「たかが産婆の娘が、公爵家に嫁ぐなど」と追放された令嬢——三ヶ月後、領地でお産のできる者が誰もいなくなった
産声が、潮風にのって小屋の外へ広がった。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
さらし布にくるんだ赤子を母親の胸にそっと乗せる。ブリギッテが涙と笑顔をぐちゃぐちゃにして赤子を抱きしめた。
初産だった。陣痛が始まってから六時間。最後の二時間は、ブリギッテの握力で私の右手が真っ赤になるほどだったけれど——母子ともに無事。それが何より。
「フローラ様……ありがとう、ございます……」
嗚咽混じりの声。私は柔らかく笑って、ブリギッテの額の汗を拭いた。
「よく頑張りましたね。赤ちゃんはもう、あなたの声がわかっていますよ」
赤子が母親の肌に触れた瞬間、きゅっと小さな拳を握る。何百回と見てきた光景なのに、この瞬間だけはいつも胸が震える。新しい命が世界に触れた、最初のひと握り。
——母さんは、この瞬間を「神様の握手」と呼んでいた。赤子が世界と交わす最初の約束なのだと。
小屋の外で海鳥が鳴いている。
窓から差し込む光は、潮の香りを帯びた午後の陽射し。見えるのは果てしない海と、干してある漁網と、潮焼けした板壁の家々。
三ヶ月前まで、私が見ていたのは大理石の床と、冷たい金の燭台と、私を値踏みする視線だった。
「たかが産婆の娘が、公爵家に嫁ぐなど。最初から間違いだったのだ」
夫だった人——アレクシス・ヘルツォークの声が、まだ耳の奥に残っている。
あの日のことを、忘れたことはない。
嵐の夜だった。
公爵邸の使用人の裏口をこっそり抜け出して、領地の外れにある農家へ向かった。七ヶ月の妊婦が破水したという知らせを受けて——早すぎる。放っておけば母子ともに危ない。
雨に打たれながら駆けつけると、案の定、胎児が逆子だった。母体の腹に両手を添え、指先で胎児の位置を読み取る。背中の曲がり方、頭の向き、臍の緒の張り。
母さんの教えが蘇った。
——焦るな。赤子は自分で回ろうとしている。その力を、手で導いてやるだけだ。
腹の上から両手でゆっくりと胎児を回転させる。母体に痛みを与えないように、赤子の力に逆らわないように。呼吸を合わせ、掌の温度で安心させながら。
五分後、胎児は頭位に戻った。そこから二時間の陣痛ののち、未熟ながらも元気な産声を上げた。母親が泣きながら赤子を胸に抱く。
安堵のため息をついた、その時だった。
戸口に、公爵家の側近が立っていた。雨の中を追いかけてきたのだろう、全身がずぶ濡れだった。その目が見開かれている——血まみれのエプロンをつけた公爵夫人の姿に。
翌朝。公爵邸の応接間に呼び出された。
アレクシスは窓を背にして立っていた。振り向きもしない。冷たい朝の光が、金髪を白く照らしている。
「産婆の真似事をしていたそうだな」
声に、侮蔑の色がはっきりと滲んでいた。
「真似事ではありません」
私は真っ直ぐに立って答えた。膝は震えていたけれど、声だけは震えさせなかった。
「あの母子は、私がいなければ死んでいました」
アレクシスがゆっくりと振り向いた。碧い瞳が冷え切っている。
「公爵家の夫人が、嵐の夜に屋敷を抜け出して——血と汗にまみれて他人の産室に手を突っ込んでいたと。そういうことだな?」
一語一語が、釘を打つように正確だった。
「社交界で何と言われるか、考えたことはあるのか。公爵家として——」
「命を守ることが、恥なのですか」
遮った。自分でも驚くほど、はっきりとした声で。
アレクシスの表情が凍りついた。
「家門の恥だ」
四年間の結婚生活が、その一言で終わった。
いいえ——もしかしたら、最初から始まっていなかったのかもしれない。
四年間、私は二つの顔を使い分けてきた。昼は公爵夫人として背筋を伸ばし、社交界で微笑み、刺繍と茶会で一日を消費する。夜になると使用人の裏口を抜け出して、革の鞄を肩にかけ、産声の聞こえる場所へ走った。
使用人たちは薄々気づいていた。血のついたエプロンも、夜明け前に戻る足音も。けれど誰も口にしなかった——自分の妻や娘のお産を助けてもらった者が、屋敷の中にも少なくなかったからだ。侍女のエマが、何度か洗濯物を黙ってすり替えてくれたこともある。
アレクシスは私の手を一度も見なかった。この指がどれほどの命を世に送り出してきたか、知ろうともしなかった。リンデンブルーム子爵令嬢としての家格を娶ったのであって、助産師の手を持つ私を選んだわけではなかったのだ。社交界で「産婆の娘」と囁かれることだけが、この人にとっての問題だった。
「命を恥と呼ぶのなら——私はこの家にいるべきではないのでしょう」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ——事実を、述べただけだ。
部屋を辞して、母さんの道具箱を取りに戻った。鉗子、さらし布、薬草を詰めた革の鞄。嫁入りの時にこっそり持ち込んだ、この屋敷でたったひとつ、私のものと呼べるもの。
豪華な衣装も宝飾品も要らない。この鞄があれば、私はどこでも生きていける。
革の鞄を肩にかけた時、指先に母さんの温もりが残っている気がした。大丈夫。この手がある限り、私は産婆だ。
公爵邸の門を出る時、誰も見送らなかった。
振り返らなかった。振り返る理由が、一つもなかった。
革の鞄を開けるたびに、母さんの匂いがする。薬草と清潔な布と、ほんの少し甘い乳の匂い。
母——エルザ・リンデンブルームは、リンデンバウム伯爵領で四十年間、助産師を務めた人だ。その母である祖母ハンナから技を受け継ぎ、「お産の家」と呼ばれた伯爵邸の離れで、数え切れない命を取り上げた。
私が十五の時から手ほどきを受け、十八の時に母さんが急病で逝って、そのまま跡を継いだ。今から六年前のことだ。
「一つでもいい加減にしたら、二つの命が消える」
母さんの口癖だった。その言葉を、私は指先に刻んで生きてきた。
嫁入りする二十歳までの二年間で、百六十九人。公爵家に嫁いでから夜ごとこっそり出向いた四年間で、六十八人。合わせて二百三十七人の命を、この手で世に送り出した。
逆子の回転術は十二例。全て成功。母さんの記録帳に書かれた手順を何度もなぞり、指先に覚え込ませた技だ。掌を腹に添えると、肌越しに胎児の輪郭が浮かび上がる——背骨の曲線、頭蓋の丸み、四肢の位置。目で見るよりも確かに、指が「読む」のだ。書物では絶対に身につかない。
一番怖かったのは、農家の妻カタリナの双子の出産だった。あれは公爵家に嫁いで二年目の冬のことだ。
一人目が生まれた直後、二人目の心音が落ちた。臍の緒が絡んでいる。その場にいた助産師見習いの老女が震える手で胎児に触れたが、「もう無理だ」と首を振った——経験が足りない。
私しかいなかった。
母さんの記録帳に残された症例を頭の中で再現しながら、片手で臍の緒の位置を探り、もう片方の手で胎児を導いた。焦るな。赤子の力を信じろ。手は添えるだけだ。
長い長い数分間ののち——弱々しいけれど確かな産声が上がった。
カタリナが私の手を握って泣いた。「フローラ様の手は、神様の手です」と。
もう一つ、忘れられないお産がある。公爵領の商人の妻の出産だ。
お産自体は順調だった。元気な男の子が生まれ、母親も笑顔を見せた。——のに、そこから急変した。産後の大量出血。止まらない。さらし布が見る間に赤く染まっていく。
治癒師を呼んだが、駆けつけるまでには早くても三十分。産後の出血は一刻を争う——初期に対処できなければ、たとえ治癒魔法でも救命は難しくなる。
母さんの記録帳に書かれた手順を、体が勝手になぞった。止血作用のあるオオバコと、子宮の収縮を促す苦味のある蓼の葉を素早く煎じて飲ませる。同時に腹部を両手でしっかりと圧迫し、子宮の収縮を手助けする。出血が少しずつ——本当に少しずつ、弱まっていく。
治癒師が息を切らせて到着した時、出血はほぼ止まっていた。
「あと少し遅ければ……」と治癒師が呟いた。「あなたの初期対処がなければ、魔法でもどうにもなっていなかった」
私の手は血まみれだったけれど、母親は生きている。赤子を抱いて笑っている。それでいい。
治癒師が駆けつけるまでの空白の時間——あの数分間を埋められるのは、助産師だけだ。魔法が届かない場所で、この手だけが命を繋ぐ。
祖母ハンナから母エルザへ、母から私へ。三代にわたって磨かれてきた手の記憶。
アレクシスはそれを「産婆の血」と呼んで蔑んだ。
公爵邸を出て、実家には帰らなかった。
母さんの死後、リンデンバウム伯爵家は変わっていた。母さんが生きていた頃は助産の伝統を静かな誇りにしていたけれど、社交界の圧力に屈したのだろう——父も兄も、助産の家系であることを「もう終わったこと」にしたがっていた。私が産婆を続けることを、体面の問題としか捉えていない。結局、あの家もアレクシスと同じだった。
行くあてもなく南へ歩き始めた時、母さんの出産記録帳の最後のページが目に留まった。
『海辺の村には産婆がいない。いつか足を運びたい。——エルザ』
母さんの字は几帳面で、小さくて、温かかった。
南へ向かおう。母さんが行きたかった場所へ。
途中、街道沿いの宿場町で思わぬことが起きた。
宿の食堂で夕餉をとっていると、隣の部屋から女性の叫び声が聞こえた。旅の途中で陣痛が始まったのだ。宿の女将が右往左往している。
「産婆を呼んで!」と旅の男性が叫ぶ。
「こんな田舎町に産婆なんかいないよ!」
椅子を立った。エプロンを締め、手を洗い、革の鞄から清潔な布を取り出す。部屋に入ると、若い女性がベッドの上で膝を抱えて震えていた。
「大丈夫。私が付いています。深く息を吸って——はい、ゆっくり吐いて」
安産だった。赤子は元気に泣き、母親も無事。旦那が涙ぐみながら「どこの先生ですか」と訊いてきた。
「ただの産婆です」
産婆。その言葉を口にした時、不思議と胸が軽くなった。もう隠さなくていい。もう恥じなくていい。私は産婆だ。それだけでいい。
王都から馬車で六日。潮の匂いが風に混じり始めた頃、フィッシャーハーフェンの漁村に着いた。
小さな村だった。人口は三百ほど。干された漁網が陽に輝き、海鳥が白い線を描いて飛んでいる。板壁の家が海に向かって肩を寄せ合うように並び、どの軒先にも魚を燻す匂いが漂っていた。
大理石の床も金の燭台もない。代わりに、潮風と、波の音と、漁師たちの大きな笑い声がある。
村の長老に助産師だと名乗ると、白い眉が跳ね上がった。
「本物の産婆だと? この村に産婆が来るなんて、わしが生きてる間では初めてだ」
この村には助産師がいなかった。年配の漁師の妻が経験と勘だけでお産を手伝っているが、難産になると手の打ちようがない。
「去年の冬にな、若い嫁が逆子でな……」
長老は目を伏せた。
「結局、赤子は助からなかった。嫁は命は取り留めたが、それからずっと塞ぎ込んでおる」
逆子。——私がいれば、回転させられた。その子は今頃、母親の腕の中で笑っていたかもしれない。
胸が軋んだ。公爵領だけではない。助産師のいない場所は、どこでも同じ悲しみを抱えている。
「ここで、働かせてください」
私がそう言った時、村の入り口近くに立っていた大柄な男がこちらを見た。
ギルベルト・ヴェステンドルフ。この村を治める領主だが、自ら海に出て網を引く漁師でもある。
日焼けした肌に、海風に晒された茶色い髪。体格は漁師そのものだが、目尻に細かな皺があり、意外なほど穏やかな目をしていた。
その足元に、三つか四つの女の子がしがみついている。ギルベルトの娘のリーゼだと、後で知った。
「あの小屋が空いてる。元は漁網の修理場だったが、もう使ってない」
ぶっきらぼうにそう言って、村の入り口近くの古い小屋を指さした。
翌日から、ギルベルトは黙々とその小屋の改修を始めた。雨漏りを塞ぎ、床板を張り替え、産湯を沸かすための竈を直し、薬草を並べる棚を作った。リーゼが父親の隣にちょこんと座って、金槌を渡したり釘を拾ったりしている。私が頼んだわけではない。
「……なぜ、ここまでしてくださるのですか」
三日目に訊くと、ギルベルトは金槌の手を止めた。少し黙って、視線を逸らしてから言った。
「三年前——カミラが、リーゼを産む時にな」
カミラ。妻の名前だ。ギルベルトの声がわずかに震える。
「逆子だった。産婆はいない。年寄りの女衆が集まったが、誰も手の打ちようがなくて……もう駄目かと思った時に、たまたま旅の途中で村に立ち寄っていた助産師がいたんだ」
私は息を呑んだ。
「その人が、腹の上から赤子を回してくれた。カミラもリーゼも、あの人がいなければ死んでいた」
旅の途中の助産師——まさか。
三年前なら、私はまだ公爵家にいた頃だ。夜ごと裏口を抜け出して、領地の外まで足を伸ばすこともあった。
記憶を手繰り寄せる。漁村……逆子……三年前……。
「その助産師の名前を、覚えていますか」
「……いや。嵐みたいな夜で、名前を聞く暇もなかった。朝には発っていた」
確信は持てない。けれど——私の手が覚えている気がした。三年前の嵐の夜に回転させた胎児の感触を。
「カミラは無事にリーゼを産んだ。元気な産声を上げて、カミラも泣いて笑って、やっと家族になれたと思った」
ギルベルトの声が少し掠れた。金槌を膝の上に置いて、海を見つめている。
「けど、産後の肥立ちが悪くてな。最初は熱が引かなくて、それから乳が出なくなって……少し良くなったと思ったら、また寝込んで。リーゼを抱き上げる力もなくなっていった」
——産褥熱だ。お産の後に感染が起きて、断続的に熱が出る。早期に発見して薬草で対処すれば治せる場合が多い。けれど、助産師がいなければその判断ができない。
「最後の方は、カミラは自分がもう長くないって分かってたんだろうな。リーゼの服を縫ってた。小さな服を何枚も、何枚も。自分が見届けられない分の季節の分だけ」
リーゼが父親の膝に手を置いた。この子は、母親の記憶がない。けれどきっと、カミラが縫った服を着て育ったのだ。
胸が痛い。もし三年前のあの夜、私がそのまま村に留まっていたら。もし産後のカミラを診ていたら。産褥熱の初期症状を見つけて、対処できたかもしれない。
助産師の仕事はお産だけではない。産前の触診、お産の介助、そして産後の母体の見守り——全てが繋がっている。お産だけ助けて去った旅の助産師には、その「後」を見届ける時間がなかった。
——あの旅の助産師が私だったとしたら。私が去らなければ、カミラは今もリーゼを抱いていたかもしれない。
「一年、頑張ったけど——」
ギルベルトは言葉を飲み込んだ。大きな手が、膝の上で震えている。
リーゼがきょとんとした顔で父親を見上げている。
「だから——」
ギルベルトはまた金槌を握り直した。握り直すまでに少し時間がかかった。
「産婆が来てくれるなら、小屋の一つくらい直す。当たり前だろう」
不器用な人だと思った。でも、その不器用さが温かかった。
カミラを亡くした痛みの上に立って、それでも「次の命」を守ろうとしている。この人は、怒りでも悲しみでもなく、ただ静かに「もう誰も同じ思いをしないように」と願っているのだ。
リーゼが私のスカートの裾を引いた。
「おねえちゃんも、あかちゃん出すの?」
「ええ。赤ちゃんが元気に生まれてくるお手伝いをするのよ」
リーゼが目を丸くして、私の手をじっと見つめた。
「おおきい手」
小さくはない、と思う。でも母さんの手に比べたら——。
「いつか、この手と同じくらい大きくなるわ」
リーゼがにこっと笑った。その笑顔が——どきりとするほど、ギルベルトに似ていた。目尻の細かな皺は父親譲りだ。けれどあの丸い大きな瞳は、きっとカミラのものなのだろう。
カミラが見届けられなかった成長を、この子は今ここで、少しずつ重ねている。
産婆小屋が完成して間もなく、最初のお産が来た。
漁師の若い妻ブリギッテ。初産で、不安に震えている。
「怖いです、フローラ様……痛くて……もう無理です……」
「大丈夫。赤ちゃんはもう出てきたがっていますよ。あなたの体が、ちゃんとわかっています」
手を握り、呼吸の仕方を教え、陣痛の波に合わせた力の入れ方を導く。六時間後、元気な女の子が生まれた。——冒頭の産声だ。
「本物の産婆が来た」——村中に噂が広がるのに三日もかからなかった。
それからギルベルトは毎日、薪と水を産婆小屋に届けてくれるようになった。お湯を沸かし、使い終わったさらし布を洗って干してくれる。
「男がお産の周りをうろうろして……」と年配の漁師の妻が怪訝な顔をしたけれど、ギルベルトは気にしない。
「お産の場には入らないさ。でも、お産を支える仕事ならできるだろう」
その言葉を聞いた時、胸の奥がじんと温かくなった。
公爵家では「産婆の仕事」そのものが恥だった。この人は、その仕事を支えようとしている。
三ヶ月の間に五件のお産を手がけた。全て母子無事。二件目の双子は少し手こずった。二人目がなかなか降りてこなくて肝を冷やしたが、私の手で胎児の頭の位置を探り直し、母体の力が戻る瞬間を待って——無事に二人とも元気な産声を上げた。母親が「二人ともフローラ様の名前をいただきたい」と言ってくれたのが、くすぐったかった。
四件目は夜中の二時に始まった。陣痛の知らせを聞いて駆けつけると、ギルベルトがもう小屋に灯りを点け、湯を沸かしてくれていた。
「……いつ気づいたんですか」
「漁師は潮の匂いの変化で目が覚める。人の気配でも、まあ同じだ」
不器用に笑うその顔が、蝋燭の灯りに照らされて温かかった。
ふと、その目がとても穏やかなことに気づいた。カミラを亡くしてからずっと、一人でリーゼを育て、村を守り、海に出て——その目尻の皺は、笑った分だけ刻まれたものなのだろうか。それとも、泣いた分だけ。
不思議な安心感があった。この人の隣にいると、公爵邸にいた頃のように背筋を張り続けなくていい。ただ産婆でいるだけでいい。
——「産婆」の自分を、恥じずにいさせてくれる。それがどれほどのことか、この人はきっと分かっていない。
五件目のお産は難産だった。胎児が大きく、母体が疲弊して押し出す力が足りない。
深夜から夜明けまで、ずっと付きっきりだった。母親の手を握り、励まし、腹の上から胎児の向きを微調整し、何度も何度も「大丈夫」と繰り返した。
夜明け前の一番暗い時間に、小屋の外から薪が割れる音が聞こえた。ギルベルトが湯を替えてくれている。冷えた朝の空気の中で、竈の薪がぱちんと弾ける音。
母親が最後の力を振り絞った瞬間、大きな男の子が産声を上げた。
小屋の外で、ギルベルトの息をのむ気配がした。お産の場には入らない——でも、ずっとそこにいてくれた。命が生まれる瞬間を、壁一枚隔てた向こう側で、静かに見守っていてくれた。
夜、産婆小屋の蝋燭の灯りで母さんの記録帳を読み返す。黄ばんだ紙に並ぶ母さんの字。一件一件の出産に、母体の状態と処置の詳細と、産後の経過が克明に記されている。
ある晩、二十年前の記録にこんな一節を見つけた。
『逆子の回転に失敗した。焦りが手に出た。赤子は無事だったが、もう二度と焦らない。——反省。手は、心の鏡。』
母さんでも失敗したことがあったのだ。完璧に見えた母さんも、怖かったのだ。
なぜだろう。それを知って、少し安心した。
私もまた、新しいページに今日のお産を書き加える。母から娘へ。記録が途切れない限り、技術は死なない。
穏やかな日々が続いた、ある朝のことだった。
「フローラ。客だ」
ギルベルトの声がいつになく硬い。小屋の外に出ると、砂利道に見覚えのある紋章の馬車が停まっていた。
ヘルツォーク公爵家の紋章。
胸の奥が、きゅっと冷えた。
馬車から降りてきたのは、公爵邸で私の身の回りの世話をしてくれていた侍女のエマだった。旅の疲れで頬がこけ、目が赤い。王都から六日の道のりを、ここまで来たのだ。
「フローラ様……」
エマが私の手を取って、泣いた。
「ずっと探していました。街道沿いの宿場町で『旅の産婆が赤子を取り上げた』という話を聞いて、南へ南へ……。海辺の村に腕のいい産婆がいると聞いた時、フローラ様だと確信しました」
「お願いです。どうか、お戻りください」
私は黙ってエマを小屋に招き入れた。ギルベルトが湯を淹れてくれた。
その背中が大きく見える。いつもはぶっきらぼうに湯を差し出すだけなのに、今日はなぜか、去り際にちらりとこちらを見た。表情は読めない。
エマが語った話は——想像を超えていた。
私が追い出されてから一ヶ月目。領内の出産は治癒師たちが引き受けることになったが、出産に治癒魔法は使えない。治癒師は産後の出血や裂傷を癒すことはできても、分娩そのものを助ける術を持たない。結局、経験のない者たちによる手探りの対応になった。
初産の若い母親が軽い難産に陥り、なんとか母子ともに助かったものの、母体の回復に数週間を要した。
二ヶ月目。逆子の出産。
経験のない者たちが胎児を回転させようと試みたが——あれは手技だ。掌の温度と指先の感覚で胎児を読み取り、母体の力と呼吸を同期させながら導く。書物を読んだだけでできるものではない。
何度も失敗し、最終的に腹を切って取り出す最後の手段に追い込まれた。母体は重傷を負い、治癒魔法で傷口は塞いだものの回復には長い月日がかかるという。
「三ヶ月目は——」
エマの声が途切れた。唇を強く噛んでいる。
「双子のお産でした。一人目は無事でしたが……二人目の臍の緒が絡んで……」
死産。
私の手が震えた。臍の緒が絡んだ双子の処置——カタリナの時と同じだ。あれは経験がなければ絶対に対処できない。私がいれば、助けられたかもしれない命。
「母親は助かりましたが……もう何も話さなくなったと」
目を閉じた。瞼の裏に、カタリナの涙が浮かんだ。あの時、二人目の産声が上がった瞬間のカタリナの顔。私がいなければ、あの子は生まれてこなかった。
公爵領で起きた悲劇は——私がいれば防げたものだ。そのことが、刃のように胸に突き刺さる。
「それから——フローラ様が公爵邸にお残しになった荷物の中から、出産記録帳の写しが見つかりました」
ああ——あれか。嫁入り後に手がけた出産の記録。四年間で六十八件。母体の状態、胎児の位置、陣痛の経過、処置の詳細、産後の経過。すべてを克明に記した、私の仕事の全て。
「治癒師の長がご覧になって、絶句されたそうです。『この記録は医学書に匹敵する。いや、それ以上だ。実地の知恵が全て詰まっている』と」
エマは続けた。
「逆子回転術の成功率、十二例中十二例。産後出血への対処、七例。全例救命。難産対応は十五例で——母子ともに死亡ゼロ。領内の平均では百件あたり三件の母体死亡がある中で、フローラ様はゼロだったと」
知っている。あの記録は、母さんの記録帳と同じように、一件一件を命がけで書いた私の仕事の証だ。
エマは鞄から分厚い封筒を取り出した。
封を切ると、紙の束が溢れ出る。署名用紙だった。八百を超える名前が連なっている。男も女も、領内のほぼ全戸。
嘆願の内容は、たった一行。
『フローラ様を返してください』
一枚一枚、名前を追った。
マルタ。——あの逆子を回転させた最初の母親だ。あの子はもう七つになるはず。
カタリナ。——双子を取り上げた時、私の手を握って泣いたカタリナ。
商人の妻アンナ。——産後出血で死にかけたアンナ。生きているのだ。息子を育てているのだ。
そして——知らない名前もあった。見覚えのない字で、不慣れな手つきで書かれた署名。
エマに訊いた。「この名前は……」
「あ、それは——フローラ様が取り上げたお子さんです。今年七つになって、初めて自分の名前を書けるようになったそうで」
——息が詰まった。
私が取り上げた赤子が。あの産声を上げた小さな命が。今は自分の名前を書き、母親の横に並んで署名をしたのだ。「フローラ様を返してください」と。
文字が滲んだ。——泣いている。私が。
この八百通は、ただの数ではない。一枚一枚に、私がこの手で世に送り出した命がある。その命が育ち、歩き、名前を覚え、自分の意志で「返してください」と書いた。
二百三十七人の命。その先に広がる八百の暮らし。私の手が繋いだ命は、今もそこで続いている。
「アレクシス様からも、お手紙を預かっています」
封を切った。
『フローラ殿
領内の産科事情が悪化しており、領民からの嘆願も無視できぬ状況にある。
先般の離縁に際しては、些か性急な判断があったかもしれぬ。
ノルトホーフ辺境伯やヴィンターフェルト子爵など、他家からも「公爵家が助産の体制を軽んじた」との指摘を受けている。公爵家として、この批判を座視するわけにはいかぬ。
領民のために、戻ってほしい。公爵家として、相応の待遇を約束する。
助産に関しては、今後は領の正式な医療職として扱う用意がある。
——アレクシス・ヘルツォーク』
手紙を膝に置いた。
何度か読み返した。丁寧な言い回しだ。「些か性急な判断があったかもしれぬ」——これがこの人なりの譲歩なのだろう。
けれど、文面の裏に見えるのは、一人の人間としての反省ではなかった。
他家からの批判。体面への懸念。「座視するわけにはいかぬ」——それは「産婆の仕事を軽んじて申し訳なかった」ではなく、「批判されるのは困る」だ。
「正式な医療職として扱う」——その肩書きは誰のために必要なのか。私のためか。領民のためか。いいえ。公爵家が「ちゃんと対処した」と社交界に示すための道具だ。
「申し訳なかった」の一言はない。「産婆の血」を恥と呼んだことへの謝罪は、どこにもない。
命を扱う仕事への敬意ではなく、体面の帳尻合わせ。体面のために追い出し、体面のために戻せと——この人は結局、同じ定規でしか世界を測れないのだ。
不思議と怒りは湧かなかった。ただ、深い疲れに似た哀しみがあった。この人は変われない。変わる必要すら感じていない。
エマを村の宿に案内して、私は一人で海辺を歩いた。
八百通の署名を、胸の中で何度も数えた。マルタ、カタリナ、アンナ——名前を思い出すたびに、その人の顔が浮かぶ。生まれたばかりの赤子を抱いて泣いた顔。「ありがとうございます」と握った手の温度。
そして、七歳の子供が初めて書いた不揃いな字。
帰りたいか、と自分に問うた。
帰りたい。あの人たちのそばにいたい。あの人たちのお産を、これからも手がけたい。
けれど——帰った先にあるのは、何だろう。また「正式な医療職」という箔をつけられて、体面の道具にされる日々か。アレクシスの考えが変わっていない以上、いつかまた「恥」と呼ばれる日が来る。
日が傾いている。漁船が帰ってくる時間だ。遠くの海面に漁火が灯り始めている。波が砂浜を洗い、引いていく。繰り返し、繰り返し。
足元の砂浜に、小さな足跡が残っていた。リーゼの足跡だ。もうこの浜辺を裸足で歩き回る季節になっている。この子の足跡がこんなに小さかったのは、いつまでだろう。
カミラが縫った小さな服を、もうすぐ着られなくなる頃だ。
「行かないんだろう」
いつの間にかギルベルトが隣を歩いていた。リーゼは家で眠っているのだろう、一人だった。
その横顔を見て、少し驚いた。海を見ているその目が、いつもの穏やかさとは違っていた。何か——堪えているような、決意しているような。
「……はい」
「理由、聞いてもいいか」
「あの人は『産婆の血が恥だ』と言いました。その考えが変わらない限り、私が戻っても同じことの繰り返しです」
いつかまた「産婆の真似事」を咎められ、追い出される。そうなった時に傷つくのは、私だけではない。私を頼ってくれる母親たちだ。
ギルベルトは黙ってうなずいた。
「でも——」
八百の署名を思い出す。あの名前の一つ一つが、私を信じてくれた人たちだ。彼女たちを見捨てることは、できない。
「母の記録帳の写しだけは送ります。出産の全症例が記された記録帳です。あの記録があれば、新しい助産師を育てる手がかりになりますから」
「……自分を追い出した相手にも、手を差し伸べるのか」
「記録を必要としているのは、アレクシスではありません。これから生まれてくる赤ちゃんと、その母親たちです」
波の音だけが、しばらく続いた。
潮風が髪を揺らす。遠くで海鳥が鳴いている。空が茜色に染まっていく。
ギルベルトが長い沈黙の後、口を開いた。声が少し震えている。
「……カミラが死んだ時、俺は思ったんだ。もう二度と、誰かを大事にするのは——」
途中で言葉を切った。大きな手が、魚を掴む時みたいに所在なく動いている。
私はただ、待った。波が寄せて返す間、何も言わずに。
「でも——お前が来てから、リーゼが笑うようになった。村のばあちゃんたちが安心して孫の話をするようになった。夜中に灯りが点いて、産声が聞こえるたびに——この村が、少しずつ変わっていくのが分かった」
ギルベルトは海を見たまま、言葉を一つずつ絞り出すように続けた。
「フローラ。ここにいてくれ。この村に」
私は目を瞬いた。
「その……俺は網しか引けない男だけど」
耳が赤い。首筋まで赤い。
「お湯は沸かせる。薪も割れる。さらし布も干せる」
「お産の場には入れないけど——お前が、命を繋ぐ仕事をしている間、それ以外の全部を、俺がやる」
涙が溢れた。
公爵家では「産婆の血」が恥だった。
この人は——「命を繋ぐ仕事」と呼んだ。
カミラを亡くして、もう二度と誰かを大事にしないと決めたこの人が。助産師に命を救われた経験を持つこの人が。産婆の仕事を「支える」と言い、毎朝薪を運び、夜中に湯を沸かし、さらし布を洗ってくれたこの人が。
——「もう二度と」と思った心を、それでもこじ開けてくれたのだ。
三ヶ月前に失ったものよりも、ずっとずっと大きなものが、今ここにある。
「……それは、求婚ですか?」
ギルベルトの顔が耳まで真っ赤になった。
「そう……なるな」
笑った。声を上げて笑った。この漁村に来てから初めてかもしれない、心の底からの笑い。
波の音と、海鳥の声と、遠くの漁火の光の中で。
「はい。ここにいます。この村で、産婆を続けます」
リーゼにも、伝えなくちゃ。あの子が「おねえちゃん」と呼んでくれるたびに、胸がじんわり温かくなるのだ。いつか「おかあさん」と呼ばれる日が来るかもしれない——その日を、楽しみにしている自分がいる。
それから数ヶ月が過ぎた。
産婆小屋の前に、遠方からも妊婦が訪ねてくるようになった。海沿いの村々に「腕のいい産婆がいる」と噂が広がったのだ。
ギルベルトが小屋を増築してくれている。金槌の音が心地よい。リーゼが棚に薬草を並べるのを手伝ってくれる。小さな手で、オオバコと蓼の葉を丁寧に分けている。
——母さんが私に手ほどきを始めた頃、私も同じことをしていた。薬草の名前を覚え、匂いを覚え、手触りを覚える。あの頃の私と同じ真剣な顔で、リーゼは葉の裏と表を確かめている。
「ギルベルト。もう一部屋、お願いできますか」
「ああ。何人来ても大丈夫なようにする」
「……いえ、そうではなくて」
私は自分の腹に手を当てた。
ギルベルトの金槌が止まる。振り向く。目が大きく見開かれる。
「この子は——私が、取り上げます」
微笑んだ。海からの風が、干してある白いさらし布を揺らしている。
リーゼが走ってきて、私の腹にそっと耳を当てた。
「あかちゃん、いるの?」
「ええ。あなたの弟か妹よ」
リーゼの目がきらきら光った。ギルベルトが呆けた顔で立ち尽くしている。金槌を持ったまま、何度も瞬きしている。
——ああ、やっぱり不器用な人だ。
カミラが見届けられなかった未来を、私がここで繋ぐ。カミラが縫った小さな服は、もうリーゼには小さい。でも——もうすぐ、その服を着る子が生まれてくる。
エマには翌朝、記録帳の写しを持たせて帰した。母さんの記録帳から書き写した基本の手技と、私が四年間で積み上げた六十八件の症例記録。全て持って帰ってもらった。
記録帳の最初のページに、私は一行だけ書き加えた。
——命を預かる仕事を、恥と呼ぶ者には決して任せてはならない。
そしてこの漁村では——もうすぐ、二百三十八番目の産声が響く。
今度は、私自身のお産だ。少しだけ怖い。母さんの記録帳にも「自分の出産が一番怖かった」と書いてあった。完璧な産婆でも、自分の子を産む時だけは、ただの母親に戻るのだ。
でも、大丈夫。この手が覚えている。母さんが教えてくれた全てを。
隣にはギルベルトがいる。お湯を沸かし、薪を割り、さらし布を干してくれる人が。
そしてリーゼがいる。「おねえちゃんのお手伝い、する!」と張り切っている小さな助手が。
新しい命の産声が——今日も潮風にのって響いている。
お読みいただきありがとうございます。
今回のテーマは「助産師」——命の最初の瞬間に立ち会う仕事です。
日本でも助産師は国家資格でありながら、その重要性が十分に認知されているとは言えません。代々技術を受け継ぐ「産婆」の文化は失われつつありますが、医療がどれほど発展しても、出産の最前線で母子の命を守るのは助産師の「手」と「経験」です。AIにもできない、機械にも任せられない、人の手だけが為せる仕事がある。
「産婆の血」を恥と呼ぶ世界と、「命を繋ぐ仕事」と呼ぶ世界。あなたはどちらの世界に住みたいですか?
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