ポケットにジャズ
強く鋭い意思を感じさせる瞳と、周囲の目を惹きつける胸囲を持った塩原北斗は、その瞳でもって彼の僅かな挙動の変化を見逃さなかった。
一挙手一投足を捉え、人の本質を見抜く彼女の眼は右ポケットをかばうような動きを見逃したりするほど落ちぶれていない。
「ハハァン? さてはアンタなにか隠してるわね?」
「別に何も隠してなんかないよ」
〝栃木県同好会〟メンバー第1号の宇都宮真央は、隠し事など心外だとでも言わんばかりに平然と答える。
彼に揺さぶりを掛けてみた訳が、思った以上に落ち着いた態度。だが、これは逆に怪しい。
なぜなら、次の言葉を待っていても目を合わせようとせずにただ黙秘を続けているからだ。
(これは何かあるわね。私の直感がそう告げているわ!)
——愛郷心の塊のような人。
以前彼は北斗のことをそのように評価したが、何者にも勝るその愛郷心によって育てられた特殊な嗅覚が猛威を振るう。
(臭うわね……何を隠しているのかしら?)
絶対なる確信を持って一歩を踏み出すと、彼もまた一歩分後ずさる。
一歩、また一歩。
気付けば彼の背後には壁が迫り、これ以上は逃げられない状況へと追い詰められる。
「塩原さん、近い近い! 急にどうしたのさ?」
「ほ、北斗さん……?」
絹のようにきめ細やかな黒い長髪に白い肌、内気な性格で人見知りな足利美南もまた、彼女の謎の行動に首をかしげる。
思い返してみれば、美南もつい先ほど彼女に壁際まで追い詰められた。ア〜ンなことやコ〜ンなことをしようとしていたと言っていたが、まさか彼にも同じことをしようとしているのかと疑ってしまう。
真央がそうしてくれたように、自分も間に入って助けた方がいいのだろうかと悩んでオロオロする美南。
しかし歩み寄る〝勇気〟はあっても、踏み込む〝勇気〟はまだ持てていなかった。
もちろん北斗にそんなつもりはない。ただ純粋に問い詰めて事の真偽を確かめたいだけ。
「この私に隠し事なんて通用しないわよ。栃木に関する事ならなおさらね」
「って言われても心当たりが無いんだけど……」
強情に知らぬ存ぜぬの姿勢を貫くが、強引の化身と言って差し支えない北斗には通用しなかった。
相手は男子であるが、反撃などしてこないと彼女は確信していたし、だからこそ手を伸ばすことができる。
「そう、あくまでシラを切るというけ。……ならば強硬手段を取るまで!」
「うわっ?!」
「北斗さん?!」
一瞬の隙を突き、体当たりをするように真央を壁へ押さえつけると、スリもビックリの手際の良さでポケットからひた隠しにしようとしていた〝何か〟を引っ張り出す。
「何これ?」
彼女の手に握られているのは、布製のメガネケース。手から伝わる感触や重さ、形状から中にあるのはメガネでないことは明らか。
直方体の、箱か何かのように思える。
案の定、真央からの反撃もなく、盗られてしまったことにより諦めもついたのか、顔に手を当てて落胆していた。
「中見てもいい?」
「……お好きに」
ここまでしておいて今更それを聞くかと思わずにはいられない真央だったが、破天荒でハチャメチャで、どうしようもない人だったと改めて認識していた。
常識があるのか無いのか分からない、手の付けられないような人——それが塩原北斗だと。
(それなのに、不思議と怒る気にはならないというか……憎めない、んだよね)
天性の底抜けた明るさが、負の感情すらも照らして寄せ付けないのか。
一応中を見ていいか確認をしたり、先ほどの体当たりだって明らかに手加減をしていてちっとも痛くなかったし、彼女は彼女なりの気の使い方というものがあるのだろう。
「それじゃ失礼してっと」
布の口を開けて、中身を手の平へ落とす。
中から出てきたものは、真っ黒くて普通の物より少し大ぶりの、
「……ハーモニカ?」
「だよ。正確には『クロマチック・ハーモニカ』って言う」
本体には1〜12の番号が振られた穴があり、横には『スライドレバー』と呼ばれるボタンが付いている。押し込みながら演奏すると半音が出るという便利な代物。普通はボーカルとハーモニカ、ギターとハーモニカのように、ハーモニカはおまけのような印象があるが、彼が持っているクロマチックは単体での演奏に特化した少し特殊なものだ。
「へぇ〜。ちょっと吹いてみてよ!」
「出た……それ言われるから隠したかったんだよ……」
絵が描ければ「アレ書いてコレ書いて」と言い、三つでお手玉が出来れば「四つでやってみてよ」と言い、とにかく〝出来る〟と変に期待される。
彼はこれがひどく苦手だった。
「別にいいじゃない、ちょっとくらい。それにイヤなら持ってこなければいいだけの話でしょ?」
「まぁ、そうなんだけど」
北斗の弁はごもっとも。さらに言ってしまえば、そもそもそういった物を持ってくること自体あまりよろしくはない。影も幸も薄いため、誰も気に留めなかったからこそ今までバレなかっただけ。
「何か聞かせてくれたら、黙っといてあげてもいいわ。美南ちゃんも聞いてみたいわよね?」
「えっ? そ、そうですね。でもムリに——」
「ほら、美南ちゃんもああ言ってるし、さっさとやったほうが楽になるわよ」
「あぅ……」
強制させるのも気が引けるので、やんわりと引き止めようとした美南だったが、あっけなく撃沈。
ささやかな頑張りは嬉しいが、その気持ちだけありがたく受け取っておく。
「何かって漠然と言われても分かんないんだけど」
「だから別に何でも——いや、それなら〝栃木県の歌〟をリクエスト!」
「〝栃木県の歌〟って、『とちぎ〜けん我らの〜、我ら〜のふる〜さと〜』ってやつだっけ?」
音楽の教科書の最後のページに載ってたことを思い出し、さらに帰り道に〝栃木県の歌〟を大音量で流しながら走行する車を見かけたことも同時に思い出す。おかげで音程は頭に入っていた。
「そう! まさにそれよ! 知らないって言ったら頭突きかましてたわ!」
「せめてもうちょっと品のある攻撃にしてくれないかな……」
どうしてこうも野蛮な行動ばかり取ろうとするのか理解に苦しむ。見てくれだけは悪く無いのに、言動で色々と台無しになってしまっている。もったいないと思ってしまうのは、何も彼だけではないだろう。
「栃木県の歌ね……」
ハーモニカで演奏したことなどないが、どこを吹けば何の音が出るかは全て把握している。難しい曲でもないので音程を理解していれば難なく演奏できるだろう。
彼は脳内に帰り道で聞いた音を再生しながら、それをそのままハーモニカに乗せる。ここは音楽室ではなく部室棟にある山岳部なので音量は控えめにして。
「おおぉ」
と素直に感心する北斗。
「……かっこいい」
と本音が漏れる美南。
音の強弱にビブラート、ベンドという技法も駆使して、徐々に何てこともない県民の歌だったものに随分とオシャレなアレンジが施されていく。終盤に差し掛かる頃には、バーで流れていても遜色ないものへと変貌を遂げてしまった。
「ふぅ……ま、こんなもんだよ」
演奏が終わってそそくさとハーモニカをケースへしまいポケットへ。たった二人の観客の、何とも言いがたい表情を盗み見て、いたたまれない気持ちになる。人前で演奏することに抵抗はないが、それは見ず知らずの人に限られる。
知っている人に聞かれることがこんなにも恥ずかしいことだとは思わなかった。
今後の教訓にしつつ、微妙な空気をどうにかしようと口を開きかけたその時、北斗が先に口を開いた。
「人は見かけによらないとはこのことね! やっぱりアンタは旅のお供には必要かも!」
なぜならば、ハーモニカにはどこでも簡単に演奏できるという強みがある。渋い音色とテクニックが合わされば、それはまさに——ジャズ。
宇都宮市はジャズの街と言われている。
彼は無自覚のうちにそれを見事に体現していた。
晴れて〝栃木県同好会〟メンバー第1号の宇都宮真央は、ツッコミ兼BGM担当に任命されたのだった。