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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

灰色の魔女は、ときめくたびに石になる。

作者: 双葉からす
掲載日:2026/03/09

左手の薬指が、もう動かない。


 昨日まで動いていた。百年以上、ずっと前からそうだった。呪いは止まっていた。何も感じなければ、何も変わらなかった。


 *


 百年と少し前の話をしよう。私がまだ「灰色の魔女」と呼ばれていた頃の話だ。


 ひどい女だった。

 呪術を操り、貴族を脅し、気まぐれに村を焼いた。領主の妻を蛙に変えたこともある。子供たちの指を飴に変えて笑ったこともある。人の不幸は甘い蜜のように美味しかった。何がそこまで私を壊したのか——いや、違う。壊れたのではない。壊したのだ、自分で。


 精霊裁判にかけられたのは、七十三年目だった。

 精霊たちは冷たい声で告げた。


 ——心が踊るたび石化が進む呪い。指の先から、ゆっくりと。心臓に届いた時、お前は永遠に石像になる。百年でも千年でも、愉しみを感じずに生きていけ。


 要するに、何も感じなければ死なない。何にも動じなければ、呪いは進まない。

 なんだ、簡単じゃないか。

 私はそう思った。


 実際、簡単だった。

 何も感じなければいい。誰も愛さなければいい。美しいものを見ても「だから何だ」と思えばいい。百年間、それで生きてきた。心が活性化しないよう魔力を封じ、ただの人間と変わらない身体になった。どこかの町で働き、どこかの村で眠り、どこかの道を歩いた。何も感じない。ただありのまま。呪いは止まっていた。


 灰色の日々だった。

 だが、灰色でよかった。灰色なら死なない。


 そのはずだった。


 *


 辺境の町に流れ着いたのは、二ヶ月前のことだ。


 市場で干し肉を買おうとした時、人混みの向こうに銀色が見えた。

 銀色の髪。日に焼けた肌。大きな背中。不器用そうな横顔。

 ——胸が、ざわついた。


 似ている。

 あの男に。百年以上前に、ただの人間だった頃に愛した男——名前も声も忘れたが、横顔だけは覚えている。


 辺境伯ヴェルナー・グラオス。領地を実直に治める地味な領主。特別な人間ではない。魔力もない。剣もそこそこ。ただ真っ直ぐで、素朴で、不器用なだけの男。


 もう一度あの男を見たい。


 年甲斐もなく、胸が騒いだ。


 

 まず、彼の行動を調べた。


 毎朝、領地を馬で巡回する。昼は市場で民と話す。午後は執務室。夕方に茶屋で紅茶を一杯。決まった時間に、決まった席に座る。几帳面な男だった。

 ——それを三日かけて全部把握した。自分が怖い。


 四日目、市場の人混みから、彼が民と話す姿を眺めた。笑い方が下手だった。口元だけ少し上がる、不器用な笑み。それを視界に収めるだけで十分だった。

 五日目、彼が立ち寄る茶屋の隣の露店で、一日中干し肉を眺めるふりをした。干し肉なんか興味はない。茶屋の窓から見える銀色の髪を、ただ眺めていた。

 六日目、同じ露店に行ったら、店主に「また来たのかい」と笑われた。常連になってしまった。

 七日目。もう干し肉の種類を全部覚えた。鹿肉の燻製が一番高くて、兎の干し肉が一番安い。そんなことだけ詳しくなっていく。


 百年前なら、呪いで縛って手元に置けた。指を鳴らせば、この男の足を私の元へ向けさせることもできた。

 でも今の私には。できることは、干し肉屋の常連になることだけだった。


 少女か私は。いや、少女でもこんなことはしない。


 二週間目、作戦を変えた。

 彼の屋敷は丘の上にある。その丘の麓に、小さな井戸がある。朝の巡回の前に、ヴェルナーはそこで馬に水をやる。

 私はその井戸の縁に座って、旅人のふりをした。疲れた顔で、少しだけ弱っているように見せた。——百年以上生きた魔女が、弱った女のふりをする。演技力だけは年季が入っている。


 ヴェルナーが馬を連れてやって来た。私を見て、足を止めた。

「——具合が悪いのか」

「少し。旅の途中で」

「どこへ行く」

「……決めていないの」

 ヴェルナーは少し考えて——ほんの数秒だった。この男は悩まない。

「行くあてがないなら、うちで働いてみるか。飯と寝る場所くらいは出す」

 低い声だった。落ち着いていて、温かくて、何の打算もない声だった。

 ——二週間かけた工作が、ようやく実った瞬間だった。


 その声を聞いた瞬間、灰色の世界に色が灯った。


 ——さーっと血が引いて、左手の薬指が、冷たくなった。


 ああ、これが石化の呪いか


 私は理解した。ときめいてしまったのだ。この男に。



 *


 ヴェルナーは鈍感な男だった。


 それが救いだった。一緒にいても、普段は淡々としている。朝起きて、領地を見回り、帰ってきて飯を食べて、寝る。私が屋敷にいることに特別な感慨もないらしい。空気のように扱われている。

 だから平気だった。何も感じない。呪いは進まない。


 ——問題は、「ふとした瞬間」だった。


「……お前がいると、飯が美味い」


 夕食の席で、ヴェルナーが唐突に言った。野菜スープを啜りながら。何気なく。彼にとっては天気の話と同じくらいの重みしかない一言だったのだろう。


 でも私は——視線を落とした。フォークを持つ手が震えそうだった。

 左手の手首が、重い。さっきまでは感じなかった冷たさが、じわりと袖の下に広がっていく。

 そっと袖を引いた。ヴェルナーは気づいていない。スープを啜っている。


 鈍感なのだ、この男は。

 だからこそ残酷だった。自分が放った一言がどれだけ私を殺しているか、まるで分かっていない。


 翌朝。

「おはよう」

 不器用に笑った。

 ——ただそれだけで、肘から先の感覚が遠くなった。


 やめて。笑わないで。

 心の中で叫んだ。


 雨の日。

 薪を取りに外に出ようとしたら、無言で上着を掛けられた。

 振り向くと、もう背中を向けて歩いていた。何も言わない。ただ上着を掛けた。それだけ。


 ぐっと肩が重くなった。腕を上げるのに、力がいるようになった。


 私は距離を取ろうとした。

 荷物をまとめて、夜明け前に屋敷を出ようとした。もう隠すのも限界だ。ここを出れば——何も感じない灰色の日々に戻れる。


 玄関の扉に手をかけた瞬間、背後から声がした。


「ここにいろ」


 振り向いた。暗い廊下に、ヴェルナーが立っていた。寝巻き姿で、髪がぼさぼさで、目をこすりながら。

「出ていくなら止めない。でも、行くあてがないなら——ここにいろ」

 それだけ言って、あくびをして、寝室に戻っていった。


 ああ、鎖骨に沿って冷たいものが這い上がってくる。


 ——駄目だ。駄目だ。分かっている。分かっているのに——足が動かない。動かないのは石化のせいじゃない。私が、動きたくないからだ。


 荷物を下ろした。

 ここにいる。もういいんだ。


 *


 数日後、手袋を外した時に見つかった。


「その手……見せてくれないか」

 ヴェルナーが私の左手を取った。灰色に変わった指から肩まで、石になった腕を見て——怖がらなかった。

「何だ、これは。病気か」

「……呪いよ」

「治るのか」

「治らない」

「治す方法を探そう」


 胸の奥が温かくなった。

 ——同時に、その温かさを押し返すように、お腹のあたりが、冷たくなった。


 私は笑った。苦くて、甘くて、どうしようもない笑いだった。

「ねえ、ヴェルナー。あなたが優しくするたびに、私は死に近づくの」

「……どういう意味だ」

「そのままの意味。今の一言で、また少し進んだわ」


 ヴェルナーは黙った。意味が分からなかったのだろう。この男は鈍感だから。

 でもその沈黙も——なぜか温かかった。


 ある夕方、二人で屋敷の裏庭に出た。丘を登ると、海が見えた。水平線に夕日が沈んでいく。橙と紫が混ざった空。海風が頬を撫でた。


 ヴェルナーが隣に立って、海を見ていた。

 しばらく無言だった。この男はいつもそうだ。必要なこと以外話さない。


 ふいに——口を開いた。


「……綺麗だな」


 夕日を見ていた。たぶん、夕日のことを言ったのだと思う。

 ——たぶん。


 胸の奥で、何かがゆっくりと冷えていく。


 *


 ある日のことだった。


 ヴェルナーが、珍しく帰りが遅かった。

 隣領の領主との会合があったらしい。詳しいことは知らない。ただ、帰ってきた時の顔が、いつもと違った。

 表情は変わらない。この男はいつだって変わらない。でも——靴を脱ぐ手が、少しだけ荒かった。


 夕食の席で、ほとんど喋らなかった。いつもだって喋らないが、今日は黙り方の質が違う。スープに口をつけて、匙を置いて、また持って、また置いた。


 食後、ヴェルナーは裏庭に出た。石畳の上に座って、海を見ていた。

 この男が執務室にも寝室にも行かず、ただ座っているのは——初めて見た。


 私は何も聞かなかった。

 台所で紅茶を淹れた。二つ。一つをヴェルナーの隣に置いて、少し離れて座った。


 しばらく、二人で黙っていた。


 ふいに、ヴェルナーが口を開いた。

「……領民を、守れなかった」

 それだけだった。何があったかは言わない。ただ、その一言だけが漏れた。


 ——この男は、こういう男だ。

 自分が傷ついたことは言わない。領民を守れなかったことだけが、悔しい。


 私は何も言わなかった。頑張ったとも、大丈夫とも言わなかった。ただ、隣にいた。


 長い沈黙のあと——ヴェルナーが、小さな声で言った。


「……もう少しだけ、隣にいてくれ」


 この鈍感で、朴訥で、感情を出さない男が。

 初めて、弱さを見せた。


 ——胸の奥が、きつく絞られた。


 その夜、私はヴェルナーの手を取った。


 ただ——温かかった。彼の手は大きくて、不器用で、少し震えていた。私の石化した腕に触れても、怯まなかった。冷たい石と温かい肌が触れ合って、そのたびに胸が震えた。


 彼の腕の中で、首筋が冷えていくのが分かった。


 あと、数日。

 多くても、数日。


 私はヴェルナーの寝顔を見ながら——明日の朝、全てを話そうと決めた。


 *


 朝の光の中で、紅茶を淹れた。二つ。

 彼が台所に来た時、首を傾げた。


「珍しいな」

「最初で最後かもしれないから」


 紅茶を一口飲んだ。それから——全部、話した。

 名前のこと。灰色の魔女のこと。百年のこと。呪いのこと。

 ヴェルナーは黙って聞いていた。紅茶に口をつけないまま。


 左手を見せた。肩から先、全てが灰色だった。


「あなたの逢ってから——止まっていた呪いが、動いた」


「あと、数日だと思う」


 長い沈黙が落ちた。

 ヴェルナーの唇が、かすかに震えていた。


「……俺に移せ」


 呪いの逃げ道まで、話すべきではなかっただろうか。でも——嘘はつきたくなかった。

 この男はまっすぐだった。迷いもなかった。だから——移せない。


「駄目よ」

「なぜだ」

「昔の私なら、笑ってそうしていた」


 紅茶を啜った。冷たかった。


「今は——できない。それだけ」


 ヴェルナーの目が赤くなった。

 この男が泣くのを、初めて見た。


 石になった左手を伸ばした。頬に触れた。涙を拭おうとした。

 ——拭えなかった。石の指では、涙は拭えない。

 冷たい石の上を、涙がそのまま流れ落ちていった。


 ヴェルナーが、その手を両手で握った。額を押し当てた。


「お願いがあるの」


 掠れた声だった。


「私を——海の見える場所に、置いて」


「嫌だ」


「遺言よ」


 ヴェルナーが声を荒げた。この男が声を荒げるのは、初めてだった。


「ねえ」


 穏やかに言った。百年ぶりに——誰かに何かをあげたいと思った。奪うのではなくて。


「私の報いは、私が引き受ける。——それだけよ」


 *


 身体が動かない。

 声も出ない。

 でも——聞こえる。


 波の音。

 海鳥の鳴き声。

 風が草を揺らす音。


 毎朝、足音が聞こえる。

 重い靴の音。ゆっくりと丘を登ってくる。


 ヴェルナーが来る。

 石像の前に立って、何か話している。


「今日は天気がいい」

「猫が子猫を産んだ。三匹だ。一匹、お前に似てる」

「紅茶の葉を変えてみた。前のほうが美味かったかもしれない」

「庭の花が咲いた。お前が水をやっていたやつだ」


 聞こえているよ。


 そう言いたい。言えない。


 でも——これでいい。


 石になっても、後悔はしない。

 灰色の魔女は、海を見ている。


 ——たぶん、笑っている。

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