シルエットの問題
1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。
主人の遺体は暫定的に一階の、使用人部屋の隣の物置に安置されることになった。
主人の突然の訃報は真希と美香にも伝えられ、招かれざる客による犯行である可能性を考慮し、全員同行の下全ての部屋が捜索されたが、徒労に終わった。
現在この邸宅にいる生者は十人。この中に犯人はいるのだ。
食事は、俊典の監視の下使用人三人で用意したものを、各部屋まで運んでもらうことになった。
各々の部屋で軽い食事を腹に入れた岸辺と三宅は、再びシアタールームに集まった。
「どうですか、何か解決の糸口は見つかりましたか」
「まだ模索中だよ。それにまさか、自分が事件の関係者になってしまうとは思っていなかったし」
岸辺は一番後ろのシートに腰掛け、煙草を取り出した。
「ただ、外部犯の可能性は完全に消してしまってもいいだろうね。全部屋確認しても発見できなかったのだし、この館には隠し部屋及び隠し通路なんてものはない。一応玄関の外の様子も窓から確認してみたんだが、足跡は一切無い。それどころか、未然の大雪で扉が開かなくなっている。出たくても出られないわけだ」
事件発覚からまだ一時間。いくらこの大雪とはいえ、犯人が外に逃げたのであれば、足跡は残っているはずである。
「君はどう思う?」
「外部犯の可能性が消えるのなら、やはり事件当時二階にいた人が怪しいと思います」
「確かに。でも玄関ホールにいた鴨川さんは、雪で開かなくなったドアを何とかしようと長い間苦闘していたらしい。鴨川さんの背後の正面階段は長い間死角になり、犯人はその隙をみて正面階段から一階に戻ることもできたわけだ」
「となると、ダイニングルームにいた多田さんと小川さんすら、容疑者になるわけですね」
「ああ、それに鴨川さんだって、ずっと玄関口にいたのかは分からない」
「結局容疑者は全員ですか」
「スクリーン前を横切っていったシルエットからして、多田さんはないな。もしかしたら君が真犯人だったりするのかな」
「やめてください、先生」
岸辺は煙草の煙を吐き出しながら、フッと一度口角を上げると、
「ちなみに君は、誰が怪しいと思う」
「俊典さんですかね。犯人は初めから、ご主人と一緒にいた私達に罪をなすりつけるために、この場所を犯行現場に選んだんでしょう。そうすると、真っ先に私達を疑っていた俊典さんが怪しいと思います」
「それはどうかなぁ」
「どういうことですか?」
「そもそも、犯人の意図が全く掴めない。スクリーンに映し出された『大江戸惨殺譚』の暗転のタイミングを利用して、僕達に気づかれずに移動していたことからも、犯人は当然兼光氏殺害を前もって計画していたと思える。このタイミングで実行したのも、家族や関係者がこの島に来ており、容疑者を増やすためだろう。ただ、どうして吹き矢を用いたのか。確かに、鳥兜を用いた吹き矢であれば、この島内で簡単に作成できるし、犯行の際に痕跡も残らないという利点もある。ただ、兼光氏と一緒にいた僕達に罪を着せる気だったのであれば、逆効果だ。小山内さんの指摘したようにね」
「はあ」
「犯人は初めから僕達に罪を着せるつもりなんかなかった。僕らはあくまで目撃者として犯人に利用されたのかもしれない」
そう云った岸辺はすぐさま「いや」と、訂正する。
「兼光氏は自分の誕生日の朝にここで『大江戸惨殺譚』を見るのが決まりだったらしいが、今回は秘密裏に僕達をシアタールームに呼んだのだから、僕達二人が来ることまでは知らなかったんじゃないか」
「私達の存在は犯人にとって想定外だったという事ですか。映写機が燃えたのも、犯人の計画の内なのでしょうか」
「恐らくは。現に、フィルムから発火して劇場全体が火災になったという事故は聞いたことがあるが、今回に関しては、発火が偶然とは考えにくい。これも犯人の計画の内だろう。フィルムという証拠の隠滅と、僕達を撹乱するために」
岸辺は吸殻を摘んだまま立ち上がると、主人の席に備えられていた灰皿を手に取って再び席についた。
「なら、多田さんが時限で映写機が燃えるように仕掛けを施したとも考えられますね」
「可能性はあるが、僕達は上映後に多田さんが部屋を出て行く様子を確認している。それに、スクリーンに映った人影はまず傴僂の多田さんではなかった。彼にあのような俊敏な動きはできるとも思えないしね。————疑問点は他にもある。犯人はどうして、主人の殺害後わざわざスクリーンの前を横切って行ったのか」
「二階に繋がっている右通路から出るためではないんですか。アリバイなんて全員あってないようなものですし、足音立てずに二階の自室に入ってしまえば、しらを切り通すこともできると思います」
「確かに、左隣のダイニングルームには多田さんと小川さんが居たから、左出入り口から廊下に出たならば、二人に見られる可能性があった。理由としては頷けるんだが……わざわざスクリーンの前を通って、シルエットを見せた理由が気に掛かる。暗闇に姿を隠して主人を殺害したのであれば、姿を見せずに逃走した方がいいに決まっているのにね」
「成程。でもこう考えるならどうですか。——主人の左後方にいた犯人が右出口から逃げるには、スクリーンの前を通るしかなかったんですよ。主人の右側には私達二人が座っていましたから、いくら暗闇の中とはいえ、私達のすぐ横の右通路を使うことはできない。だからこそ、スクリーンの前を通ったんですよ。本来なら暗転中に横切ろうとしていたところを、焦りでタイミングを間違えて、姿を見せてしまったのかもしれません」
岸辺は軽く頷いたが、納得はしていないようだった。何度か無言で紫煙を吐いた後、再び岸辺は口を開く。
「でも、あのシルエットから犯人を特定するのは不可能だよ。フードのようなものを被っていたから髪型も識別できない」
「だったら結局、多田さんも怪しいですね。でも、大体の身長は判定できそうじゃないですか。スクリーンに映ったのは上半身だけでしたが、それだけでも容疑者は絞れますよ」
三宅は左通路から階段を降りてスクリーンの前まで向かった。岸辺の指示に従って、三宅はスクリーンを背にして立ったり、犯人の行動通りスクリーンの前を、左から右に駆けたりした。岸辺はそれを、事件当時と同じ三列目の席の前から真剣に眺めていた。
「どうですか?」
若干荒くなった呼吸を整えながら、三宅は岸辺の元に戻った。
「曖昧な記憶を元にした推測だけど、恐らく君の身長から誤差±五センチってところかな」
「百六十五センチから百七十五センチってことですか。なら、明らかにシルエットが一致しない多田さんと、三歳児の美香ちゃんは当然除外するとして、容疑者から外れるのは、およそ百六十センチあるかないか、の小川さんと鴨川さんくらいでしょうか」
兼光氏は百八十台だと思われるが、息子兄弟は百七十台後半程に見えた。
小山内と並んだ時に、彼女の身長が思ったよりも高く、自分と同じ位であることに気づいた。俊典の妻、真希も、自分より若干低いくらいだったので、身長にして百六十五センチ以上。容疑者から除くことはできない。
「そうだ。小山内さんは除いてしまっていいんですよね」
「駄目だよ。寝起き姿だったから犯人ではない、なんてあまりにも安易だ」
「じゃあ、ただ先生が失礼なだけでしたね。———まあでも、半数は除外できました」
「ああ、犯人は目前まで迫っている」
残るは、俊典、隆平、小山内、真希の四人————
「あっ」
ふと、三宅の脳内にある一つの可能性が浮かんだ。
「犯人が、底の厚い靴で身長を偽装していたら?」
「ああ、確かに、可能性はなくはないね」
岸辺は目を見開いた。
「でも、身長をかさ増しはできても、低く見せることはできないだろう。結局、小川さんでさえ容疑者から除外できないわけだ」
致命的な欠陥により、組み立てた推論が瞬く間に瓦解。三宅のスクリーン前の奔走も虚しく推理は振り出しに戻ってしまった。