西の海の魔女
「さあ、もう逃げられないわよ。そろそろ観念して、その姿を現しおし!」
その魔女は、油断なく身構え、オイラを見つめてくる。
ものすごいプレッシャーだ! オイラはその視線に射すくめられ、ワラ(指)一本うごかせない。ちょっとでも動いたら、たちまち攻撃魔法がオイラを襲い、オイラの命を簡単に消し去ってしまいそうだ。
こ、こわい……
こんな恐怖は、ご主人の姿を最後に見たあのとき以来だ!
ご主人が姿を消す前に行った実験で、机に散らばったグラスの破片を丁寧に集めていたとき。あのときも、すこしでもオイラが動いていたら、消されていただろう。
そのときと同じ命の危険感がヒシヒシと。冷たい暗黒の深遠が足元にパックリと口を開いて……
……
……ん?
あれ? でも、なんかヘンだ。
魔女の視線、確かにオイラの方向へ向けられてはいる。オイラのことを睨んでいる。
で、でも、その視線の中には、オイラの体に容赦なく突き刺さるような悪意の成分を感じとれない。
もちろん、魔女の視線の中には、禍々しい悪意のようなものはこもっているし、瞳から強烈にその悪意が発散されている。
だけど、その悪意、オイラを直撃していない。なんだか、オイラの体を素通りして、どこか別のあさっての方向へ向けられているような……
も、もしかして、この魔女、オイラのことを視ていないとか?
なにか、別のものを視ている?
でも、しかし、この魔女はなにを言っているのだろうか?
姿を現せだのなんだのって?
オイラ、さっきからずっと魔女の目の前にいるじゃないか? 目の前でプカプカ浮かんでいるのが見えないの?
そもそも、すごい眼の色をしてオイラを睨んでいるくせに。
ふっと、魔女の膝の上にあるマントが眼に入った。
上空を吹き抜ける風になびいて、ヒラヒラと揺れている。
薄くぴらぴらのマント。あんな薄手では、マント本来の役割である防寒着としての用なんて、絶対に果たすことなんてできないだろう。
それより、なによりも、空の上を飛び回るとはいえ、今は、こんなマントが必要なほど寒いってわけでもない。こんなマントなんてまったく必要がないはず。なのに、この魔女はマントを膝にかけている。
これは一体……?
次の瞬間、オイラの記憶の中に、さっき、ご主人の小屋の書斎の中で見つけた魔道具のことが思い浮かんだ。
そうか! 魔法のマント!
確か、さっき読んだ本の中に、姿を消す魔法のマントのことが書いてあった。
ってことは、この魔女、このマントを着て、姿を消していたのか!
あっ! じゃっ、もしかして!?
こないだから町を荒らしまわっていた掃除道具入れ荒らしの犯人。姿を消した魔女って、やっぱり?
「なに、ぐずぐずしてるの! もう逃げられないことぐらい、アンタだって、分かっているんでしょ?」
魔女の言葉にとげとげしさが加わっていく。
え、えっと、一体、オイラにどうしろと?
なにをオイラはぐずぐずしていたのだろう?
なんで魔女がオイラにイライラしているのだろう?
分からない……
おそらく、オイラが探していた掃除道具入れ荒しの犯人である魔女は、こいつだ。そして、この魔女もなぜかオイラを探していて、ついにオイラを捕まえることに成功した。
でも、オイラは、目の前にいるこんな魔女とは面識がない。はじめて見る相手。
しかも、魔女はオイラに何かをするように求めているけど、一体、なにをすればいいのかわからない。
ま、まさか、初対面だから、初めましての挨拶でもしろと?
魔女の目をみる。悪意のこもった今にも取り殺してやろうとでも言うような眼の色。
そんなわけないか……
だんだん、魔女の眼の色に険しさが増してくる。
うっ、はやく何か行動を起こさなければ、やばいかも! オイラ、この魔女に消されてしまうかも!
なにを一体…… なにをすれば……
オイラは、ヒントを求めてあちこちに視線を送る。
夕焼け空を背景に浮かぶ真っ黒な雲たち。地平線にしずむ寸前の夕日の弱々しい最後の光を反射する眼下の湖のキラキラとしたさざなみ。その湖を囲む、モコモコとした真っ黒いシミのような森。
ヒントなんてなにもない。
目の前にいるのは魔女。
鋭い視線で、オイラを射すくめ続ける。その視線だけで、オイラの体はバラバラに打ち砕かれそうだ。いや、おそらく、魔女の思考の中では、すでにオイラの体などバキバキとへし折り、ゴミのように辺りに捨て去られているのだろう。
はやく、魔女の期待することを見つけないと、実際にそうなってしまう!
そんなのは嫌だ! 早く! 早く!
焦ってきた!
ふと目に付いて、魔女の尻の下にいるオイラの仲間にも声をかけてみる。
「なあ、オイラ、どうすればいいんだ? この魔女は、オイラになにを期待しているんだ?」もちろん、目の前の仲間は返事をくれることはなかった。
一体、なにを……
「いいわ、アンタがそのつもりだったら、あたしがそのアンタの正体を引っぺがしてやるわ!」
魔女はそう宣言した。そして、重心を軽く前にかけた。オイラに近寄ってくるつもりだ!
やばっ! 逃げなきゃ!
でも、オイラの体は動かない。
魔女の視線に射すくめられて、その場でピクリとも体を動かすことなんてできなかった。
「こんなことでつまらない怪我をしたとしても、恨むならアンタ自身の強情さをうらむんだわね。いい、いくわよ!」
オイラのすぐ隣に魔女の乗る箒が来た。
ん? 魔女が乗る?
箒は魔女を乗せて空を飛ぶ。箒は魔女の乗り物。魔女は箒に乗って飛び回る。
でも、オイラは一人で空を飛んでいる。だれもオイラに乗っていない。
空を飛ぶ箒と魔女は常に一対の存在のはず。なのに、オイラの場合には……
ハッとした。
そ、そうか!
その途端、オイラのすぐ隣に浮かんでいる太った魔女が、丸太ほどの太さの腕を振るった。
大きく腕を振るい、オイラの柄の上を水平に薙ぐ。
――ブンッ!
腕が風を切り裂く音が回りに響く。あんな強烈な腕の振りにぶつかったりしたら、どんな人間でも背骨を折られていることだろう。
でも、その腕は何者の背骨もへし折ることはなかった。空振りだった。
「……」
魔女は信じられないものでも見るように、自分の手とオイラの柄の上の何もない空間を交互に見つめている。
「えっと……?」
や、やっぱりそうか。そういうことだったんだ。
ようやく、オイラは理解した。
さっきからの魔女の発言はどういう意味だったのか、しっかりと納得した。この魔女はオイラの上に別の魔女が乗っていると考えていたのだ。たぶん、掃除道具入れを荒らして探し回っていた魔女が。この魔女がそうしていたように、何らかの方法を使って姿を消し、オイラに乗って空に浮かんでいると。
だからこそ、さっきのような姿を現せって要求になったのだ。
そ、そうか。そうだったのか……
ようやく魔女の言葉を理解したオイラとは違って、当の魔女の方はひどく面食らっているようだ。困惑し、混乱し、驚いている。
それはそうだろう。本来、あるべきはずのところに魔女の体がなく、腕の攻撃に手ごたえがまったくなかったのだから。
「ど、どういうことだい?」
じっと今振り回した腕を見ている。
やがて、もう一度腕を振る。
さっきの軌道のすこし下を撫でるように、オイラの上の何もない空間を薙ぐ。慎重に。さらに、もう一度。そして、もう一度。
しだいに、魔女の血の気のない顔色に朱の色が滲んでくる。眼の中にすさまじい呪詛の色が現れてくる。
こ、これはやばいかも!
もし、この腕がそのまま垂直に下へ振りおろされたりしたら、その先にあるオイラの柄なんか……
「お、おのれ……」
オイラは恐怖を覚えていた。そして、ありとあらゆる神さまに魔女の腕が振り下ろされないことを祈っていた。
「こ、この西の海の魔女・エルザ様とあろうものが……」
ど、どうか、神様、ご主人様、オイラを、オイラをお守りください! この魔女が腕を振り下ろそうなんて考えないようにしてください!
魔女は眼を剥き、唇をかんでいる。
「あいつめ! あいつめ!」
どうか、どうか、神様、ご主人様!
そういえば、オイラたちがいま厄介になっているのは神殿だったっけ。近くを流れる河の女神・フィオーレ。
フィ、フィオーレ様、初めてお祈りを捧げます。どうか、オイラを、オイラをお救いください!
思わず、トマスの顔が思い浮かぶ。フィオーリアの底意地の悪い笑顔がちらつく。な、なにか不吉な……
あ、なし、なし! 今のなし! トマスごときが司祭見習いでいられるような教団の女神だなんて! フィオーリアの名前の由来にあたる神様なんて! 縁起でもない!
「こんな幼稚な手を仕掛けやがって! あいつめ、あいつめ! 絶対、捕まえて、目にもの見せてやる!」
不意にジロリと魔女がオイラを見下ろす。
柄を強烈な寒気が貫く。
オイラの柄の上空に魔女の腕が伸びる。
ウッ!
そのまま、ゆっくりと下へ、しだいに加速をつけて、オイラの柄の方向へ。
あ、う、ウソです! ウソです! トマスは賢いいいヤツです。フィオーリアは素直なよい娘です。だから、だから、オイラはフィオーレ女神のことを信じています! 心の底から信じています!
お願いだから、オイラのことを! オイラのことを!
ひぃっ!!
オイラが思わず悲鳴を上げた途端、オイラの柄は魔女の大きな手に包まれていた。
魔女の大きな手がオイラの体をとらえている。
そして、胸元に引き寄せて、両手でオイラの柄をガッチリと掴んだ。
グッ! これじゃぁ、逃げるなんてもう無理……
なんで、さっきオイラ逃げなかったんだろう。魔女に睨まれたぐらいで動けなくなるなんて。
あのとき、勇気を振り絞って逃げ出していれば、今頃、オイラは自由に空を飛び回って、逃げ回って。
でも、すでに気が付いている。
もし、そんなことをしていれば、確実に問答無用で魔女の攻撃魔法をお見舞いされ、今頃オイラはあの世の空を自由に飛びまわっていたに違いない。
さっき逃げなかったのは正しい選択だった。正しい選択だった。でも、それでもやっぱり、オイラは激しく後悔した。もう後の祭りだった。
魔女は、オイラを両手で掴んだまま、唇をかんでいる。
「こんな、つまらない囮を使いやがって!」
ギリギリとその両手を搾ってくる。
オイラは雑巾扱い。同じ掃除で使う道具とはいえ、オイラは箒なんだけどなぁ~
って、そんなことをうっすらと思っている場合ではなくて。
柄、柄が折れるぅ~!
「あいつめ! あいつめ! あいつめ!」
オイラの体内からギシギシという不吉な音が聞こえてくる。
お、お助けぇ~!! 神様! 魔女様! ご主人様!
「あいつめ! あいつめ!」
不意に、魔女の手の締め付ける力が緩んだ。その代わり、魔女の視線が手の中のオイラをギロリと睨んでいる。
ウッ! 柄の中を恐怖が駆け抜けていく。
冷や汗タラリ…… って、そんな機能はないのだけど。
魔女は、ちょっと胸元から離して、オイラの全身をじっくりと観察し始めた。
それから何かを考えるような表情。
「ったく! 大体、そうだわさ。こんな廃棄寸前のボロボロ箒になんか、あの見栄っ張りのやつめが乗っているはずなんてないわさ……」
なんか、さらりとひどいことを言われた気がするのだけど、今はそんな場合ではなくて……
ま、魔女様、お美しい魔女様、この際だから、今のオイラに対する悪口、聞かなかったことにして水に流しますから、命ばかりはお助けを!
って、オイラの声は魔女には聞こえない。
無駄な命乞いをしてないで、なんとか、この状況から逃れる方法を考えねば!
こんなバカ力の魔女なんかに絞め殺されるなんて、真っ平だ!
どうにかして、この万力みたいな魔女の手から脱出する方法はないだろうか?
なにか役に立ちそうな手段は?
オイラは、必死になって今まで覚えた魔法を総ざらえし、こんな場合に役立ちそうな魔法を探したのだが、なにも思い浮かばない。
ファイアーボールの攻撃魔法は? 雷撃は? 飛行の呪文は?
だめだ、こんな至近距離で攻撃なんぞしたら、オイラまで巻き込まれてしまう。大体、今は空に浮かんでいる。飛行の呪文をつかっても意味がない。
ゴーレムの魔法。
って、ここは空中。ゴーレムのもとになる泥ははるか下、近くにない!
さっき、ご主人の小屋の中で読んだ書物の魔法の数々は?
ダメだ!
姿を消すなんて、掴まれている状態で行っても、なんにもならない!
なんてこった! 使える魔法なんてなにもない。
グッ! 万事窮す!
オイラは死の恐怖に怯えながら魔女を見上げているしかなかった。
――チッ!
魔女が舌打ちした。
それから、オイラを掴んでいる場所を変える。
オイラの柄の上部の方と毛の付いている傍……
って、それって……
オイラの体を掴んだまま乱暴に両手で空中に掲げる。下を見ると、ぶつけられると痛そうな、というか、ただでは済まなそうな硬くこわばった膝頭。
魔女の意図は明らかだ!
ギャッアアアァァァ~~~~!!!!
お助けぇ~! 後生ですから、お助けくださーい!
魔女様、魔女様! 魅力的な素敵な魔女様! オイラを膝にぶち当てないでください! オイラをへし折らないでください! 魔女様、魔女様ぁ~~!!
オイラは必死に命乞いをする。でも、魔女は無慈悲に……
一旦、背伸びするように伸び上がって反動をつけてから、オイラをしっかりと掴んだまま、膝に向かって振り下ろす!
オイラの体が、すごい勢いで膝頭に近づく。
ギャッ、ギャァァアアアア~~~~!!!!
オイラの悲鳴が辺りに響いた。
も、もうだめだ…… ご、ご主人さま……
オイラの体の下すぐのところに魔女の膝頭が見える。
握りこぶし一つ分ぐらいだけしか離れていない。でも、そこからはピクリとも動かない。膝頭の方向へ近寄っていかない。
膝頭に打ち付けられる寸前でオイラの体が止まったのだ。オイラの柄を折ってしまうのを、魔女が突然中止したのだ。
「おっと、すごい風だねぇ~」
すぐに魔女がオイラをへし折るのを中止した理由が分かった。
寸前に、なんの予告もなく突風が吹きつけてきたので、魔女が空中でバランスを崩したのが原因だった。
「チッ! なんだい、急に、この風は!」
忌々しげに周囲を見回す。でも、もちろん、魔女であっても、風なんて見えるはずもない。
ふっと、一瞬なにか考えるような顔をした。そして、ニヤリと片頬だけで笑った。
「そうかい。そういうことかい」
つぶやくように言った後、拍子抜けしたような表情を浮かべて、
「ったく! やってらんないわ! 風のせいで、やる気が失せちゃったじゃない! あいつのボロ箒をぶっ壊してやろうと思ってたのにさ!」
不満そうに唇を尖らせ、オイラをゆっくりとその膝の上に置いた。もう、オイラをへし折ろうなどという悪意は感じられない優しげな手つきだった。
いたっ!
魔女、オイラの毛を一本引き抜いた。そのまま、抜いた毛をどこかへしまった。
「さて、ついでだわさ」
そう言うと、オイラの柄から両手を放し、オイラのすぐ上にかざす。
途端に、何かがオイラの中に侵入してくる感覚が……
こ、これって。
オイラの中に何かが注ぎ込まれてくる。なにかが、オイラの中に満たされていく。
前にもこれに似た経験があったような。
『しゅぅぅぅぅ~~~~』なにかがしぼんでいくような音を聞いた気が。
って、空耳か。そういえば、あの襲撃の最中に、レオンのメダカ・クラウゾーとかいう魔剣から、魔力をオイラの体の中に移し変えたときにも、これと同じ感覚を味わったのだっけ。
ってことは、これは、ひょっとして?
だんだん、オイラの中になにかが溜まっていく。それに比例するように、オイラの活力がみなぎってくるような。
間違いない。この魔女は、オイラの中に自分の魔力を注ぎこんでくれているのだ!
ご主人がいなくなって、魔力の補給が困難になっているオイラのために、この魔女はその魔力を注ぎ込んでくれているのだ!
……
これは一体?
なんでそんなことを?
オイラとしては、命を永らえさせてくれただけでなく、オイラの命の源である魔力を満たしてくれているなんて、ありがたい限りなんだけど。感謝のしようもないことなんだけど。
でも、さっきまで、それとは正反対にオイラをへし折ろうとしていたんだよ。オイラの命をとろうとしていたんだよ、この太った魔女は……
一体、なんのつもりで?
オイラの中は疑問符でいっぱいだった。
ゲプッ!
やがて、オイラの体の中に、魔力が許容量いっぱいまで注ぎ込まれた。
もう、お腹いっぱい。これ以上注ぎ込まれたら、オイラの体、裂けちゃうよ!
ハッ! そういうことか! そんなことが狙いか!
オイラの体に魔力を注ぎ込んで破裂させようと考えているのか!
でも、そういうことにはならなかった。
オイラの体が魔力でいっぱいになった途端、魔女はオイラにかざしていた手を引いた。
オイラの全身を眺め回し、満足げに一つうなずくと、
「うむ。さすが魔女の使う箒だわさ。たったこれだけで色艶も見違えるように良くなったわえ」
ニコニコと笑顔を浮かべている。
「ほら、どこへなりと飛んでおゆき!」
そして、オイラの体を片手で掴むと、投球モーションをつけて、あらぬ方向へ投げ捨てた。
えっ!?
驚いた! 本当にいいのか?
折角、オイラを捕まえたのに、アンタ、オイラをそんなに簡単に逃がしていいのか?
オイラは自分の幸運が信じられなかった。そして、それ以上に気前が良すぎる魔女の行動が理解できなかった。
なにか、裏がある。なにか……
魔女は満面の笑みを浮かべている。でも、その目は笑ってなんかいない。見るものを凍らすような冷ややかで、憎悪に満ちた色をしている。
その魔女の笑顔を見ているうちに、オイラは気がついた。
魔女の唇が小さく動いている。
呪文だ!
なにかの呪文を唱えているのだ!
その唇の動きを追っているうちに、いくつかの特徴的なフレーズに気が付く。オイラの知っている魔法。それも、攻撃魔法。
『ほら、どこへなりと飛んでおゆき!』なんて、嘘っぱちだ!
オイラが、このチャンスに慌てて魔女から離れ逃げていこうとすると、背後から攻撃されるという寸法だ!
グッ! ワナか。
で、でも、この機会に逃げ出さないと、もう逃げていくチャンスはないかもしれない。ワナだと分かっていても飛び込まなくてはいけない……
オイラは覚悟を決めた。
そして、シッポを巻いて逃げ出すことにした。
魔女の放つ攻撃魔法が失敗に終わることを願って。
オイラは体の向きを西へ向けた。
ゆっくりと、ゆっくりと魔女がいる空間から離れていく。
背後から相当なプレッシャーが……
オイラを攻撃するタイミングを見計って魔女がオイラを見つめているのだ。当然といえば当然。
ここで、慌て、焦って逃げ出そうというそぶりを見せたりなぞしたら、遠慮なく、魔女は攻撃魔法をぶっ放してくるに違いない。
焦る気持ちを抑え、冷静に、慎重に、カタツムリが這うようなノロノロとしたスピードで、ゆっくりと、ゆっくりと、その場を離れなければ……
魔女からオイラは数センチ単位でゆっくりと離れていった。
息がつまるような緊張。
魔女が舌なめずりしている。目を細め、楽しげに微笑んでいるが、真剣な目の色。
獲物をなぶって遊ぶ、猛禽の眼。
って、鷹や鷲が獲物をなぶるなんて悪趣味なことをするとは聞いたことはないのだけど。
やがて、魔女が両手を振り回しても届きそうにないぐらいの距離まで離れた。
ほんのちょっとだけ、移動のスピードを上げる。
魔女め、口元がピクピク動き始めた。
オイラの柄の中を寒気が駆け上がる。
もうすぐだ!
オイラは覚悟を決める。
魔女から人間の身長の倍ほどの距離まで離れた。
「世界中のあらゆる神様、オイラに幸運を!」
オイラはそっとつぶやく。
そして、オイラは重心を思い切って前に押しやった。
――ダッ!
ロケットのごとく、前方へのダッシュがはじまる。見る見る背後の魔女から、離れていく!
まだだ! まだ、こんな距離じゃ、魔法の餌食だ!
もっと早く、もっと遠くへ!
でも、オイラが頭の中で思い描いていたほどには、加速がつかない。魔女から逃げられない。
魔女がゆっくりと腕をあげ、オイラにむかって伸ばした。
大声で呪文の最後の部分を叫ぶ。
次の瞬間、オイラの周囲がピカッと光った。
それがオイラに見えた最後の光景だった。
東の山の中の魔女の小屋から箒が出発した後、近くの森の木の枝にとまって小屋を監視し、箒を追跡しようとしていたカラスの元へシルフは忍び寄っていった。
箒が飛び立ったので、それを追おうと、羽ばたきを始めたカラス。
そこへ、シルフは殺到し、体当たりを浴びせる。
鳥にとって、飛び上がる瞬間というのは、一番バランスが悪い瞬間。
翼がキチンと空気を捉えていないし、かといって飛び上がろうと足を放す寸前なので、踏ん張りも利かない。
そんな瞬間に、風の精霊シルフが襲ってきたのだ。つまり、突風が吹きつけたのだ。
――カァアアァァァ~~~~!?
次の瞬間には、カラスは足を踏み外し、止まっていた太い枝から体がずり落ち、空中に投げ出される。
慌てて、羽をバタバタさせるが、そんなのはまったく役に立たない。
すごい勢いで、カラスの体が地面へ引き寄せられていく。
森の木々から放れた落ち葉が降り積もり、腐った腐葉土の森の地面は、枝から真っ逆さまに落ちたカラスの体をふんわりと受け止めた。
でも、それでも、眼から火花がでるほどの衝撃をカラスは受けた。
――カッ……
ともあれ、翼を地面につけて、なんとか立ち上がる。
だが、いつまでも地面にへたり込んでいたのでは、森の肉食動物に見つかって襲われるかもしれない。
なんとか、地面を離れて、飛び上がらねば!
――カァ~~~~
カラスは一声鳴いた。それから羽をバタつかせ、地面を蹴り、宙に浮かんだ。もう、突風は襲ってこない。
そして、もちろん上空には、どこにも箒の姿などなかった。
一方、カラスを地面に叩き落としたシルフは、さっさとその場を後にして、箒の後を追った。
ようやく追いついたときには、すでに魔女の手の中。しかも、険悪な雰囲気。
シルフは慌てた。
なんとか箒を助けようと、魔女に突進していった。
今度はカラスとは違う。
全力でぶつかっていったのに、魔女を叩き落すなんてできなかった。
それでも、なんとか魔女が箒をへし折るのを阻止することぐらいはできたようだ。
ホッとして見ていると、魔女が箒を手放した。
「ほら、どこへなりと飛んでおゆき!」
でも、魔女がなにか呪文のようなものを口の中で唱えているのに気が付く。
――ダメ! 魔女のいうことなんか、信じちゃいけない!
シルフはそう叫ぼうとした。でも、さっき全速力で小屋から飛んできた上に、全力で魔女に向かって突進していった。
疲れが全身にオリのように溜まり、なにも口にできない。声がでない。
絶望の心境に叩き落とされながら、魔女と箒の様子を見ているしかなかった。
そして、魔女の呪文が完成し、その伸ばした手から、電撃が空間を走り抜ける。
直後に、箒の全身をまばゆい電光が包み込んだ。
――バチンッ!!
シルフの眼には全てがスローモーションのように見えていた。
一瞬の後、ゆっくりと、箒の体が高度を失っていく。
大地の引力に引き寄せられ、加速がつけられ、地面へ向かっていく。
体のあちこちからプスプスと煙の尾を引きながら……
「ほ、箒――!!」
魔女の見ている目の前で、まばゆい電光に包まれて、箒が地面へ向かって落ちていく。
電光が消えた後に、箒の体からは白い煙が立ち上り、落ちていく箒の後ろに尾を引いている。
しばらくしてから、地面の方から、バサリという大きな音が聞こえてきた。墜落した箒が地面に激突したのだろう。
魔女は満足そうに微笑んだ。
その眼は満足そうであり、そして、残虐そうな光を宿している。
ようやく、魔女は、水平に伸ばした腕をゆっくりと下ろした。それから、フッと小さく息を吐き出した。
途端に、魔女の肩の辺りが揺れ始める。
不意に視線を落とし、顔を伏せ、まさに沈もうとしている太陽の光から自分の顔を隠した。でも、肩の揺れは、しだいに大きくなりこそすれ、収まっていく気配もない。
ついに、太陽は最後の残光を辺りに放ち、そして、西の水平線へ沈んでいった。
その瞬間、冷たい風が吹き抜ける。先ほどの突風とは違って、薄い白髪をたなびかせる程度の弱い風。
西の空に浮かんだ雲の下の部分がまだ赤く光っているが、急速にあたりの景色に闇の色が覆いかぶさり、魔女のいる上空からは、なにも動いているものを見分けることはできない。
と、魔女が肩の揺れがピタリと止まった。大きく息を吸い込む。
グイッと勢いよく顔を持ち上げた。
「グハハハ! 見たか! どうせお前のことだから、近くで隠れて見てたんだろ? お前の箒を丸焼きにしてやったわ! わかってるんだろ? お前が逃げ隠れし続けて、いい加減、あたしのアイスクリスタルを返そうとしないから、こんなことになったのよ? いい? お前がこのままいつまでも隠れているつもりなら、今の箒だけじゃすまさないわよ! お前の大事なもの、なんでも、あの小屋も、畑も、何もかも、あの箒と同じ眼にあわせてやるわ! 覚悟しなさい!」
魔女はぐるりと周りの空間を見回して、勝ち誇ったように叫んでいた。
「そう、なにもかもよ! お前のものはなにもかも!」
でも、そんな魔女に応える声なんてない。
魔女は眉根を寄せ、すこし考える風を見せる。
「そ、まだ、隠れているつもりなのね? いいわ!」
――フンッ!
さもバカにしたように、鼻を鳴らす。
でも、まったく反応はない。
魔女は目をパチパチと何度もまたたかせた。
と、北東のもうとっぷりと日の暮れた暗い空に、それよりも黒い小さなシミのような点が見えてきた。
魔女は目ざとく見つけ、その方向を目を細めて眺めた。無意識の仕草なのか、ゆっくりと舌なめずりする。それから、なにか口の中で呪文のようなものを唱え始めたようだ。
しだいに黒いシミが大きくなってくる。近づいてきたのだ。
次の瞬間、
――カァアアァァ~~~~!!
途端に魔女は落胆の表情を浮かべた。
――カァアアァァ~~~~!!
カラスだった。もう、カラスのシルエットがはっきりと分かるぐらいまで近寄ってきている。
魔女は、ため息を一つ吐き、首を振った。そして、カラスに向かって、厳しい声をかけた。
「クロウ、遅かったわね。なにしてたの?」
――カァア~~
カラスが申し訳なさそうに、クビを垂れている。
魔女は一瞬、不可解そうな表情を浮かべ、クビをひねった。でも、
「ま、いいわ。そろそろ帰るわよ。ついてらっしゃい!」
カラスに軽く合図すると、乗っている箒の先を、日が暮れて暗くなり始めた全天の中で唯一まだ赤い光を宿している西の空へ向けた。
それから、もう一度、最後にぐるりと周囲を見回し、クビを振った。もう、辺りはなにも見分けることができないような暗闇。
「覚えてらっしゃい! もう容赦しないわよ!」
そう魔女が小さくつぶやいたのを聞いたのは、カラスだけだった。
――カァア~~
東の空には、すでに、気が早い星がまたたき始めていた。
シルフの目の前をプスプスと白い煙を上げて箒が墜落していく。
錐もみ状態。
柄を下にして、クルクルと勢いよく回っている。しかも、その墜落速度が引力に引かれどんどん加速されていく。
いつもなら、すぐに追いついて、落下自体を止めることができにないにしても、落下速度ぐらいは落とせる程度の距離。でも今は、シルフの体は鉛のように重い。
ジリジリとしか箒に近づいていけない。
それでも、なんとか力を振り絞って、箒の下へもぐりこむ。
「箒、箒、しっかりして!」
シルフの脳裏に箒と初めて出会い、言葉を交わしときから、今までの出来事が走馬灯のように思い浮かぶ。
シルフにとって、ずっと苦楽をともにしつづけてきた仲間。二者しかいない自分の言葉を理解できる存在。決してなくしてはいけない友達。
「箒―! 箒―!」
シルフは叫び続けていた。
疲れで重い体を叱咤し、使役し、なんとか箒の落下を食い止めようとした。
でも、箒は返事をしないし、落下の速度も大して落ちない。
このまま地面に激突したのでは、いかに木製の箒とはいえ、その柄を折り、こなごなに砕け散ってしまうだろう。
嫌な予感が、シルフの中を駆け巡る。
「アンタ、なにしてるの! 目を覚ましなさいよ! 目を覚まして、魔法で飛びなさいよ! アンタ、それでも魔法の箒なんでしょ?」
シルフの必死の呼びかけにも、箒は死んだように沈黙を守ったまま、身動き一つしない。
そうこうするうちに、急激に地面が近づいてくる。
おそらく落下地点は大きな湖の脇に広がる森の中。
まだ、森から外れて、湖の中に落ちれば、箒が助かるチャンスもあるかもしれない。
でも、湖に落ちたとして、柄を折らず、粉々に砕けなかったとして、本当にそれには意味があるのだろうか?
さっき魔女に電撃を浴びせられたのだぞ!
あの瞬間に箒の命が吹き飛んでしまっていたのなら……
絶望感がシルフを浸し、全身から力を抜けさせる。
――バカ! そんなことを考えている場合じゃないわ! こいつを助けなくちゃ!
シルフは残っている最後の力を振り絞って、落下の方向を変えようと努力した。
でも、その努力の効果がほとんど発揮されもしないうちに、眼下に高い木が迫ってくる。
――バササッッッ!!!!
高い木から張り出した大きな枝に箒が突っ込んでいく。
青々と茂った葉っぱがシルフの視界をさえぎり、箒の姿をシルフから見えなくする。
枝が大きくしなった。それでも、箒の落下エネルギーを受け止め切れなくて……
――ボキンッ!
不吉な大きな音が静かな森中に響き渡る。
「う、ウソッ!」
シルフの中で、箒の柄が無残に折れ曲がった姿がまざまざと浮かぶ。
次の瞬間、シルフの視界の中で枝全体が沈み始めた。
「えっ!?」
バサバサと葉っぱを空気にもてあそばれながら、地面へ向かって、枝が落ちていく。
そう、箒の落下エネルギーを受け止めきれずに、森の木の枝が折れてしまったのだった。
――バササッ!
次の瞬間、大きな音を立てて、太い枝が地面を打った。
ホコリと乾いた落ち葉が辺りに舞い上がる。
シルフは呆然と枝が落ちるのを見ていた。が、ハッとなって、慌てて落ちた枝のところまで下りていった。
この枝の中に箒が巻き込まれているはずなのだから。
落ちた枝は、大人の人間の男の腕ほどもありそうな太いもの。
人の背丈の三倍ほどに張り出して、いっぱいに青々とした葉を茂らせている。
もうもうとホコリが立ち込めているが、やがて、湖の方から爽やかな風が吹き付けてきて、ホコリを森の奥の方へと押しやっていった。
いた!
箒が落ちたのは、枝の中ほど、小枝と小枝の股に挟まって突き立っている。
「箒! 箒!」
シルフは近寄って、必死に声をかけた。
もう既に箒の体からは煙が立ち上ってはいない。
その柄の中で、全てを焼き尽くす炎が燃え上がっているというわけでもなさそうだ。
周囲から観察する限りは、柄は折れ曲がったりはしていないし、毛も失っているようには見えない。
シルフの眼には、まったくの無傷に見える。
でも、箒は身動きをしないし、シルフの必死の呼びかけにも返事をしない。
「箒! 箒ーッ!」
箒の体に寄り添うように、体を当てる。
途端に、小枝の股に挟まって突き立っていた箒の体が、ゆっくりと倒れ始めた。
――パタンッ
小さな乾いた音を立てて、箒が地面に横倒しになる。
それでも、箒は身動き一つしないのだった。
「ほ、箒ーッ! い、いやだぁ~! ほ、箒ーッ!」
シルフの絶叫が、陽が沈んで真っ黒な森の中に響いていた。
でも、そのシルフの声を耳にできるものは、この森の中にはいなかった。
――ほ、箒ーッ! い、いやだぁ~! ほ、箒ーッ!
ん? だれだよ、近くで騒いでいるの! 全然、眠れないじゃないか! うるせぇなぁ~
オイラは、半分気を失ったまま横たわっていた。
「箒―ッ! 箒ーッ!」
ったく! そんなに呼ばなくても聞こえてるってーの!
オイラは、まわりを見回した。
何も見えない。真っ黒!
え? なんで…… も、もしかして、オイラ見えなくなったのか!
ふっと、上の方で、チラチラとした淡い光が見えるのに気が付いた。
……
じっとその光を見つめる。
場所は動かないが、またたいているように見える小さな光。よく見ると、その光の近くにも、いくつも同じような光が見えるような……
アッ! 星かぁ~!
ほっとした。オイラ見えなくなったわけじゃないようだ。
ん? でも、なんでオイラの周りこんなに暗いんだ?
こんなに暗いんじゃ、オイラのことをすぐ近くで呼んで叫んでいるヤツの姿すら見えないじゃないか! 『うるさいッ!』って文句をいってやりたいのだけど……
「箒―ッ! ……」
不意に、オイラのそばのうるさく呼ぶ声、止んだ。
ふぅ~、やっと静かになったか。これで落ち着いて寝てられる。助かった。そして、オイラは胸の中で小さく『おやすみ』と言って、体から力を抜こうと……
次の瞬間、オイラの体、宙に投げ出された。
ブゥオオォォォ~~~~
ものすごい突風が吹きつけて、オイラの体をさらう。
クルクルと回るつむじ風に巻き込まれ、目が回る。気分わるい!
「箒ッ! 箒ッ! 箒ッ! 箒が生きてた!」
どこからか、誰かのうれしげな声が……
一瞬遅れて気が付いた。
アッ、そうか! この声って、シルフさんの!
「箒ッ! よかった! よかったよぉ~!」
すごくうれしそうだ。
でも、オイラの気分としては、そろそろオイラを振り回すの止めてほしいのだけど……
吐きそう……
オエェェェ~~~~
結局、オイラ、散々、シルフさんの喜びのつむじ風に振り回された。そして、最後には、近くの木に思いっきり強く叩きつけられた。
グェッ!
柄が折れるかと思った。
「箒、大丈夫?」
いいえ、大丈夫じゃないです。今、オイラ、死んでしまいました。
「クスッ。そんなこと言えるのなら、大丈夫ね」
って、そんなぁ~ もっといたわってくれよぉ~
オイラは、大きな木の根元に横たわったまま、心の中で泣いた。
って、木?
オイラの体の回りにはゴツゴツした無骨な木の根っこが広がっている。それに、近くではそよ風に吹かれて、乾いた落ち葉がカサカサ鳴っているようだ。
上空に見える星空も、よく見ると不規則な形に切り取られ、その縁がかすかな風にしなって、変化している。
これは…… ここは…… ここって、もしかして森の中?
「え? そうよ、もしかしなくても森の中よ」
なんで、オイラ、森の中になんか……
オイラは周囲の闇の中を改めて見回してみる。もちろん、何も見えない。
「……」
「なんで、オイラ、こんな場所にいるの?」
不思議に思いつつ、近くにいるはずのシルフさんに声をかけてみる。すると、なにか戸惑ったような声で返事が来た。
「アンタ、覚えてないの?」
「えっ? なにを?」
そう答えた途端、さっきの記憶が怒涛のように押し寄せる。
ピカッとオイラの体が光ったこと。電撃の攻撃魔法を受けたのだ。
でも、だれに……
そうか! 魔女だ! あの掃除道具入れを荒らしまわっていた太った魔女に。
あの魔女につかまって逃げようとして、そして攻撃を受けたのだ!
途端に、オイラの柄の中を寒気と震えが同時に貫きぬける。
お、オイラ、よく魔女の攻撃を受けて、生き延びることができたなぁ~
改めて、感心してしまう。
オイラの運の強さと生命力に。
「って、ホント、そうよねぇ~ アンタって、鬼のような強運と雑草のような生命力を持っているわよねぇ~」
って、ほっとけ!
あの時、オイラは、魔女が口の中で何の呪文を唱えているか気が付いていた。
電撃の攻撃魔法。
とっさにオイラは周囲に結界をはる呪文を唱え、防御した。
もし、あのとき、魔女が唱えたのが、呪文の短いファイアーボールの魔法だったなら、オイラの結界は間に合わなかったに違いない。
どんな攻撃魔法を撃ってくるか分かった瞬間には、オイラは丸こげになっていたに違いない。
でも、あの時、魔女が唱えたのは電撃。ファイアーボールよりも格段に呪文が長い魔法。おかげで結界が間に合った。幸運だった。幸運だったとしか言いようがない。
たぶん、魔女としては、離れたところから攻撃するから、短い距離とはいえ、時間をかけてその距離を飛んでいく分、回避されることもないとはいえないファイアーボールを選択するよりも、一瞬で走り抜けて、攻撃対象を貫く電撃の方を選んだのだろう。
それなら、確実に相手に攻撃を加えることができるのだから。
そして、その電撃は確実にオイラをとらえた。でも、オイラは一瞬早く結界をはり、防御した。
魔女対魔法生物であるオイラ。
普通なら、どんなに上手に結界を張ったとしても、魔女の繰り出す電撃魔法を受け止めるなんてできはしない。もちろん、あの時も、完全には防御しきることなんてできていない。でも、それでも助かったのは、あの直前、魔女がオイラの体の中を魔力で満たしてくれたから。あのおかげで、なんとか生き延びることができた。
おそらく、魔女としては、オイラの体内に魔力を満たすことで友好的な雰囲気をかもし出し、油断を誘おうという魂胆だったのだろうが。結果的には、それがオイラの命を救った。
オイラの体のあちこちにはまだ痛みがある。たぶん、明るいところで確認すれば、あちこち黒くすすけたり、焼き痕があったりするのだろう。
だが、オイラの被害は運よくその程度で済んだ。命に別状はなかった。
本当に、オイラは幸運だった。運がよかった。もし、また、同じようなことがあったなら、今度は絶対、やられてしまうだろう。
ゾッとして、オイラは身を震わすのだった。
でも、しかし、なんでオイラ森の中に?
そういえば、あの時、オイラの眼下には湖や森が広がっていたっけ?
ということは、オイラ、あの後、森に叩き落とされたのか?
「あ、うん、そうよ。アンタ、あの後、煙を噴き出しながら、ここまで落ちてきたの」
そ、そうなのか……
あっ? でも、オイラが飛んでいたのって、結構、上空の方だったのじゃ? いくらなんでも、あんなところから落ちたのじゃ、オイラの細い柄なんて……
一瞬、ポッキリと折れ曲がったオイラの姿を想像して、固まってしまう。
「ああ、それなら私が何とか下から支えようとしたし、ほら、向こう、大きな枝が落ちているの見えるでしょ? あれがクッションになってくれたのよ」
もちろん、オイラには暗くて落ちている枝の様子なんて見えない。
「え? どこ?」
「ほら、あそこ。って、ライティングの魔法を使いなさいよ。暗いなら」
「えっ? あ、そうか」
呪文を唱え始めようとして、ハッと気が付く。
あの魔女は? 近くに魔女がまだいるんじゃ?
「ああ、大丈夫よ。アンタのこと、叩き落したらすぐに、西の方へ飛んでいっちゃったもの」
そ、そうなのか……
オイラは、ホッと息をつき、それから明かりのためのライティングの呪文を唱えた。
オイラの生み出した明かりに照らされて、すこし離れた場所に無残に落ちている大きな枝が見えてくる。
みずみずしい青々とした葉っぱが茂り、力強く太い枝が広がっている。だが、そのもとの方には、ギザギザに裂き割れた茶色い木の肌が見えている。普段は幹とガッチリつながって、絶対に外からは見えないはずなのに……
オイラは、夢遊病者のようによろよろとその枝に近寄っていった。
「な、なんてことだ! 枝さん、オイラのために……」
枝のかたわらに呆然と立ち、悲しい思いで見下ろす。
「もうしわけない。オイラのために。オイラをかばうために、身を挺してくれて……」
オイラにもし眼なんてものがあったら、確実に、その眼の下から玉のような涙が滴り落ちていたことだろう。でも、オイラには眼なんてないわけで。
「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」
感動していた。感動で体が震えていた。
「って、なによ、まったく! そんな枝なんかんより、もっと感謝すべき相手がいるんじゃないの? ここに!」
シルフさんの冷たい声。
「え?」
「だれが、アンタのことを体を張って守ったと思っているのよ、まったくもう!」
あっ! そうか! そうだよね。オイラを受け止めた枝さんよりも、もっと感謝すべき相手がいたよね。すっかり失念していた。
だから、オイラは背筋を伸ばして歩き出す。その第一に感謝すべき相手に向かって。
「って、いいわよ、別に。改めて感謝してもらわなくったっても……」
なんだか、シルフさんの照れたような声が……
オイラは、その相手の前に立った。
そして、
「ありがとう。本当にありがとう。オイラを守ってくれて。大事な大事な枝を犠牲にしてくれて、木さん!」
強烈な突風が吹き付けて、その枝の折れた木の幹にオイラを叩き付けた。
じょ、冗談だったのに……
「フンだ! アンタなんか、二度と助けてやらないんだから!」