氷の翼、君へ
氷上の翼、君へ 第1話〜第12話
第1話 氷の上に立つ理由
三月の朝、葛城蓮は古いリンクの扉を開けた。
冷たい空気が頬を打つ。白く霞む吐息。ひんやりとした匂い。それは、彼が五歳のころから親しんできた、氷の匂いだった。
蓮は二十歳だ。元フィギュアスケーター——それが今の彼の肩書きである。十四歳でジュニア全国優勝、十七歳でシニアグランプリシリーズ表彰台。将来の日本代表と騒がれた少年は、しかし十九歳の春、右膝の靭帯断裂という診断を受けた。二度の手術、八ヶ月のリハビリ。医師は「競技復帰は困難」と告げた。
夢が終わった日のことを、蓮はまだうまく言葉にできない。
だから今日、ここに来たのも、誰かに頼まれたわけではなかった。ただ、もう一度だけ氷の匂いを吸いたかっただけだ。そう思っていた——リンクの中を覗くまでは。
「もう一回! もう一回やらせてください!」
甲高い声が響く。蓮は思わず目を細めた。リンクの中央に、小柄な少女が一人、滑走していた。ショートカットに白いスケート靴。まだ中学生くらいだろうか。彼女は何度も何度も、同じジャンプを繰り返していた——そのたびに転び、しかし立ち上がり、また走り出す。
傍らに立っていた年配のコーチが、疲れたように首を振る。
「峰岸。もう練習時間は終わりだ。今日は上がれ」
「でも! トリプルルッツ、あと少しで……」
「あと少しって、一時間前から言ってるぞ」
少女——峰岸、と呼ばれた彼女は、くちびるをぎゅっと結んだ。それでも、すんなり諦めようとしない目の光を、蓮は見た。
懐かしい光だ、と思った。
かつて鏡の中で見た、あの少年の目と同じ。
コーチは蓮の存在に気づくと、ぱっと顔を明るくした。元スケーターの葛城蓮を、スケート界でまったく知らない人間はいない。
「おお、葛城くん! ちょうどよかった。実は相談があってな——」
その日から、蓮の新しい日々が始まった。
第2話 四人の教え子たち
「コーチ? 俺が?」
蓮は思わず聞き返した。年配のコーチ——長岡義雄、このリンクの主任指導員——は、うん、と頷いた。
「俺も来月で定年でな。後任が見つかるまで、短期間でいいんだ。ここの子たちを頼めないか」
「俺は指導の経験なんて……」
「技術は誰より知ってるだろ。それで十分だ」
翌朝、蓮はリンクに立った。集まった四人を前に、少し戸惑いながら挨拶する。
「えっと……葛城蓮です。今日から指導を担当します。よろしく」
四人は、それぞれ蓮を見上げていた。
一番前に立つのは昨日の少女、峰岸桜。十五歳、中学三年生。勝ち気な目をした、このグループのエース格だ。「コーチ、トリプルルッツを教えてもらえますか」と開口一番に言ってきた。
その隣は、白石凛。十四歳。静かで落ち着いた雰囲気を持つ少女で、滑りは四人の中で最も丁寧だ。「よろしくお願いします」と頭を下げた姿勢がきれいだった。
少し後ろに立っているのが、北川ひなた。十三歳。ふわふわした栗色の髪で、にこにこと蓮を見ている。「葛城コーチって、すごく有名な人なんですよね! 長岡先生が言ってました!」と元気よく言った。
最後の一人、月城夕。十四歳。三つ編みをきっちりまとめ、少し緊張したような表情で立っている。蓮と目が合うと、ぱっと視線をそらした。
「……よろしく、お願いします」小さな声だった。
四人四様。蓮は少し息を吸って、氷の上に一歩踏み出した。
スケート靴のエッジが、懐かしい音を立てた。
「じゃあ、まず全員の滑りを見せてくれ。一周ずつ」
最初の練習が始まった。
第3話 桜、転ぶ
「もう一回」
峰岸桜は、何度目かわからない言葉を言った。膝をついたまま、立ち上がって、また助走に入る。
トリプルルッツ——三回転の跳躍。彼女の課題であり、目標だった。地区大会まで残り三週間。それまでに試合に組み込みたいと、桜は言い張っている。
蓮は腕を組んで、その滑りを見ていた。
跳び上がる。回転する——そして着氷の瞬間、右エッジが微妙に傾いて、また転倒する。
「桜」
蓮はリンクに入り、彼女の隣にしゃがんだ。桜は悔しそうに唇を噛んでいる。
「踏み切りの角度が毎回ずれてる。見てるとわかる——右肩が引けるんだ、跳ぶ瞬間に」
「わかってます。でも体が……」
「わかってる、じゃなくて、感じてる、に変えないといけない」蓮は静かに言った。「頭でわかってても体は動かない。何百回も繰り返して、体が勝手に正しい形を選ぶようになって初めて、技術になる」
桜はしばらく黙った。
「……コーチは、すぐできたんですか」
蓮は少し考えてから、苦笑した。
「俺のトリプルルッツが安定したの、十二歳の秋だよ。練習ノートに二百七十三回って書いてあった。数えてたんだよな、当時は」
「にひゃく……」
「まだ桜は百回もいってないだろ」
桜はぽかんとしてから、ふっと笑った。不思議な笑顔だった——悔しさと、火がついたような何かが、混じっている。
「わかりました。数えます」
「よし」
蓮は立ち上がった。桜もすぐ立ち上がって、助走を始めた。
その日の練習が終わったとき、ノートには六十一、と書かれていた。
第4話 凛の静けさ、夕の涙
白石凛の滑りは美しかった。
エッジワークが丁寧で、姿勢が安定していて、音楽への乗り方も自然だ。蓮が「凛は完成度が高いな」と言うと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「コーチ。私、ジャンプが苦手なんです」
「知ってる。でも苦手って言えるのは、自分をよく見てるからだ」
「……怖いんです。跳ぶのが」
凛は静かに言った。淡々と、でも正直に。蓮はその言葉を受け止めた。
「どのくらいから?」
「去年、練習中に転んで、少し頭を打って。それから、ジャンプのたびに体が固くなって……」
「それは怖くて当然だよ」蓮は即座に言った。「そういう経験をした体は、自分を守ろうとする。悪いことじゃない。ただ、少しずつ慣らしていこう」
凛は小さく頷いた。その目に、ほんの少し安堵の色があった。
一方、月城夕は練習中、ずっと表情が暗かった。スケーティング自体は素直で、教えたことを真面目に吸収する。けれど何かが、彼女の動きをどこか小さくしていた。
練習後、一人残って氷を見つめている夕に、蓮は声をかけた。
「どうした。調子悪いか」
夕は首を振った。でも、しばらくして——ぽつり、と言った。
「……コーチ、私、今年で辞めようかと思ってるんです」
蓮は黙って続きを待った。
「桜ちゃんみたいに強くないし、凛ちゃんみたいに綺麗でもないし。私がスケートをやってる意味って……」
声が途切れた。目の端が赤くなっている。
蓮はしゃがんで、夕と目の高さを合わせた。
「俺は今日、夕の滑りを見てた。他の誰とも違う、夕だけの動き方があった。それを本人が気づいてないのは、もったいないと思う」
「……本当に?」
「本当に」
夕は目を伏せた。涙が、一粒だけ、氷の上に落ちた。
第5話 ひなたの笑顔と、隠れた努力
北川ひなたは、いつも笑っている。
練習中も、転んでも、注意されても——ふわっとした笑顔を崩さない。最初は蓮もそれが不思議だった。痛くないのか、悔しくないのか。
ある日、全員の練習が終わってリンクを離れた後、蓮は忘れ物に気づいて引き返した。すると、まだひなたがリンクに残っていた。
笑っていなかった。
一人で、真剣な目をして、ダブルアクセルの練習をしていた。何度も、何度も。唇を引き結んで、転ぶたびに即座に立ち上がって。
蓮は声をかけずに、しばらく見ていた。
十分後、ひなたがこちらに気づいた。
「あっ、コーチ!」
ぱっと、いつもの笑顔が戻る。
「みんながいるとき、笑ってるのは、心配させたくないから?」
ひなたは少し目を丸くした。それから、照れたように後ろ頭をかいた。
「……バレちゃいました? えっと、桜ちゃんも凛ちゃんも夕ちゃんも、みんな一生懸命なのに、私だけ足を引っ張ったら申し訳ないかなって」
「足を引っ張ってるか?」
「………………たぶん」
「俺には見えないけどな」蓮は言った。「それより、一人で残って練習するのはいい。でも転んで誰もいないとき、一人でリンクにいるのは危ないから、次からは声かけてくれ」
ひなたは目をぱちくりさせた。
「怒らないんですか?」
「なんで怒る。努力してるのを怒るやつがあるか」
ひなたはしばらく蓮を見ていた。それから、今日一番の笑顔を見せた——でも今度は、ただ明るいだけじゃない、少し違う、柔らかい笑顔だった。
「ありがとうございます。コーチ」
蓮は頷いて、「じゃあ一緒にやろう」と言った。二人の練習は、日が暮れるまで続いた。
第6話 初めての地区大会
地区大会当日、会場のリンクは独特の緊張感に満ちていた。
蓮は四人を連れて控え室に入りながら、選手だったころの感覚を思い出していた。あの胃がきゅっとなる感じ。氷の硬さが、いつもと違って見える感じ。
桜は気合いが入りすぎて肩が上がっていた。凛は静かだったが指先が冷たくなっている。ひなたは笑っているが足元が小刻みに揺れている。夕は——壁に背中をつけて、目を閉じていた。
「全員聞いてくれ」蓮は四人の前に立った。「今日の結果より、自分の滑りをちゃんとすることだけ考えてほしい。練習でできたことは、試合でもできる。それだけでいい」
桜が手を挙げた。「コーチは緊張しなかったんですか、試合のとき」
「めちゃくちゃした。毎回」
四人が少し笑った。空気が少し軽くなる。
「でも緊張してたほうが、俺はよく滑れた。体が本気になってる証拠だから」
試合が始まった。
桜はトリプルルッツを試みて——惜しくも回転が足りず転倒した。でも立ち上がってすぐ、残りのプログラムを最後まで滑り切った。
凛はジャンプで少し縮こまったが、エッジワークとスピンは会場で誰よりも美しかった。
ひなたは転ばなかった。満面の笑顔で滑ったプログラムは、観客席から拍手を引き出した。
夕は——静かに、丁寧に、自分の演技をした。表彰台には届かなかったけれど、滑り終えた後の彼女の顔は、今まで見た中で一番穏やかだった。
帰り道、桜が「悔しい」と言った。凛が「私もです」と言った。ひなたが「来年こそ!」と言った。夕が——少し間を置いてから、「私も、来年出たいです」と言った。
蓮は三人の顔を見た後、夕の言葉を反芻した。
辞めようかと思っていた子が、来年出たいと言っている。
それだけで、今日という日は充分だった。
第7話 ライバル現る
地区大会から二週間後、隣の区のリンクから移籍してきた少女がいた。
星野美咲。十五歳。桜と同い年で、同じ中学三年生。
最初の練習日、リンクに入ってきた彼女を見て、蓮は一目でわかった——この子は本物だ、と。重心が低く、エッジの乗り方が自然で、踏み切りに無駄がない。ジュニア全国大会の経験者と、長岡から聞いていた通りだった。
桜もわかったらしい。美咲がリンクに入ってきた瞬間から、目つきが変わっていた。
「葛城コーチ。あの子、強いですか」
「うん」蓮は正直に言った。「今の桜より上だと思う」
桜の顔がぴしりと固まった。
「……そうですか」
「でも半年後は知らない」
桜はちらりと蓮を見上げた。
「それって、私が追いつけるってことですか」
「追いつけるかどうかは桜次第だ。でも俺は、追いつく可能性があると思ってる」
美咲は物静かな少女だった。ライバル意識を外に出さず、黙々と練習する。でも桜への視線には、どこか値踏みするような、鋭い光があった。
練習後、二人が更衣室で鉢合わせになったらしく、どんな言葉が交わされたかは蓮には聞こえなかった。ただ、次の日から桜の練習に火がついたことは、リンクに立てばわかった。
凛、ひなた、夕もそれぞれ美咲の存在を意識し始めた。競争は、静かに、始まっていた。
ライバルとは、時に最高のコーチになる。蓮はそれを、自分の経験から知っていた。
第8話 夏の特訓
梅雨が明けて、夏が来た。
学校が夏休みに入ると、五人は午前と午後の二部練習に入った。蓮は朝七時にリンクに来て、夜は閉館まで残ることもあった。
五人の成長はそれぞれだった。
桜は七月の終わりに、ついにトリプルルッツを試合で使えるレベルに引き上げた。着氷の瞬間、リンクに響いたエッジ音は鋭く、美しかった。蓮は思わず拍手した。桜は照れて、でも誇らしそうに笑った。
凛はジャンプへの恐怖と、少しずつ向き合っていた。蓮は無理に跳ばせなかった。まず「転んでも安全な転び方」を繰り返し練習させた。体が転ぶことに慣れると、跳ぶことへの緊張が少しずつほぐれていった。
ひなたはダブルアクセルを夏の中ごろに成功させた。リンク中に「やったー!」という声が響き、全員が拍手した。美咲まで、珍しく口元をほころばせていた。
夕は蓮に言われた「夕だけの動き方」を、少しずつ自分で探し始めていた。じっくりと時間をかけて、丁寧に、体に問いかけるように滑る姿は、他の四人とは違う静かな存在感があった。
美咲は——黙って、誰よりも長く練習していた。朝一番に来て、最後に帰る。強くなるための方法を、自分で考えて、自分で試していた。
ある夜、全員が帰った後、蓮は一人でリンクに立った。
氷の上に、ゆっくりと、慣れ親しんだスケーティングをする。ジャンプはしない。ただ滑る。膝に少し違和感はあるが——それでも、氷の上は、やはり好きだった。
夏の夜のリンクは、静かで、冷たくて、蓮の一番好きな場所だった。
第9話 凛の挑戦
「コーチ、私、ダブルフリップを試合に入れたいです」
八月下旬のある練習後、凛は蓮に言った。
蓮は少し考えた。ダブルフリップは、踏み切りのタイミングが難しいジャンプだ。凛の技術では、今の段階でも不可能ではない。ただ、ジャンプへの恐怖がまだ残っている凛に、無理に勧めることはしたくなかった。
「凛が自分でやりたいと思ったなら、やってみよう。ただ、急がなくていい」
「急いでるんです」凛は珍しく、強い目で言った。「美咲ちゃんを見てると……私、ちゃんとやらないといけないと思って」
ライバルの存在が、凛を動かしていた。
練習が始まった。最初の数回は体が固まり、踏み切りが小さくなった。しかし蓮は「転んでいい」と繰り返し言い続けた。
「転んだら負けじゃない。転んで、何が悪かったかわかって、次に直す。それが練習だ」
凛は頷き、また助走に入った。
十五回目——踏み切りが決まった。体が浮いた。回転した。着氷——少しよろけたが、倒れなかった。
蓮は「そこ!」と声を上げた。
凛はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……跳べた」
「跳べた」
凛の目に、じわりと涙が滲んだ。彼女は慌てて目をこすった。
「す、すみません……なんか急に……」
「泣いていい」蓮は穏やかに言った。「それだけ頑張ったんだから」
凛は俯いて、小さく嗚咽した。その震える肩が、どれだけの時間と恐怖と向き合ってきたかを、物語っていた。
第10話 美咲の孤独
美咲は一人でいることが多かった。
練習中は五人の中に混じるが、練習前と後は距離を置く。桜たちが四人で話していると、少し離れたところで水を飲んでいたり、スマホを見ていたりする。
蓮はそれに気づいていたが、しばらく様子を見ていた。
ある日、ひなたが「美咲ちゃんって、お友達いないのかな」と心配そうに言った。桜は「放っておけばいい」と言いかけて、凛に軽く袖を引かれて、黙った。夕は何も言わなかったが、美咲の方をそっと見ていた。
翌日の練習後、蓮は美咲に声をかけた。
「練習の調子はどうだ」
「問題ありません」
「そうじゃなくて——ここは、どうだ」
美咲は少し目を細めた。
「……来たばかりで、まだ慣れてないだけです」
「うん。無理に仲良くしなくていい」蓮は言った。「でも、困ったことがあったら言ってくれ。俺はコーチとして、全員の話を聞く」
美咲はしばらく黙った。それから、少しだけ——本当に少しだけ——表情がほぐれた。
「……前のリンクで、仲いい子がいたんです。でも私が移籍することになって、その子と揉めて」
「そうか」
「だから、ここでも仲良くなって、また揉めるくらいなら、って……」
蓮は頷いた。急かさなかった。
「それはしんどい思いをしたな」
「……別に、大したことじゃないです」
でも、その声は少し震えていた。蓮はそれ以上何も言わなかった。言葉より、時間が必要なことを、蓮は知っていた。
次の日、ひなたが美咲に「一緒に準備運動しよ」と声をかけた。美咲は一瞬固まったが——断らなかった。
第11話 夕の演技、夕の言葉
秋になり、ブロック大会の選考が近づいてきた。
五人はそれぞれの新しいフリープログラムを仕上げる作業に入っていた。曲の選定から振り付けまで、蓮は一人一人と話し合いながら決めていった。
夕と向き合ったとき、蓮は驚いた。
夕が選んだ曲は、ピアノとチェロのための静かな協奏曲だった。派手さはない。でも聴いた瞬間、蓮の胸に何かが引っかかった。
「この曲、好きか?」
「はい。おじいちゃんがよく弾いていた曲なんです」夕は少し遠い目をした。「おじいちゃん、去年亡くなって……でも、この曲を滑ったら、なんか、ちゃんと届く気がして」
蓮は黙って聞いた。
「変ですか」
「変じゃない」
「スケートって、誰かに届くんでしょうか」
蓮はしばらく考えた。
「俺は、届くと思う」言葉を選びながら言った。「試合で滑ったとき、観客席が静かになる瞬間があった。みんなが息を止めて、俺の滑りだけを見てくれてる。あの瞬間、俺は確かに、何かを届けられてると感じた」
夕は黙って聞いていた。
「夕の滑りは、静かだ。でもその静けさの中に、ちゃんと何かがある。おじいさんもきっと、聴こえる」
夕の目が、じわりと潤んだ。でも今度は泣かなかった。
「……頑張ります」
その一言が、蓮には何より嬉しかった。
夕の練習が変わった。動きに、迷いが減り、代わりに何かが宿り始めた。言葉にするなら——祈り、のような何か。蓮にはそう見えた。
第12話 コーチの過去
ブロック大会の前日、桜が蓮に聞いた。
「コーチは、なんで現役を辞めたんですか」
練習後、リンクサイドで二人きりだった。他の四人はすでに着替えて帰っていた。
蓮は少し黙った。氷を見ながら、どう話すかを考えた。
「膝を壊した。靭帯断裂」
「……手術したんですか」
「二回。リハビリも長くかかった」
「それで、復帰できなかったんですか」
「医師には難しいと言われた。でも正直に言うと——」蓮は少し間を置いた。「怖かったんだと思う。手術した膝で、また跳んで、また壊れたら、って。競技スケーターとして戻ることより、そっちの恐怖の方が大きくなってた」
桜は黙って聞いていた。
「凛と、少し似てるかもしれないな」蓮は静かに言った。「怖いから固まる。体が自分を守ろうとする。それは弱さじゃなくて——人間だから、だと思う」
「コーチは、後悔してますか」
蓮はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
「……試合に出られなかったことは、悔しい。でも」彼は四人と、今日練習した時間を思い浮かべた。「ここで皆の滑りを見てるのは、悔しくない。むしろ、来てよかったと思う」
桜は少し目を細めた。
「コーチが来てくれてよかったです。私も」
素直な言葉だった。桜が誰かにそんなことを言うのは、おそらく珍しいことだと蓮にもわかった。
「ありがとう」
二人はしばらく、並んで氷を見ていた。明日の試合のことを、それぞれ、静かに思い描きながら。
――第1期・前半 終わり――
氷上の翼、君へ 第13話〜第24話
第13話 ブロック大会・前夜
ブロック大会の前夜、蓮はリンクの倉庫で翌日の段取りを確認していた。五人分のタイムスケジュール、ウォームアップの順番、それぞれの演技直前にかける言葉——手帳に書き込みながら、気づいたら深夜になっていた。
コーチとして初めて経験する、前日の夜だった。
選手だったころは、自分の恐怖だけを抱えていればよかった。でも今は五人分の重さがある。不思議と、嫌ではなかった。
スマホに通知が来た。桜からだった。
「明日、よろしくお願いします。コーチ、ちゃんと来てくれますよね」
蓮は苦笑して、「当たり前だ」と返信した。
すぐに既読がついて、「よかった」と一言だけ返ってきた。
続いてひなたから「緊張してきたー!でも楽しみ!」、凛から「明日もよろしくお願いします」、夕から「……頑張ります」。美咲からは何もなかったが、それが美咲らしかった。
蓮は手帳を閉じて、天井を見上げた。
正直に言えば、蓮自身も緊張していた。自分が滑るわけでもないのに、胃のあたりがざわついている。五人の滑りが、自分のことのように思えてならなかった。
いつの間にか、そういうふうになっていた。
指導を始めた当初は、数週間だけのつもりだった。しかし長岡から「もう少し頼む」と言われ、気がつけば半年が経っていた。引き止めたのは長岡だけではない。五人の成長を見たくて、蓮自身が、ここを離れられなくなっていた。
明日、全員が悔いなく滑れますように。
蓮はそう思いながら、リンクの電気を消した。
第14話 ブロック大会・本番
会場は地区大会よりずっと大きかった。観客席も、選手の数も、照明の明るさも、何もかもが一段階上だった。
五人の顔に、それぞれの緊張が出ていた。
蓮はウォームアップ中に一人ずつ声をかけた。桜には「肩を落として、息を吐いて」。凛には「怖かったら俺を見ろ、リンクサイドにいる」。ひなたには「いつも通り笑って滑れ、それだけでいい」。夕には「おじいさんに、届けて来い」。美咲には——少し迷ってから、「全部出し切れ」と言った。美咲は一瞬だけ目を細めて、頷いた。
競技が始まった。
ひなたが最初に滑った。会場の雰囲気に飲まれかけたが、最初の一歩で音楽に乗ると、あとは彼女らしい伸びやかな演技だった。転倒なし。終わった瞬間、本人が一番驚いた顔をしていた。
凛は緊張で少し硬かったが、ダブルフリップをクリーンに決めた。あのジャンプが、あの恐怖が、今日の氷の上で実を結んだ。蓮はリンクサイドで、拳を握った。
夕の演技は、会場を静かにした。祖父への曲が流れ始めた瞬間から、何か違う空気が漂った。完璧ではなかったが、夕だけが持つ静けさと祈りが、氷に溶けていた。演技が終わると、しばらく間があってから、大きな拍手が来た。
美咲は圧巻だった。全ジャンプをクリーンに決め、スピンの回転が速く、表現も力強かった。ブロック大会で上位に食い込む演技だった。
そして桜。
助走に入った瞬間から、蓮にはわかった——今日の桜は違う、と。踏み切り、跳躍、三回転、そして着氷——エッジが氷を鋭く捉えた。トリプルルッツ、成功。
リンクに響いた着氷音は、誰の耳にも届いたはずだった。
第15話 結果と、それぞれの涙
結果発表のとき、五人は並んで掲示板を見た。
美咲が二位。ブロック大会での二位は、地区の選手としては快挙に近い。
桜が五位。全国大会への切符には届かなかったが、自己ベストを大きく更新した。
凛が八位、ひなたが十一位、夕が十三位——三人とも、入賞こそ逃したが、それぞれが自分の壁を一つ越えた演技をした。
美咲は結果を確認すると、静かに蓮のそばに来た。
「全国、行けます」
「行ける。よくやった」
美咲は小さく頷いた。それだけだったが、その目に確かな光があった。
桜は五位という数字をしばらく見つめていた。唇を結んで、鼻の頭が少し赤くなっていた。蓮は黙って待った。
「……悔しい」
「うん」
「来年は、絶対全国行きます」
「うん」
桜はそれ以上泣かなかった。泣く代わりに、前を向いた。
ひなたは「十一位でした! 去年より全然上です!」と笑っていた。でも帰りの電車の中で、蓮の隣に座ってから、小さな声で「本当は、もっと上に行きたかったです」と言った。蓮は「来年、一緒に上を目指そう」と答えた。ひなたはこっくり頷いた。
夕は帰り道、空を見上げていた。
「おじいちゃんに、届いたかな」
「届いたと思う」蓮は言った。「会場が静かになったの、気づいてたか? あれは、夕の演技が届いてた証拠だよ」
夕は少し目を細めて、微笑んだ。
その笑顔を見たとき、蓮はふと思った。この仕事を、もう少し続けたいと。
第16話 美咲と桜、氷上の和解
ブロック大会が終わって、五人の空気が変わった。
特に目に見えて変わったのは、桜と美咲の関係だった。
大会後の最初の練習日、桜が先にリンクに来ていた美咲に声をかけた。
「美咲、全国頑張れよ」
美咲は少し驚いた顔をした。
「……ありがとう」
「私も来年は行くから。そのときはよろしく」
「……うん」
たったそれだけの会話だったが、蓮には二人の間にあった薄い氷が、音もなく溶けたように見えた。
その日の練習後、五人が初めて一緒に自販機の前でジュースを飲んだ。美咲はホットのコーンスープを選んで、少し離れて立っていたが——ひなたが「美咲ちゃん、コーンスープ好きなの? 私も!」と隣に来て、結局輪の中に巻き込まれていた。
蓮はその光景を遠くから見ていた。
五人が笑い声を上げている。美咲も、口元に小さな笑みを浮かべていた。
長岡老コーチが隣に来て、静かに言った。
「葛城くん、よくやってくれてるな」
「いえ、子どもたちが勝手に育ってるだけです」
「それを言えるようになったら、一人前のコーチだよ」長岡は笑った。「選手を育てるんじゃなくて、選手が育つ場所を作る。それがコーチの仕事だ」
蓮はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
育つ場所を、作る。
ならば自分は今、それができているだろうか。五人の笑い声を聞きながら、蓮はそっと考えた。
第17話 全国大会、美咲の舞台
全国ジュニア大会は、十二月の東京で行われた。
美咲の出場に、四人はリンクサイドで応援した。初めて四人が「チームとして」誰かを送り出す場面だった。
桜は「絶対いい演技してこい」と言った。凛は「応援してます」と言った。ひなたは「美咲ちゃーん!!」と大きな声で言った。夕は、美咲の手をそっと握って、一言だけ言った。「届けてきて」。
美咲の目が、少し揺れた。
「……うん」
リンクに出ていく美咲の背中を、蓮は見送った。半年前、一人で壁に背中をつけていた少女が、今は四人の友人を持って氷に立っている。
演技が始まった。
美咲は——美しかった。
全国の舞台で萎縮するかと思っていたが、むしろ伸び伸びと滑っていた。ジャンプは全て降りた。スピンのスピードは誰より速かった。そして最後のステップシークエンス、音楽に乗り切った美咲の動きは、蓮が見てきた中で最高のものだった。
演技終了。場内から拍手が来た。
美咲はリンクサイドに戻ってきた。目が赤くなっていた。美咲が泣くところを、蓮は初めて見た。
「……全部、出せました」
「見てた」蓮は言った。「最高だったよ」
ひなたが「美咲ちゃーん!!」と抱きついた。美咲は少し固まったが——振りほどかなかった。
結果は全国六位。表彰台には届かなかったが、全国の舞台で上位に食い込んだ十五歳の演技を、会場は確かに覚えていた。
第18話 蓮の決断
全国大会から戻った翌週、長岡が蓮を呼んだ。
「葛城くん、正式にここのコーチをやってもらえないか」
蓮は驚かなかった。いつかそう言われると、なんとなく感じていた。
「俺に、その資格があるかどうか……」
「資格の話じゃない。あの子たちには、葛城くんが必要だ」長岡は静かに言った。「来年も、再来年も、あの五人が伸びていける場所を作れるのは、君だと俺は思ってる」
蓮はその日、すぐには答えなかった。
夜、一人でリンクに立った。スケート靴を履いて、ゆっくりと氷の上を滑った。膝に違和感はあるが、滑ること自体はできる。
競技スケーターとして戻ることは、もうできない。それは半年前に受け入れた。
では——コーチとして、この場所に立つことは。
桜の、最初の練習日を思い出した。何度も転んで、何度も立ち上がって、諦めない目をしていた少女。凛がダブルフリップを初めて降りた瞬間の、あの涙。夕が「来年も出たい」と言った帰り道の、静かな声。ひなたが一人で練習していた夜の、真剣な目。美咲がひなたに抱きつかれて、振りほどかなかった瞬間。
蓮はリンクの中央で止まった。
氷の匂いを、深く吸い込んだ。
答えは、とっくに出ていた。
翌日、蓮は長岡に「やります」と言った。長岡は「よかった」と笑った。その笑顔が、長岡義雄という人間の、最後の大きな仕事を終えた顔に見えた。
第19話 冬の友情
十二月の終わり、大会シーズンが一段落して、五人は少し穏やかな練習期間に入った。
その日の練習後、五人が珍しくリンクに残って、おしゃべりをしていた。蓮は用具室で翌日の準備をしながら、廊下越しにその声を聞いていた。
「ねえ、みんなはなんでスケート始めたの?」ひなたの声だった。
「お母さんに連れてきてもらったのが最初」桜の声。「最初は嫌いだった。転んで痛くて。でも一回できたら、やめられなくなった」
「私は……テレビで見たんです」凛の声。「オリンピックで、すごく綺麗に滑ってる人がいて。あんなふうになりたいと思って」
「俺も似たようなもんだな」夕の声——蓮は少し驚いた。夕が自分から話すのは珍しかった。「おじいちゃんが昔スケーターで。小さいころから連れてきてもらってて、気がついたら好きになってた」
「美咲ちゃんは?」ひなたが聞く。
少し間があった。
「……勝ちたかったから、かな」美咲の声は静かだった。「何かで、一番になりたくて。でも最近、それだけじゃないかもって思ってる」
「どういうこと?」
「……滑ってるの、楽しいって思うようになった。最近。前はそんなこと考えたこともなかったのに」
ひなたが「それすごくいいじゃん!」と言った。桜が「素直か」と笑った。凛が「美咲さんらしくないですね」と言って、美咲が「うるさい」と返した。夕が小さく笑った。
五人の笑い声が、廊下に響いた。
蓮はそっと、用具室の戸に背中をつけた。
この場所を、ここに留まることを——選んでよかった。
静かに、そう思った。
第20話 桜、転機
年が明けて、桜に転機が訪れた。
都内の強豪クラブから、スカウトの連絡が来た。全国トップレベルの指導環境、専任コーチ、週六日の強化練習——条件だけ見れば、桜の才能を伸ばすには最適の環境だった。
桜は蓮に相談してきた。
「コーチ、移籍した方がいいと思いますか」
蓮は少し考えた。正直な気持ちを言えば、桜にここにいてほしかった。でもそれは、コーチとして言っていい言葉ではないと思った。
「桜が全国で戦いたいなら、そっちの環境の方が有利なのは本当だ」
「……じゃあ行った方がいいってことですか」
「桜自身は、どうしたい?」
桜はしばらく黙った。
「……ここが好きです」小さな声だった。「みんなと一緒に練習したいし、コーチに見てもらいたい。でもそれって、強くなることより自分の気持ちを優先してるってことで……それでいいのかわからなくて」
蓮は静かに答えた。
「好きな場所で、信頼できる仲間と練習することは、弱さじゃない。そういう環境が、選手を強くすることもある。俺はそれを、この半年で見てきた」
桜は顔を上げた。
「コーチは……私にいてほしいですか」
蓮は一瞬、答えを迷った。
「いてほしい、と思ってる。でも、それは俺の気持ちだ。最後は桜が決めることだ」
桜は長い間、氷を見ていた。
三日後、桜は蓮に「残ります」と言った。その目は、迷いがなかった。
第21話 凛、氷上に立つ
二月。春の大会シーズンに向けて、凛が新しい目標を立てた。
「トリプルトーループ、やってみたいです」
蓮は少し目を見開いた。ダブルフリップを克服してから四ヶ月。凛は今、ダブルジャンプ全種類をほぼ安定させていた。次のステップとして三回転ジャンプを目指すのは、タイミングとしてありえないことではなかった。
「怖くないか?」
「怖いです」凛は正直に言った。「でも前みたいな怖さとは、少し違います。やる前から諦める怖さじゃなくて、やってみてどうなるかわからない怖さというか」
蓮は少し笑った。
「それ、いい怖さだよ」
練習は慎重に進めた。補助あり、マットあり、一歩ずつ。凛は焦らなかった。自分のペースで、体と対話するように練習した。
三週間後——凛は補助なしで、トリプルトーループを降りた。
着氷の瞬間、リンクにいた全員が気づいた。桜が「凛!!」と叫んだ。ひなたが跳び上がった。夕が目を丸くして、美咲が静かに拍手した。
凛は降りた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
蓮がリンクに入ると、凛は顔を上げた。目が、いっぱいに潤んでいた。
「……跳べた」
「跳べた」
「去年の私が聞いたら、信じないと思います」
「去年の凛が積み上げたから、今日跳べたんだ」
凛はくしゃっと顔を崩して、泣いた。今度は堂々と、みんなの前で泣いた。
桜がすぐに隣に来て、「よかったな」とぶっきらぼうに言いながら、背中をぽんと叩いた。
第22話 夕の詩
三月。一年前、蓮がこのリンクに初めて来た月が、また巡ってきた。
夕が蓮に、一枚の紙を渡してきた。
「なんだ?」
「詩、書いてみました。恥ずかしいんですけど……プログラムの曲に合わせて書いた言葉なんです。振り付けを考えるときに、音楽に言葉をつけると動きが浮かぶって気づいて」
蓮は紙を受け取って、読んだ。
短い詩だった。氷、白、静かな音、遠い記憶、それでもここにいる——そんな言葉が、静かに並んでいた。文学的に上手いとかではなく、夕という人間が、そのまま言葉になっているような詩だった。
「……いいな、これ」
「本当ですか」夕は少し頬を染めた。
「これを持って滑ったら、夕の演技がもっと深くなると思う」
夕は俯いて、しばらく黙った。
「コーチ。私、スケートを続けてよかったです」
「うん」
「辞めようとしてた私に、コーチが『夕だけの動き方がある』って言ってくれた日のこと、ずっと覚えてます」
蓮は、あの日のことを思い出した。涙を一粒だけ氷に落とした少女。
「俺こそ、夕に教えてもらったことがある」
「え? 私が?」
「滑ることの意味って、勝つことだけじゃないって。夕の演技を見てて、改めて気づかされた」
夕は顔を上げて、蓮を見た。その目に、一年前には絶対になかった強さと、柔らかさが、両方あった。
「……ありがとうございます、コーチ」
夕は詩の紙を胸に抱えて、リンクに戻っていった。
第23話 春の選手権
春の地区選手権。一年前と同じ会場に、五人は戻ってきた。
一年前と違うのは、五人の目だった。
桜の目には確信があった。トリプルルッツを試合で何度も成功させてきた自信と、この一年で積み上げたものが、目の奥に燃えていた。
凛の目には静けさがあった。ジャンプへの恐怖と向き合い続けた少女は、今日、怖さを飲み込んで氷に立つことができる。
ひなたの目には喜びがあった。スケートが好きで、仲間が好きで、この舞台に立てることが嬉しくて——その気持ちが、隠れた努力の上に乗っていた。
夕の目には深さがあった。言葉で書いた詩が体に宿って、彼女の滑りを一段高いところに連れていっていた。
美咲の目には——少し、違うものがあった。勝ちへの執念だけでなく、隣の四人への意識が、今の美咲の演技をより豊かにしていた。
五人が順番に滑った。
桜はトリプルルッツを決め、一年前の悔しさを晴らした。
凛はトリプルトーループを降りた。会場が湧いた。
ひなたは一度もこけなかった。笑顔で最後まで滑り切った。
夕の演技は、今日も会場を静かにした。祖父への曲が、また氷に溶けた。
美咲は完璧な演技をして、地区優勝を手にした。
結果発表のとき、五人は並んで掲示板を見た。一年前と同じように。でも今日は、誰も泣いていなかった。みんな笑っていた——悔しさも、喜びも、全部引っくるめて、笑っていた。
蓮はその笑顔を、リンクサイドから見ていた。
この一年で、彼女たちは本当に遠くまで来た。
第24話 氷上の翼、君へ
春の大会が終わった翌日、五人は揃ってリンクに来た。
大会の翌日は通常、休養日だ。誰かに言われたわけでもないのに、五人全員が、朝からここにいた。
蓮が来ると、桜が「コーチ、今日は練習なしで一緒に滑りませんか」と言った。
「俺が?」
「コーチが滑ってるの、ちゃんと見たことないんです。一度見たいって、ずっと思ってた」
凛が「私も」と言った。ひなたが「見たい見たい!」と言った。夕が静かに頷いた。美咲が「……下手だったらどうするんですか」とだけ言った。
蓮は苦笑した。
競技スケーターとして滑ることは、もうできない。でも——氷の上で、ただ滑ることは、できる。
スケート靴を履いた。膝に手を当てて、少し確認する。違和感はあるが、大丈夫だ。
リンクに入った。最初の一歩。懐かしい感触。冷たい空気が頬を撫でる。
音楽はかけなかった。ただ、静かなリンクの中で、蓮は滑った。
かつて磨き上げたスケーティングは、まだ体に残っていた。ジャンプは跳ばなかった。ただ、エッジを使って、氷の上を流れるように動いた。重心の移し方、ターンの角度、スピードの乗せ方——全部が、体の中に刻まれていた。
五人が、リンクサイドで黙って見ていた。
蓮は滑りながら、五人の顔を見た。
桜が、目を輝かせていた。凛が、息をひそめていた。ひなたが、口を少し開けたまま見ていた。夕が、詩を書くときみたいな目をしていた。美咲が——珍しく、きれいだ、という顔をしていた。
蓮はリンクの中央で止まった。
一年前、ここに来たとき、自分は終わったと思っていた。競技人生が終わり、夢が終わり、氷の上には二度と立てないと思っていた。
でも今、蓮はここに立っている。
五人を育てるコーチとして。元天才スケーターとしてではなく——葛城蓮という人間として、この氷の上に。
「コーチ」桜が言った。「すごく、かっこよかったです」
「ありがとう」
「私も、いつかあんなふうに滑れますか」
「滑れる」蓮は即座に言った。「桜なら、もっといい滑りができる。お前の翼は、まだ広がってる途中だ」
桜は少し目を潤ませて、それを隠すようにリンクに踏み出した。凛が続いた。ひなたが続いた。夕が続いた。美咲が——少し遅れて、でも確かに、続いた。
五人が氷の上を滑り出す。それぞれの速さで、それぞれの動きで、それぞれの翼を使って。
蓮はリンクサイドに戻って、その姿を見た。
ここから、また始まる。
この五人と、この氷の上で、まだまだ続いていく物語が。
冷たい空気の中で、蓮は静かに笑った。
氷の匂いが、今日も好きだと思った。
――第1期 完――




