下
「兄貴、あいつ銀行へ飛びこみましたよ。」
「見ればわかる。」
伊沢は苛立っていた。ことが段々と大きくなっていく。それが彼を追い詰めていくのだ。当初は、港の倉庫の中で、すべてが終わる手筈だった。それが、今では野次馬と警察の幾重もの輪の中央に乗り込まなくては、ことが済まなくなって来ているのだ。あの金は、どうしても取り戻さなくてはならない。しかしどうしたらいいのか。たいした策もなく、伊沢たちはとりあえず銀行を囲む野次馬の群に近づいていった。
「伊沢の兄貴。」
彼を呼び止めるものがいた。組長に脅かされて、必死に金と伊沢を探していた銀次であった。
「やっとお会いできましたね。兄貴。組長がエライご立腹ですよ。」
伊沢は返事をしなかった。
「三和のおじきから、金を返すようせっつかれているようです。明日の昼までに戻せなかったら、戦争が始まります。とにかく、金を組の金庫に戻してください。」
「俺は、持っていない。あのチンピラと一緒に銀行の中だ。」
「何言ってんですか伊沢さん…。」
「うるせえ。金の在り場所はわかってんだから、あとは取り返すだけだ。心配するな。」
「心配するなって言ったって…。何が何でも金を取り戻してくださいよ。兵隊がもっと必要なら…。」
「要らねえ。俺たちだけでやる。必ず取り戻す。」
「そうですか…。組のためにも組長のためにも、くれぐれもよろしくお願いします。ああ、それから港北署の服部さんが早速事務所にやってきましたよ。取り返す前に捕まらないよう充分注意してくださいね。」
「わかった、明日の昼までには戻ると組長に伝えとけ。」
そう言うと、伊沢たちは心配顔の銀次を残して銀行に近づいていった。
『服部刑事が事務所に来たとなると、組長と何か取引したな・・・。』
長年の付き合いで二人の間柄を知る伊沢はすぐさま感じ取った。服部刑事を探そう。彼に。銀行内に入れるように段取ってもらおう。伊沢は、服部が居る筈の現場の最前線へ急いだ。この俺様が、あんなチンピラにてこずらされているなんてざまはない。早く、けりをつけて女でも抱きに行こう。しかし、倉庫で会った時から気になっていたんだが、あの憎しみに満ちた鋭い目。あの目はどこかで会った気がする。伊沢はそれが誰だったか必死に思い出そうとしていた。
「俺がこの銀行に来たのは、金を盗りに来た訳じゃない。ただこの金を振り込みたかっただけだ。」
津山は怯えた瞳で彼を見つめている人質達に話しかけた。
「この中に、銀行の職員はいるか?」固まったままで誰も答えようとはしなかった。
「黙って協力してくれたら、何もする気はねえよ。」
津山の語りかけにも、しかし人質たちの反応はなかった。
「なんだよ、俺は客だぞ。客の言うことがきけねぇのかよ。」
「お客さんは、手に銃を持って、車を玄関に突っ込んで来たりしないわ。」
はじめて口を開いたのは、麻里である。
「なんだこの銀行は、客を差別するのか。」
津山は苛立って多少語気を荒げた。
「本当に誰にも手を出さないと約束してくれるなら・・・、僕がやります。」修が立ち上がった。
「修ちゃん。何てこと言うの。こんな奴お客さんじゃないのよ。」
「えッ、そう・・・。すみません。やっぱり止めます。今の僕の発言は聞かなかったことにしてください。」
麻里の剣幕に押されて彼はそのまま座ってしまった。
「男が一度口にしたことを取り消すもんじゃない。ほら…。」
津山は、金の入ったアタッシュケースとともに、三枚のメモを修に渡した。黄の指定した口座、健二から頼まれていた彼の母親の口座、そして妹の恵理子の口座であった。麻里の顔色を伺っていた修は、やがてすまなそうに目を細めると振り込み作業の為に、カウンターの奥へ移動した。仕方なく、麻里も彼のあとを追った。
残りの人質たちは、手持ち無沙汰になりロビーの中央に集まって少しずつ会話を始めた。
「ところで、おじさん。あたしたちが突っ込んできた時に、ここで何してたの?」
野崎が福島に問いかけた。
「自分ですか?自分は、ここで銀行強盗をしていました。」
「あらま…。」
野崎は、あらためて福島を眺めまわした。彼からはマシンガンやろうと違って、到底そんなワイルドなことができるよな殺気は感じられない。
『銀行強盗に、マシンガン野郎か・・・。今、こいつら一網打尽にしたら私も一躍有名人になれるのになぁ。』
津山と福島を見比べながら野崎はそう考えた。
「子連れで、銀行強盗ですか?」
今度は中川が会話に参加してきた。
「いや、あんた等が飛び込んできた騒ぎにまぎれて、こいつがここに飛び込んできて・・・。」
福島は、彼にしがみつく息子を優しく見つめて答えた。
『信じられないな。銀行強盗になっても、おとうさんが大好きなんだ。』
そんな親子を眺めながら中川は思った。
ほどなくすると、麻里と修が振り込み作業を終えて、戻ってきた。麻里は、津山に残金の入ったバックを返しながら,
「終わったわよ。」
「サンキュー。ところで、今何時だ。」
「ちょうどお昼の十二時よ。」
麻里が行内の時計を見て答えた。
「教官、港北埠頭まで車でどのくらいかな?」
「邪魔がなければ、車で飛ばして、三十分くらいかしら…。」
「そうか。まだ時間があるな…。みんなには悪いが、しばらく、ここで時間調整する。何か欲しいものがあれば外にいる警察に頼んでやるぜ。」
「馬鹿言ってるわ。私たちの一番の"欲しい"は、あなたにさっさとどこかへ行っちゃって欲しいってことなのに。」
「さっきからおまえ…。本当に気が強いな。あんたを嫁さんにしたら大変だろうな。」
「余計なお世話。」
麻里の口調に、津山も押され気味だった。
人質たちは銃口を向けられるストレスは無くなったものの、まだ解放されない自分たちの境遇をあきらめて思い思いの場所に座り込んだ。
「麻里ちゃん。僕は、一度だって大変だって思ったことないよ。」修が小声で言った。
「ありがと。」
「…そんなことより、何もできなくてごめんね。」
「いいのよ。誰かみたいに、部下を置き去りにして、自分だけ逃げなかっただけで、十分嬉しいわ。」麻里は優しく応えた。
「くしゅん!」
銀行前の喫茶店に仮設で設けられた対策本部である。支店長は、くしゃみをしながら取り囲こむ警官に向かって、状況報告を行っていた。
「失礼・・・。ですから、私が支店長室で部下と話してた時です。窓口の方で誰かの大きな叫び声がしたなと思ったら、部屋に拳銃を振りかざした男が踊りこんできて、部下ともども人質に捕られてしまった訳です。ああ、ありがとうございます。」
支店長は、警官から水を受け取ると、震える手で飲み干した。
「言われるままに金を渡して、とにかく犯人を早く銀行の外に出すのがこういう時の対応マニュアルなんですが…。職員の一人がぐずぐず対応したものだから、皆さんが銀行に着く方が早くて、籠城ということになってしまったんです。」
服部は、話を聞きながら、その職員は修に違いないと確信した。
「ところで、あとから車で突っ込んできたのは仲間なんですか?」
対策本部長が支店長に聞いた。
「いや、とにかく混乱に乗じて逃げるのが精一杯だったんでなんともわかりません。」
『混乱に乗じて、部下を置き去りかよ。』
取り巻くすべての警官がそう思ったものの、口に出すものはいなかった。
話を聞いて、対策本部は状況分析にますます戸惑っていた。とにかくこんな事態を想定したシミュレーションはなかったので、すべての行動を本庁に問い合わせ、了解を受けなければならない。それが、この現場に集う警察官の職を守り、退職後年金をつつがなく受け取る最善の方法である。しかし、服部にはそれによって生じる対応の遅れが、なんとも我慢できなかった。
『キャリヤは、ひとより余計に頭に金をかけてもらってるのに、その頭の使い方を知らない。』
娘を人質に捕られたこの現場で、あらためて思いしらされた。いたたまれなくなって、対策本部を出た。こうなったら少しでも娘に近づいていた方が役に立ちそうだ。現場の最前線に向かった。野次馬をかき分けて進むうちに、ひどく薄汚れたスーツ姿の男達に目をとめた。伊沢とその舎弟であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。
『なんでこんなところに奴らが・・・。』
服部は、昇竜組が追っているもう一人の男がどこにいるかを理解した。
めったに拭き掃除をしない黄の店の壁に、唾液混じりの血が飛ぶ。床にもんどりを打った黄の顔は、見る影もなく腫れ上がっていた。
灰色のコートを身に纏った、どちらかといえば痩せぎすの男は、黄の奥襟をつかみ、引き上げるともう一度椅子に座らせた。
「だから、私何も知らない…。」
必死の訴えにかまわず、灰色の男は黄の利き腕を取って指を掴むと、鋭くねじ上げた。小指と薬指が鈍い音を立てた。二つの指は、根元からひし曲げられ、あらぬ方向へ向いていた。
「ぎゃーっ!」
黄の叫び声で、彼の店に並ぶ輸入雑貨が震えた。それから灰色の男は何もしゃべらず、ただ黙々と、黄の指を折っていく。ついに、黄はその痛さに耐えられず、すべてを話した。しかし、灰色の男は、それでも指を折ることを止めようとはしなかった。すべての指が折られ、そして最後に彼の脊椎が折られ、叫び声すら出なくなった時点でようやく止まった。
男は、あたかも、動かなくなったおもちゃに飽きた子供のように、床に崩れた黄に見向きもしないで店を出て行った。
銀行の外も薄暗くなり始めていた。パトカーのライトが回りの建物に反射して目立つようになっていた。くるくる回る赤色のライトのあわただしさは、警察のあわてぶりを象徴するようだ。それに比べ銀行内は、対策本部での混乱とは裏腹に、落ち着いていた。
人質たちは、津山が見える範囲の場所で、自由な姿勢でくつろいでいる。もっとも、津山も人質たちを監視してる風でもなく、愛読書のコミックを読んでいた。やがて愛読書を閉じると、津山が突然人質たちに問いかけた。
「なあ、今なら銃も人質も居るんだから、外の連中は何でも言うことを聞くぜ。何か叶えて欲しい願いでもあるか?」
今度も一番に反応したのは麻里である。
「こんな時に何言ってんのよ。」
しかし津山は、麻里の非難にはとりあわず言葉を続けた。
「いいから…。この際だから、意気がらないでお前から言ってみろよ。」
そう言われた麻里は、修と顔を見合わせた。ふたりとも父親のことを考えたが口には出さなかった。他の人質たちも、それぞれ心に描いたが、口に出すものはいなかった。
「なんだよ。みんなシカトかよ。」
津山は大きく伸びをしながら言葉を続けた。
「俺は、腹減ってるから、何か食い物を持ってきてもらおうか…。」
「あの…君たちが突っ込んで来る前にピザが運ばれてきましたよ。どっかにあるんじゃないかな。」
福島が答えた。その父の言葉に太一が、瓦礫にまみれたピザを見つけ出し、津山の元へ持っていった。
「ありがとうよ、ボウズ。」
津山は持っていたコミックをお礼に渡すと、ピザに付いたほこりを払いもせず、口の中をじゃりじゃりいわせながら、ピザをほうばった。
「お兄ちゃん。とうちゃんの足を元通りにしてくれるようにお願いができるかい?もとの強いとうちゃんに戻してくれるかい?」
ピザを口に放り込む津山を見ながら、太一が真剣な眼差しで言った。
「とうちゃんの足か…。とうちゃんの足がああなっちゃったのは、神様のせいなんだよ。とうちゃんにもっと強くなってもらおうとして神様が出した宿題だから、外にいる人間達ではどうにもできないな。」
太一は、津山が言っている意味が良くわからず、あきらめて父親の元へ戻っていった。 ピザを平らげた津山は、銀行内をあちこち歩き回っている野崎に気づいた。
「おい、教官さんよ。うろうろして何してんだよ。銀行のものには手をつけないでくれよ。全部俺のせいになっちゃうんだから。」
野崎は、確かに銀行内をうろつきながら、金目のものが落ちてはいないか物色していた。目当てのものは、見つけられなかったが、そのかわり別なものをしっかり腹にしまいこんでいた。福島が持っていた拳銃が転がっていたのだ。教習車との接触で福島が飛ばされた時に取り落としたものだろう。福島も事態の急転に動転してその所在を忘れているに違いない。野崎は津山に注意されて、慌ててもとの位置に戻った。
急に外が騒がしくなった。
『銀行にいる。あなたと話がしたい。』拡声器を手に、港北署の対策本部長が今度は銀行内の津山に語りかけた。
『あなたは、もうお解かりだと思うが、この銀行はもうアリの隙間もないほど警察官で包囲されている。しかし、あなたは銀行強盗犯を含む幾人かの人質を確保している。その人質が無事でいる限り、あなたの方が優位であることは、ここに集まっている全警察官が認めている事実だ。だから、まず冷静になって欲しい。』
『お腹がすいては、これから大切な話もできないだろう。これから、ピザの宅配便をそちらに送る。』
「ピザはもう十分だ。他のものにしてくれよ!」冷めたピザを全部平らげ、硬いチーズにうんざりしていた津山は、外へ向かって大声で叫んだ。
対策本部は、明かに狼狽していた。津山がピザを断ってきたからだ。では寿司にするのか、カツ丼にするのか、本庁へ確認を取るのに、右往左往している。
『だからキャリヤはだめなんだ・・・。』服部は、進まぬ人質解放に明らかに苛立っていた。彼のストレスは、ピークに達していた。
「服部さん。」
呼び止める声の主が伊沢とわかると、服部は一瞬身構えた。彼は、腰のガンベルトのホックを外すと、銃に手を置いた。
「だんな、そう力まないでくださいよ。どうしても、話したいことがあるんですよ。」
「俺には用はない。」
「まあ、そんなこと言わずに・・・。」
と、伊沢は、服部を人目のない所に導いた。
「伊沢。港の倉庫では派手な宴会をやってくれたな。」
服部は会話の主導権を握るべく、さらに高飛車になって続けた。
「お前のところの親分もだいぶ困ってたぞ。それになにか失くしたみたいで、取り戻すために子分たちが目を血走らせて飛び出していった。でも、どうやらお前たちが追っかけているものはあの銀行の中にあるようだな。」
「服部さん。さすが察しが良いですね。ならば話が早い、お願いがあるんですけどね。鉄砲玉一人出すんで、警察の包囲網に穴をあけてあの銀行の中に行かせてくれませんかね。なに、あのチンピラを動けなくして、預けているアタッシュケースを取り戻すだけですから。」
服部は、伊沢の本心を測るように、じっとその目を覗き込んだ。
「いや実は俺にしても、あの銀行の中で大切な娘が人質に取られてるんだ。よりによってなんでうちの娘が取り残されたのか…。父親としては、心配で食事も喉を通らない。ところがお偉いさんたちは、相談してるばかりで、いっこうに動こうとしない。」
「お嬢さんは必ず無事に助け出します。約束しますよ。」
服部は、しばし押し黙って伊沢の申し出を思案しているようだった。やがて彼はわかったと口に出す代わりに、俺について来いと銀行の方向を顎で指した。
伊沢は、そばの舎弟の一人に目を移した。
「牧田、行って来い。」
「えっ、俺ですか?」
「二、三年くさい飯食ったら、あとはお前も金バッチだぜ。」
脅しとも、励ましともつかない伊沢の言葉に送られて、鉄砲玉は電気椅子に誘導される死刑囚のように、硬い表情で服部のあとについていった。
「言っておくが、犯人をどうするのかはお前の勝手だが、娘が怪我しないようにたのむぞ。」
服部は歩きながら牧田に言った。
「それからメガネを掛けた男の銀行員が居るはずだか、…。」
『ついでにそいつも殺してくれ。』という言葉を、危ういところで飲み込んだ。
伊沢は銀行へ向かう二人の後姿を目で追いながら、さっきの服部の言葉を繰り返してつぶやいた。『娘…。そうか、妹だ…。』
津山と会って以来今まで、ずっと気にはなっていたことが、何であったかやっと思いあたった。彼は、もう一人の舎弟に耳打ちすると、舎弟は頷きながら銀行から離れていった。
銀行の外は、すっかり暗くなっていた。
「仮免。車好きなのか。」
津山の問いかけに、中川は視線を床に落としたまま答えた。
「いえ、別に。ただ父が取れと言ったから…。」
「なんだよ。そんな歳になって、まだ親父の言いなりか。親父がパンツ脱げって言ったらその通りにするのか?」
中川は彼の下品な物言いに答えず、視線は床に落としたままだった。話しかけてもいっこうに目を合わさない中川の様子に、業をにやして津山は続けた。
「仮免。ひとつ教えてやるぜ。喧嘩は、相手から目をそらした方の負けだ。目をそらすということは、自分はあなたに到底及ばない人間ですって認めた証拠なんだぜ。」
「僕は喧嘩は嫌いですから。」
「それでも、やらなくちゃならない時があるんだよ。」
津山は、妹を守りきれなかったそう遠くない昔を思い出した。いやな思い出を振り切るように、津山は中川をいじり続けた
「仮免。そんなんじゃ、お前はまだ童貞だろう。」
「よ、余計なお世話ですよ。」
「女の抱き方も知らないんじゃないか?」
今度は中川も返事をしなかった。
「まあいい。今度しっかりと女の口説き方と抱き方を教えてやるから…。ところで仮免。頼みがあるんだが。」
津山は中川に近づき、小声で言った。
「俺に、妹がいてな。妹に手紙を書きたいんだけど、どうも字が苦手で。口で言うから、書いてくれるか?」
中川は、仕方なく言われるままにカウンターのボールペンとメモを取った。津山は、ゆっくりと語り始めた。
「とうちゃん。僕たちどうなるの?」太一の問いに福島はやさしく答えた。
「だいじょうぶだよ。すぐ帰れるから。」
「帰ったら、もう何処へも行かない?とうちゃんがいないと、変なやつが家にきて、かあちゃんを苛めるんだ。」
福島は黙って答えようとしなかった。『許してくれ、太一。』彼は、それをどうしようもできない自分を恥じながら、心で手をあわせた。この足さえなんともなければ、銀行強盗などしないで済んだのに。この足さえ無事なら…。返事もなく煮えきらない父の反応に、太一は不満顔で、福島から離れてロビーの中をうろつき始めた。
野崎は、腹に硬い銃を感じながら、一人で思い悩んでいた。彼はもちろん人を殺した事はない。ましてや、銃など触った事すらない彼が、はたしてマシンガンを持つ、犯罪者を制圧できるだろうか。実際、マシンガンを持つ若者はそんなに凶悪でもなさそうだし、このままじっとしていれば無事に解放してくれるとも言っている。
しかし一方で、これは千載一隅の好機ではないかと、こころを煽る自分がいた。外に群がる報道陣。テレビを通じて全国民がここでの成り行きを注目している。この舞台で、偶然手にしたこの拳銃。火力こそマシンガンに及ばないが、うまく使えば彼は一躍ヒーローになれる。あのマシンガン野郎を、この拳銃で制圧し、人質たちを先導して颯爽と銀行から出てくる自分の姿が、全国の津々浦々に映し出される。その姿は、身震いするほど美しいに違いない。きっと、きっとそれからの自分の人生は変わる。あのいけすかない大家のボロアパートから脱出するチャンスだ。野崎の強い自己顕示欲は、彼を動かすもう少しのところまできていた。
「麻里ちゃん。少し顔色悪いけど、大丈夫。」修が握っている手を緩めて麻里にいった。
「大丈夫よ。ちょっと気分が悪いだけ。」
「もう少しの辛抱だよ。外で僕らを助けようと、麻里のお父さんも必死になってると思う。きっと、助けてくれるよ。」
「そうね…。」
麻里は気分が悪いのは、人質になっている緊張感からだけでないことを修に告げようか迷っていた。
「お姉ちゃん大丈夫?」太一が麻里に近づいて言った。
「だいじょうぶよ。」
麻里は、優しく太一の頭をなぜながらひざの上に座らせた。そんな二人を眺めていると、修は心が和むのを感じていた。麻里は、修の視線を感じて少し照れながら言った。
「なによ、修ちゃん。」
「麻里ちゃんは、きっと良いお母さんになると思うよ。」
「…実は修ちゃん。こんな時になんだけど、2カ月前から生理が止まってるの。」
意外な言葉に、修は凍りついた。麻里は修の目の中に、喜びとか、不安とか、諦めとか、何かいろいろな感情が混ざった光を見た。
「とうちゃん。生理が止まったって何?おねえちゃん病気なの?」
太一の声にロビー内は騒然となった。全員が、麻里と修を取り囲むと、好奇の目でふたりの説明の言葉を待った。しかたなく、修が身繕いしながら立ち上がった。
「僕たちは婚約してるんです。もっとも彼女のお父さんには反対されてますけどね。結婚式もまだの二人ですけど、たった今僕たちに赤ちゃんができた事がわかりました。死ぬほどうれしいです。」
「なんだ。お前たちはできてたのか。道理でそばを離れないと思ったよ。」
津山のことばに続き、人質たちは口々にお祝いの言葉を述べた。
「なによ、おとなしい顔していて、やることはやってるのね。」
下卑た笑いで言ったのは野崎である。彼は、マシンガンで頭を小突かれて黙らされた。
「お前ら、そういうことなら、無理は禁物だ。ふたりでここを出て体を休めろよ。そして、とにもかくにもご両親に報告しなきゃ。」
津山のいたって常識的な言葉に、麻里も修も驚かされた。
「いや…、解放していただくのは麻里だけで結構です。」
「修ちゃん、なんてこと言うの。」
麻里が驚いて修に詰め寄った。津山が不思議に思って修に問いかける。
「折角解放してやるって言ってるのに…どうしてだ?」
「まだ、結婚の許しも得ていないのに、赤ちゃんができたなんて言ったら麻里のお父さんにその場で射殺されちゃいます。あ、言い遅れましたがお父さんはここの所轄の刑事さんなんです。だから、たぶん動員されてこの銀行の前にも居ると思うんですよ。」
それまで話を聞いていた中川が話に割って入ってきた。
「とりあえず彼女を送っていったらどうですか。とにかくお父様に会って、赤ちゃんができた事を伝えてさ。まさかこの群衆の中ですぐ射殺はしないだろうから。そして、銀行に戻ってくれば事が終わるころには少しは冷静になって話を聞いてくれるかもしれませんよ。」
「こんな事を自分が言うのもなんだけど。父親の先輩として言わせてもらえば、やっぱり赤ちゃんの事は父親になったあなたの口から直接伝える。それが父親になる男のけじめってやつじゃないかな。」
ロビーの皆は、福島が銀行強盗であったことも忘れ、彼のもっともな意見に頷いた。
「わかりました。そうします。」
修は麻里の肩を抱いて、立ち上がる彼女を優しく支えた。
恵美子は、遅い夕食を取りに職員食堂へ行った。テレビでは、相変わらず銀行の様子を報道している。昼間仕事に集中していた彼女は、この事態が単なる銀行強盗事件ではなくなっている事に気づかずにいた。
画面がにわかに騒がしくなってきた。どうやら、銀行から人質が二人出てきたらしい。女性の肩を抱いて、男がやさしく寄り添いながらゆっくりと歩いている姿が映し出される。ニュースキャスターは、絶叫していた。
二人は、警察に保護されると画面から消えていった。しかし、程なくすると男だけまた出てきて、銀行に向かって歩き出していた。
『何があったのだろう。』
ニュースを見る恵美子も不思議に思って、しばしキャスターの言葉に耳を傾けていた。その時、不意に男が彼女のテーブルの前に現れテレビの視界を遮った。
「あんた、津山恵美子さんかい?」
男は、恵美子が最も嫌い恐れる人種の匂いがした。それは、また彼女に過去の悪夢を思い出させた。
仮設本部は、銀行から出てくる二人の姿を見て騒然となった。麻里の肩を庇うように、修が寄り添っている。
保護できるところまで来ると、ぐったりした麻里には毛布があてがわれ、婦警に介護されながら対策本部へと導かれた。もちろん服部も真っ先に駆けつけ、父親らしく麻里を抱きしめたのは言うまでもない。
修は、自分に矢継ぎ早に発せられる質問を手で制した。
「彼女の具合が少し悪くなったので、人質犯にお願いして連れて出てきました。ただしその条件は、私が何もしゃべらず、もう一度人質として銀行に戻る事です。みなさん、ご理解ください。」
「しかし…」
それでも食い下がる対策本部長に構わず、修は服部に向き直り言った。さあ、これこそまさに正念場だ。彼は生唾を飲み込んだ。
「こんな場所でお話する事ではないのですが、麻里さんのお腹には僕たちの赤ちゃんがいます。さっき銀行の中で僕も知りました。だから、犯人に麻里さんだけ解放してもらえるようにお願いしたんです。」
「なんだと、貴様言うに事欠いて…。」
「では、銀行に戻ります。」
服部の怒声がくるぞッ。修は言うだけ言ってきびすを返すと、急ぎ足でスタスタと銀行へ向かった。
「待てお前どうしても戻るつもりか。」
服部の言葉が彼の襟首を捕らえた。
彼は振り返りもせず言った。
「犯人との約束ですから…。」
正直彼は、マシンガンを持って中で待つ津山より、服部の方が恐ろしかった。彼は今にも、背中に銃弾が打ち込まれるのではないかと、とてつもない恐怖と戦っていた。しかし、彼の背中を叩いたのは服部の意外な言葉だった。
「必ず無事に帰ってこいよ。俺の孫が父親なしでは困るからな。」
野崎は、警察や報道関係者に囲まれる麻里と修の姿を見ながら、また妄想の世界へ迷い込む。
『野崎さん。人質解放について一言お願いします。』
彼は、報道陣に囲まれヒーローインタビューされる自分の姿が目に浮かんだ。彼の強烈な自己顕示欲は、いよいよ彼を酔わせた。
『野崎さん。あなたの偉業に、いま総理大臣から電話が入っています。』
あるはずもないマスコミの声が聞こえた。
やがて、修が戻ってきた。顔を上気させて外の様子を語る修を見ながら、野崎の妄想もついにクライマックスに達した。彼は立ち上がると、ゆっくりと津山の方へ進んでいった。もちろん津山と他の人質たちは、修の話に聞き入って、そんな野崎の動きに気づかない。
津山まで後一歩のところまできた。あとは、銃口を津山の後頭部に突きつけて、こう言うだけだ。『お遊びは、これまでよ。』
しかし、酒に酔っている人間にありがちなことだが、足元に転がるちょっとした突起物に気がつかず、とんでもなく大げさにぶっ倒れることがある。妄想に酔っている野崎もこの例に漏れず、津山まで後一歩の所で、小さな瓦礫につまずいて前につんのめった。津山と人質たちの上にかぶさるように大げさに倒れ込んだのだ。それは、銃声がしたのとほぼ同時の事だった。放たれた銃弾は、津山のこめかみをかすって銀行の壁にめり込んだ。野崎が、倒れこまなかったら、この銃弾は津山の額の真中を通過していた事は間違いない。
銃声は、銀行を取り巻く半径500mの範囲を氷つかせた。しかし、静止する屋外とは対照的に、銀行内は壮絶な戦いが繰り広げられた。
かろうじて初弾は避けられたものの、野崎の倒れこみで、津山は銃を床に取りこぼし、反撃に転じるのに少々時間が必要になった。津山に銃弾を放ったのは、服部の手引きで、銀行内に忍び込んだ牧田だ。
彼は、初弾のしくじりを後悔する間もなく、反撃に手間取る津山の様子を見て取ると、第二弾を打ち込むべく、カウンターの上に飛び乗って、津山に照準を合わせる。しかし、ここからだと、テーブルに隠れてうまく狙えない。彼は床に飛び降りた。
「とうちゃん。あいつだよ。家に来てかあちゃんを苛めてるのは、あいつだよ。」
太一はそう叫ぶと、果敢にも牧田に襲いかかった。たかが子供の攻撃だったが、それは津山の反撃を準備するのに十分な時間を提供した。津山の銃口が牧田を捕らえた時、ふたリは相手の目を見据えたまま動けずにいた。津山がその引き金を引けなかったのは、牧田の左手が、太一の襟を捕らえており、右手の銃口が、太一の額に定められていたからだ。
「なんでこのガキがここにいるのか知らないが、この際どうでも良い。その銃を置かないとこのガキの頭が吹っ飛ぶぞ。」
牧田の脅しに、福島はパニックになった。銃を向けられているのは、彼の息子で津山とは何の関係もない。津山は自分の命を守るために躊躇なく銃を撃つだろう。そうなれば、自分の息子は…。福島は、利かない足を引きずってもがいた。
しかし、津山は一度福島の顔を見ると、ゆっくりと銃を床に置いたのだった。福島が驚いて彼の目を見た。
『あんたの息子を俺ごときの命の代償にはできない。』と言っていた。
福島は、自分を恥じた。赤の他人でさえ自分の息子を守ろうと命を張っている。自分はいったい何をしているんだ。自分への怒りがそのまま息子の命を脅かしている牧田へ向けられた。片足が思うように動かない。じゃ、残りのもう一本の足はどうだ。両手はどうだ。首は、胴体は。今自分の体で動くところでできる事はないのか。
勝利を確信した牧田は津山に言った。
「やっと観念したか。ここまでお前には振り回されていたが、これで終わりだ。お前のようなチンピラが組を相手に舐めた真似したら、どう言う結末になるかわからせてやるぜ。」
牧田のミスは、何も言わずに引き金を引かなかった事だ。牧田の勝利宣言が終わった瞬間、彼は意外な方向から攻撃を受ける事になる。にじり寄っていた福島が牧田に踊りかかったのだ。片足は利かないものの、そこは長年重い荷物の上げ下ろしで鍛えた上半身。福島は、太一と銃を持つ牧田の両手首を押さえるとねじ上げた。
「うおっつ。」
牧田の叫びと、彼の肘が外れる音が一緒に聞こえた。牧田はあまりの痛さに、失神した。勝負は一瞬でついた。
マシンガンを取り上げた津山が、福島の力技に見入ってしまった。
「おっさん、すごいな。」
おもわず彼の口から出たが、太一にいたっては、恍惚としたまなざしで自分の父親を見つめていた。
『やっぱり、とうちゃんは強い。強いとうちゃんが戻ってきた。』
太一は、津山が願いをかなえてくれた。強いとうちゃんを戻してくれた。そう思って疑わなかった。実は、福島自身もこんな芸当ができたことが信じられなかった。自分はこんなに強かったのか…。失った、たったひとつのものに心を痛めるばかりで、残っているものの力を見失っていたのか。
牧田の銃声で、いよいよ対策本部も腹を決めたようだ。外の動きがあわただしくなった。じわじわと包囲網が狭まっている。今にも、特殊部隊が飛び込んできそうな気配だ。
「教官、助けてくれてありがとよ。よし、いくぞ。」
「えっ、まだ一緒に行かなくちゃだめなの」
野崎の声は裏返っていた。
「仮免。今度は北埠頭だ。思いっきりいこうぜ。教官、道案内頼むぜ。それじゃみんな、元気でな。」
中川の思いっきりよく踏み込んだアクセルに反応して、教習車はまたタイヤの焼ける匂いを残し、銀行の入り口から弾け飛んでいった。続いてパトカー三台が、教習車の追走に飛び出した。
その直後、警察の突入が行われた。真っ先にロビーに現れた服部は、床に倒れこんでいる男が、修ではなく牧田であることを確認すると、ひとまず安心した。修の姿を認めると、どちらからともなく二人は握手をした。修は、津山たちが来る前と今では、どうしてこうも違うのか不思議でしょうがなかった。まるで津山達が、自分たちに赤ちゃんを運んできて、修と麻里の願いを叶えてくれたのではないかとさえ思えた。そんな感慨に浸る修に、ねぎらいもなく支店長の声が飛ぶ。部下を置き去りにして自分だけ逃げた負い目など微塵も感じていないようだ。
「それで、金はいくらやられたんだ。」
「いいえ。一銭も…。彼は、自分が持ってきたお金を振り込んだだけです。」
「なんだ。それじゃ帰り際に、毎度ありがとうございますって言った方がよかったかな…。」
そう言うと、あわただしく支店長室の中に消えた。
「とうちゃん。」
警察に引かれる福島に、太一はすがった。
「大丈夫だよ。かならず帰ってくるから。」
「帰ったら、また大きなトラックを買おうね。」
「おいおい、とうちゃんは脚が利かなくて運転できないよ。」
「僕が代わりに運転するよ。」
「…そうだな。とうちゃんだって、トラックに荷物を積むことはできる。」
そう言いながら、福島は頼もしそうに太一を見た。失ったものは、たかが脚一本。彼はそのことにようやく気づいたのだ。一番大切なものを失わず、守る事ができた自信は、彼を呪いから解いた。風のようにやってきて、風のように去ったあの若者は、いったい何者だったんだろう。福島は彼らが去った後をいつまでも見つめていた。
やくざ相手と違って、パトカー相手のカーチェイスは、津山たちにとっては過酷なものになった。相手は、町を熟知し、本署をセンターとして無線で繋がり、巧みな連携で1台の車を追い詰める。1台また1台と先回りしたパトカーが、津山たちの車の行く手を阻む。何とかかわせたとしても、それは彼らの追走車となり、その数を増していく。
ここまで、なんとか逃げおうせているのは、野崎のナビゲートと、荒唐無稽な中川のドライブテクニックのお陰だ。とにかく、野崎の指示する道、いや空間に中川は躊躇なく突っ込む。路面が階段であろうと、海まであと数センチの埠頭の縁であろうと、それが家の玄関であろうと。
パトカーは公道で犯人を追い詰める訓練は受けていたが、さすがに民家の庭に車を乗り込んで犯人を追跡した経験はない。いつも、あと一歩のところまで追い詰めるのだが、教習車は意外な抜け道を発見して逃れていく。
このカーチェイスの映像は、ヘリを持つ報道機関を通じて全国へ提供された。最初は抵抗するものの、ほどなく警察の機動力に、なす術もなく追い詰められていく犯人の姿は、視聴者もよく目にする。しかし、ここまで巧みにすり抜けていく犯人は珍しい。
最初は交通機動隊に痛い目にあっているドライバーたちからの心の変化であった。しかし、いつしか報道映像は、全国の視聴者に痛快なエンターテインメントを提供する娯楽映像と変わってきていた。視聴者はもはや、津山たちの車がどう逃げおおせるかに多大な期待を持つようになった。中にはおおっぴらに彼らを応援するものさえ現れた。
しかしながら、空からのヘリコプターが、追走に加わったとニュースキャスターから知らされた今、誰しもがもうこれで逃げきるのは難しいと感じた。
教習車の窓から、空を見上げて、明かに警察と思われるヘリが追走している事を確認した津山も、そのことを痛切に感じていた。車自体も、無理な運転で傷を負い、もうボロボロである。あちこちがへこみ、異音とともにボンネットからわずかながら煙さえ見え始めている。逃がし屋が言っていた出港までの時間もあとわずかな今、北埠頭へたどり着くことは至難の業である。
「おい、教官、仮免。これまでかな。」
「諦めるのは、まだ早いわよ。」以外にもそう言ったのは野崎だった。彼は、中川に右手にあるビルを指し示すと、車を地下の駐車場へ入れるように指示した。
教習車は、らせん状のトンネルを幾重にも旋回して、地下の一番深い階へと沈んだ。
警察のヘリは、獲物を見失い慌てていた。地上のパトカーは、ヘリが現れた事によって安心し、無理な追走を緩めていた。もちろん、報道ヘリも津山たちを見失った。全国の視聴者の前で、教習車は忽然と消えたのだ。パトカーは、ヘリの指示で最後に見失った地点へ集結する。
「ここで、車を乗り換えるのよ。」
野崎が、地下駐車場で叫んだ。
「でも、乗り換えたところで出口には警察がいっぱい待ち構えてますよ。」
中川が言い返すと、
「いや、この駐車場は職員しか知られていないけど、緊急時に使用する車両用エレベータがあるのよ。それは、別の出口に通じている。」
と自信ありげに答えた。
野崎の言葉に、津山は、すばやく反応した。津山が、そばにあるパジェロの窓を割りドアロックを解除。そして、ハンドル下から、コードを引っ張り出すと、2本を選び出して、接触させた。車のエンジンはなんなく唸り声を上げてスタートした。まるで、映画を見るような津山の手口に、中川はただ見ほれるばかりだった。
始動したパジェロに、乗り込もうとした野崎と中川を制して津山は言った。
「ここまでで、十分だ。いままで危ないまねさせてすまなかった。謝るよ。ありがとう。」
津山の言葉に、二人はとまどった。最初は、マシンガンを抱えて飛び込んできた若者に怯えた。やがてこの若者がむやみに人を傷つける殺人鬼ではない事がよくわかってきた。いやむしろ、やり方に問題はあるものの、弱きを助ける気持ちのいい若者である。さまざまな事態と難関を3人で共有していくうちに、妙な共感が芽生えてきていたのも事実だった。
二人は、津山がいろいろなものから追われている事はよく理解できた。彼が一体何をしたのかはよく知らない。しかしそれが、市民を傷つけるような社会的な犯罪ではない事も、うすうす理解していた。この若者はどこに行こうとしているのか。できることなら行かせてあげたい。二人はいつしか、大きな興味と薄紅色の期待をこの若者に抱いていたのだった。
目を覗きあってお互いの気持ちを探り合っていたが、口火を切ったのは中川が早かった。
「ちょっと待ってください。約束が違います。」
「何の約束だ。」
「銀行で、僕に女の口説き方と抱き方を教えてくれるって、約束したじゃないですか。」
「こんな時に何言ってるんだよ…。わかった。いいか。仮免はなんでも口で言おうとするから言いたいことが言えなくなるんだ。惚れた女に会ったら、まず目を見つめてみろ。お前が欲しいって口で言えなくても、目が自然に言いたいことを言ってくれる。簡単だろ。さあ、わかったらさっさと教官と…。」
野崎は、すでにパジェロの運転席に座っていた。
「これから先は、時間との勝負よ。道に詳しい私の運転しか、時間に間に合わせる方法はないわ。さっさと行きましょう。」
ついに、津山も諦めて車に乗り込んだ。
『なんだよ。いまさらそんなこというなら、最初から運転してくれれば良いのに。』
中川は、後部シートに乗り込みながら野崎に非難の眼差しを送ったが、彼は気づく様子もない。またもや自分の台詞に酔いしれていたのだ。
パジェロが、緊急用エレベータを使ってビルを離れた時は、出航の時間まであと十分と迫っていた。パトカーが、地下に乗り捨てた教習車を取り囲んだのは、彼らが駐車場をあとにした五分後である。
野崎は、北埠頭まで最短の道を選択した。通常では考えられない短時間で到着したものの、時計の針は6時を5分過ぎており、船はすでに舫を解いて出航していた。遠くに船影は見えるものの、航行する船に泳いで追いつけるわけもない。途方にくれる津山の背中に、声をぶつけてきたのは、中川だった。
「マシンガンさん! あれに乗ればまだ追いつくよ。」
埠頭に繋がれているモーターボートを発見した中川に促され、津山は突進した。しかし、突然、ボートへの道に、グレーのコートを着た男が立ちふさがった。鼠である。この男が彼らの行く手を阻むまぎれもない敵であることは、三人ともすぐさま感じ取った。そして、その人物が実に強敵である事は、その後すぐ思い知ることになる。鼠は巧みなカンフーの脚さばきで、まず津山の顔面に後ろ回し蹴りを食らわした。津山は、マシンガンを打つ間もなく跡形もなく吹っ飛んだ。さらに、津山に迫る鼠に、果敢にも野崎と中川が飛び掛った。中川は、裏拳、野崎は肘うちをそれぞれ食らって簡単に地面に叩きつけられた。鼠は津山に近づき、指先を握ると、大好きな遊びをはじめた。骨がきしみ、ついには折れる音が、鼠は大好きだったのだ。ねじ上げられた指に津山が叫び声をあげた。中川は初めて食らう裏拳の破壊力に、まだ動けないでいた。それでも野崎はようやく地面から這い上がり、銀行で手に入れた銃を、懐から取り出した。銃口を鼠に向けた。
「離すのよ!」
鼠は指先の力を緩めた。しかし、野崎との二メートルあまりの間合いをひとっ飛びで縮め、簡単に銃を叩き落とした。野崎が返す手刀で再び地面に叩き付けられたのは言うまでもない。野崎が動かなくなったことを確認すると、鼠は口元に笑みを浮かべながら津山に近づき指を締め上げた。遊びの再開だ。
遊びに熱中する子供は、注意力が散漫になるが、鼠は津山を弄びながらも、地面に崩れる野崎と中川のふたりへの注意は怠らなかった。しかし、彼の背後から近寄る第三の影を、彼は気づくことができなかった。影は、太いパイプを振り上げると、鼠の後頭部めがけて一気に振り落とした。さすがの鼠も予想外の攻撃のダメージは大きかった。反撃の機はここしかない。津山は、ふらつく足を踏ん張り、鼠の顎めがけて、マシンガンの柄を思いっきりはらった。顎の砕ける音がした。返す力でマシンガンの柄を今度はひざめがけて払った。今度はひざが砕ける音がした。鼠はそれでもふらつきながら、敵を見定めるために上体をおこした。津山は残った力のすべてを振り絞って、マシンガンの柄を鼠の顔の中央に叩きこんだ。鼻が潰れる音がした。鼠は、遠のく意識の中で、自分の骨が砕ける音に聞きほれていた。
津山は、鼠が動かなくなったことを確認すると、地面にへたり込んだ。そして、ようやく反撃の機会を与えたくれた第三の影の正体を知った。
「健二、お前生きてたのか!」
「兄貴。俺、倉庫で目がさめたら誰も居ないんで、兄貴に見捨てられたかと思ったよ。」
「倉庫でいくら呼んでも動かないから、てっきり死んだかと思ったぜ。」
津山は目に涙を浮かべて健二を抱きしめた。健二の片腕は、包帯でまかれ三角巾で吊られていた。
「そんなことしてないで、早くボートへいくのよ。」
地面から立ち上がってきた野崎と中川は、この二人やり取りが理解できずにしばし呆然と眺めていたが、遠ざかる船を思い出した野崎の叫びに、全員がボートに向かって走り出した。
「ところで、どうやって動かすんだ?」
ボートのそばにやって来た津山の嘆きに、最初にボートに飛び乗ったのは中川だった。父の友人にボートのオーナーがいた。以前海に遊びに行き彼のボートに乗せてもった時、その始動の仕方を見て覚えていた。その時も、彼の父親は仕事に忙しくて同行していなかったことは言うまでもない。
エンジンがうなり声を上げた。
「さあ、早く兄貴。ボートに乗ってくれ。」
健二が叫ぶ。
「お前はどうするんだ。」
「俺は、まだ組にも警察にも顔が割れていないから、田舎に戻ってかあちゃんとひっそり暮らすよ。」
しばし、健二を見つめていたが津山だったが、健二の髪をくしゃくしゃになぜると意を決してボートへ進んだ。
しかし、津山はボートに乗り込む最後の一歩を阻まれることになる。今度立ちふさがったのは、ひとりではなく三人。正確には、男ふたりと捕らわれた女ひとりであった。
「妹を残して行くなんて冷たいんじゃないか。」
今度彼らの行く手を阻んだのは、伊沢たちであった。
「おい、津山。おとなしくマシンガンと金を渡しな。」
最悪な事に、伊沢の手には、彼の妹恵美子が捕らわれていた。伊沢は恵美子の首元に銃を突き立てて話し続けた。
「しかし、お前らがあの時の兄妹だったとはな。俺も思い出すのに苦労したぜ。」
小刻みに震える津山。野崎も中川もかって見たことのない彼の険しい顔を見た。まさに野生の狼のようだった。
「今度の事はまさか、あの時の復讐のつもりか。確かあの時は、お前は妹を守れなかった。今度はどうかな。」
津山のこめかみの血管は大きく膨れ上がり、目は野獣の力を失ってはいなかった。しかしその本能が示す力とは裏腹に、マシンガンとケースは力なく地面に落ちた。
「おいそこのぼうず。津山の銃とケースを持って来い。」
伊沢に呼ばれたのは、ボートの上で恵美子に目を奪われていた中川だ。彼も野崎も伊沢が持つムードがとてつもなく邪悪であることは本能的に感じていた。本当に、本当に妹さんが危ない。
手紙の口述筆記をして津山の妹の存在を知っていた中川は、実際に目の当たりにして、自分の想像を遥かに超える恵美子の可憐さに驚いた。青ざめて小さく小鳥のように震える恵美子を見ながら、前に何があったか知らないが、今度はこの子は絶対に守らなければならないと強く感じた。頭の中がめまぐるしく動いた。
「どうした。早くしろ。」
じれた伊沢に急かされた。今はおとなしく従うしかない。マシンガンとケース拾い伊沢のもとに持っていったが、ボートに戻る際に、舫を直すふりをして、ボートに繋がっているロープを伊沢たちが立っているハシケの柱に結んだ。伊沢たちは、戻ってきたケースに目を奪われて気づく様子もない。しかし、健二は目ざとく中川の動作を認め、その意図を悟った。
「おい、そこのチンピラ。お前がまだ生きてたとはな。やっぱゴキブリはしぶとく生き残るもんだ。動くんじゃねえぞ。おれは、そこの奴みたいに油断したりしないからな。」
不自然な格好で地面にうづくまる鼠を顎で指して伊沢は言った。これはじりじりと間合いを詰める健二への先制攻撃だった。これで、健二も動けなくなった。
全員が動けないことを確認すると、伊沢はにやけながら、ジッポウのライターで木っ端に火をつた。
「さて次は、今日の再会を祝して、お前のかわいい妹さんの顔に一生消えない思い出でも刻ましてもらおうか。」
絶望感を積み重ね、失意のどん底で相手に最後の引導をわたす。伊沢ならではの残忍な演出である。伊沢はジッポーのオイルを恵理子の顔に振り掛けると火を近づけていった。
「わーッ!」
中川大声とともに、ボートのアクセルレバーをゴムで固定してエンジンを開放した。ボートは、一気に回転数をピークに上げ沖へ飛び出していく。中川は、ボートを飛び降りた。ハシケとボートを結ぶロープは、瞬時にピンと張り、ハシケはボートのパワーに耐えられず傾いた。
ハシケに立つ三人の足が揺らいだ一瞬をついて、健二が舎弟に飛び掛った。中川が恵美子に覆いかぶさった。そして、津山は伊沢に襲いかかる。あと一メートルのところ。しかし、伊沢は反応よく銃を津山の眉間にぴたりと合わせた。津山はその場で凍りついたが、その野獣の目は力を失わず、銃口越しに伊沢を見据えた。
「おっと、俺の銃だとアシがつくと困る。」
そう言って、別な銃に持ち替えた。それは、数奇な運命を辿りながら、福島、野崎と受け継がれてきた健二の改造拳銃だった。最後に野崎が鼠に叩かれて、地面に落としたものを伊沢が拾って来ていたのだ。
眉間に当てられたこの拳銃の引き金を引かれればすべては終わりだ。しかし、津山はこんな絶望的な状態でも勝負は捨てなかった。彼はその銃口越しの視線を、伊沢からはずすことなく、じわじわと間合いを詰めていく。銃口はものを言うなと絶対的な力で津山にのしかかる。しかし、津山はそれでも言いたい事は言わせてもらう。と命をかけてにじり寄る。伊沢もいつしかその見据えられた目に押されているようだった。中川は、彼女を庇いながらも、その津山の戦いの一部始終を目撃した。この勝負早く終わらせたほうがいい。本能的にそう感じた伊沢は、今度は何も言わず引き金を引いた。
銃は、乾いた音を立てた。しかし、津山の眉間に黒い印は付かなかった。その銃口から弾が打ち出される事はなく、銃は伊沢の手の中で暴発し、彼の銃を持つすべての指を吹き飛ばした。不良改造拳銃。器用な健二の不完全な改造が、津山の命を救った。
伊沢は血だらけの手を抱えながらもがく。そして、足場を失い、埠頭から海へ落ちていった。あの出血状態で海に落ちれば、彼の血のほとんどは海に溶けてしまうだろう。まず助かるまい。兄貴を失った舎弟は、戦闘意欲を無くし、今度も健二の鉄パイプの格好な餌食となった。
津山は、まず妹のそばへ駆け寄った。妹は中川の腕の中で、振るえていたが、外傷はないようだ。
「仮免。よくやったぞ。」
津山の礼にも、中川は妹に抱きつく腕をなかなか解かない。
「誉めてやるから早く、妹から離れろ。」
「あ、すみません。とにかく無事でよかった。」
中川はいい香りを残して離れていく恵美子を名残惜しそうに眺めた。恵美子は天使のような瞳で彼に微笑を返した。
「悪いけど…、よかったって言うのは、早いんじゃない。ボートはもうどっか行っちゃたわよ。」
野崎が、ボートが残した水紋を指し示しながら言った。そう言いながらも、実際彼は、伊沢の指が吹き飛んだのを目の当たりにして、あの銃を使わないで本当によかったと切実に感じていた。落ち着いたら福島にその出所を問い詰めようかとさえ思っていた。
「そうだな。もう終わりだな。」
津山は、次第に小さくなる船影を細い目で眺めながら、初めて気弱な言葉を吐いた。
「兄貴、じゃ俺と一緒に逃げようよ。」
「いや、逃げたところで顔が割れてる俺だ。かえってお前に迷惑がかかる。お前は一人で行け。」
「じゃ、兄貴は…。」
パトカーのサイレンの音が、かすかに耳に聞こえてきた。津山は、弱い笑みを顔に浮かべながら健二に言い聞かせた。
「ひとまず警察のお世話になって、刑務所内のリンチにどれだけ耐えられるか、がんばるだけがんばってみるさ。」
昇竜組が刑務所の中にも影響力があることを彼は知っていた。
そして今度は、野崎と中川に向き直って
「本当に、ふたりには世話になったな。このケースの金は、もう必要無くなった。お前らで使ってくれ。」
「ちょっと待って」
中川が、急いで金を受け取ろうとする野崎を遮った。
「お義兄さん。」
「まて、俺はお前を弟にしたつもりはない。」
「そんなことどうでもいいでしょ。お義兄さんにさっきの気力と運が残っていれば、最後の方法がありますよ。」
全員が中川の周りに集まった。
準備は迅速に進んだ。中川と健二はパジェロの荷台から何本かのパイプを取り出すと、丈夫なシートとともに組み立て始めた。野崎は、パジェロを埠頭の端に移動すると、車からロープを取り出し、一端を車に固定しもう一方を長く引き出していった。
「なあ、これどうやって組み立てるんだ。」
ぼやく健二に、
「僕だって、ハンググライダーなんて組み立てた事無いからわかんないよ。とにかくやってみよう。」
中川は、この車に乗り換えた際に、荷台にハンググライダーの機材があることに気づいていたのだ。
「お兄ちゃん。無理しないで。こんなもの乗った事無いんでしょ。」
心配する恵美子に、
「いいかエミ。前に地獄があろうと、後ろの地獄に比べれば行く価値がある。どちみち、後戻りはできないんだ。」
最後に、健二がどこからかリヤカーを調達してきて、すべての準備は整った。いや、誰もがハンググライダーなんて飛ばしたことが無いので、これですべての準備が整っているかどうかわかるはずも無い。とにかく、思いついた事はすべてやったということだ。サイレンの音は目立って耳に届くようになった。もう、時間の猶予も無い。
パジェロの運転は野崎が担当する事になった。中川は、津山がウィングを持って乗り込んだリヤカーを支えて、スタートに備えた。
「お兄ちゃん」「兄貴」
恵美子と健二が津山に最後の声をかけた。津山は力強く頷くと、あの野獣の目を蘇らせて、自分が飛ぶ空をまっすぐ見据えた。自分が挑むものを、目をそらさず力強く見据える津山。中川はそんな彼の姿を眩しく感じた。津山は手を上げた。スタートの合図だ。野崎は徐々に加速しながら動き始めた。リヤカーも動き始めたものの津山は、大きなウィングの扱いにてこずっているようだ。大きな風を受けて、それでもウィングはその風を十分に活用できないでいた。パジェロのスピードが上がった。リヤカーがきしみ始めた。リヤカーはもうこれ以上のスピードに耐えられないようだった。いや、そんなことよりも、助走として予定していた防波堤がもう間もなく切れる。防波堤が切れた先は海。その前に飛び上がらなければ、今度こそすべてが終わる。しかし、見守るすべての観客の期待に反して、ウィングは一向に舞い上がろうとしない。もう海は目前だ。
それでも野崎はスピードを緩めなかった。舞い上がるまでウィングにあたる風の力を絶対緩めないぞ。彼は、心に強くそう決めていた。もうブレーキをかけても、陸にとどまることができない地点までくると、野崎はパジェロから飛び降りた。パジェロは、大きな弧を描いて、水面にぶつかった。パジェロに続いてロープに吊られたリヤカーが海に飛び込んできた。万事休す。しかし、リヤカーに乗っていたはずの津山はいない。津山は、最後の瞬間で高く、高く舞い上がっていたのだ。
ハンググライダーは、風を受けてぐんぐんと上昇していった。そして、十分に高度を稼ぐと、徐々に沖にいる船に向かって降下していった。初めての操縦とは思えない。
やがて、傷だらけの野崎がスタート地点に戻ってくると、埠頭の4人は誰からとなく肩を組んで、津山の飛翔を見守った。
『なんだか、不細工なカモメみたいだなあ。』中川はそんなことを思ったりしていた。
機影があまりにも遠く、はたして船の甲板に着地できたのかさえ確認することができない。しかし、ハンググライダーは、確かに乗るはずだった船の方向に消えた。
「そろそろ、俺は行くよ。」
健二がみんなに言った。包帯が巻かれていない手で、みんなと握手すると、彼は急ぎ足で倉庫の影に消えていった。
やがて、沖を眺めて立ち尽くす野崎と中川と恵美子の周りにパトカーが集結してきた。
ボロボロのボディ。そしてボンネットから煙さえ立ち上る。仮免運転中の表示と薄汚れた教習所のロゴがなければ、およそ教習車とは思えない。教習所の実技練習に精を出す教習生や教官の驚く視線を感じながら、野崎と中川はようやく長い教習を経て帰ってきた。
中川は車を停止し、サイドギアを掛け、シートベルトをはずす。
「お疲れさん。あたしの実技教習の時間はこれで終了よ。」
野崎がダッシュボードをあけると、中川の実技ノートと仮免許証を取り出して言った。確かに、長い実技教習だった。中川はノートを受け取ったものの、不思議に思って野崎に問いただした。
「教官。終了の判は…。」
「惜しかったわねえ。今、停車するときに左ウィンカー出さなかったでしょ。残念だけどもう一度ね。
麻里と修の新居のドアフォンの音がする。
「麻里。俺だ。」
服部が新婚の新居に遠慮も無くずかずかと入ってきた。
麻里は、笑いながらお茶の準備をはじめた。
服部は、居間に入ると壁の額装された新聞記事にしばし見入っていた。その記事は、長年町に巣食う地域暴力団を壊滅した服部の手柄を大きく報じている。滅ぼされるよりは、相手を潰そうと腹を決めた岡野のリークのお陰だった。服部は振り返ると言った。
「ところで修君。名前は考えたかね。」
「ちょっと待ってくださいよ。予定日はまだずっと先ですよ。しかも、エコー見ても男の子なのか女の子なのか、まだまったく判別できないんですから。」
「そうか。私は考えた。これだ。」
修は有無を言わせぬ服部の言葉に、返す言葉を失った。
「それから、このご時世だ。生まれてくる子には、大学まできちんと行かせなきゃだめだな。孫に俺のような苦労はさせたくない。ここに幼稚園から大学まで一貫した教育で子供を預かってくれる学校の案内があるんだが…。」
修は書類入れからごそごそと案内を出す服部を眺めながら、もう一度津山が車で、この家の玄関に飛び込んできてくれないものかと考えていた。
福島の公判は比較的早く終わった。しかも、未遂だったせいか、罪も軽くて済んだ。刑務所ではもっぱら上半身を使った新しい仕事の職業訓練に精を出していた。模範囚である事は、まちがいない。太一は、母親に連れられて、よく刑務所に面会に来た。この日も、太一は面会室で、津山が与えたコミックを読みながら父が出てくるのを待っていた。晴れて出所まで、そう遠い日ではなかった。
「とうちゃん。きょう学校で『アラジンと魔法のランプ』を読んだよ。」
「そうか。おもしろかったか。」
「うん。それでね、そのあとみんなに、僕は願いを叶えてくれる魔人に会ったって言ったよ。」
「みんな信じてくれたか。」
「いいや。でも、とうちゃんも見たものね。本当だよね。」
「そうだね。」
あの若者は今頃どうしているのだろう。福島は窓の外を眺めながら思った。
「おい、健二。昼にするぞ。」
棟梁の声に、健二が、カンナを削る手を休めた。荒削りの白木の、いい匂いがする。角材に腰をかけて、彼は母親に作ってもらった弁当を広げる。彼は弁当を包んでいた新聞紙に知った顔を見つけて、思わず広げて読みふけった。スポーツ面にパリ~ダカール・ラリーで、久々に日本人によって総合優勝が達成された事を大きく報じていた。
ゴールで花束に埋もれながら、嬉しそうにカップを持ちあげているナビゲーターとドライバーの写真が掲載されている。ドライバーは初めて見る顔だ。しかし、ナビゲーターは見間違うはずも無い、野崎だった。
野崎が海に沈めたパジェロ。そのオーナーが、パリ~ダカール・ラリーに挑戦し続けるドライバーだった。愛車を海に沈められた件がきっかけで、野崎と知り合いになった。ドライバーは、パトカーとの熾烈なカーチェイスで見事なナビゲートをした人物と聞いて、野崎にパートナーにならないかと誘った。ドライバーの真の目的は、全国放送されたカーチェイスのナビゲーターを広告塔にして、資金集めをしようとしたのだった。しかし、予想に反して野崎はラリーのナビゲーターとしての実力を発揮。いくつかのレースで実績を積み上げ、今回の総合優勝となった。記事の中に、世界各国のジャーナリストに囲まれてインタビューされた野崎の優勝コメントが掲載されている。今回のレースにおいて、ふたりがたたき出した驚異的なタイムについての質問に答えた内容だ。彼はドライバーを差し置いて言った。
『いいえ。パトカーに追われてば、もっと早くゴールできたんですけどね・・・。』
中川家の、いつも通りの朝である。中川の父が寝室から降りてきて、朝食が始まった。
「馨さん。きょうは、どちらかお出かけになるの。」
母親の問いに中川は、
「ええ、ちょっと友達が働いている病院へ行ってきます。」と答えた。
「最近、外出が多いんじゃないか。」
やはり父親は顔を上げずに低く言った。その威圧感は、いつも通りだ。しかし、今朝の中川は違っていた。向けられた銃口を瞬きもしないで見据えた、あの津山の強い瞳を思い出していた。おもむろに、父親の新聞を取り上げると、父の目を真正面から見据えて、
「お父さん。ちゃんと僕を見て言ってください。なにが、おっしゃりたいんですか。」と、毅然と言い放った。
父は、ちらっと息子を見ると、「いや、別になんでもない。」と、また新聞の中に埋没していった。
中川は、久々に見る父の瞳の中に揺らぐ不安を見て、父が息子を見ようとしないのは、実は息子を恐れていたからだということにようやく気づいた。
「恵美子ちゃん、お客さんよ。」
同僚に告げられて、外来受付ロビーへ急いだ恵美子の前に、中川が立っていた。
「お、お久しぶりです。お元気でしたか?」
中川は、恵美子を前にして、ちょっとカミ気味な挨拶した。人質の時とは違って、明るく働く恵美子の姿は、また彼に新しいときめきを感じさせた。恵美子は、白く眩しい制服姿で腰を折って礼を言った。
「あの節は、お世話になりました。ちゃんと御礼もせずに失礼しました。」
「少し話す時間ありますか?」
「はい、30分くらいなら。」
二人は病院の庭に歩き出すと、片隅のベンチに腰掛けた。
「あのあと、お兄さんから何か連絡は?」
「ありません。生きてるのやら、死んでしまったのか…。」
「そうですか…。」
二人は津山が飛んでいった時と同じ青い空を見ながらしばらく沈黙した。
ようやく中川が口を開いた。
「実は、今日お邪魔したのは、お兄さんから手紙を届けるように言われていた事を思い出しまして…。」
「えっ。兄が手紙を書いたんですか?」
「いえ。お兄さんの言葉を僕が口述筆記しました。」
「なるほど。」
「でも、実際手紙はここに無いんです。銀行から脱出する混乱の中で、どっかへ行ってしまって…。」
「そうですが、残念です。わざわざそれをお知らせに。」
「いえ、手紙はここには無いんですが、僕の頭の中にはあります。これから、ここでその手紙を読んで差し上げたくてやってきました。」
中川はまっすぐ顔をあげて語り始めた。
『恵美子へ。
俺は旅に出る。今度こそ帰ってこれるかどうかわからない旅だ。この港で生まれたものの、この故郷には何の未練も無い。ただ、一人残していくお前だけが心残りだ。昔、お前はすやすやと寝ながらよく笑った。その笑った寝顔が、俺の宝物だった。しかし、ある時を境に、お前の安らかな寝顔は見られなくなった。それどころか、たびたび悪い夢のせいで突然飛び起きるようになった。それは、お前を守れなかったお兄ちゃんのせいだ。
でも、安心しなさい。お前を苦しめているその悪い夢を、道連れにして旅に出るよ。きっと、俺が居なくなったら、お前の悪い夢も無くなっているはずだ。』
中川は、自分の手が恵美子の柔らかい手に包まれていることに気づいた。兄の言葉を代弁する自分を、恵美子はきっと兄であると錯覚しているのだろう。いつしか、恵美子のほほに、幾筋かの涙の道が光っていた。中川は言葉を続けた。
『恵美子。俺はお前のもとに必ず戻ってくるとは約束できない。心配ばかりかけていた俺なんか、居ない方が良い。だけど、お前の事だ。それでも寂しいといって、泣き続けるにちがいない。恵美子。明日を信じて、今日をがんばってくれ。』
『それに、もうお前は一人じゃないよ。すぐそばに、お前を大切に思い、そして守ってくれる人が立っているに違いない。その人は俺の代わりにはならないけど、きっと俺ができないことをお前にしてくれるよ。
では、元気で。そして、幸せに。いつもお前の事を思っているよ。 兄より』
中川は、語り終わって、恵美子を見た。彼女が顔を上げて、じっと自分のことを見つめていることに気づいた。涙に光るその瞳は可憐で、奥に神秘的な優しさを秘めていた。この世のものとは思えない。中川は、無抵抗にそのひとみの光に身をゆだねていた。そして、中川は心の中で手を合わせながら思った。ごめんなさい。お義兄さん。最後の方は僕の創作です。でも妹さんは、僕がしっかり守りますから。
完