東京駅八重洲バスターミナルの抱擁
「なんとか間に合うんじゃないか?」
「そうだといいんだけど」
「乗れないと帰れないだろ。走るぞ」
そう言うと、タカアキはユキコの荷物を代わりに担いで、おもむろにユキコの手を取って走り出した。地下鉄の駅へ降りる階段を飛び降り改札を抜け、銀座線のホームへと向かう。発車間際で閉まりかけた電車のドアにタカアキは身を挺して突っこみ、ユキコの手を引き車内へなんとか滑り込ませる。
「ふぅ、これで間に合うよね」
「うん、よかった」
いきなり走ったから息を切らしているが、これでなんとか間に合うだろう。危ない、危ない。気をつけないと。
ユキコの心臓はドキドキしていて、一向に静まる気配がない。急にタカアキに手をつながれて、え?って思ってしまったのと、こんな風に自分を引っ張ってもらうことが少し嬉しくて、どうにも落ち着くことができないでいた。
つながれた手はまだ握られたままで、なんだかとっても恥ずかしい気がする。でも、この手をずっと離したくない。そんな矛盾した気持ちが、しばらくの間ずっと続いていた。
ユキコは、週末、都内で開催された企業向けコミュニケーション研修に出席するため北陸、福井から出てきていた。
複数の企業から出席者は集められていて、参加者の多くは各企業の営業系を中心とした中堅社員だった。ユキコの場合はまだ新入社員で会社からの参加は職位的に認められていなかった。それでもなるべく早く前線で活躍したいという思いから上司に嘆願し、目に掛けてくれてくれた上司の計らいで費用は特例で会社もち、ただし交通費と宿泊費は自腹という形で参加していた。
期間は半年、その間都内に合計で7回足を運ぶ必要があった。当然ながら、往復の交通費や宿泊はばかにできない金額になる。
研修がスケジュール通りに終わって、お金を出しさえすれば新幹線と特急を乗り継いでその日のうちに帰ることは可能だった。
夜7時に終わって、8時過ぎの新幹線に乗れば間に合うことは知っている。一番初めにはそうやって帰ることを選択していた。
でも終わりの時間が30分伸びると結構ギリギリになったりするし、場合によっては帰れなくなるというリスクが高いと思っていた。
だから、もう少し時間に余裕のある高速バスを使うという選択は、翌日早朝に到着してそのまま仕事に出るという辛さを除けば、まぁ、考えられないことはない選択肢になっていた。
東京駅から出る夜行の高速バスは、新幹線より3時間ほど遅い出発時刻となるため、2時間以上の余裕ができる。
その時間で、研修後、他の参加者と帰りに飲みにいったり食事をしたり、というつきあいに使うこともできるからだった。だから、2回目からは夜行の高速バスで帰るように予定を組むことにしていた。
研修は毎回2日間みっちりと行われ、土曜日は朝10時から夜8時まで。日曜日は朝9時から夜7時までとなっていた。今回の研修は夜7時半に終わり、参加者有志で8時から懇親会と称して研修センター近くの居酒屋で飲み会が行われていた。ユキコは夜行の高速バスにして、この懇親会に出ていた。本来なら10時半には上がらないといけないのだが、つい話し込んでいて気づかず店を出たのは11時直前になっていた。なんとか間に合いそうな電車に乗り込めたのは、同じ研修仲間で歳は少し離れた上のタカアキが気づいて連れ出してくれたからだった。
銀座線の京橋駅で降りて、地上を東京駅八重洲口まで歩いていく。夜11時を過ぎるとこのあたりは人通りが少ない。本当のギリギリというわけではなかったが、ほぼギリギリの時間で地下鉄移動が出来て、あとは徒歩で高速バスの乗り場へ向かうだけ。やはりこういう状況ではほんの数分の違いでも心の持ち方に違いが出る。
やがて、東京駅八重洲口の高速バスターミナルへ二人して辿り着くと、まずはホッと一息ついて二人して並んでバスを待つことにする。
「なんだかさ、こうやってると遠距離恋愛の人達みたいだよね」
「え?」
「ごめん、僕じゃユキコの彼氏には見えないか。ははは」
「そんなこと……ないと思うけど」
何気ない一言にユキコはちょっと複雑な表情を浮かべて、じっとタカアキの顔を見つめていた。
予約済みのチケットはある。バスはもうすぐ入ってくるけど発車までにはまだ少し時間がある。
車内で飲み物がいるんじゃないかと気を利かせたタカアキが、ペットボトルのお茶をカバンの中から取りだして1本手渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ねぇ、なんでタカアキさんって、そんなに優しくしてくれるの」
「え?僕はまぁ、ユキコちゃんの事を見送りたいから」
「でも、途中で抜けてきちゃうでしょ」
「うん」
「それでいいの」
「一人で帰るのってさ、何となく淋しそうだし、何だか申し訳ないって感じがするんだよね」
「そうなの……」
ユキコは知っていた。タカアキは本当は別の女の子が気になっているということを。
それでも、毎回ユキコのことをこうして東京駅まで見送りにきてくれる。
この人はきっと誰にでも優しい。私だけに優しいわけじゃない。
(でも……)
どこかで、何かのきっかけでスイッチが切り替わったりしないだろうか?
それを望んでいけないということもないだろう。
「あのね」
「なに?」
「来月なんだけど」
「どうした?来れないのか」
「ううん、スケジュールは大丈夫なんだけど、ちょっとお金が厳しいのよね」
「そっか。毎回毎回、結構交通費だけでも結構かかってそうだしね」
「あと土曜日の宿泊も。来月はいつもの安いところがもういっぱいで取れなかったし」
「そうなんだ……じゃあさ、うち泊まる?」
「え?」
「あ、変な意味じゃなくって、ひとりぐらいならうちでも泊めてあげられるし」
「どうしようかなぁ……」
言えばきっとこの人は自分でなんとかしようと動いてくれる。
たぶん、泊まっていけと言うだろう。そこまでは予想していた。
ユキコは自分で話を振ったわけだが、まさか本当にそんな簡単にタカアキがそういうことを言い出すとは思っていなかった。
渡りに船、きっとそういうことだろう。
「あ、じゃあ、気が向いたらでいいから。別に強制はしないし」
「え?」
「ユキコが泊まりたかったら泊まっていいよ。一応泊まれるようには準備はしておくから」
「そうなの、ありがとう」
「返事は後でいいからさ。お金無かったり困ってたらちゃんと言うんだよ」
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えて泊めてもらうことにするね」
バスが入って来るまでのほんの数分の間の会話。お互いがどう思っているなんか、本当のところはわからない。でも、何故か毎回タカアキはユキコのことを、こうして東京駅まで見送りに来るのが習慣になっていた。
高速バスがバス停に入線してくるアナウンスがあり、乗客が少しずつ並び始める。ざわざわとした雑踏の中、別れの時間が近づいてくる。
それ以上の会話をする間もなく、北陸方面行きの高速バスがバスターミナルに入ってきた。バス停に並んでいる乗客は、この日さほど多くなかったので、ユキコは最後の最後までバスに乗らずに待っていたが、最後の乗客になったところで名残惜しそうにバスに乗り込む時間になった。
「じゃあ、またね」
「うん、気をつけて。なるべくゆっくり寝て、明日の仕事に備えてね」
「わかった。タカアキさんも気をつけて帰ってね」
「うん、まぁ僕はズルしてタクッて帰っちゃうけど……」
「ごめんなさい。仕事忙しいのに」
ユキコは知っていた。タカアキは普段寝る時間が殆どないぐらい仕事をしているということを。
この時間だって早めに自宅に帰れば貴重な睡眠時間になるはず。そのくらいは知っていた。
だから、こうしてわざわざ時間を割いて自分の見送りに来てくれるタカアキには、ある意味申し訳ないと思う気持ちもあった。
「いや、好きでやってることだし、気にしなくていいって」
「ありがとう。こうして送ってもらえないと淋しいから……ほんとありがとう」
タカアキは一瞬どうしようかと迷ったもの、ユキコの体に腕を回してそっと引き寄せ、軽くハグをしてこう言った。
「来月、待ってるからね……」
突然タカアキに抱きしめられて、一瞬ビクッとしたもの、この状況でタカアキに身を委ねるのも悪くは無い。ユキコはほんのりと頬を染め、小さく、うん、と頷いてタカアキの胸に顔を埋めた。
(このまま時間が止まっちゃえばいいのに……)
高速バスのターミナル係員から「もう出ますよ」とやんわりと言われるまで、ほんの数十秒だけの別れの挨拶。名残惜しそうにユキコはタカアキの腕から自分の身をするりと抜け出して、高速バスの入口ドアのステップを上って行った。
今のは別になんていうことはない、ただの挨拶なんだよね。研修の中で外国人の先生が時折ハグをするのが、そういえば最近同じ研修を受けている仲間同士でも見よう見まねで流行っていて、たまに男女でも気兼ねなく欧米風のハグを冗談まじりにするようなことがあったり。きっとその延長線であって、別に特別な意味があるわけじゃないんだと。でも、そう言い訳じみたことを思いながらも、タカアキにハグされる、というのはユキコに取っては初めての出来事で、ほんの少しだけ心がときめいてしまった。新幹線の最終でホームで抱き合うカップルは見たことがあるけれど、バスターミナルだとさすがにそれは目立つ行為だったかもしれない。
ユキコがバスに乗り込んでバスの中ほど左側窓際に座るのを見届けると、タカアキは外から手を振ってバスの出発を見送った。高速バスが出た後で、タカアキはタクシー乗り場へ小走りに移動し、タクシーに乗り込む。八重洲口のロータリーから出て行くバスの後ろにタカアキの乗り込んだタクシーはついていき、信号が青になってしばらく行った先でタクシーはバスを追い抜いていった。
タクシーに乗るタカアキは、前を行く高速バスを右から追い抜いたので、バスの左窓際に座るユキコの姿は確認できなかった。それでも、無事にユキコがバスに乗り帰っていく姿を確認してから、自らが帰宅の途につくことが出来て満足だった。
「たいへんだろうけど、頑張れよ」
タカアキは高速バスで帰るユキコに心の中でつぶやいて、見えないだろうとは思いながらタクシー車内からバスに向かって手を振って別れの挨拶を送っていた。