不確かなアリバイ
1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。
映写機の残骸を回収した多田と共に、二人はシアタールームを出た。
「では、私はこれで」
多田はお辞儀をして、正面玄関の方へと歩いていく。意外にも、見張りの体でここに来たのではなかったようだ。
「そうだ、小川と鴨川の方にも話をお聞きになりますか?」
多田は思い出したように、こちらを振り向く。
「そうですね、ぜひお願いしたいです。それと、できれば多田さんにも同席してもらいたいですね」
岸辺は、白に染まった窓の外を眺めながら答える。
「では、呼んできましょう。そちらの部屋で待っていてください。私はこれを片付けたら参ります」
多田はダイニングルームを指さすと、再び身体を翻して歩き始めた。
「色々聞くことはできましたけど、核心的な話はなかったですね」
「まだ一人目じゃないか」
「事件時、小川さんはキッチンで鴨川さんは玄関ホールに居たんですよね。一階にいた人を疑っているんですか?」
「いや、勿論二階にいた人の方が怪しい。だからこそ、先に一階にいた人達から話を聞いておこうと思ってね」
三宅はダイニングルームの扉を開けた。昨夜豪華な食事が並んでいたテーブルも、今は花瓶がいくつか置いてあるだけで、やけに寂れた印象を受ける。照明の灯っていないシャンデリアが見下ろすその空間には誰もおらず、窓の外で吹き荒む風の音が響く。
岸辺はダイニングテーブルの横を抜けて、そのまま奥のキッチンまで歩を進めた。意外にもキッチンはこぢんまりとしていたが、料理担当一人にしては十分すぎる広さであった。既に朝食の食器は回収されているらしく、棚には綺麗に洗われた皿が並んでいる。
小山内が懸念していた第二の犯行はひとまず起こらなかったようで、三宅は安堵の息を漏らした。
「犯人は同一人物なのだろうか」
部屋を見回していた岸辺が突然呟いた。
「どういうことですか」
「今回の兼光氏殺害と、二年前の雪子氏殺害の犯人だよ。同一犯の可能性が高いが、あまりに手口が異なりすぎている」
あまりに非現実的な体験をしてしまったせいで、本来の目的だった二年前の件はすっかり失念してしまっていた。
「同一犯……」三宅は呟く。
今回の犯人は、標的の他に目撃者がいるという前提で、様々な仕掛けを施したようだが、二年前の件は一切の痕跡も残っていないどころか、未だに死因すら特定できていない。
「同一犯であれば、夫婦二人を殺害したことになるわけですね」
「だからこそ、遺産目的の身内の犯行である線が濃いんだが。同一犯かそうではないかで、かなり事件の全貌は変わってくるからね」
「私はやはり、同一犯の可能性が高いと思いますね」
どちらにせよ、二つの事件にこの館にいる人間が関わっているのは間違いない。
「すみません、お待たせいたしました」
扉が開かれ、鴨川と小川が現れた。鴨川は申し訳なさそうにお辞儀をして、せっせと入ってくる。その顔には明らかに精神的な疲弊が現れていた。その後ろを歩く小川は相変わらず無表情だが、こちらをみる視線に若干の恐怖が混じっているようにも見える。
「色々とやってみたのですが、外側の積雪によって玄関口の扉は少しも動きません」
鴨川が云う。全体で散会した後、鴨川と小川はその扉の対処に臨んでいたという。
「まあこの雪では、扉が開こうがどこにも行くことなんてできないですから、ゆっくりでもいいんじゃないですか」
三宅はダイニングテーブルに腰掛けながら云った。
「そうですけど。あのようなことがあったのに監禁状態というのは不安で。まさか、ここまで大雪になるとは思いませんでした」
視線を右往左往させながら、鴨川は早口で話し続ける。どうやら、この人は不安になると、言葉数が増えるようだ。
「人の足跡や痕跡のようなものは無かったですか」と岸辺。
「ええ、そのようなものはございませんでした」
岸辺も三宅の隣の席に腰を下ろした。二人にも着席を促すが、「お茶をお入れしますので、少々お待ちください」と、二人してキッチンへ入って行った。
「どうして二人で?」三宅は疑問を口にする。
「毒を入れていないか互いで見張り合うように云われているんだろう。俊典さん辺りに」
しばらくして、お盆を持った二人が戻ってきた。小川の持った盆には、二つのティーカップとクッキーが乗せられていた。丁寧に並べる彼女に向かってお辞儀を返す。
「どうも、お待たせ致しました。それで話というのは」
二人の向かいの席に座った鴨川が質す。その隣に少し遅れて小川も腰掛け、二対二で向かい合った。
「事件当時の様子についてお話しをお聞きしたいのです。鴨川さんは正面玄関口に、小川さんはキッチンにいたんですよね。犯人はシアタールームの右通路から二階へ逃げたというのが有力なんですが、一階で誰かを見たり、足音を聞いたりしていませんか」
鴨川は首を左右に振りながら、口早に説明する。
「私は何も。いつも通り七時頃から玄関の掃除をしていたのですが、途中で玄関口の扉が開かないことに気づきました。扉の方ばかりに注意を向けていたので、廊下の方はあまり見ていませんでした。途中で多田と小川にも助けを求めようかと思ったのですが、二人は朝食の用意がございましたので」
鴨川は申し訳なさそうにそういうと、横に座る小川の方を向いた。
「私は七時頃からずっとキッチンにいましたけど、朝食の用意で」
小川は淡々と述べる。
「隣のダイニングルームでは多田さんが作業していたそうですが、彼の行動に不審なところはありませんでしたか」
「さあ。あまり姿は見ていませんでしたので」
先程キッチンを覗いた時に確認した。キッチンの厨房で調理するとなると、このダイニングルームを背にして立つ格好になる。つまり、キッチンで調理中だった小川にとって、ダイニングルームにいた多田は死角になっていたのだ。
「ああでも、一度ご主人に呼ばれて出て行ったと思います」
「彼が戻ってきた後はどうでした?」
「さあ、どうでしょう。でも、食器なんかの音は常に聞こえていましたし、時々視界に彼の姿は入っていたので、彼が私に気づかれない内にまたシアタールームに行って戻ってくるというのは不可能だと思いますけどね」
「そうですか。———それと今朝、一度隆平さんがキッチンに来たようですが」
岸辺は二本目の煙草に火を付けながら尋ねた。
「部屋の冷蔵庫に用意されていた分を全て飲んでしまったとかで、何本かボトルを持って行かれましたね。部屋までお持ちしますと云ったのですが、自分で持って行かれました。まだ目も開ききっていなかったように見えましたけど」
「隆平さんがこの部屋に来る前後に、隣のシアタールームの方に行った様子はありませんでしたか?」
「さあ、キッチンにいたので」
「それ以外に誰か見かけませんでした?」
小川は口を噤んだまま僅かに首を振った。
岸辺は紫煙を吐き出しながら、顔を鴨川の方に向ける。
「私も見ていません」
「そうですか。では鴨川さん、事件発生後二階の客人を呼びに行った時、不審な様子の人はいませんでした?」
「いえ。俊典様ご夫妻は起きられていましたが、美香様はまだ眠っていました。隆平様も部屋に戻った後に二度寝されたご様子で、眠そうに目を擦りながら、何があったのかと不思議そうに尋ねられました」
犯人がシアタールームから逃走してから、岸辺が二階の各部屋を訪れるまで、約二分。その間に証拠の隠滅は可能だったのだろうか。
「では、ご兄弟とご主人の金銭的トラブルについても聞いてもよろしいですか?」
「あまり私の方から口にしたくありませんが。多少のいざこざはあったようです。兼光様と雪子様は側から見ても子煩悩でしたから」
亡き主人に対する礼儀なのか、鴨川は控えめにそう云った。
「兼光様は幼少期にひもじい思いをしていたそうで、俊典様と隆平様が小さい頃から学生には十分すぎるほどのお小遣いを与えていました。それでなのかは分かりませんが、お二人のお金の使い方が段々と荒くなっていったことに兼光様は頭を悩まし、大学卒業を機に一切の金銭的支援をやめてしまったようなのです。それでも、幼少期から染み付いた金遣いを治すことは難しいようで、しばしばお二人からは小遣いを請求する電話がかかってきておりました。私達が知っているのはそれくらいで、詳しい話はご本人にお聞きなさってください」
「まあ、富豪の子供が陥りやすいことかもしれませんね。ちなみに、俊典さんと隆平さんはいつまでこの島で生活していたのですか」
「高校卒業まではここから本土の学校に通っていましたが、高校卒業を機に俊典様は上京して一人暮らしを始められました。その二年後に隆平さんもここを出られて、現在までお二人とも関東にお住みです。少なくとも毎年二回、兼光様と雪子様の誕生日にはここに戻られていたんですが」
鴨川は話しながら悲しみが込み上げてきたようで、徐々に視線を落とし、途切れ途切れに言葉を継いだ。何年も仕えてきた二人に旅立たれてしまった彼女の悲しみは到底計り知れない。
鴨川は意を決したように突如顔を上げると、
「大変僭越ながら、お二人のことは我が子のように思っております。俊典様も隆平様も絶対にあのようなことをする人ではありません」
訴えるように云った。眦には涙が浮かんでいる。
「分かりました」
岸辺は特にそれに言及することなく少し考え込むと、
「では、二年前の件についてもお聞かせ願いますか。あなた——」
「すみません…」
鴨川は再び呼吸を早め、咽び始めた。
「すみません、とても今は満足にお話ができそうにありません」
「そうですか。では少し休憩にしましょうか」
「申し訳ありません」
「長年仕えていたお二人が立て続けに亡くなられたのですから、無理もありません。私も不甲斐ないです」
三宅はそう云って隣の岸辺の方を見遣る。当の本人は、無邪気な様子でビスケットを頬張っていた。
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