消えた使用人
1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。
暫くの間鴨川が落ち着くのを待っていた所で、作業を終えたらしい多田が現れた。
「お待たせいたしました」
多田はお辞儀をすると、鴨川の隣の席に腰を下ろした。
「丁度良かった。他の方達はどうされていますか」と岸辺。
「真希様は先程の件を聞いてひどく怯えたご様子でした。それと、慢性頭痛が悪化されているようで、美香様も高熱を出されてしまったので小山内さんにお二人のことを診てもらっておりますが、あまり薬を持ってきていないようで」
説明を終えた多田は小川の方に視線を向けた。
「では、私も診て参ります。薬が必要でしょうから」
小川は軽く会釈をすると、粛然と部屋を出ていった。
「隆平さんはどうですか?」
三宅は小川の背を眺めながら尋ねた。
「見かけよりもかなり気持ちが沈んでいるようで、部屋に閉じこもっているようです」
多田の言葉から想像した彼の姿は、玄関口で初めて会った時の無邪気な笑みと結びつかない。
「そうですか」岸辺はそう流すと、
「それでは、二年前の事件について聞かせてください」
「二年前?やはり、雪子様の死と関係があるとお考えで?」
多田は訝しげに目を細めた。
「私はあの時、兼光様と共に本土の方に滞在しておりましたので、その話は鴨川の方から」
鴨川は自らを落ち着けるように何度も深呼吸する。これまで稼働していたヒーターが突如止まり、寒気が肌に触れる。猛雪が館全体を揺らす轟音が窓伝いに聞こえる。
「雪子様が亡くなっていることが分かったのは、二年前の十一月十六日深夜——日付上では丁度十七日になっておりました———」
以下、鴨川が語った事件当時の詳細を三宅が纏めたもの。
二年前の十一月十七日、この島には、今日と同じ客人が来ていた。
兼光氏は手術のため、二日前から多田と共に本土の病院に滞在。
雪子氏はその頃足を悪くしており、車椅子で生活していた。再建前の邸宅には階段の隣にスロープが設置されており、移動の際は使用人を呼んで押してもらっていた。
事件当日(11月17日午前二時ごろ)その日の当番だった黒田由美が呼ばれて、二階の雪子氏の部屋をノックしたが応答がなく、このような時間に呼ばれたこともあって不安になり、扉の鍵が開いていたので部屋に入った。そこにはいつも通り車椅子に座った雪子氏がおり、ほっと安心した。眠っているのかと思い近づいてみたところ、目は開かれており、脈拍が無いことに気づいた。
その後黒田は他の客人を呼び起こし、真希と美香を除いた全員が雪子氏の部屋に集まった。遺体は小山内が診たが、既に亡くなってしまっていた。外傷は一切なく、この時点で正確な死因を特定することはできなかった。異様な臭気がして部屋を出ると、火事が発生していることに気づいた。全員は大急ぎで階段を降りて、邸宅を脱出。雪子氏の遺体は俊典によって運び出された。消防と警察が島に来たのが午前七時。その時点で既に館は半焼していた。その後の司法解剖でも毒物及び薬物は検出されず、死因は不明。一階は比較的火の影響を受けておらず、出火元は二階である可能性が高い。
黒田由美が二階の客室及び一階の使用人の用の部屋を訪ねた時点で、全員が部屋にいた。
小川、鴨川、黒田の使用人三名は、事件発生日から約一年間、本土で生活していた。
警察は黒田由美を容疑者として捜査を進めていたが、当人の失踪によって捜査は難航し、証拠不十分で捜査は打ち切られた。
「これが、今回集まった方達の共通認識であることは間違い無いと思います」
鴨川はそう云って、一連の説明を締めた。卓上には、事件の詳細が纏められた文書や、黒田由美という文字が記された顔写真が広げられた。
「黒田さん……?かつて勤めていたと云う使用人の方ですか」
「はい。警察の事情聴取で本土に滞在していた時期に、黒田さんは突然蒸発してしまったのです」
「今も見つかっていないのですか」岸辺は文書を読みながら尋ねる。
「いえ。失踪から約半年後———1991年——去年の7月に青木ヶ原樹海で遺書と共に発見されました。既に遺体は腐敗していたそうですが」
「遺書には何と書いてあったのですか」
三宅は体を前に乗り出した。
「犯人は自分であるという告白と、罪の重さに耐えかねて自殺する、という文言が」
「動機は書かれていなかったのですか」
「はい」
岸辺は低く唸った。
「でも、その黒田さんが犯人である可能性が高いのに、どうして警察は断定しなかったんです?」三宅は尋ねる。
「彼女が犯人である証拠となるものが、犯行を自白する遺書だけだからです。雪子様の死因が特定できていないので、殺人として立件することができないと」
警察もお手上げだったわけか。
「黒田さんはいつからここで働いていたのですか」
多田が答える。
「今から三年前の1989年—事件の一年半前にあたります。ですが、彼女は二十年以上前に一年間ここに勤めていたことがあるのですよ。まだ俊典様も隆平様も大変小さかった時分です。その頃の彼女が確か25歳前後でしたので、二十年後に戻ってきた時は46歳でした」
「二十年越しにこの島に戻ってきたのですか。一体どうして」
煙草を燻らせていた岸辺が尋ねた。
「この島の雰囲気が恋しくなって戻ってきたと云っておりました。それ以上はあまり。島を離れていた二十年間は、地元で仕事をしていたとか」
「あなた方から見た黒田さんはどのような方でしたか?本当に黒田さんが犯人であると思いますか?」
「感じの良い方で、とても人殺しのような恐ろしいことをする人とは思えませんでしたが……」
鴨川はそう云うと、横に座る多田の方を覗き見た。
多田は視線を斜め上に向けて、若干口角を上げながら、
「ん〜、とてもお淑やかで、仕事も真面目にそつなくこなす人でしたね。笑った時に見える白い歯が素敵でした」
多田はそこで思いとどまったように口を噤んだ。
少しの間多田に冷めた視線を向けていた鴨川は、突如思い切ったように、
「私あの日黒田さんを見てしまったんです。午前二時頃でしたか。何かの物音が聞こえて目が醒めて、その時ふと、ダイニングルームの窓を閉めたか不安になり、一度部屋を出て確認に行ったんです。その時に、黒田さんが階段を上がっていくところを見かけました」
時間的には雪子氏殺害前に当たる。
「というと、物音というのは黒田さんの足音だったと?」
「そうだと思います」
「そうなると、その時黒田さんは二階の雪子氏の部屋に向かっていたことになりますね」
岸辺は流暢にそう説明すると、視線を鴨川の方に向けて、
「ちなみに、三時頃部屋を訪ねてきた時の黒田さんの様子はどうでした?」
「大変な焦りようだったと思います。私自身も雪子氏の訃報を聞かされて頭が真っ白になっていましたし、黒田さんが犯人なんて考えてもみませんでしたから、あまり観察なんてできませんでしたが。二階に泊まっていた皆さんに事情を説明して起こしてから、一階の使用人を呼びに来たらしいのですが、かなり動揺していて、独り言をぶつぶつと呟いていました。まさか、あれが演技だとは思いませんでした」
時々三宅の手にあるメモを横目で眺めながら、岸辺は質問を続ける。
「彼女の服装は、二時頃に目撃した時と同じ服装でしたか」
「ええ、暗くてあまり見えませんでしたが、同じ寝巻き姿だったと思います」
「では黒田さんは雪子氏殺害後、雪子氏の部屋に備わったベルで自分の部屋に呼び出しを行うという自作自演を行うことで第一発見者を装い、館内の全員を雪子氏の部屋に呼んだと」
岸辺はそこまで云い終えると、灰になった煙草を灰皿に落とし、
「事件発覚後の黒田さんの様子は?」
小川が記憶を辿るように目を閉じた。
「ずっと怯えた様子でした。雪子様の部屋で遺体の確認をしていた時、彼女が火災に気づき、真っ先に部屋に残っていた真希さんと美香様に報せに行ったんですよ」
三宅は少し思案を巡らせ、
「しかし、何故火をつける必要があったのでしょうか。現に、死因は今も特定できていないのですから、そこまでして証拠を消そうとする必要があったとは思えません。それに、どうして雪子さん殺害後にわざわざ他の人を呼び出したのでしょうか。犯人目線で考えれば、遺体の発見は遅い方がいいですよね」
「そこがわからないんだよ。疑問でいうなら、未知の方法で雪子氏を殺害し、現場の混乱させるために邸宅を半焼させる程の犯人が、自らの行いを悔やんで自殺するとは思えないだろう」
暫しの間、四人に沈黙が生まれたが、誰一人としてその答えを挙げられる者はいなかった。
「黒田さんが犯人かどうかは別としても、彼女が亡くなっているのであれば、今回の犯人は別にいるということですか」
重い沈黙を払うように三宅は云った。
「そうなるね」
岸辺はまた低く唸り、何やら考え込むように宙を見据えた。
二
「黒田さんが犯人だとしても、もう亡くなってしまっているのですし、あの手紙は誰が出したのでしょうか」
ダイニングルームを後にしながら、三宅は云う。
「二年前の件は、複数犯だったのかもしれない。真犯人は黒田由美と共謀して雪子氏を殺害した後、今度は黒田由美を殺害して全ての罪をなすり付けた。勿論、二人以上の共犯である可能性もある」
「えっ」三宅は無意識に背後に振り返った。
現在この邸宅にいる人間の中に、村人の皮を被った人狼が複数紛れ込んでいるかもしれないのだ。いや、自分達以外全員が人狼である可能性だってある。全身の毛が粟立ち、身が竦む。誰を信じていいのか、すっかり寄る辺を失ってしまったような気分だ。
「まあそうは云ったけど、全員なんてことはあり得ないと思う。少なくとも、使用人三人の犯行という線はない。もし彼らが兼光氏の命を狙っていたなら、わざわざ他に客人のいる今日じゃなくて、島に自分達と標的しかいない通常時に動けばいい。三人で口裏を合わせておけば、事故なりなんなりで話は済んでしまう。それに今朝の犯行。例え客人の中に犯人がいたとしても、複数犯であれば、今朝のシアタールーム以外でいくらでも自分達に有利な状況を選べたはずだ。犯人が、兼光氏が来る前からシアタールームに潜んでいたのか、途中どこかのタイミングで忍び込んだのかはわからないが、僕達二人という想定外の存在に気づいた時点で、別の仲間を使ってシアタールームの外に誘き出して計画を中止にすることもできた。それなのに犯人はそのまま計画を実行した。やはり、単独犯である可能性が高い」
「成程。でも上映中、一時映写機が止まって暗転した時がありましたよね。犯人はあの時に忍び込んだんじゃないですか?」
「とすると、映写室にもう一人共犯者がおり、その人物が映写機を止めて暗転させたということかな?」
「ええ、そうとしか考えらません。映写機を遠隔で操作するなんて不可能ですから」
「はあ」岸辺は納得したように顎の辺りに手を当て、
「なら、映写室にいた人物を〈二人目〉、いや、シアタールームに侵入した順番的に、〈一人目〉としよう。その〈一人目〉はいつシアタールームに入り込んだんだ?」
「兼光さんがシアタールームに入ってくる前に、予め後方の席の影に隠れていたんではないですか。その頃はまだ照明が消えていませんでしたけど、映写室に向かう多田さんに見つからなければいいんですし」
岸辺は曖昧に頷き、
「じゃあ、多田さんが上映を開始して部屋を出た後、隠れていた〈一人目〉は映写室に忍び込んで映写機を止めた。外に待機していた〈二人目〉がその隙に部屋に侵入し、暗闇の中を進んで兼光氏の左後方まで進み、吹き矢で殺害。その後〈二人目〉がスクリーン前に姿を見せたのは、僕達の注意を〈一人目〉がいる映写室に向けさせないためだったと。不幸にも僕達はまんまと策に嵌まり、僕は〈二人目〉を追って行き、君は助けを呼ぶため隣のダイニングルームに向かった。そうしてシアタールームが無人になった隙に〈一人目〉は悠然と脱出できた。消化器を持った君と多田さんが戻ってきた時には、〈一人目〉は当に辞していたわけだ」
岸辺はそこまで云い切ると、フッと鼻で嗤い、
「それはないね。尤も、〈一人目〉はその後どこに逃げたのかな。〈二人目〉を追って僕は二階に上がり、手前の部屋から順番に訪ねた。いくら部屋の中の客人に視線を向け、廊下を背にしていた時間があるとはいえ、〈一人目〉が僕の背後を通って部屋に戻ったなんてことはあり得ない。君だって、多田さんのいるダイニングルームに入った隙に、誰かが廊下を通って行ったと思えるか?」
「どうでしょうか・・・」
第一、私がダイニングルームに入った隙に、廊下を通って持ち場に戻ったのであれば、必然的に〈二人目〉の正体は鴨川しかあり得ない事になるが。シアタールームに入ってから消化器を受け取り、ダイニングルームに戻るまでは、15秒にも満たない。いくら狼狽していたとはいえ、廊下を通る人間がいたなら、姿を見逃すはずはない。
「ないですね」
「やはり、今回の犯行は単独犯によるものだろう。だが結局、その正体は分からず終いだ。今一度、あの手紙の差出人や、二年前の事件との繋がりから全貌を捉え直した方がいいかもしれない」
「そのことで、少しいいですか?」
三宅は畏まって足を止めた。
「どうした?」
先を歩いていた岸辺も立ち止まり、後ろに振り向く。
「実は私、二年前の犯人が分かってしまったかもしれません」
「聞かせてくれ」
こちらの様子を伺っている岸辺を他所に、三宅はあえて数秒の沈黙を続けた。
「これまで密かに温めていた可能性があったんですが、話を聞いてより信憑性が増しました。犯人はズバリ—————小山内さんですよ」
三宅はにやけ顔で、岸辺の反応を伺った。探偵の座は貰った!
「どうして彼女だと?」
いつもの立場から逆転した現状に多少の恍惚感を覚えながら、三宅は人差し指を立て、
「警察がこの島に来る以前、雪子さんの遺体を検べたのは彼女だけです。他の人には法医学の心得はないため、いくらでも偽証が可能だったんですよ」
「でも、司法解剖の結果でも死因は特定できなかったというじゃないか」
予想通りの質問に三宅はさらに口角を上げて、
「小山内さんには毒物への知見があるんです。今朝も彼女は、兼光氏殺害に使われた毒が鳥兜由来のものであると特定しました。雪子氏も毒物を使用して毒殺した後、何らかの方法で毒物を遺体から抜き取ったとしたらどうです?あらゆる証拠はなくなり、完全犯罪の成立ですよ」
「そんなことが可能なのか?」
「例えば、毒物は便と共に体外に排出されることもありますし、嘔吐などでも可能です。現場にそのような痕が無かったのは、殺害現場が雪子氏の自室以外の別の場所だからです。彼女は足を悪くしていたため、車椅子で移動していました。その分、小山内さんが遺体を移動することも容易だったんです。もしかすると、現場に皆が集まった段階では、まだ遺体には毒物が残っていたのかもしれません。警察がこの島に来るまでにはまだ十分な時間があったのですから、その間に毒の成分を抜き取ることができたんですよ」
三宅は自身の抱く探偵像をできるだけ再現しながら、弁舌を振るった。
「面白いかもしれないね。それなら兼光氏を殺害したのも彼女だと?」
何故か、子供の話を聞くような口調だった。
「そうですよ。毒殺という共通点もありますし」
「じゃあ今回、彼女はどうやって犯行を実行したんだ?」
痛いところを突かれた。そこまではまだ検討ができていない。
「それはですね…それは……」
「まだ分かっていないみたいだね」
岸辺は新たな煙草を銜えると、身を翻して歩き出した。
「でも、まだ他の人には云わないでくださいよ。———私が考えたんですから」
岸辺は肩を竦めた。
「どちらにせよ、くれぐれもの態度に出さないでくれよ。君は何かと感情が顔に出やすいから」
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