出すのが下手な子だ。
それでも表情や雰囲気に滲み出てしまうくらいに嬉しい何かがあったという証拠。
これらを感じ取れるのは、通じ合った家族だからこそ。
「ん……実はね、今日部員が増えたんだ」
母親に隠し事は通用しないらしい事をすでに学んでいた美南は、正直に語る。
手は動かして火加減をしっかりと見ながら、脳裏では山岳部でのやりとりが思い返される。
——『ようし! いい感じの演奏を聴いて気分も高まったところで、善は急げよ!』
そう言って、まさかあのあとすぐに入部届けを提出しに行くとは思ってもいなかった。
「へぇ、良かったじゃない。山岳部、だっけ? 山で遊ぶの好きだったもんね。同じ学年?」
「うん、みんな同級生だよ。クラスは別だけど」
ほんのりと嬉しげに笑う娘の顔を見て、母親として安心する。
勇気を振り絞って人の多いこの地に来ると言い出した時は心底驚いたもので心配もしたが、しっかりと人として、女の子として成長している。
時が経つのは早く、人の成長はそれ以上に早いのだなと、感慨深く感傷に浸ってしまいそうだ。
「それにね」
「それに?」
「……ううん、やっぱり何でもない」
言いかけた言葉を飲み込んで、誤魔化すためか美南は塩コショウを振りかけて味を整える。
しかしやはり、母親とは恐ろしいものだ。
「気になる人でもいた?」
「へぇっ!?」
危うく小瓶ごとフライパンに投入しそうになるのを堪え、火を止める。
「図星だ?」
「ち、違うよ! そんなんじゃないってば、もう!」
否定しながらも、彼女の脳内にはハーモニカを演奏する彼のカッコイイ立ち姿が浮かぶ。
確かに、多くを語らずともこちらの意図を汲んでくれるし、優しいし、顔は……うん、悪くないし。
そんなことを無意識のうちに考えていたら、頬が朱に染まる。
「そっかー美南もそんなお年頃かー。お母さん応援しちゃう!」
「だぁから違うって言ってっぺぇ〜!」
恥ずかしさのあまり訛ってしまいながら、否定の声を高々に宣言するのだった。
*
カランカラン。
薄暗く、しかし煌びやかな店内にドアベルの音が転がり込んでくる。
「いらっしゃ——ってなんだ真央か。おかえり」
「ただいま父さん」
影も幸も薄そうな少年、宇都宮真央が自宅へと帰宅した。
彼の実家は自営業でバーを経営している。店内BGMには心安らぐジャズの音色が湧き水のように溢れ、満たされていた。
「いつもより帰りが遅いじゃねぇか。何かあったのか?」
「ああ、それなんだけど……」
真央はカウンターに腰掛けて、今日のこと、そしてこれからのことを話す。
「部活入ることになっちゃった」
「なっちゃった? なんだそりゃ」
息子の微妙な物言いに首を傾げながらも、グラスを磨く手は止まらない。
そんな父親の立ち姿を素直にかっこいいと思いつつ、続ける。
「いろいろあってね。それで……ゴールデンウィークに何かやるらしくって、もしかしたら演奏会参加できないかもしれない」
「おう、そうか」
「『そうか』って……いいの?」
てっきり、なに勝手に決めてんだとか怒られるかと思っていただけに、この反応は拍子抜けだった。
ゴールデンウィークには近所の人が集まり、店内に設置されたステージで歌ったり演奏したりするのが通例となっていたのだ。
中でも真央のハーモニカは目玉となっており、楽しみにしているご近所さんも少なくない。
「いいも何も、お前はもう高校生だろうが。俺があれこれ面倒見るのは中学までって決めてたんだよ。自分で判断したことなら、俺から言うことはねぇな」
「……そう」
少々ぶっきらぼうな物言いだが、これが彼を思っての言葉だということをよく知っている。
「ま、強いて言えば? 真央とセッションできないのが残念だがな?」
「……なんかメチャメチャ動揺してない?」
よくよく見てみれば、グラスを磨いていると思っていた手には何も握られていなかった。エアー磨きをしていた。
「童謡? 新しいジャンルに挑戦か?」
「……それも面白そうだね。けどそうじゃなくて、なんか焦ってない? ってこと」
「んなわけねぇだろ。これはアレだ、ほら、アレ」
アレアレ言っていて進まないので、適当に助け舟を出してやることにした。
「武者震い?」
「そうそれ!」
それなのか。
「つまり父さんは一人でステージに立つのが怖くて震えている……と」
「父さん一人だとあがり症なんだよ……」
「否定してよ」
とにかく、懸念材料であった部活の話はあっけなく了承を得た。
ひとまずは、胸を撫で下ろしたのだった。
*
自室で一人、ムフフと危ない笑みを浮かべる少女が一人。
未来へ思いを馳せると、楽しい笑いが堪えきれない。
「さぁて、ノッてきたわよ〜!」
塩原北斗は、みっちりと書き込まれたノートと地図を交互に睨めっこ。
そのノートには、彼女が大好きな栃木に関する情報が詰め込まれていた。
「二人とも地元以外のところは行ったことなさそうだし、行くならまずは定番の日光かしら……」
栃木の観光名所である日光。
徳川家康を祀った日光東照宮に二荒山神社などが有名で、どちらも世界遺産に登録されている。
夫婦杉と呼ばれる夫婦円満を祈願できる木があったり、他にもゆばなどが有名だ。
「とは言え、ここからだとちょっと遠いかしら? ……いずれ行くとして、まずはもっと行きやすい所のほうがいいわよね」
自分が猪突猛進、傍若無人な性格ということは重々承知している。それで人を散々振り回して、突き放されたことは幾度となくある。
今度ばかりは、同じ轍を踏まないように気を使わなければ。
「私も高校生になって成長したってことかしらね!」
〝栃木県同好会〟に勧誘した二人は例のごとく強引が過ぎる方法だったのだが、すでに記憶の彼方に置き忘れてきたようだ。
「やっぱりまずは宇都宮近辺かしらね。アイツが知らないようなのをチョイスしてやるわ。美南ちゃんにも喜んでもらえるところにしなきゃ!」
本当ならば連れて行きたいところ、紹介したいところなどありすぎて絞りきれないが、まずはメンバーに合わせて計画を練っていこう。
最初が肝心。ステップアップを意識して。
「ま、こんなもんかしら。本番までにいくつかジャブを挟めばバッチリね!」
〝栃木県同好会〟としての活動予定を練り終え、満足げな表情を浮かべる北斗。
栃木県のことを少しでも理解してくれる人がいてくれれば、それだけでも嬉しい。
同好会のメンバーが、その足掛かりになってくれればと切に願うのだった。