品川駅までお願い
濡れた髪からポタ、ポタと垂れ落ちる水滴の音に背筋を凍らせながらも、運転手は意を決してアクセルを踏み込んだ。
「品川駅……ですね」
震える声で確かめると、返事はなかった。ただ、ノイズの混じるスピーカーから「サーッ……」という濡れた呼吸音だけが聞こえてくる。
車を品川方面へ走らせながら、運転手はある胸騒ぎを覚えていた。品川駅港南口の近く、旧海岸通り沿いの運河。そこで数年前の雨の夜に起きた、未解決の事件を思い出したからだ。
当時、雨の夜にタクシーへ乗り込んだ一人の女性が、品川駅へ向かう途中で忽然と姿を消した。その後、運河から彼女の所持品と、濡れた衣類だけが引き揚げられたという。
(まさか、あの時の……?)
信号待ちでチラリと助手席の足元に目をやると、濡れたシートの染みが少しずつ広がり、つま先のような形を形作り始めていた。そして、スピーカーのノイズの中から、途切れ途切れの声が混じり始める。
「……あの日も、雨だった……」
声は徐々に鮮明になり、恨み節というよりは、どこか諦めに似た冷ややかなトーンで続いた。
「あの男は……ここで私を降ろさなかった……駅じゃない……海へ……」
その言葉で、すべての謎が繋がった。彼女は品川駅へ向かおうとしていたのではない。あの日、悪意を持ったドライバーによって目的地とは違う場所へ連れ去られ、奪われた「届くはずだった目的地」へ、今も向かい続けているのだ。
「着きますよ」
運転手は前を見据え、メーターを押し直した。バックミラーには相変わらず誰も映っていない。だが、助手席の冷気は不思議と恐怖ではなく、悲痛な執念の重みへと変わっていた。
やがて車は、夜の品川駅高輪口のロータリーへと滑り込んだ。
「品川駅です」
車を止めると、静寂が訪れた。スピーカーからのノイズも、呼吸音も、ピタリと止んでいる。
助手席を振り返ると、そこには濡れたシートの跡だけが残されていた。そして、濡れたダッシュボードの上に、古い千円札が一枚、ポツンと置かれていたのだった。




