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緑青島の殺人  作者: 髙比良実
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食卓を囲う

1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。


長細い硝子製のダイニングテーブル上には、いくつものクロッシュが置かれていた。クロッシュとは、高級レストランなんかで、卓上の料理の鮮度や温度を保つために使用される、半円形の銀色の蓋—あれのことだ。映画などでしばしば目にする機会こそあれ、実物を見たのは初めてだった。中にはどのような料理が隠れているのだろう。フランス料理か、イタリア料理か—幸せな想像に、思わずよだれが出そうになる。


卓上の隅々にまで並べられた幾枚もの皿を囲うようにして、奥の長辺に俊典夫妻が、娘美香を挟むようにして座っていた。手前の長編の四席の内、左端には隆平が座っており、斜め向かいの美香に話しかけていた。鴨川の案内で三宅は隆平の右、岸辺はその右に座った。そのまた右に当たる短辺の、所謂誕生日席に主人が腰を下ろした。主人の向かいの一席と、その隣の二席が開いていた。


三宅は向かいの席に座った三人家族のことをぼんやりと眺めながら、不在の客人について思案を巡らせていた。鴨川の話では、後一人女性の招待客がいるらしい。小山内咲と云うその人は長年医者をしており、かつて兼光夫婦の専属医としてわざわざこの島に往診に来ていたのだという。


「すみません、遅くなりました」


丁度その時玄関の扉が開かれ、女性の声が聞こえた。


多田の後ろで黒のコートを抱えたその女性は、当初三宅が想像していたよりも若く見えた。


すらりと細長い身体の上には燕脂色の大人びたブラウスを纏っており、堀の薄い顔立ちに切れ長の目。しかしその顔つきには不思議と、場数を踏んだベテランのような風格があった。医者というイメージから、三宅は白衣を着ている女性の姿を想像していたが、考えてみれば、客人として招かれている人が白衣で現れる訳はない。


「おや、丁度良いところに来たね」


主人は玄関側の扉に顔を上げると、真希の隣の空席を右手で示した。


「申し訳ありません、向こうの診察が長引きまして」


小山内は宮城県の沿岸で個人医をしているらしい。というと、向こう、と云うのはやはり本土のことなのだろう。


「構わんよ。これから食事にするから座って」


大きめの鞄を携えて近づいて来る小山内に向かって主人はそう云うと、水を注いで回っていた鴨川の方に向き直り、小山内の鞄を部屋まで運ぶよう命じた。


鞄を渡した女医は、改めて他の客人に遅刻を詫びた後、指定された席に腰を下ろした。


「よし、丁度全員揃ったし頂こうか」


客人は全員揃ったようだが、他の席と同じく食器やカトラリーが用意されているにも関わらず、主人の向かいの席は未だに空いていた。もしかすると、雪子氏のためのものなのだろうか。


「妻の死と悲惨な火事から丸二年。またこうして席を囲むことができたことに感謝したい。そして少しの間、我が妻雪子の死を悼んで欲しい」


主人は真剣な面持ちでそう云うと、目を閉じて両の掌を絡ませ、黙祷を捧げ始めた。


辺りを見回すと、他の人も同じように祈りを捧げており、向かいの席では、状況が把握できていない美香の両手を美香が懸命に動かしていた。右隣の岸辺も同じ体勢で目を閉じていることを横目で確認すると、三宅もそれに続いた。


ややあって終了を告げる主人の声が聞こえ、三宅は瞼を上げた。


「感謝する。ただ、決してこの会をしみったれたものにはしたくないから、これからは是非思う存分食事を楽しんで欲しい」


幾分明るくなった表情の主人が、食事開始の合図を告げる。それに伴い、使用人達が料理を覆っていたクロッシュを取り上げていく。中から表れた料理は、意外にも中華料理だった。中華料理と云えば、やはり回転式の円卓のイメージがあるためか、洋風のテーブルに中華料理という光景が少し不自然にも感じられた。行きの道中に鴨川から聞いた、小川という使用人がつくったのだろう。これほどまでの量を全て一人で担当したとは———思わず感嘆してしまう。


それを皮切りに各々が箸を動かし始めたところで、主人が再び口を開いた。


「そうだ、紹介をしていなかったね。こちら、主治医をしてくれている小山内咲さん、こちらは小説家の岸辺先生と、編集者の三宅さんだ」


主人から見て左に座る作家と編集者の二人と、右手奥の女医の方を交互に見遣りながら云った。


「お話は聞いておりますよ。ミステリー作家なのだそうですね。私もかなりその類の小説は愛読しておりまして」


一見気難しそうな顔立ちとは異なり、小山内は随分と人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。


「この島を舞台に小説を描いて頂こうと思ってね」


質問に答えたのは主人だった。この言い振りだと、家族や使用人にもこの理由を聞かせているらしい。


「ええ。あくまでこの島や邸宅を舞台にさせてもらうだけで、登場人物は架空にしますけどね」


岸辺も主人の意図を汲んだらしく、言葉を接いだ。


「あら、それは残念ですね。私も出して欲しかったのですが」と、小山内。


「えっ、そうなの。てっきり僕も出られるのかと思っていたんだけどなぁ」


隆平も残念そうに頭を掻きながら、右手に持った箸で焼売を摘んだ。


「皆さんが宜しいのでしたら、そう致しますが」


岸辺はそう云いながら隣の三宅に視線を向けた。三宅は編集者として無言で一度頷いた。


「そうか、他の人はどうだい?」


主人は明るい面持ちで各人の顔を見渡す。


「僕は構いませんね。君はどう、真希?」


「私は逆にお願いしたいくらいです。でも作中とはいえ、美香が死んじゃうのは嫌です」真希は、口一杯に頬張った美香の頭を一度撫でた。


子供用のフォークを持って部屋に入ってきた鴨川にも同様の質問をし、許諾が取れた主人は唇の端を釣り上げながら、


「多田と小田には後で尋ねるとして————よし、残るはあと一人だね」


と、視線を七人に泳がせる。


あと、一人?もう全員の許可は取れたはずだが。


「君はどうなのかな?」


主人は突如視線を一点に止めると、掌を差し出しながら尋ねた。


「えっ」


その視線の向かう先は、三宅自身だった。


全く予想外の問いかけに面食らい、思わず驚きの声が漏れた。先程の岸辺の無言の投げかけによって、勝手に自分の了承は済んだと思い込んでいたからだ。


三宅は麺を啜っていた箸を止めると、


「勿論構いませんよ。皆さんが宜しいのでしたら、こちらも問題ないと思います。流石に全くの同姓同名という訳にはいかないと思いますけど」


「良かった。出版社の許可が取れなければ、僕達が良くても意味が無いからね」


主人は満足げな面持ちで酢豚を頬張る。


その後は、お酒も交えながら、主人の役者時代の話やそれぞれの身の上話で盛り上がった。岸辺も興奮状態になっていたらしい。三宅の必死の制止も意味を為さず、主人の豪快な酒の継ぎ足しに応じ続け、終いにはその場に突っ伏して眠りこけてしまった。主人によって一応の散会が告げられ、俊典夫妻は美香を寝かせに部屋に戻った。隆平と小山内女医は未だに酒精を摂取しながら、世間話に興じていた。やがて主人にも睡魔が訪れたのか、目を擦りながらゆっくり席を立つ。


「私もそろそろ休むことにする。まだ飲みたい者は好きに続けてもらって構わないから。鴨川と小田は残っているから、新しいボトルが欲しいなら彼らに」


そして三宅の傍に立つと、少し屈んで、


「先生も眠ってしまったみたいだから、夕食前にした話の続きはまた明日にしよう。部屋までは鴨川が案内してくれるから、戻るときには彼女に声をかけてくれ。では」


そう呟くと主人は部屋を出た。その背中を眺めているうちに、適度にアルコールが入った身体が睡眠を求め始めた。時刻は十一時。未だに軽い調子で会話を続けている隆平と小山内。机に突っ伏していびきをかく作家。テーブルの周りでは鴨川と小川の二人が空いた皿をせっせと片付けていた。


一度小川が目の前に並んだ皿を片付けに来たので、三宅はそれとなく尋ねてみた。


「どうも、私三宅と申します。今回の料理、全て小川さんがお作りになったのですよね?」


「はい」


小川は三宅の方に目もくれず、ひたすら皿を重ね続ける。


「とても美味しかったです。ご馳走様でした」


「有難うございます」


突き放すような冷たい物言いに若干狼狽えながら、三宅は頭を下げた。


三宅は当初、小川に使用人として務め始めた経緯を尋ねるつもりだったが、到底そのような事を聞くことができる空気ではなかった。部屋に戻ろうか、去っていく小川の背を眺めていたところで三宅はそう思い、テーブルの向かいで作業中の鴨川に声を掛けた。


使用人は嫌な顔一つせずに笑顔でそれに応じると、背後の扉に向かって歩き出した。


「あっ」


途中使用人は思い出したように身体を翻すと、テーブルの方に向き直って、


「岸辺様はどういたしましょうか」


その言葉に三宅もまた、あっ、と声を上げた。


あの作家をこのような場から家に帰す役割はいつも自分が担っていたのに、今回はすっかり失念していた。


「そうでした。起こさないと」


三宅は泥酔状態の岸辺の側に近づくと、控えめに肩を揺すった。相変わらず深い眠りの底にいるようで、反応はない。先生がこうなったら、残る手は一つしかない。三宅は半ば強引に岸辺の身体を持ち上げると、仰向けの視線のままおぶった。


「すみません、行きましょう」


不安そうに眺めていた使用人にそう告げると、三宅は歩き出した。


成人男性の平均身長程度の三宅よりも頭一つ分大きい岸辺だが、身体の線が異様に細いためか、彼の身体は驚くほど軽く、中学生の甥と同じくらいに感じられる。


「あのう……小川さんって、かなり口数の少ない方なんですか」


「というと、彼女に愛想のない応対をされました?」


鴨川は特段深刻そうでもない様子で聞き返した。


「まあ、そんな感じです」


三宅は苦笑いをしながら首を傾げる。


「すみません。小川さんはいつもあのような感じなんですねぇ。人見知りというか無口というか、ご主人の前では使用人と云う立場に徹する意識の高い方なんです。決して悪い人では無いんですよ」


「そうなんですか」


三宅は先程の使用人の表情を思い返した。病的に白い肌に漆黒の瞳。齢は、四十前後だろうか。無表情を一切崩す事なく、尋ねた質問に対して必要最低限の返答を淡々とする彼女の様子。その感情のない眼差しは、最後まで目の前の自分を捉えることは無かった。


本格的に周り始めたアルコールに揺られる視界の中、三宅は縺れる足を動かし、なんとか使用人の後を追って階段を上っていく。やがて、黄金色のランプに朧げに照らされた廊下の一角で足を止めると、使用人は鍵を開けて中を指し示す。


「こちらと、隣の部屋をお使いください。どちらが使用されますか」


一刻も早くこの労働から解放されたかった三宅は、ベッドの上に作家の身体を寝かせて部屋を出た。


「わざわざ案内してもらってすみません。有難うございました」


「いえいえ、部屋にはそれぞれ鍵があるのですが、岸辺様の分はどういたしましょうか」


「私が預かっておきますね。先生には明日の朝お渡ししますので」


三宅は鍵を二つ受け取ると、岸辺の部屋を外側から閉めた。


「明日は午前八時から朝食の予定となっておりますので。ではおやすみなさい」


廊下の薄暗がりに消えていく使用人の背中を呆然と見送ると、三宅はその左側の部屋の鍵を開けた。どうやらこの部屋の直ぐ左隣は、俊典一家と邂逅したあの部屋らしかった。夫妻に一人娘、三人であの一部屋を使用しているのだろう。


与えられた部屋の造作は、俊典夫妻の部屋とも岸辺の使用する隣室とも同じだった。主人の書斎程広くはないものの、ホテルの二人部屋程の大きさはある。入って左にはダブルサイズのベッドが置かれているが、それでも十分なスペースが残されている。部屋全体の雰囲気や調度も、主人の書斎をそのまま小さくしたような感じで、中世西洋の豪邸を彷彿とさせるアンティークで落ち着いた書き物机、安楽椅子、ウォークインクローゼット、コート掛けがその空間を埋めていた。主人の趣味の良さが伺えるが、例に違わず木製のものは一つも無い。


今更シャワーを浴びる気にもなれず、寝巻きに着替えると無心にベッドへ飛び込んだ。身体は完全に怠惰を受け入れようとしているが、何故だか脳は回り続けていた。


輾転反側を繰り返しながら、三宅は改めて主人の依頼を整理する。


ただの取材旅行で訪れたつもりが、二年前にここで起こった真紀子氏の不審死、———あるいは未解決事件———について、調べることになるとは。


その悲劇が起こったのは、主人兼光氏の不在中であり、その時この島にいたのは、現在もこの館に泊まっている長男俊典とその妻子真希と美香、次男の隆平に専属医の小山内咲、使用人三名と雪子氏。彼女の遺体には外傷や毒物反応が一切無かった。右腕の付け根には、火事の中俊典によって運ばれた際に付いたと見られる焦げ跡が残っていたと云うが、死因は依然不明である。しかし、ここからどのように犯人を探すのか。主人の懇願と私的興味に負けて先生は依頼を引き受けたものの、真相を突き止めるための策はあるのだろうか。そもそも犯人は外部の人間で、今頃本土のどこかで何食わぬ顔で生きている可能性だってある。と云うか、その可能性の方が高いように思う。もしそうであったなら、いくら身を粉にして証拠を探したとしても、徒労以外の何でもない。ゴールのない迷路を右往左往するようなものである。明日からは、あくまで表向きは小説執筆のための取材として、容疑者でもある各人に二年前の事件について尋ねることになるのだろう—


すっかり冴えてしまった脳に三宅は一度起き上がり、現在分かっている事実や抱いている疑問を書き留めた。編集者の仕事柄、情報の精査には慣れているが、実際の死亡事案の情報を追求すると云う探偵じみた事をするのは当然初めてだ。


深夜一時にして雪は勢いを増し、館には重たい静寂を纏った帳が降りていた。


刻々と降り続ける粉雪が窓を叩く音は耳に心地よかったが、それは同時に、更なる悪夢の到来を告げる合図にも思えた。

励みになりますので、宜しければ高評価、コメントの方よろしくお願い致します!

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