押し付けられた縁談
想像とは、まるで違う。
深く吸い込まれるような黒曜石の瞳。端正な顔立ちに、整えられた黒髪。
そして黒の紋付を纏う姿は、とてもカッコよく気品に満ちていた。
なんて、カッコイイ人なの……。
ブ男だなんて誰が言ったのだろう。
つくづくウワサというものはあてにならない。
「はじめまして、凰条一真と申します」
低く、落ち着いた声。小さく笑顔を浮かべながら深く頭を下げてくれて礼儀正しさが伺える。
私も会釈をして名前を伝えた。
「は、はじめまして……御堂零です」
くれぐれも自分の名前は出さないように、とお母様から告げられたばかりだ。
私は今日、零になりきらないといけない。
緊張しながら座布団に腰を下ろす。
「初めまして、私は凰条圭吾と申します」
この人が凰条財閥のトップ。
テレビで何度か見たことがあるが風格があって威厳も感じられる人だった。
でもテレビで話している時よりも威圧的な雰囲気はまったくなく、穏やかな笑みを浮かべている。
もっと怖い人なのかと思ってた……。
落ち着いた声と、柔らかい眼差し。
その姿には、むしろ人を安心させるような温かさがあった。
「お会いできて光栄です」
私は緊張しながらも、深く頭を下げた。
すると、その隣にいた女性が、優しく微笑みながら口を開いた。
「初めまして、一真の母の玲華です。今日はお会いできて、とても嬉しく思っています」
凰条さまのお母様。
お母様の表情は穏やかで、話し方もとても柔らかい。
上品な着物を纏い、しなやかな所作でお茶を口にする姿は、まさに名家の夫人らしかった。
「どうか緊張なさらずにね」
私にもこうして声をかけてくれるなんて、優しい……。
御堂家の縁談とはいえ、相手は凰条家。
当然ながら厳しく見極められる場だと思っていた。
でも、凰条さまのご両親は、まるで本当に私を歓迎してくれているような雰囲気だった。
すると、凰条一さまはそんな私をじっと見つめ、ふっと微笑んだ。
「緊張されていますか?」
「……少しだけ」
素直に答えると、凰条一さまは照れくさそうに言った。
「私もです」
「えっ」
その問いかけに、肩の力が抜ける。
「お会いできるのが楽しみだったので」
なんて優しい人なんだろう。
身分で言えば、完全にこちらが下である縁談なのに対等に見てくれていて、それでいて包み込むような優しさを持っている。
凰条さまは手元にあったグラスを持ち上げた。
「お酒は飲まれますか?」
「あっ、えっと……」
飲めないと言いそうになり、私ははっと我に返った。
お酒は飲んだことが無かった。
お父様とお母様とお姉様が晩酌をしているのは見たことがある。
でも仲間に入れてもらえたことはなかったから。
私は今日、零お姉様としてここにいる。お姉様になりきらないといけない。
「ええ、好きです」
「それはよかった。ここの酒蔵から仕入れた特別な銘柄があります。今日の料理に合うおおすすめを選んでも?」
「もちろんです」
どうしよう……。
飲めるかな?
彼が指先で示したのは、白磁の酒器だった。
料亭らしい、洗練された日本酒のセットが卓上に並んでいる。
程なくして淡い琥珀色の酒が盃に注がれた。
不安に思いお父様の顔を見つめたが、目が合っても知らないフリをされてしまった。
飲むしかない……。
お姉様が会う気になった時、辻褄が合わなかったらとても失礼だから。
彼にならって、乾杯をした後私も盃を口に運ぶ。
残さないように一気に飲むことにした。
う……苦い。
お酒ってこんな味なんだ……。
鼻に抜ける感覚が強くて思わず顔をしかめてしまう。
「お口に合いませんでしたか?」
そう尋ねられた瞬間、お母様が鋭い視線を向ける。
私は慌てて首を振った。
「とても美味しいです」
「それは良かった」
ふわりと笑う、凰条さん。
その笑顔がステキで見惚れてしまった。
それから数回お酒を注いでもらったが、気づけばお酒がまわってしまっていた。
うう、なんだかクラクラする……。
すると凰条さんは静かに私に声をかけた。
「外の桜が見れる場所があるそうなんです。よければ少し見に行きませんか?」
「は、はい……ぜひ」
お父様たちはお父様同士で話をしていたようで、私たちが桜を見に行くことを告げると、笑顔で行ってらっしゃいと言ってくれた。
桜を見れる通路を通って外に出る。
少し酔いが残っていたため、フラフラする。
するとその瞬間。
段差につまずいた私はぐらりと身体が揺れた。
「きゃっ」
「おっと……」
とっさに私を支えてくれる凰条さん。
彼の身体は想像以上にガッチリしていて力強かった。
「……っ、ぁ。ありがとう、ございます」
男の人ってこんなにガッチリしているんだ……。
力強く支えられ、私は顔を赤らめた。
外の空気はひんやりとしていて心地が良かった。
澄んだ夜空の下、満開の桜がライトに照らされて静かに揺れている。
「キレイですね、桜……」
お酒で火照った身体が冷えていく。
プレッシャーから解放されたみたいで少しほっとした。
「無理をさせてしまいましたね」
「えっ」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「お酒……あまり強くないでしょう?顔が赤いです……私も気づかずに勧めてしまって申し訳ない」
「いえ、そんな……」
凰条さま……私がお酒が苦手なことを気づいてくれたのかな。
ゆっくりと時間が過ぎていくみたいで、凰条さまとふたりの時間がなんだか心地よかった。
「零さんは何が好きですか?」
優しい口調で尋ねてくる凰条さま。
「私は……」
そこまで告げて我に帰った。
自分の好きなものを聞かれているのではない。
零お姉様が好きそうなものを答えなくちゃ。
そう思った時、凰条さまは私の手を取った。
「あなたに会えて良かったです。もっと零さんのことを知りたい。なんでも教えてください」
優しい笑顔を見せる凰条さま。
その姿に胸がきゅんっと音を立てる。
ごめんなさい、お姉様。
今だけはウソをつきたくない。
自分の好きなものを伝えさせてください。
私は素直に、口を開いた。
「好きなのは……花を見たり、育てたりことです」
家で出来る唯一のことは花を育てることだった。
花は誰も傷つけないし、愛情をかけた分キレイな花を咲かせてくれる。
だから好きなんだ。
しかし、それを言ってしまい、はっと我に返った。
『花が好きとかつまらなすぎ』
『趣味がこんなちっぽけなことしかないのよ、この子は』
「ごめんなさい、つまらないですよね」
こんな広がらない話をしてしまった。
いつも花を見ているとお姉様とお母様には、地味な趣味しかもっていないと鼻で笑われた。
「そんなことないですよ」
凰条さまは心地の良い低い声を響かせた。
「花は私も好きです。心が忙しくなっている時、こうして眺めると時の流れを落ち着かせてくれる。ステキな趣味をお持ちなんですね」
「凰条さま……」
何を言っても否定しない。
優しく暖かく話を聞いてくれる。
なんてステキな人なんだろう。
「時の流れを落ちつかせてくれるって、なんだかわかります」
私は凰条さんの言葉にくすりと笑った。
花は不思議なんだ。
どんなに傷つけられても、その美しさを見ていると大丈夫だと思えるようになるの。
「もうそろそろ時間ですね……」
凰条さまは自分の腕時計に視線を落とした。
もう終わりなんだ……。
この縁談が終わってしまうと思うと私は寂しくなった。
もう会えない……。
もう彼とお話しすることは出来ないんだ。
凰条さまはまっすぐにこちらを見ながら言う。
「またキミに会いたい」
──ドキン。
熱を持った視線に私の心臓がバクバクと音を立てた。
「好きな花を教えてください。今度はあなたの好きな花を持っていきます」
「はい……」
思わず返事をしてしまった。
もう凰条さんに会うことはないのに、もう一度会いたいと思ってしまったからだ。
「睡蓮の花が好きです……」
伝えても意味のないことは分かっていた。
それでも私は伝えたかったのかもしれない。
「睡蓮ですね」
凰条さんは優しく笑ってくれた。
それから両親のいるところへ戻ると、縁談はお開きとなった。
車の中でぼうっと窓の外を見つめる。
凰条さん、とてもステキな人だった……。
あんな人が自分の婚約者になったら、どれだけ幸せだろう。
なんて、あり得ない想像をしてしまう。
するとお父様が厳しい口調で言った。
「ちゃんと零として振舞ったんだろうな」
「はい……」
「勘違いするなよ。凰条家はお前を求めているんじゃない、零を求めているのだから」
「分かっています……」
静かに答えることしかできなかった。
「零が縁談を進める気になってくれるかしら?」
父と母が話している。
「なってくれるよう説得しよう。凰条家を取り逃がすわけにはいかなない」
車が自宅に到着する。
私が車から降りた時、外出していたお姉様がちょうど帰宅したようだった。
お姉様は私の姿を見てから、バカにしたように言う。
「どうだった?凰条家のブ男の様子は?澪とお似合いだったんじゃない?」
くすりと笑う零を私は不快に思った。
自分のことを言われるならまだいい。凰条さまのことを悪く言って欲しくない。
「凰条さまはブ男なんかじゃありません。とてもステキな方でした!」
私が言い返したことに驚いたのだろう。
零は目を細めると、静かにつぶやいた。
「へぇ?意外と気に入ったパターン?じゃあいいんじゃない、澪が結婚したら」
すると両親は慌てて零を説得しはじめた。
「零……凰条様はあなたをすごく気に入っているようなのよ。見た目もブ男なんかじゃなかったし、一度会ってみるのはどうかしら?今日は澪に零になるように言ったから」
「そうだ、また会いたいと言ってくれたそうだ。一度だけでも会ってみてくれないか?気に入るかもしれないぞ?」
お父様とお母様は優しく問いかける。
しかし、零はふんっと顔をそむけた。
「興味ないから!私に結婚するようお願いしたいんだったら、もっと自由にできるいい縁談持ってきてよね!」
そしてふんっと顔を背けて家の中へと入ってしまった。
私はお姉様が凰条様に興味がないことを見てほっとした。
興味を持って欲しくないと思ってしまった。
また、会いたい。
叶わない願いを願ってしまうような、浮かれてしまう1日だった。
「凰条、一真さま……」
ボソっとつぶやいた言葉は、空気に溶けて消えていく。
いつも冷たさを感じる家も今日は少しだけ温かく感じた。