上
どこの港にも、それが何であったか思い出せなくなるまで、長い時間船荷を眠らせる為の倉庫がある。そんな倉庫群の中でも、その荷はおろか倉庫自体の存在をも忘れ去られた一画。いつもは、ただ埃が静かに羽虫の死骸の上に降り積もるのが、今日だけは一群の男達の押し殺した息によって乱されていた。
男達は傾いた丸テーブルを挟み4人と2人のグループで対峙していた。丸テーブルはその対峙する男達の苛立ちで、触りもしないのにカタカタと世話しなく鳴っていた。
「金を先に見せろだと?」
口火を切ったのは4人組みのリーダー格、三和系暴力団『昇龍組』幹部伊沢。そして、それに対抗する男ふたりは、街のチンピラ、津山佑介とその弟分の健二である。
伊沢は、右の耳たぶの傷を指で触っていた。思案するときの彼の癖である。そして、舎弟に向かって微かにあごを動かした。すると、後ろにいた男が、威嚇するかのように乱暴な音をたてて、アタッシュケースを丸テーブルの上に放り投げた。舞いあがった埃が、ただでさえカラカラになっている津山と、そしてさらに若い健二の喉に突き刺さった。勢いよく開かれたアタッシュケースの中身は、札束の塊である。健二は目を奪われた。しかし、津山だけは、相手から視線を外そうとはしなかった。伊沢が一瞬たりとも気が抜けない危険人物であることを、彼はよく知っていたのだ。
「さあどうだ、どチンピラのお前達じゃ、こんなまとまった金を見たことあるまい。」
乾いた笑い声が倉庫に響く。と、一転どすの利いた大声で伊沢は叫ぶ。
「おらぁ!金を拝んだら、さっさと売り物を見せねぇかッ!」
この神経に障る高いキーの笑い声と、それに続く次の一喝のタイミングは、やはり伊沢が脅しのプロであることを物語る。津山は自分の顔に、不安の色が出てはいないか心配になった。相手の一喝に、精一杯の余裕を見せながら、津山は軽く頷いた。そして、相手に気づかれぬようにゆっくりと右手の関節を屈伸させた。
「健二。」
札の塊にこころを奪われていた健二は、津山の命令にようやく我に返る。言われるままにボストンバックを差し出したが、その指先は震え、チャックを開けるのさえも苦労していた。
最初に気づいたのは伊沢の右側後ろの舎弟であった。曇った窓から差し込む薄明かりに、ボストンバッグの中身が微かに光った。その男が腰にある銃に手をかけるより速く、津山はボストンバッグを健二からひったくり、バッグに入ったまま、中のサブマシンガンを連射した。
銃弾は、男の足を打ち抜いた。男は腰に手をやったまま後ろの壁に消し飛ぶ。津山はそのまま銃口を左に流したが、間一髪伊沢ともう一人の男は、銃弾の一筆書きをかいくぐった。
津山は初めて見るマシンガンの破壊力に酔った。両手の感覚がなくなり、火薬と混じって、肉の焦げる臭いが、うまそうに鼻に匂った。健二がしがみついて止めなければ、全ての弾を打ち尽くしていたろう。
「あにき! もういいよ。早く逃げようよッ!」
健二は涙声で叫ぶ。彼のズボンはグッショリ濡れていた。それでも彼は札束の塊の入ったアタッシュケースを引っ掴むと、いまだ余韻に浸る津山を出口へと引きずっていった。
津山を現実の世界に引き戻したのは、実は二発目の銃弾であった。弾は津山の肩の肉片を削ぎとった。足元には、顔面を血に染めた健二が崩れていた。一発目の犠牲になったに違いない。津山は横っ飛びに積み荷の陰に身を隠したが、時にしたがい銃声は一カ所から二カ所、二カ所から三カ所と増えていく。
「健二ーッ!」
津山は、倒れている健二に向かって声の限り叫んだ。しかし、その声に応えるのは乾いた銃声だけであった。
「くそーッ!」
津山は銃声に向かってサブマシンガンを無差別に連射した。銃声がひるむその瞬間に飛び出し、倒れた健二の手からアタッシュケースをもぎ取ると、そのままわずかな間口しかない窓へ身を踊らせたのだ。窓ガラスは、映画でも見るようにまだ明けきらない日の光りにキラキラと輝きながら、ゆっくりと砕け散っていった。
中川馨の朝
中川は、ちょっと憂鬱な気分で階段を降りていった。アダルトサイトを渡り歩いて、夜更かしした翌朝はいつもこんな気分だ。そろそろ二十歳にもなって童貞であることの劣等感が、彼に重くのしかかってきている。セックス以外の方法で若さを鎮めることに対する、理由のない罪悪感はさすがに無くなったものの、そんな夜の翌日は、必ずついていない事が起きるような気がしてならないのだ。
ダイニングルームに入る直前、中川は足を止めた。すえた整髪料の香りが鼻についた。やはり、朝からついていない。
「お父さん。おはようございます。」
「ああ。」中川の父親は、新聞から顔も上げずに応えた。
「馨さん。おはよう。今日は早いのね。朝から講義でもあるの。」
母親は中川に紅茶を差し出した。
「いえ。病理学の講義は午後からですが、午前中に自動車教習所へ行こうと思いまして。」
「車の免許をとるのに、貴重な時間をだいぶ費やしているようだな。」
やはり父親は顔を上げずに言った。中川の紅茶をすする手が止まった。すかさず母親は、
「仕方ないわよね。馨さんも忙しい大学の講義の合間をぬって通っているんですもの。」
と息子を救ったが、もう中川の舌は紅茶の渋さしか感じなくなっていた。
中川は父親を好きではなかった。いや、好き嫌いの対象には成り得なかったというべきか。幼い頃から父親は彼と彼の息子の間に活字や書物を挟み接していた。この二十年間中川は、父と膝をすり合わせてゆっくり会話した記憶などない。父にしてみれば、激務の毎日の中で、目を通さなければならない医学書や書類が多すぎて、息子ごときに目を向ける暇が無いといったところか。加えて父のその独特の低い声には、何とも不気味な威圧感があった。それが中川に幼い頃から絶対的な服従を強いるのである。自動車教習所の件にしてもそうだ。何も彼から頼んだ訳ではなかった。父親がやはり書物から目も上げずに、『車の免許はいつ取るつもりだ。』と、言ったのが発端である。彼にとっては父の言葉のひとつひとつが異様な重圧をともなって耳に残るのだ。
「ええ。でも仮免も取得済みですし、路上で総合までいきましたから、あと二,三週間のうちには終わりますよ。」中川は母親の差し出すパンを受け取りながら答えた。
「なに悠長なこと言っているんだ。一週間で済ませなさい。」
父親の言葉に今度は母親も何も言わなかった。中川も返事をしなかった。それでも、やはり一週間で免許は取らねばならないという事実は誰もが受け入れていた。
中川は今まで父親に与えられた課題を果たせなかったことがなかった。それは時に、中川の能力をはるかに上回る時さえあったが、彼は大きな努力と犠牲を払って何とか辻褄を合わせてきたのだ。何の為かは考える余裕もなかった。そしてそれが、いつしか習慣となり自分自身で目標を作り、取り組むという姿勢を失っていった。なぜなら、課題は黙っていても後から後から雨のように降り続くのである。
この時も中川は味気なくただパンを噛み締めながら、この新たな課題にどう対処するかを考えた。今日はやはりついていない、と思った。
服部史郎の朝
赤や黄色の回転灯に照らされて、大勢の警官や報道関係者の人間でごったがえす港湾の倉庫は、音楽さえあればちょっとしたソーホーのディスコといったところである。そんな楽しそうな雰囲気とは裏腹に、事件現場に入って行く服部刑事主任は不機嫌だった。
不機嫌な理由は、彼の娘に起因する。苦労してようやく短大を卒業させた一人娘の麻里が、先日男を我が家へ連れてきたのだ。それ以来服部は、ずっと不機嫌だった。
男は大学出の銀行マン。まずこれに腹が立った。服部自身は最高学府にいくことなくこの世界に入り、機動隊員時代から現場でたたきあげられ、難関の昇格試験も苦労の末乗り越え、ようやくこの地位までたどり着いた。定年もあと数年にひかえている。これ以上の昇格を望むべくもないが、それはそれで他人に誇れる人生だ。しかし、たいして現場も踏まない大卒達がやすやすと自分を飛び越して昇格していく現実を目の当たりにして、心の奥隅に、学歴に対する理屈抜きの嫌悪感が自然と芽生えていった。彼にとって、学歴と苦労は反意語なのだ。そして苦労とは、彼にとって美学であった。
次に気に入らないのは、何かといえば麻里の顔色を伺って、はっきりしないそのしゃべり方だ。娘に言わせれば、はにかみ屋なのだが、服部に言わせればオカマにもなれないというやつだ。その依存的な対人姿勢で、よくこの社会で生き残れていると感心せざるを得ない。これもまた学歴のなせる技なのだろう。
そして究めつきに腹が立つのは、やはり親戚以外でこの我が家へ上がり込んだ初めての男であること。しかも服部の熟練した審人眼で見る限り、その男が『男気』のかけらもない奴であったことである。それをどう説明しようと、女である娘は理解できるはずもない。しまいには彼の妻までが、『お父さんは娘が取られるのが淋しいから、そんな屁理屈をこねてるだけなのよ。』となじる始末。
今朝家を出る時、その男が今日の夜またやって来ると妻に告げられた。話の内容は服部にも察しがついた。誰がなんと言っても、あんな奴に麻里をくれてやるわけにはいかん。彼は、そうはき捨てて家を出てきたところだ。事件現場の血痕を目にすると、この血があの男のもので、今頃どこかのゴミ捨て場で野たれ死んでいてくれればいいのに、と真剣に思っていた。
「あ、おやじさん。お疲れッす。」部下の石川が楽しそうに声をかけてきた。
「おやじさん。ひさびさに派手な現場ですよ。まるで戦争があったみたいだ。」
『ふん、本物の戦争が、どんなものか知らないくせに・・・。』服部は、荒れ放題に荒れた倉庫の中を一通り眺めた。
「ホトケはいるのか?」
「いや、いませんが、さっき昇竜組の組員がひとり救急車で搬送されました。足撃たれて、膝が粉々ですよ。結構重傷です。」
「昇竜組か…。」
「でもね。組同士の戦争にしてはちょっと変なんスよね。これ見て下さいよ。」
石川はポケットからハンケチに包んだ薬筒を取り出すと、これがまさに事件解決の鍵であると言わんばかりに、鼻を膨らませて言った。
「今までのヤマでは見掛けないやつです。いま鑑識に判定を急がせてますけどね。」
服部はそれに一瞥をくれると、現場を見渡した。味気ない濃紺の作業服を着た鑑識班が、床や壁に張り付いて指紋採取や銃弾摘出に精を出している。厚い眼鏡レンズの奥にある細い目を更に細めて、ピンセットを忙しく動かしている初老の男に目を止めて、声を掛けた。
「盛さん。」
初老の鑑識係は眉をしかめて顔を向けた。
「チャカは何だい。」
「詳しい事は何も言えんが、弾は9ミリ。弾痕の集まり具合から言ってどうもマシンガンが混じってるな。ほら、アメリカの特殊部隊スワットが使ってるやつだよ。銃種の認定はもう少し時間をくれや。なあに、お前さんが昼飯を食い終わる頃には、爪楊枝替わりに報告書をくわえさせてやるよ。」
服部は手を上げて礼を言った。
「なんだあのおやじ。俺が聞いた時には直ぐには解らんの一点張りだったのに…。」
石川のぼやきに、服部は若い頃の自分を思いだしていた。
「昇竜組はアメリカのヤクザ相手に戦争でもはじめたのかな…。他に何かあるか。」
「そう、もうひとつ。」
石川はごそごそとポケットをさぐり、小さなビニール袋に入った白い粉を取り出した。服部はそれをすかして眺めながら、
「シャブか。」
「ええ。それもかなり質が良い。」
「俺の知る限りじゃ、昇龍組の親分はこんなやばいブツには手を染めない奴だと思っていたが。」
服部はしばし黙ってビニール袋を見つめていた。
「この発見者は。」
「俺です。」
「誰かにしゃべったか。」
「いいえ。今のところおやじさんだけですよ。」
「わかった。ちょっと預からせてくれ。他の人間には暫く黙っててくれ。後から俺の方で鑑識にまわしとくから。」
石川はこの申し出を暫く考えた。この老刑事は時に若い石川には理解できないことをした。それはことごとく警察学校で教えられたルールに反する。しかしその理解出来ない方法で、多くの難事件を解決していることも事実だった。この申し出もそのひとつにちがいない。石川は黙ってビニール袋を渡した。
「俺はちょっと親分を小突いてくる。2時間後に署で会おう。報告書をまとめておいてくれ。」
服部はそう告げると、背まるめて外へと出ていった。
野崎浩一の朝
「野崎さん!居るんでしょ。分かってるんだから!」
野崎の朝はいつも大家のどなり声で始まる。狭い6畳間で抱き枕をかかえて寝ている野崎。布団を頭の上までかぶって大家の声から逃れようとしていた。
「野崎さん!また、夜生ごみ出したでしょ。もう、カラスがつっつきまわって大変よ!ゴミは朝出してって、いつも言ってるでしょ。それに、ゴミ袋の中に燃えないゴミも混ざってたわよ。野崎さん、ルール守らないなら出てってもらいますからね!ほんとにもう。家賃も満足に納めてくれないんだから・・・。」
反応のない部屋に諦めたのか、大家は愚痴りながら、ようやく野崎のドアから遠ざかっていった。
野崎浩一は、まず枕元に置いてあるはずの鏡を探した。とにかく目覚めに、自分の肌の状態を確かめるのが彼の日課である。肌の状態が芳しくない。もともと脂性の汚い肌なのだが、それを夕べの酒のせいにして、彼は悪態をつきながらベッドから這い出した。
洗面場にいくと、次は大きな鏡の前で念入りに髪のチェックである。彼の中途半端に長い髪に何度もブラシを通した。何度ブラシしても、髪はまとまらない。諦めて、今度は歯ブラシを手に取り、あらかた絞りきった歯磨きチューブをさらに絞って、それをくわえた。何度歯を磨いても、彼の歯は白くならない。しかたなく歯磨きを諦めて、リステリンを口に含んだ。もちろん、それで口臭も消えもしないのだ。
彼はこれだけ、几帳面に体の手入れをするのに、なぜかいつも薄汚れて見えた。やはり大家が指摘するように、彼の根っこのところがだらしないせいだろう。
「毎朝、いい加減にして欲しいわ。」
彼は、独り言を言いながら、ひげをそり始める。彼が女性の口調になったのはいつからだろう。別に、彼は性同一性障害ではない。ただなんとなく自分には女性口調が合ってるような気がして、自然に使い始めた。
「だいたい、こんなボロアパート、私が住む場所には相応しくないわ。あたしはもっと、ランドタワーみたいな高級レジデンスがお似合いなの・・・。痛っ!」
アフターシェービングローションが肌に滲みて、顔をしかめながら服を着替えた。自動車教習所の教官である彼は、今日は早番で車に乗らなければならない。
「しかし、なに!この制服。大ダサだわよ、まったく。」
彼は最後の身支度のために、ドア横の大鏡の前で自分の姿を映した。今日は、どうも髪のおさまりがしっくりこないように思える。こんな日は、一日機嫌が悪い。今日、彼の車に乗った教習生は気の毒だ。
野崎は、大家に気づかれぬよう、音をたてずにアパートの階段を降りていった。
「ちょっと、野崎さん!」それでも大家はあざとく野崎を捕まえた。
「ごめんなさい、大家さん。今朝はちょっと急いでるの。お話は帰ってからね。」
「野崎さん!あんたもいい年なんだから、ちゃんとしなさいよ!」
追いすがる大家の声を振り切って、彼は駅まで駆け出した。
「ちくしょう。いつか有名になって、金を稼いだら、こっちからあんなボロアパートおん出てやるわ。」
電車の窓に写る自分の髪を、何度もチェックしながら、彼はそう独り言を言った。
津山恵美子の朝
夢にうなされて目が覚めた。あれから何年経つだろう。未だに何回も同じ夢を見る。仕事のために身繕いをしながら憂鬱な朝を呪った。こんな時は、兄の事を考えると気が晴れる。たまに連絡をよこすだけで、いつも何処にいるのかわからない、いい加減な兄だ。しかし、自分が本当に寂しくて辛い時は、なぜか必ず現れて助けてくれた。
恵美子に父はいない。死別したのか、離別なのか、とにかく父の記憶が全くない。母の記憶はある。女手ひとつで幼い兄妹を育ててくれた。しかし寂しかったのだろう。母は、とにかく多くの男達を家に連れ込んだ。それぞれの滞在は、一夜のこともあるし、半年のこともある。
小学校から帰ると寝乱れた安布団に、全く見たこともない男がほとんど裸の姿で寝ていることもしばしばである。恵美子の大好きな兄は、こんな家庭の例に漏れず、判で押したような不良であった。
ある日学校から帰り、台所で漢字の書き取りの宿題をやっていると、寝室から男が起き出してきた。母が最近連れ込んできた若い男である。その爬虫類的な目が恵美子は特に嫌だった。
「お嬢ちゃん、宿題かい。偉いねぇ。」
男はコップに水を注ぐと、下品な音をたてて飲み干した。恵美子は、口を拭う男の視線が自分に注がれている事を強く意識した。男はいきなり恵美子のセーターに手を掛けた。恵美子は必死に振り払おうともがいた。その時である中学から兄が帰ってきた。
「恵美子に何をするんだ。」大声で叫ぶと男につかみかかる。成人の男の腕力には、いかに喧嘩慣れしていた兄といえどもかなわない。一振りで飛ばされた。兄は、血で滲んだ口を拭うと、今度はそばにあった包丁を振りかざして男に挑んだ。男は寸前のところで包丁をかわしたが、右の耳たぶが血でまみれた。逆上した男は、今度は拳で兄を殴った。兄は一撃で床に叩きつけられ意識を失った。
恵美子は、兄と男の戦いの一部始終を台所の隅で震えながら見守っていた。しかし、兄が動かなくなり、男が自分にじり寄ってきたところで、記憶は途絶えている。
恵美子がそのあと覚えているのは、風呂場で自分の体を手ぬぐいでごしごし拭いている兄の泣き顔である。兄の顔は血と涙でぐしゃぐしゃだった。
何年かの後母が亡くなり、兄妹は二人きりになった。苦労を重ね、恵美子は看護学校を卒業した。今では、見習いの看護師として、病院勤めをするようになっている。幸いなことに、あの出来事以来、爬虫類の目をした男に会っていない。しかし、不幸なことに、男はしばしば夢に出てくるようになった。
兄は、しばらくあの男を血眼で捜していたようだった。
福島修二の朝
福島は、早朝からマクドナルドの窓際の席に陣取って、冷めた百円のコーヒーをすすっていた。ここからだと道路越しに銀行が見える。彼は誰かが近づいてくる度に体をこわばらせた。そして、何度も腹にしまいこんだ『もの』の所在を確認した。まもなく、銀行のシャッターが開く。彼は、利き手でその硬い感触を確かめながら、これが自分に授かった不思議な経緯を、思い出していた。それは、彼の家庭の平和な食卓から始まる。
「おい!昇龍組の牧田をなめてるんじゃねえだろうな。」
男は茶卓を蹴り倒した。福島の息子である太一の食べかけていた夕食が、畳の上に散らばった。今日は太一の好きなハムカツだったのに。
「だから言ってるじゃありませんか。本当に何処へ行ったんだか知らないんです。」
太一の母は泣き声混じりに牧田をなだめた。
「奥さんよ。好きでこんなことやってるんじゃないんだよ。俺だってこんな粗末な飯を食ってる子供の前で吼えたくもねえ。でもね奥さん、俺だって生活がかかってるの。わかる?」
牧田は土足で上がってきた足で今度は襖を蹴り倒した。
「あんたの旦那が借りた金が百万。返済期日もとっくに過ぎて今じゃ利子も積もって三百万だぜ。早いとこ幕引いてくんなきゃ、こっちの明日食う飯にも響いてくるんだ。それを何処へ行ったかわからん、はいそうですか。なんて簡単に帰れるか。」
部屋の隅で小さくなっている太一とその母親にこそ触れなかったものの、牧田はしゃべりながら部屋じゅうを歩き回って、足にあたるものはかまわず蹴り倒していった。この光景は小学二年になる太一には理解できなかった。どうして突然やってきた見知らぬ男に、父親が買ってくれた大切な超合金ロボットを踏みつけられなければならないのか。こんな大きな音がしているに、どうして近所の人は誰も助けに来てはくれないのか。
ついに太一は我慢しきれなくなり、暴れる男の横をすり抜けて外へと飛び出した。お父さんを呼びにいこう。太一は走った。母親には禁じられていたが、こんなピンチになぜお父さんを呼んではいけないのか。お父さんならあんな奴一発でやっつけられる。アスファルトが裸足の太一の足の裏を冷たく打った。しかし、そんなことはおかまいなしに、港にある今は使われていない工事作業用プレハブへ向かって走った。そこに父親が隠れ潜んでいることを、太一は知っていた。
もともと太一の父親は働き者だった。体を動かす方が頭を動かす事より得意で、ある種の愚直さで良く働いた。おかげで金もある程度は蓄えることができ、そしてその蓄えで古ぼけたトラックのオーナーになった。そのトラックは多少エンジンが息切れしていたものの、その分自分自身の馬力で何とか一城主として独り立ちした。太一はそんな父親をすごいと思った。なにしろ父親は、自分がどうやっても持てそうにない大きな荷物を、軽々と肩に担ぐことができた。とてつもなく大きなトラックを、自分の手足のように操ることができた。そして、どんなに働いて疲れた後でも、家に帰ってくればニコニコ顔で太一を高く抱き上げることができたのだ。
太一の父親は疲れを知らなかった。いや、実は疲れを自覚する頭が、彼にはなかったのだ。深夜の産業道路で彼は事故を起こした。原因は彼の居眠り運転だった。相手は残業を終え帰宅を急ぐサラリーマン。トラックはセンターラインを大きくオーバーし相手の乗用車をこなごなに吹き飛ばすと、自らも横転して電柱に激突した。サラリーマンは即死だった。その事故以来、太一の父親は右足を引きずり始め、、そして浴びるように酒を飲むようになった。乱暴な男達が太一の家へ押しかけるようになったのは、それから少し後のことである。
「おとうちゃん!早く家にきて。お母さんを助けて。」
太一は、建つけの悪いプレハブの戸を引き開けながら叫んだ。
しかし太一の声にこたえるものはない。実は、福島は人が近付いて来る音に脅え、外へ逃げ出していたのだ。彼は自分を呼ぶ息子の声を確かに聞いた。しかし応える代わりに、彼は手にした一升瓶を煽ると、右足を引きずりながら息子から遠ざかっていった。
夜の人気のない港を彷徨い歩くうちに、福島は防波堤の際に辿りついた。遠くで若者のはしゃぐ声を聞いたが、今の彼にはそれでさえ自分をあざけり笑っているように感じられた。彼は防波堤を越え、テトラポットを不自由な足で渡って、さらに海へ向かっていった。このまま、どこまでも進むのが一番自然な事の様に思った。
頭に自信のない福島にとって、体に不具合が生じるということは重大な意味があった。過去にどんな失敗があったとしても、体が自由に動かせるうちは、その柔軟な肉体と強靭な筋力でなんとか乗り切ってきた。それが彼の自信であり、誇りでもある。しかし莫大な賠償金を背負った今、それがたとえたった一本の指だったとしても、自由に動く体を失う事は、生きる自信を失わせるに充分なことであった。そしてなによりも、不恰好に歩く惨めな父親の姿を、息子の太一に見せたくないと思った。
福島は、水際に一歩足を踏み出した。その時、彼の背中に激痛が走った。息が止まるほどの痛さに、テトラポットの上でもがき苦しんだ。硬い石のような物が、彼の背に投げつけられたのだ。ようやく痛みも落ち着いてくると、彼は飛んできた物の正体を知った。それは拳銃だった。
黄健の朝
黄は、さびれた商店街の路地で輸入雑貨商を営んでいる。輸入雑貨といっても、どの国のどういうルートで輸入された商品なのか、黄本人ですらよくわからない。いたって怪しい品々である。狭い店内にはうす汚れた商品が雑多と置かれ、およそウィンドショッピングする気にもなれない。確かにこの店で物を買っている客の姿など、ここ数年目撃されていない。身寄りもなく家族もいない黄が、どうして生計を立てているのかと、商店街の店主の間で話題になった時もあったが、今ではその話題もとうに飽きられてしまった。たまに小柄ながら丸々太った黄の姿を見ても、商店街では挨拶するものもいなくなっている。
黄は故郷を離れた中国人が誰しもそうであるように、人知れぬところで金を貯め込んでいた。現在でもその金額は着実に増えている。仮にそれを知ったとしても、まさか雑貨商での儲けとは誰も思わないだろう。確かに雑貨商はカモフラージュあり、彼の本業は『逃がし屋』だった。
港を訪れる外国籍の船長とわたりをつけ、国外逃亡を望む人間に密航のコーディネートをする稼業。しかしそれはあくまでも、船に乗せてやるのが彼の仕事の範囲であって、異国に到着した客がどうなっているのか。いや、そもそも目指す国に到着しているのかすら、彼自身もまったく知らない。彼は逃亡生存率には、まったく関心がない。とにかく日本脱出成功率が百パーセントであることが重要だ。この稼業はその数字だけで多くの客と金を掴める不思議な商売であった。
今日も黄は遅い朝を迎え、いつものように店を開ける作業にとりかかった。人目を引かないように毎日同じ時刻に店を開け、同じ時間に店を閉める。彼の本業を護る大切な作業なのである。
その時、店の電話が鳴った。鳴り続けているが黄は受話器を取ろうとはしない。やがて機械的な接続音がすると無個性な女性の声の留守番メッセージに切り替わった。
『恐れ入りますがただいま留守にしております。御用の方はピーという発信音のあとにメッセージを録音下さい・・・ピー。』
「津山だ。お前が電話の側に居るのは分かっているんだ。いますぐ受話器を取れ。いますぐにだ!」
「一体なにあるか。」
電話の相手を確認した上で彼は中国なまりのたどたどしい日本語で応えた。
「準備はできているだろうな。」
「話はつけたネ。でも話だけよ。準備するにはお金が必要。」
「金は用意できた。どうしたらいいんだ。」
「銀行に振り込みなさい。確認できれば、あたし二人分の準備するネ。」
「いや、一人分でいい。」
「どうしました。予定変わるの、これ不安なことネ。」
「うるせえ。金は二人分払うんだから、くだくだ言うな。お前は船の準備だけすればいいんだ。」
「不安の気持ちに正直になることは、とても大切。でも、お金が好きな気持ちに正直になることは、もっと大切ネ。わかったよ。船長さんに直接渡すお金も忘れてはだめヨ。」
「ああ。出発は何時だ。」
「前にも言ったはずネ。忘れたの。明日。朝6時。港北埠頭ヨ。」
「わかった。」津山は乱暴に電話を切った。
電話を終えた津山は、電話ボックスの中にしゃがみこんだ。そして倉庫に残してきた、健二のことを思った。健二を拾ったのは、いつの日だったろう。今では彼を弟のように思っている。あの時、健二のいたずら心から端を発して手にしたマシンガン。それを利用して復讐を思いつかなければ、健二も命を失わずに済んだかもしれないと悔やんだ。
津山は、ボックスのそばの濁った水溜りを見つめながら、あの日の夜の事を思い出した。
酒場街の裏路地には、必ず乾いたことのない水溜まりがある。どうしてなんだろう。そんな事を思いながら健二は、その水面に映る安キャバレーの欠けたネオンの動きを、いつまでも目で追っていた。彼は客を待っていたのだ。 彼は、ジャンパーの懐に手を入れると、自家製の改造拳銃に触れた。そうしていると待つことがあまり苦にならない。自然にハードボイルドのヒーローやグラマスなヒロインが彼の頭に飛来し、時間の経つのを忘れさせてくれるのだ。
そう昔の事ではないが、健二は中学卒業と同時に家を出た。小さな部品工場で職に就いた。手先の器用な彼は、その才能を金属加工の仕事だけにはとどまらず、上司や先輩のロッカーを開ける方にも発揮された。あとはお定まりのドロップアウト。懐の銃は、工場を叩き出される前にモデルガンをこっそり改造した彼の傑作である。実際に撃ってみたことはなかったし、津山以外の人間に見せびらかすわけでもなかった。要するにこの改造拳銃は彼の『お大事』。ドリームメーカートイなのである。
健二の夢想も客の足音で中断された。客は小肥りした体格のいい中年女性であった。水気のない長髪を肩まで落とし、サングラスとマスクで顔を隠しているものの、目の回りの腫れ上がった痣は目についた。腰にも痛みがあるらしく、歩く姿もぎこちない。
「健二って、あんた。」
客は不機嫌に言った。健二が黙って頷くのを見ると、派手なハンドバックから札を3枚抜き取って彼に渡した。彼は丁寧に数を確認すると、客を残し、水溜まりを飛越して地下の安キャバレーへと小走りに狭い階段を降りていった。
健二は重いドアを開ける。すると、ひび割れたスピーカーががなりたてるポップス、女たちの矯声、そして客の罵声が、彼の体にぶつかって来た。騒音を掻きわけて、津山の待つカウンターへと進んでいく。津山はそんな騒音にお構いなく、涼しい顔をして熱心にコミックをよんでいた。
「またゴルゴ13なの。兄貴も好きだなぁ。」
「ばかやろう、これは俺たちにとっては教科書みたいなもんだ。」
「遥か彼方から、銃で狙いをつけて、簡単に人を殺してしまう。兄貴、俺たちみたいな接近戦じゃ参考にならないっしょ!。」
「いや、手本にするのは技術じゃない。ソウルだよ。」
「はいはい。お勉強の時間はもうおしまい。お仕事もちゃんとやらなくっちゃ。」
「ああ」
津山はコミックをポケットにしまった。
「ターゲットは誰だ。」
健二が、ひときわ高い矯声を張り上げている奥のボックス席を顎で指し示す。3人組みの米軍兵が、ホステスの体をまさぐりながら酒をあおっていた。
「あのスキンヘッドみたいですよ。いかにも変態面してるじゃないですか。」
「みたいですよ、とはいい加減だな。事が済んでから間違いでしたはきかないんだぜ。」
「いや確かにあいつです。しかし、いくら金で買った女だとしても、殴る蹴るの上に変な恰好させてむりやりヤルなんて、いただけないスよね。」健二はそう言いながら、津山のつまみに手をだした。
やがて、ターゲットが酔いに足をとられながら立ち上がった。ふらふらしながらも、ホステスの肩を借りてようやくトイレのドアに辿り着く。女が兵隊の肩にあるナップザックを持ってやろうとすると、兵隊は乱暴にその手を払いのけドアの中に消えていった。女はそんな仕打ちに肩をすくめながら、ボックス席へと戻り、また矯声の仲間入りをした。
津山と健二の仕事の開始だ。他の兵隊に気づかれぬようカウンターをすり抜けると、トイレへと移動した。幸いトイレのドアはボックス席から死角にあったので、落ち着いて仕事にはいれる。津山はゆっくりと右手の関節を屈伸させると、背中から三十センチ程の鉄棒を取り出した。そしてトイレのドアを、音をたてぬよう開け、静かに中へ滑り込んだ。
健二はドアの外で見張りに立つ。間もなく鈍い音がひとつ。そしてもうひとつ。二つ目の音は確かに骨の砕ける音だ。仕事の成功を確信して、健二のくちもとが思わず緩んだ。トイレの中でターゲットが床に崩れる音がした。彼はその音で他の兵隊が注意を向けるのではないかと肝を冷やしたが、彼らは女の尻をまさぐるのに忙しく誰も気づく様子はない。
津山がゆっくりと出てきた。心なしか顔が上気している。健二は閉じるドアの隙間から中の様子をうかがった。兵隊は汚れた便器の中に顔を埋め、腕は不自然に曲がっていた。そして、便器の脇に転がっているナップザックを目ざとく見とめると、健二の手はもう動いていた。
津山は、歩調を早めることなく出口へと向かった。ことが終われば迅速に現場を離れるのも、この仕事の基本である。健二も遅れまいとあとを追ったが、予想外に重いナップザックの扱いをあやまり、カウンターの椅子のひとつに引っ掛けた。いすの倒れた音は、ボックス席の兵隊達の注意を集めるのに充分であった。もちろん彼らは、健二の持つナップザックの、本来の所有者を知っている。大声を上げて一斉に立ち上がった。津山はテーブルを蹴り上げて彼らの出足を鈍らせると、騒然とする安キャバレーを後に、健二とともに懸命に走った。外はうっすらと朝景色になってきていた。
津山も健二も懸命に走った。そのせわしない足音が、夜の無人の倉庫街にこだました。海風が吹き抜けるうす汚れた倉庫裏に辿り着くと、ようやくふたりとも冷たいコンクリートの地面に倒れ込んだ。
「健二、てめえって奴は・・・。」津山は肩で大きく息をしながら怒鳴りつけた。
「いつも言ってるだろうが。現場の物に手ぇだすなって・・・。」
健二は返事も出来ずに大の字にのびていたが、やっと息がつけるようになると、
「だってよぉ、兄貴。勝手に手が動いちゃうんだもの。」
「それじゃなぁ。勝手に動かないよう、俺がしつけてやるよ。」
津山は健二の腕を掴み、ねじ上げた。
「ま、待ってよ兄貴。この中身を見てからにしてくれよ。」
彼の差し出すナップザックを見て津山は腕を放した。
「小汚いパンツだのコンドームだの、くだらねぇ物が入っていたら、手だけじゃ済まねぇぞ。さっさと開けてみろ。」
健二は右腕をさすりながら、首をすくめる。彼がナップザックを逆さにして乱暴に振ると、その中身がコンクリートの上で堅い金属音をたてて跳ね上がった。ふたりの息が一瞬止まった。
「兄貴。もしかしてこれ、サブマシンガンだぜ。そうだ、これ写真で見たことあるよ。確かアメリカ製のやつだ。スワップの使ってる本物だぜ。間違いないよ。」
健二の目が嬉しそうに輝いた。彼はもともとガンマニアで、あらゆるタイプの銃を本や写真で知っていた。しかし、残念ながら今まで本物を手にしたことがなかったのだ。
コンクリートの上の黒光りするサブマシンガンを拾い上げて、おそるおそるトリガーに指を掛けてみた。さすがに本物の重さと冷たさが肌に伝わってくる。彼は夢中になった。マシンガンを構える姿勢を変え、あちこちに狙いをつけながらはしゃぎまわった。
そんな健二を見ながら、津山は冷静だった。もう一度ナップザックを拾い上げ、他に何もないかどうか探ってみると、9ミリ口径の銃弾が詰まったカートリッジ数本と透明な袋に入った純白の粉を見つけ出した。
「おい、健二。これは一体何だろう。」
はなから津山の問いなど健二は聞いていない。
「兄貴。このマシンガンはちょっと指が触れるだけで、一秒間に十発はぶちこめるすごもんだって知ってた。やっぱ本物はちがうなぁ。」
『もしかしたら、麻薬かもしれない。』いつまでもマシンガンに夢中の健二を尻目に、津山は粉を指先に付けてなめてみた。ちょっと苦かった。しかし、残念ながらこれは格好だけである。なめてみたところで麻薬に一度も触れたことのない津山には、それが確かに麻薬であるのか、仮にそうであったとしても、それがどれほどの質のものなのか分かりようがない。
『本物だとしたら・・・。』津山は、白い粉をいつまでも眺めていた。
「もうこんなものいらねぇや。」
健二は懐の自作の改造拳銃を取り出すと、おもいっきり汚れた海へ投げた。銃は大きな放物線を描いて飛んだが、飛んだ先で、水面やコンクリートに当たる音はしなかった。しかしそのことは、白い粉を手に考え込む津山にとっても、ましてや本物の銃を手に入れてはしゃぎ回る健二にとっても、まったく気にはならなかった。
派手なネオンの雑居ビル街にあるまったく場違いな地味なビル。昇龍組の事務所は、その中にある。看板には岡野興業株式会社とあるものの、辺りに住む誰もがそのビルを正式社名で呼ぶことはなく、ただ昇龍ビルと称し、できるだけ近付かないように心掛けていた。
今日はそのビルの前に、何台も黒塗りの大型車が違法駐車しており、出前の自転車がかろうじて通れるほどに車道を占領している。もちろん警察に通報する者などいない。たまに他県ナンバーの車が迷い込みクラクションを鳴らすことはあるが、それもビルから出てきた男たちに脅かされて、バックを余儀なくされていた。
突然二階のガラス窓を破って路上に灰皿が落ちてきた。二階は社長室。そして、その部屋の主の岡野は、昇龍組の組長。彼は、興奮すると手につかめるものは何でも投げつける悪い癖があった。
「銀次、すると何か。俺がたまの休養で気持ち良く温泉につかっている間に、勝手に伊沢が金庫から金を持ち出したって言うのか!」
銀次と呼ばれた男は、額にハンケチをあてがいながら頷いた。組長の投げた陶器製のペン皿が額に当たり、そのハンケチは真っ赤な血で染まっていた。彼にしてみれば、たまたま事務所の泊まり番だったのが運のつきである。岡野は銀次を今回のトラブルの主犯のように睨めつけながら、座っている椅子の肘掛けを強く握り締めた。机の上にはもう投げられるものが何もなかったのである。
「逹、説明してもらおぅかッ。」
岡野は自分を落ち着かせるために低い声で言おうと努めたが、出てきた声はぶざまに裏がえっている。呼ばれた組員は、ほかの組員に背中を小突かれて、まるで鬼神への生贄のように組長の前に差し出された。彼は伊沢の直系の子分である。
「あの・・・。伊沢の兄貴の所に変な包みが送られてきたんです。」
「どれくらい前だ。」
「一週間くらいまえだと思いますが。それが少ねえけれど、極上のシャブだったもんで、俺たちびっくりして。それから何回か兄貴のところに電話があって。相手が商売したがっているらしいって兄貴が…。山形さん使って探らしたら、相手は津山とかいうバックもないただの若僧で。それでどんな理由でこんな極上のシャブを手に入れたか知らねえが、とにかく全部いただこうって、山形さん、影山さん、それに牧田さんの3人連れて…。」
「組の金で買うつもりだったのか。」
「いえ、見せ金にして社長が帰って来る前に戻しとけば心配ないって、兄貴が…。」
「伊沢の野郎!」
握り締めていた肘掛けが、岡野の力でついに引きち切れ、達に向かって投げつけられた。達はかろうじて避けたが、後ろにいる組員の口に当たり、かわいそうに唇から血が吹き出した。
「てめえ、あの金がどんな金か知ってるんだろうな。あの金はおじきから・・・。」
突然机の上の電話が鳴った。さすがの岡野も、これだけは引きちぎって投げつける材料にはしていなかったようだ。岡野と彼の組員達は、しばし音の主を見つめた。事務所に電話の音だけが不気味に鳴り響く。ようやく一番近い所に立つ銀次が受話器を取り上げて、組の全員の視線を集める。いくつかのことばのやり取りのあと、受話器を岡野に差し出した。
「社長、三和組のおじきからです。」
岡野は生唾を音を立てて飲んだ。腹を据えなくては。彼の人生で最大のピンチである。大きく息をした後、受話器をとった。
「いゃあ、おじき。ご無沙汰じゃないですか。」
『岡野か。俺もなにかと用ありでな。おめえはどうだ。』
「ビンボー暇なし。なかなか楽できませんや。」
『それが一番だぜ。若いころは、どんどん苦労せいや。温泉巡りなんかしてる暇はねえぞ。』
岡野の脇の下に、冷たい汗が伝わった。
『ところでなぁ。国税監査のために隠してもらってたあの金だが、そろそろほとぼりが冷めたんで受け出してもらえるか。』
岡野は思わず受話器を取り落としそうになった。
『どうした岡野。』
「い、いや。いつ頃ご入用で?」
『できるだけ早い方がいい。これからうちの若い衆をお前の所にやるから・・・。』
「おじき、待って下さいよ。受け出すにはちょっと時間がかかるんだ。」
『何を。まさか勝手に金を動かしたんじゃねえだろうな。』
「おじき。俺が勝手に動かす訳ないでしょうが。あん時、おじきが俺に金を預けたいって言ってくれた時には、俺も心底嬉しかった。だっておじきから信用されている証拠だからね。それだけにしっかりお役目を果たさなくてはと思ってさ。事務所の金庫じゃまだ安心できない。思案に思案を重ね、とんでもなく安全な所に移したんですよ。だから、そこから金を出すのに少々手間がかかるんでね。なぁに、明日中にはこちらからおじきの所にお持ちしますよ。」
『確かだな。』
「いやだなぁ、おじき。信用してくれたから俺に預けたんでしょ。」
『わかった。明日だな。』
岡野は張り詰めた息をほっと吐き出した。
『ところで岡野。最近お前の組は評判だぜ。』
「えッ。何が評判なんです。」
『みんな噂してるぜ。お前んとこは羽振りがよくなったってよ。』
「そんなことありませんよ…。」
『気をつけなよ。この稼業では、噂になってる組にろくな事は起きないからな。』
「ええ。ご忠告ありがとうございま…。」
岡野の礼のことばが終わらないうちに、電話は切られた。
プレッシャーが頂点に達した彼は、ついに爆発した。電話を両手で頭にかざすと、力いっぱい組員に投げつけた。しかし、細いながらも電話線はかろうじてふんばり、受話器が彼らに届く手前で足元に転がった。電話器のどこかが欠けたらしく、乾いた亀裂音が響いた。
「お前等そんな所にがん首並べてねえで、さっさと金を取り返してこい。どんなことをしても明日の昼までになんとかしろ。なんとかできなかったら、俺の首どころじゃねぇ、組全員が港の倉庫にいる鼠の餌にされちまう。早く行け!」
岡野のヒステリックな怒声に追い立てられて、組員達は外へ飛び出していった。
岡野もやはり命は惜しい。そしてこの縄張りも失いたくない。彼がまだチンピラと呼ばれていた頃、この街に流れついて、粗暴な若さと根拠のない度胸で手に入れたこの縄張り。いわば彼の本当の意味での故郷である。やくざはやくざなりにこの街を愛していた。もしも金が戻らなければ、おじきが資金力にものを言わせ、彼の組をはるかにうわまわる数の兵隊を組織して押し寄せてくるだろう。結局彼の命を含むすべての物を獲り上げてしまうに違いない。
彼は煙草に火をつけようと試みたが、指が震えるせいか何度ライターを擦っても炎ができない。業をにやしてそのライターを思いきり床に叩き付けた。
岡野とて、伊沢の動きが気にはなっていたが、彼が組にもたらす水揚げの金額を考えると、黙認せざるを得なかった。そして、胸に金バッチを付けるようになった最近では、さらに派手に動き回るようになっていた。そんな伊沢を許していた自分を、いまさらながら悔いた。
「よう、岡野。なんだか若いのが大勢飛び出していったが、『でいり』でもあんのか。」
見ると服部がドアに寄り掛かりくわえ煙草でニヤついていた。また、タイミング良く面倒くさい奴が現れた。そんな思いはおくびにも出さず、笑顔で岡野は答えた。
「とんでもないですよ。服部さんの所轄の街はいつも平和ですよ。」
そんなお愛想にはとりあわず、服部は煙草を指で弾くと、社長室の毛足の深い絨毯の上で踏み消した。
「ところがなぁ、岡野。どうもお前のところの人間が、その平和を乱しているようなんだよ。」
服部は足元に転がっている電話を岡野の机の上に置きながら言った。電話は足が片方欠けたのか不安定に傾いている。
「しかも、こんな物を撒き散らしてな。」
岡野は、机に投げ出された白い粉の小袋を見ると、観念して肩を落とした。
「言っておきますけどね、服部さん。伊沢が一人で勝手にやったんだ。組に何の関係もないよ。」
「そうだよな。お前とはこの街でチンピラの頃からの付き合いだ。薬に手をだしたら、もう俺との仲も終わりだって事は、よく解っているものな。」
服部は見逃してやった岡野の罪状の数々を思い、岡野は服部に渡した情報の数々を思った。
「電話を借りるぜ。」服部は返事も待たずにダイヤルを回した。
「もしもし、母さんか、…ああ俺だ。今日は早く帰るつもりだったが、事件があって帰れそうにない。…分かってる。男が来るってんだろう。仕方ないだろう、仕事なんだから。麻里に言っといてくれ。」彼は受話器を置いた。
「服部さん。今日は泊まりですか。」
「当たり前だろう。お前等が騒ぎを起こすからさ。それより相手は何者だ。」
「ただのチンピラです。」
「おやおや、昇龍組も舐められたね。」
「服部さん。」岡野は真顔で訴えた。
「今度もなんとか協力してくれ。服部さんたちが逮捕する前に、伊沢とチンピラを俺たちの手で押さえたいんだ。俺たちはどうしても取り戻さなければならないものがある。」
「薬か。金か。」
「薬に興味はない。協力してくれたら、お嬢さんが立派な結婚式を挙げられるようにお手伝いしますよ。」
服部は修の顔を思い出し、また気分が悪くなってきた。
「そんなもん要るかッ。…どうだ岡野。俺も定年が近い。現役最後のひと花を咲かせたいんだ。俺の長年の標的『三和の組長』の首を捕るネタをくれないか。」
「おじきのですか。そいつはヤバイよ。そんなネタ渡したら、日本に俺の居場所はなくなっちまう。」
「まあいい。考えとけ。俺もお前の希望は一応頭に入れておく。ただあてにはするなよ。港北署の刑事は俺ひとりじゃないんだからな。」
そう言うと服部はドアの外へ消えていった。
岡野は、彼が外へ出て行ったのを見届けると、すぐさま受話器を取ってダイヤルを回した。金を取り返すために、とりあえず組員を散らした。警察の協力者も押さえた。しかし、それでもまだ万全ではない。あの男に連絡を取るんだ。港の闇の世界によく通じ、金さえ積めば何でもやってくれる。その男は「鼠」と呼ばれていた。
中川は自分の体を運転席に沈めるとしっかりとシートベルトで固定した。今日二回目の実技教習である。これで大学の講義には間に合わなくなったが、朝に父親からプレッシャーを受けた彼にとっては、とにかく早く免許を取ることが最優先である。彼は今日実技を1回しか予約していなかったが、幸い次の時限に空きの車があり運良く乗ることができた。しかし、教習車番号が気にいらない。四十四号車。以前学科教習の合間に、他の教習生が魔の四十四号車と言っていたのを小耳にはさんだ事がある。何でも担当教官が、1時間教習生を苛めるだけ苛めて結局判を押さない、とてつもなく底意地が悪い人物らしい。彼は初めてこの番号の教習車に乗る訳だが、朝からの自分のツキのなさから考えると、どうしようもない胸騒ぎがした。
ルームミラーの位置を自分の目線の位置にあわせていると、なんともなさけないブザーの音が教習所に響き渡った。事務棟の中から、揃いの紺のブレザーを着た教官たちが、ぞろぞろと出てきて、自分の担当車へ散っていく。中川の周りの車はほとんど動き始めたというのに、四十四号車の担当教官は何処にも見えなかった。じりじりとして待っていると、ようやくひとりの教官が髪に櫛をあてながら、のそのそと出てきた。身支度に時間がかかり出遅れたらしい。
車のそばに着いたものの、今度はサイドミラーを使って髪のお手入れだ。神経質そうに髪を整える反面、緩めのネクタイ、ズボンにだらしなくおさまる汚いワイシャツ、袖が擦り切れ、ボタンがちぎれたブレザー。その姿は、人に物を教えると言うより、むしろ人に物をたかるといった類の人間と言ってふさわしい。何度やっても、自分の髪型が気に入らないようだ。彼は顔をしかめながら、櫛を胸のポケットに収めた。あれが次の時間の担当か。中川は絶望的な気持ちでその教官を眺めた。
「ねえ、君。どうしてそっちに座ってるの。」
教官は運転席に座る中川に言った。
「あ、はい。第四段階の総合ですから。」
「ちぇッ、路上なの。」
教官は不快感を露骨に顔に出して、助手席へと乗り込む。中川の差し出す実技ノートと仮免許証を受け取ると、それらに一瞥もくれずダッシュボードへ放り込んだ。車内に安物の整髪料の香りが充満した。
日頃から中川は他人の言動には、無関心になろうと心がけていた。彼は父親に気を使うあまり、それ以外の人間に積極的に係わる余裕が無くなっていたのだ。
そんな彼は、男友達に言わせれば『つまらない奴』となり、女友達に言わせれば『冷たい人』と称される。必然的に彼は常に孤独だったが、そのことによって不自由は感じなかった。かえって父親からの課題を消化するには都合が良かった。
しかしながら、限られた時間とはいえ密室の中で、教官とふたりだけの状況下では、どんなに他人に無関心な中川であっても、できることなら相手とうまくやっていきたいと願うのは当然だ。そういう意味では、この助手席にだらしなく座る四十四号車担当教官は、最悪な相手であると容易に予測できた。
「あんた何してんの。このままじっとして一時限終わりにするつもり。」
中川はあわててイグニッションキーをひねり、エンジンを始動させた。車はゆっくりと動きはじめる。それは、たまたまとはいえ、乗り合わせた二人の人生を変えてしまうドラマの始動でもあった。
服部麻里と修の場合
「修くん。支店長がお呼びよ。」
システム室で、大量のローンの計算書を相手に奮闘している修に、麻里が声を掛けた。彼はCRT越しに顔を出すと、麻里に笑顔を見せながらうなずいて席を立った。
支店長室に急ぐ修を、書類を胸に抱えて麻里が後を追った。
「修くん。今夜の約束大丈夫よね。」
「ああ。」
「家に来る時、手土産のお菓子を忘れないでよ。お父さんはそういうとこうるさいんだから。」
「それはちゃんと買っていくよ。でも・・・、麻里のお父さんと何しゃべったら良いんだろう。確かお父さん刑事だよね。」
「だめだめ、お父さんは家で仕事の話をするの嫌いなの。」
「じゃ、趣味の話はどう?」
「お父さんの趣味は仕事よ。」
「?…何を話したら良いんだ。」
「何話しても、お父さんのことだもの、返事なんかしやしないわ。お母さん相手に、出てきた手作り料理でも褒めてれば良いのよ。」
「なんか気が重いな。お父さんは、僕たちの結婚を反対してるんだろう。」
「ええ、でもとにかく直接話ししなければ、何も変わらないでしょ。」
「そうだね・・・。」
「そんなことより、支店長はなぜか朝からずっとご機嫌ナナメよ。気をつけてね。あたしもこの書類をコピーしたら、支店長室へ持っていくから。」
そう言って麻里はあわただしくコピー室へ消えていった。
支店長の呼び出しに歩調を早めていた修は、窓口のロビーでお客の一人とぶつかった。ぶつかった拍子に、相手は大事そうに腹に抱えていた紙袋を床に落としてしまった。右足をひきずりながらあわてて拾いにいくお客を制して、修は床に転がった紙袋を急いで拾い上げると、平謝りした。「どうも申し訳ありません。急いでいたもので・・・。」
修は、ご機嫌ナナメな支店長と今夜会う不機嫌な麻里の父の、両方を思う気の重さから、誰でも気づくはずの不審な点を見逃した。床に転がった時の紙袋が発した妙な金属音と、大きさの割にはずしっとくる妙な重さである。
修は何度も謝ると、支店長室へと急いでいった。
四十四号車が、一時停止ラインに近づく。停止しようとして中川がブレーキに足をかけた瞬間、教習車は急制動した。
「あんたは今までの教習で何を習ってきたの。」
急制動に驚いている中川に、野崎は一方的な物言いで攻めまくる。中川がブレーキを踏むより早く、0コンマ何秒かの差で野崎は教官ブレーキを踏んだのだ。
「これじゃ、ハンコはあげられないわね。はい、車を右に寄せて運転席から出なさい。」
野崎はこの手のいじめが大好きであった。そして、長年の感でそのタイミングは絶妙であった。とはいえ、中川にも1時限たりとも免許取得を遅らせる訳にはいかない事情がある。
「待ってください教官。僕も今ブレーキを踏もうとしていたんですよ。」
「『踏もうとした』だけじゃ車は止まんないのよ。」
「しかし・・・。」
「いいから、車を右に寄せてあの電話ボックスあたりで停車しなさい。」
中川は渋々従って車を停車させた。野崎はシートベルトを外しながらも、まだくどくどと説教を続けた。
「車の技術はとても進歩したから、どんな人が乗っても簡単な操作で自由に動いてくれる。でも残念ながら現代の科学をもってしても、『思った』だけじゃ動いてくれないのよね。わかる?実際の操作があってこそ…。」
後部ドアが急に開き、若い男がシートに飛び込できた。
「ちょっと、あんた。困るわ、教習中なのよ。タクシーじゃないんだからすぐ降りてよ。」
返事の代わりに、野崎の肩越しに向けられたのはマシンガンの銃口であった。
「いいから早く、出せ。」
野崎と中川はこの乱入者の言動に凍りついた。外では乾いた発砲音が二発鳴り響いた。
「後方確認もウィンカーもいらねぇ。ただアクセル踏めば良いんだよ。仮免の運転手さんよ。モタモタしてると、教官さんの頭が跡形もなく吹っ飛ぶぜ。」
津山は野崎の頭を銃口で小突いた。
「きゃーッ、早く、アクセル踏んでよー!」
野崎の叫びに、中川は反射的に右足を強く踏み込んだ。車は大きなうなり声をあげてりきんでいるものの、発進しない。
「あなたなんてばかなの、サイドブレーキ掛かったままじゃないの。」
野崎は、助手席から手を伸ばしてサイドブレーキを戻した。突然のブレーキの解放により、リア・タイヤとアスファルト道路が強烈な摩擦音を発し、四十四号車は一気に飛び出した。座り直した野崎は、教官用のバックミラーに拳銃をこちらに向けて発砲する厳めしい男達の一群を見た。
石川刑事は、刑事部屋に入ってくる服部の姿を見ると、幾つかの書類を持って近づいた。
「おやじさん。なんか分かりましたか。」
「そりゃあ俺のせりふだ。」
「失礼。報告書があがりました。鑑識が現場で言っていたのとそう大差ありません。とりあえず自分は米軍に銃の確認に行ってきます。」
そう言って、石川は勇ましく上着を羽織った。
「なあ、石川。お前、俺の所に来てもう何年になる。」
「なんですかあらたまって。4年と3ヶ月ですよ、おやじさん。」
「お前もいい年だろう。結婚はしないのか。」
「自分みたいな家業では女は寄りつきませんよ。解ってるでしょ。」
石川は明るく笑って答えた。
新米だった石川を、服部が預かり今まで育て上げてきた。何度も何度も失敗を重ね、今では自分が何をしなければならないかを充分に理解する一人前の刑事に成長した。息子のない服部にしてみれば若い石川は、それに一番近い存在であったかもしれない。彼を麻里の婿として迎え入れる事が出来たらいいのに。
「ところで石川。来る途中で交機がやけにあわただしかったが何だ。」
「ええ、自分も良くわからんのですが、なぜか港北自動車練習所の教習車が市内を暴走しているらしいですよ。」
「なんじゃそりゃ。」
突然署内警報が鳴り響いた。
『三友銀行港北支店で強盗事件発生。犯人は職員を人質にして行内にとどまっている模様。刑事二課は至急現場支援へ向かえ。尚、犯人は拳銃を所持。繰り返す犯人は拳銃を所持している。』
「おやじさん。三友銀行港北支店と言えばお嬢さんの勤めている銀行じゃないですか。」
ふたりはしばし見つめ合うと、争うように部屋から飛び出してった。
病院内の職員食堂での昼。
「恵美ちゃん。今日の定食は丸サンマと肉じゃがだけど、どっちにする。」
「焼き魚でお願いします。」
まかないのおばさんに津山恵美子は笑顔で答えた。
おばさんは、椀にご飯をよそいながらもおしゃべりを止めなかった。
「恵美ちゃんは偉いよね。一人暮らしで大変なのに、お仕事に手を抜かないから患者さんの評判はいいし。休みもろくにとっていないんだろ。この病院も人手が足りないもの。大変だね。あたしも、恵美ちゃんにもっと精のつくものを食べさせてあげたいんだけど、理事長から経費削減しろって命令で、なかなか思うようにいかなくて・・・。」
「お金掛けなくても、おばさんの作った定食は、いつも美味しいですよ。」
「あら、おせじも上手くなっちゃって…。ところで、お兄ちゃんから連絡はあったのかい。」
「最近、全然…。なにしてんだか。この前連絡があった時は、なんだか、でっかい仕事するから、終わったら何でも買ってやるなんて、ほら吹いてたけど。それっきりよ。」
「そう。連絡あったら、たまにはおばさんの定食を食べに来るように言っておくれ。あたしが少し説教してあげるから。こんな可愛い妹に苦労させて、自分は何処ふらふらしてんだか、本当に。」
恵美子は、笑いながら膳を受け取った。
席について、サンマに箸を付けようした時、食堂のテレビからニュースキャスターの緊迫した声が耳に飛び込んできた。
『ただいま入ったニュースによりますと、三友銀行港北支店に強盗事件が発生しました。犯人の男は銃を持ち、銀行職員を人質に銀行内に立てこもっている模様です。』
恵美子のからだが一瞬固まった。恵美子は、犯人と兄のイメージが重なったのだ。
『犯人は単独犯で、身元はまだ判明しておりませんが、年齢は四十歳から五十歳と推測されます。それでは、事件の現場から実況中継で…。』
よかった。お兄ちゃんじゃなかった。もっと、お兄ちゃんを信用しなければ。恵美子はそう思い直してサンマに箸を付けた。
「あのう。聞いても良いいかしら。」
野崎は、銃口を突きつけられて体を硬直させたまま言った。中川といえば、あいかわらずアクセルを踏み込み、必死に前方だけを見つめて車を運転し続けている。
「なんだ。」
「一体私たちは何処へ行ったらいいんでしょうか。」
「どこでもいい。銀行へ行け。」
「えッ、銀行ですか・・・。」
「安心しろ。強盗しようってわけじゃない。」
「それなら何をしに…」
「用が済んだら、お前達は解放だ。教習の続きでもやってろ。」
その言葉にほっとして、野崎は体をゆるめ、中川はアクセルを緩めた。
「二本先の交差点を右折したら、二百メートルくらい先に、JFU銀行があるわ。」
「教官、詳しいんですね。」中川は小声で野崎に話しかけた。
「当たり前よ。この仕事の前はタクシーの運転してたんだから。」
「余計なことはしゃべらず、黙って行け。」
二人は、津山の一喝にまた体を固くしてその使命に没頭した。
一本目の交差点にさしかかったその時、いきなり黒い車が彼らの前に立ちふさがった。野崎の反応は早かった。教官ブレーキを鋭く踏み込み衝突をまさに一センチ前で回避したのだ。黒い車から伊沢達が銃を持って飛び出してきた。
「きゃーッ、バックよーッ!」
野崎の叫びに、中川は慌てながらもレバーをガチガチいわせてなんとかシフトチェンジをやりとげた。しかし、アクセルを踏んだ先のハンドル操作は稚拙を極めた。もっともバックの急発進なんて、教習課程にはない。教習車は左右に小刻みにぶれた。何が幸いするかわからないものだ。黒い車の男達は、その小刻みなぶれによって、なかなか銃の照準をあわせることが出来ないでいる。野崎が再度教官ブレーキを踏み込むと、車はきれいにスピンターンをして停止。後方からの銃声に追われるように、今度は前に発進した。中川のシフトアップは、あざやかだった。
「前に走るのは、任せてください。」彼は誇らしげに言った。
黒い車は、しつこく彼らを追ってきた。その後の、中川のアクロバチックな運転は、危険極まりないものだった。反対車線走行。信号、踏み切り警報無視。階段降下走行。そもそも、交通ルールや標識の知識が乏しく、先に待つ危険予測ができない人間が運転する車に、やくざと言えども運転経験が豊富な常識的なドライバーがついていける訳がない。同乗している人間にはたまらないが、なんとか、追っ手の姿が見えなくなるくらい距離を開くことが出来た。
「あんた、そろそろアクセル緩めてもいいんじゃないの。」
シートにしがみついていた野崎の言葉に促され、ようやく中川はスピードを緩めた。
「JFU銀行は行けなくなっちゃたから・・・。そうね、その先左折して一本目の交差点の角に、三友銀行があるわ。そこ行きましょう。・・・ちょっと待って、あの音は何?」
やっと落ち着いて運転できると思ったのもつかの間、次に彼らの耳に届いた音は、銃声ではなくパトカーのサイレンの音であった。またもや銃口が野崎の後頭部に突き刺さる。
「仮免。銀行に着く前に、サツに捕まってみろ。教官の頭に見通しが利く穴がいくつも開くぜ。」
「きゃーッ、目一杯アクセル踏んで。おねがいーッ!」
野崎三度目の『きゃーッ』であった。
三友銀行港北支店を中心に、パトカー、警官、狙撃手、救急車、報道陣、野次馬が幾重にも取り囲み、ヘリから見た光景は凱旋門を取り囲むパリの街路さながらであった。服部と石川が人を掻き分け、やっとのことで最前線にたどり着くと、それまで現場に付いていた警部が服部に状況報告をした。銀行内に立てこもる犯人はひとり。銃を保持。事件発生時に、たまたま行内に居合わせていた一般市民は幸い解放されたが、未だ支店長と銀行職員二名が人質として捕らわれている。その二名の名を聞いて服部は気を失いそうになった。よりによって麻里と修であった。
行内に立てこもる福島は、何でこうなってしまったのか、思い出そうとしても思い出せないでいた。気がついたら、銃を手にここに立っている。彼の後方には、怯えて固まっている3人の職員。そして、前方には、夥しい数の人と車が、息をひそめてこちらを伺っている。『もうだめだ。』その言葉だけが彼の頭をめぐっていた。『もうだめだ。もうだめだ。』しかしその先の、だからどうしたらいいのかまで、頭が回っていない。人質ともども自滅するのか。それとも自首するのか。外からの刺激によって、行動がどちらに振れるかわからない、とても危険な状態に陥っている。
『銀行にいるあなたと、話がしたい。』
拡声器を手に、港北署の対策本部長が銀行内の福島に語りかけた。
『また、キャリヤ組が陣頭指揮か・・・。お前のせいで麻里にもしものことがあったら、その場で頭打ち抜いてやる。』
服部は、交渉人のすぐ後ろで様子をうかがっていた。
『あなたは、もうお解かりだと思うが、この銀行はもうアリの隙間もないほど警察官で包囲されている。しかし、あなたは三人の人質を確保している。その三人が無事でいる限り、あなたのほうが優位であることは、ここに集まっている全警察官が認めている事実だ。だから、まず冷静になって欲しい。』
対策本部長は、一息ついて続ける。
『お腹がすいては、これから大切な話もできないだろう。今から、ピザの宅配便をそちらに送る。』
その言葉に押されるように、ピザの宅配便のにいちゃんが、おどおどしながら、前へ出てきた。そのまま銀行へ入り、福島の前まで来ると、大きなプレートを差し出して、「お熱いですからご注意ください。」と言い残して慌てて戻っていった。
もちろんこのにいちゃんは警察官である。その体のあちこちに隠しカメラが仕込んであり、福島の容姿はもちろん、行内の隅々の様子に至るまで、鮮明な映像が対策本部に送られていたことは言うまでもない。映像は、即座に分析された。行内における人質の位置が確認され、突入チームがプランを練る。そして犯人である福島の身元が確認され、ピザが冷め切る前には、もう福島の妻と息子である太一が現場の対策本部に連れてこられていた。
暫くして、警部補の説得が再開された。
『さて、お腹は落ち着きましたか?それでは、また話を続けましょう。そもそもあなたは、こんなことをする人ではなかったはずです。ここに、あなたを信じ、ぜひ本来のあなたに戻って欲しいと願っている人がいます。』
警部補の冷静な口調に続き、悲痛な呼びかけが、拡声器から響いた。
『あんたーっ!』『とうちゃーん!』
マニュアル通りではあったが、対策本部長のここまでの交渉テクニックは、効果があった。福島は、家族の声を聞いて『もうだめだ。』の先の答えを漠然と感じた。手に持つ拳銃の銃口をこめかみにあてると、静かに引き金に指をかけた。
しかし、彼が指に力を入れようとしたその瞬間、銀行を取り囲む幾台かのパトカーを蹴散らせて、目の前に教習車が飛び込んできた。教習車は銀行の前で急制動をかけられたが、スピンしながら銀行の入口を突き破って止まった。車のフロントは外に向けられ、車体の後ろ半分ほどが銀行のロビーにめり込んでいる。あたりに、ウィンドウガラスの破片が飛び散り、ゴムの焼ける匂いが充満した。
福島は、車のテールに接触し、後ろへ吹き飛ばされた。銀行を取り巻く警官は、この想定外の乱入車に、しばしあっけにとられた。やがて、我に返って職業意識を取り戻すと、中心に向かって一斉に動いた。特に早く動いた人間がふたりいる。銀行内で人質になっていた支店長と、銀行の外で母に抱かれていた太一である。支店長は外に逃れ、太一は父のいる行内へ走りこんだ。しかしそれ以外の人間は、空に向かって乱射された津山のマシンガンによって、また凍りつくことになる。
「動くんじゃねぇ!」
津山は大声で叫んだ。