緑青島へ行こう(1992年11月16日)
13時45分。
三宅は街路を駆けながらチラリと腕時計を見た。船の迎えが来るのは、14時。余裕を持ってその30分前—13時半に集まる予定だったが、既に15分過ぎてしまっていた。
三宅は何度も脈打つ身体にさらに鞭を打ちながら、己の未熟さを省みた。
今回の取材旅行、余裕をもって集合時間の一時間前には到着しておこうと意気込み、ダイヤ表と相対しながら余裕綽々のスケジュールを組んだはずが、このざまだ。
間違えて休日の時刻表を参考にしていたことに気づいたのは、二時間前、最寄り駅の改札を通り抜けた時だった。そうして、一週間前から組んでいた乗り換え計画は瞬く間に破綻し、今必死に走っているわけである。全く、自分が嫌になる。ただ、三宅の脳内には別の心配の種があった。それは、今回取材旅行を共にする先生と、今朝から一度も連絡が取れていないということだった。人並外れた生活リズムを送っている先生を案じて、今朝から五度ほど起床確認の電話をかけたのだが、そのどれにも応答はなかった。本来乗る予定のなかった電車内で、未だに彼が夢の中にいる可能性が頭を過ぎってからは、何度も背筋が凍る思いをしている。
既に左半分の視界は青に染まり、潮の香りを含んだ冷たい風が熱った頬を撫でる。集合場所の港はすぐそこだ。先生の姿が港にあることを祈りつつ、三宅はさらにペースを上げた。
漸く港に辿り着いた三宅は、膝に両手を突き、呆然とその場で立ち尽くした。案の定、先生の姿はなかった。終わった。
思考を停止した三宅が汗をタオルで拭っていると、少し離れたところに一台のタクシーが停まった。客用の後部ドアが開かれ、中から細長い足が出た。降りてきたのは、やはり。黒いローファーに、黒いスラックス。黒と灰の縞模様のワイシャツの上から紺色のカーディガンを羽織った先生が随分と眠たそうな顔をして現れた。走り去るタクシーに向かって一礼をすると、こちらを振り向いて歩いてくる。
「いやあ、遅れてすまないね」
未だに開ききっていない目を擦りながら、先生はそう云った。
「全然大丈夫ですよ。まだ船は来ていないようですから」
生気を取り戻した三宅は安堵の溜息を吐くと、汗を吸収したタオルを、できるだけ正面の先生には見えないように、ズボンのポケットに仕舞い込んだ。
「いやぁ、それにしても集合時間早くないかい?この時間に起きたのは久しぶりで。もっと遅い時間がよかったな」
「もう昼の14時ですよ・・・生活リズムどうなっているんですか。それに、今回は招待客なんですから、しっかりしてくださいね」
「そう云う君も遅刻していたじゃないか」
「えっ、どうしてそれを」
先程の汗は今や完全に乾ききっており、心臓の鼓動も常時の速度に戻っている。先生はこの短時間の間に、何らかの手掛かりを元に見抜いてしまったのだろうか。予期せぬ指摘を受けた三宅は酷く狼狽し、未だに開ききらない目をこちらに向けている作家の方を見返す。
「だって君さっき、信号待ちのタクシーの横を全速力で駆けていたからさ。別にまだ船の迎えに遅れるわけではないのだかたら、あそこまで慌てる必要はないのにさ」
—ふと、その時。
汽笛を鳴らした船が、徐々に速度を落としながらこちらに近づいてくる。やがて船が停まり、中から小綺麗なスーツを身に纏った老人が現れた。初めは気づかなかったが、真っ直ぐこちらに歩いてくる老人の腰はかなり曲がっており、如何にも紳士らしい服装にはまるで似つかわしくない出立ちだった。
「どうも初めまして。私、道源家の執事を勤めております、多田と申します」
ただでさえ開いているのか分からない落ち窪んだ目をさらに細め、多田は恭しく頭を下げた。元より折れ曲がった腰がさらに曲がり、何百年も生きている亀のようにも見える。
「ど、どうも。私は蘭陽社で編集者をやっている、三宅です」
三宅は何度も頭を下げながら自己紹介を終えると、
「そして、こちらは—」
岸辺の方へ手を差し出したが、当人がそれを制止した。
「どうも、私、物書きをやらせて頂いております、岸辺と申します。今回はお招き頂き感謝します」
「いやはや、お話はご主人の方から伺っております。本日は遠路遥々お越し頂き有難う御座います」
まるで敵意の無い笑みを浮かべながら、多田は交互に二人を見遣る。
「では、どうぞこちらへ」
そう云って老紳士は身体を翻し、後方に留まった船の方に二人を先導していく。
三宅のもの云いたげな視線を躱し、岸辺は平然と船に向かって歩き出した。
目の前に止まった船は、漁に使用される一般的な小型漁船程の大きさだが、漁船と云うよりクルーザーのような見た目をしていた。どうやら、この執事一人でここまで来たらしく、操縦席の後方に向かい合うようにして二人が腰を下ろすと、執事は船のエンジンを掛けた。
「そう云えば、これからかなり波に揺られますので、船酔いされる場合は薬をお渡し致しますが」
執事はハンドルを握ったまま後ろを振り返って訊いた。
「あ、私頂いてもいいですか、バス酔いもかなり酷くて」
「先生はどうします?」
執事から錠剤を受け取った三宅は尋ねた。
「大丈夫。今まで船酔いに苦しんだことはない」
「船に乗ったことないだけですよね」
「いいんだ、大丈夫だから」
岸辺はぼんやりと水面を眺めたまま、小さく頭を振った。
「では、出発致しましょうか」
そう云って執事はエンジンを始動させた。モーターの振動が水面を揺らす。
やがて、船は徐々に速度を速め、穏やかに揺れる十一月の波を切って進む。
天気は曇り。遠くに見える鉛色の雲が、その体積を徐々に増やしながら、この船を追いかけてくる。
「先生、道源家について何かご存知ですか」
三宅は、視線を横の岸辺に戻した。
「ああ、今回の取材のために名前は調べてみた。夫婦揃って元役者。しかも、あのドラマ『大江戸惨殺譚』に出演していた[道源寺鳳史]と[潮村風子]だったとは。小さい頃好き好んで再放送を見ていたから、かなり驚いたよ」
「そうなんですよね。私も子供の頃、両親と一緒に再放送を見ていましたよ。道源寺さんはそのドラマで爆発的な人気が出て各方面からオファーが殺到したっていうのに、突然役者業を退いて表舞台から姿を消したんですよね」
「へぇ、それは知らなかったな。一体どうして」
視線は遠くの地平線に向けたまま岸辺は尋ねた。
「そのドラマで共演した潮村さんと婚約したからだそうです」
「しかし、結婚しても役者は続けられるじゃないか」
「そう、そこが不思議なんですよね。なんでも二人は、これから撮影予定だった作品も全て降りて、半ば強引に引退会見をしたらしくて。それ以降はあの島に移り住んで、一度もメディアには出ていないと云う話です」
三宅は少し口角を上げ、都市伝説でも語るような口調で云った。
「多田さん、幾つか質問よろしいですか」
岸辺は船の轟音にかき消されないように声を張り上げ、ハンドルを握る老執事の背中に向かって尋ねた。
「どうなさいましたか。私が答えられるものなら、幾らでも」
視線は直進方向に向けた多田も、半ば叫ぶようにして嗄れた声を出した。
「宜しければ、道源家についてお伺いしたいのですが。ご夫妻はかつて名の知れた役者だったにも関わらず、どうして突然勇退なされたのですか」
あくまで視線は前を向きながら、執事は首を傾げた。
「それがなんとも。私は道源夫妻が緑青島に住み始めた頃から勤めておりますが、その辺りの話はあまり詳しくは伺っていないのです。何度か訊ねてみたことはあるんですが、毎度煙に巻かれてしまって。ただ、兼光様は、雪子様と二人だけの場所が欲しくてあの島をご購入されたと、そうおっしゃっておりました」
「そうなんですね。両親に話を聞いてみたら、当時のお二方の結婚と突然の役者業引退にはとても驚いたと云っていましたよ」
執事は僅かに顔を後方の二人に向けながら、
「そうですねぇ。あれには私も驚きました。元々私は兼光様の熱心なファンでしたので、当時受けた衝撃は今でも覚えています」
「と云うと、あなたはどういった経緯で今の職に?」
「三十年程前まではずっと漁師をしておりました。身体の衰えを感じて船を降りた時分に、ちょうど緑青島を購入したばかりこ道源家が使用人を募集していると云う話を人伝に聞きました。憧れの彼の下で働けるならとダメ元で応募し、面接のようなものを何度か重ねた結果、幸運にも使用人の職を頂くことができたのです。やはり、あの孤島に船は不可欠ですから、船舶免許を持っていたことが幸いしたのでしょうな」
執事は少し後ろを振り向きながらそう云うと、ニコリと微笑んだ。
云われてみれば、スーツに包まれたその体躯はかなりがっしりしており、執事然とした上品さの中に、かつての漁師特有の猛々しさを感じられる、ような気がする。
「と云うことは、もう三十年も勤めているんですね。他の使用人の方もあなたと同じ時期から勤め始めたのですか?」
視線を執事の方に向けた岸辺は、少し身を前に乗り出しながら尋ねた。
「いえ。基本的に三、四人の使用人がおり、その内の一人が何らかの事情で辞職することになれば、その枠を埋めるように新たに一人募集するそうです。最初期から現在まで残っているのはもう私だけで、他の二人が勤め始めたのは割と最近ですね」
目的の島が徐々に見え始め、その輪郭が大きくなる。
「雪子氏が亡くなった原因や火事の原因は分かっているのでしょうか」
三宅が尋ねた。
「いやぁ。一応警察の捜査で一応の結論は出されてはいるのですが」
そこでまた執事は首を傾げ、
「なんでも、その日はご主人—兼光様の誕生日で、例年通り家族一同あの島に訪れていたのですが、当の兼光様本人は本土の病院で手術を受けるために島を離れておりました。私も兼光様に同行して本土におりましたので、現場に居合わせていたわけではないのですよ」
次第に執事の口調は重苦しくなり、船内に沈黙が訪れた。
「でも、ご主人は今も変わらず明るいお方ですし、御家族の皆様も良い方ばかりですので、どうぞご安心ください」
船は速度を落とし、島唯一の港に近づいていく。
「さあ、そろそろ到着しますよ」
三宅は視線を向かいの岸辺の方に向けた。
先程から彼は、伏せた頭を両手で抱えたまま動かない。
「先生、どうしました」
返事は無い。
何かを考え込んでいるかのように、じっと動かない。
「先生、ねぇ先生、どうしたんですか」
船が停まったにも関わらず、動き出そうとしない岸辺に見かねた三宅は彼の肩を揺するが、何も答えようとしない—
二
島唯一の港には、船の停泊のための必要最低限の設備しかなかった。一般的な高校の敷地程の大きさのこの島にある人工物と云えば、この簡易的な港と、そこから伸びた舗装路、そして、その先にある邸宅くらいのようだ。
「ようこそお越しくださいました。鴨川と申します」
小柄な女使用人は、丁寧にお辞儀をしながら云った。港で船の帰還を待ってくれていたらしい。やはり使用人らしい黒ずくめの出立ちで、濃紺のロングワンピースの上から白いエプロンを掛けている。年齢は多田よりは若いのだろうが、顔には薄い皺が幾つも浮いている。それでも、切長の目に細く伸びた鼻、薄紅色の唇はどれも均等がとれており、若い頃はかなりの美貌であったことが予想できる。形容するのであれば、—白い母狐だろうか。
三宅も自己紹介と共にお辞儀を返す。
「では、館の方まで案内させていただき—」
鴨川はそう云い終える前に、三宅の肩越しに背後に目を向けた。それにつられて三宅も後ろを振り返る。地面に蹲ったままの岸辺の後ろ姿と、その背中を摩る多田が見える。
「すみません・・・先生、かなり酔っちゃったみたいで・・・」
三宅は頭を掻きながらきまりが悪そうに云った。
「それは大変ですね。落ち着くまでお待ちしましょうか」
「すみません・・・酔い止めは要らないって豪語していたんですけど」
「構いません。館への案内をお願いします」
岸辺は胸の辺りを手で押さえながら、強引に立ち上がった。
「大丈夫なんですか・・・」
多田は心配そうな面持ちで、相変わらず岸辺の背中を摩っている。
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ない」
そう云う彼の顔色は未だに悪く、片方の口角を上げた表情は引き攣っていた。
「館で一休みされるのが良いかもしれませんね。では参りましょうか」
そう云って鴨川は身体を翻し、コンクリートで綺麗に舗装された、プロムナードのような一本道を進んでいく。
島内は見渡す限りまっさらな平地が広がっているが、銀色の空の下で鬱蒼と茂っている。
「普段は邸と港の移動には車を使用するのですが、何日か前からエンジントラブルで動かなくなってしまっていて。ご迷惑をお掛けして申し訳ないです」
「いえいえ、全然大丈夫です。先生にとっては痛手でしょうけど」
三宅は視線を地面に落とした。確かに路面には、何度も車で行き来したようなタイヤ痕が多く残っている。
「鴨川さんは、いつからここに?」
岸辺の世話担当を交代した三宅は、先頭を歩く鴨川に向かって尋ねた。
「正確には記憶していませんが、七年前だと思います。この島にいると時間の感覚が無くなってしまうので」
「七年ですか。どうしてここに勤め始めたのですか」
「色々ありまして、心身ともに疲弊した時期があったのですが、丁度そのときに使用人募集の話を知りました。多田と同じく私も兼光様のファンでしたし、俗世間に嫌気が差していた私にはうってつけだと思いまして。おかげで今は穏やかに過ごさせていただいております」
鴨川は少し後ろを振り向き、微かに笑みを浮かべた。
邸宅まで続く道路の両側には、常緑樹が向こう百メートル以上等間隔で植えられており、枝葉が四人の頭上でアーチ状に交差している。いつの間にか太陽は隠れて、辺り一面が灰色に染まっているが、樹々の隙間から差し込んだ木漏れ日が彼女の笑顔を明るく照らす。
「そうなんですね。正直云って私、道源氏や家族の皆さんって気難しい方だと思っていたので、少し安心しました」
「いえ、そんなことは御座いませんよ。皆様素敵な方ですよ」
鴨川は静かに笑った。
「そうですねぇ、私もよく兼光様と将棋を打たせていただいておりますよ」
三宅と岸辺の少し後ろを歩いている多田が云った。
「使用人の方はもう一人いらっしゃるんですよね」
「私と多田の他にもう一人、小川という者が。主に掃除や食事の用意をしております」
視線を前に戻すと、一本道の先に、微かに道源邸の一部が見え始めた。
木々に隠れて全貌はまだ把握できないが、現在視認できる一部だけでも壮大な邸宅であると分かる。
「あれほどの大きさの邸宅なのに、使用人は三人なんですか」
「ええ、以前はもう一人居ましたが。三人だからと云って忙殺される程でもないのですよ。この時期以外はご家族の方もいらっしゃらないので」
「では、貴方も二年前の件についてはご存知なのですね」
そこで岸辺は漸く口を開いた。顔色は元の色を取り戻し、表情も軽い。
「そうですね。ですが、私の口からはあまり。詳細な話はご主人の方からお聞きになるのが宜しいかと思います」
そうして岸辺は「すまんね」と呟き、三宅の肩に回していた腕を外した。
やがて緑青色のトンネルを抜け、邸宅の庭に歩み出た。
手前に待ち受けていたのは、二つの踊り場を挟んだ計十五段程の緩やかな階段。一つ目の踊り場の中心には、異国情緒溢れる噴水が水を吐き出している。
三宅はその光景に、いつかの資料で見た、南部プランテーション時代の立派な邸宅を重ねていた。
二階建てのその邸宅は、柱が何本も等間隔で並立しており、西洋の富豪の洋館のようだった。
少し遅れて多田が追いついたことを確認すると、鴨川は再び「では」と、歩き出した。
三宅は若干早まった呼吸を落ち着かせながら、鴨川が邸の両開き扉を開けるのを眺めていた。
「えっ」
扉を開いた鴨川の困惑した声が聞こえた。
事態を把握できずに動けないでいる三宅の横を、岸辺がするりと抜けていく。
「どうしたんですか」
小刻みに震えている使用人の肩越しに、三宅も中を覗き込んだ。
地面に片膝を突いた岸辺の向こうに、倒れた一人の男性が見えた。
仰向けで倒れ伏した彼の口の辺りからは赤い液体が溢れ出し、焦茶色のカーディガンを染めていた。
苦悶に満ちたその両目は丁度、開かれた扉の前に立つ三宅を捉えている。
岸辺は真剣な面持ちで男性の腕を取り、脈拍を計る。
ややあって岸辺は顔を上げると、ソワソワとその様子を眺めていた三宅に向かって、
「かなりマズイ状態だ。ちょっと君、彼の呼吸を確認してくれないか」
と、緊迫した面持ちで云った。
「わ、私がですか」
三宅は人差し指を自分の顔を差しながら、酷く驚いた顔で云った。
「緊急なんだよ、早くしてくれ」
三宅は鼓動の早くなった身体を奮い立たせて、何とか男性の傍に膝を付くと、ゆっくりと覗き込むように顔を近づけた。
—と、そこで。
固まっていたその男性の腕が突如動き出し、三宅の右腕を掴んだ。
そして、苦悶の表情を浮かべたその顔が勢いよく三宅の目の前に移動した。
「ぐえっ」
途端に三宅から声にならない呻きが発され、後ろに大きく飛び退いた。
「な、何ですか」
肝心のその男性はひょろりと立ち上がると、服に付着した赤い液体を拭きながら口を開いた。
「どうでした?僕なりの歓迎だったんですけど、かなり迫真の演技だったでしょ?」
満足げな笑みを浮かべながら、壁に凭れかかった三宅を見下ろす。
「か、歓迎……?」
未だに興奮が治らない三宅は茫然自失な様子で呟く。
「いやぁ、すんません。僕なりに結構考えた結果思いついた、渾身の悪戯だったんです」
「随分趣味の悪い歓迎ですね」
岸辺は颯爽と立ち上がると、冗談めかして云った。
「おっ、その様子だと先生はお気づきのようですね。先生の著書、拝見しましたよ。即座にこの悪戯に気づいて、機転を効かして協力してくれるとは。流石です」
そう云って男性は岸辺の前に立つと、左手で首を撫でながら右手を前に差し出した。確かに、先生が以前上梓した作品に、先に館を訪れていた友人が、後から玄関に入ってきた主人公達を、死んだふりで驚かせる描写があった。
「そういえば紹介がまだでしたね。僕、道源隆平。映画の脚本家をやってます」
天然パーマに口周りに湛えた髭。如何にもその道の人間—と云う風貌だが、柔和で人当たりの良さそうな印象を受ける。兼光の血を引いているだけあって顔立ちはかなり整っているように見えるが、見た目にはあまり気を使わないのか、その浅黒い顔には無精髭が目立っていた。
岸辺との握手を終えると、隆平は使用人の二人にも軽く詫びを入れながら、未だに動けないでいる三宅の側に腰を下ろした。
「大丈夫?いやぁ、こんなにも驚かれるとは思ってなくてね。申し訳ない」
またぞろ首の後ろを撫でながら、隆平は三宅の前に手を差し出す。
「あっ、いや・・・全然大丈夫ですから、お気になさらず」
その手を取っておろおろと立ち上がった三宅は、ポケットに入れていた財布から名刺を取り出し、隆平に差し出しながら自己紹介を始めた。
「堅い挨拶はいいよ。親父が上で待ってるよ」
隆平は微笑みながら名刺を受け取ると、思い出したように呟いた。
「じゃあ、後は頼むね。僕は服を替えてくるから、また夕食の時に」
隆平は二人の使用人に向かって軽く礼をすると、軽い足取りで二階へと消えていった。
「かなり破天荒な方でしたね・・・」
服に付いた埃を払いながら、三宅は呟いた。
「ああ、そうだな」
岸辺は三宅の服に付いた汚れを落としながら、視線を上げた。三宅もそれに釣られて見上げる。
身長の三倍の高さはある天井に、吊り下げられたシャンデリア。玄関口は丸ごと鏡張りになっており、外から差し込む銀色の日差しで館内はかなり明るく、吹き抜け構造も相まって英国の星つきホテルの玄関のようだった。その解放感のある空間の左右に一つずつ、象牙色の応接テーブルにブラウンのソファが並べられている。
しかし、その光景の中に、かなり違和感が感じられる。この内装全体の趣向が、館の外観のそれとは大きく異なっていたからだ。文明開花によって日本に西洋の文化が流入した明治時代、これまでの和風建築に西洋建築が取り入れられた擬洋風建築が至るところに造られたと云う。その一般的な造作は、和風の畳の敷かれた居間に、西洋風の応接室。しかしこの館の趣向は、外装と内装でまるで違う。まるで、寄木細工の中にオルゴールが入っているような、或いは、マトリョーシカの中にスイス人形が入っているような—そんな漠然とした違和感を感じられる。
「隆平様はいつもああなのですよ。子供じみた悪戯がお好きなようで、度々家族の皆さんや私達使用人にもあのような悪戯を為さるのですな」
多田は三宅のズボンの埃を払いながらそう云った。その言葉には嫌味な感情はなく、小さな子供を可愛がるような優しい口調だった。
「では私もこれで。他に用がありますので」
多田は丁寧に会釈をすると、再び玄関の扉を開いて出ていった。
「二階へ参りましょうか。ご主人がお待ちしておりますよ」
鴨川の先導で二人も階段を登り始めた。
玄関口から見て館内の通路はT字型に伸びており、Tの二本線が垂直に交差する—正面の突き当たりに位置する部分に二階へと繋がる階段があり、その手前には左右に分岐した通路がある。それぞれの最奥、横線の左右両端にもまた、階段が見える。
二階へと続く階段は、踊り場を挟んで二回90度に折れた。二階に上がり切った先の廊下は、一階とは180度反対に向かう形で逆T字型に伸びている。二階正面に伸びる廊下の左右には三室ずつ客室があり、正面突き当たりには、主人の部屋が構えていた。
その道中、右側の部屋の扉が開かれた。
「おや」
そう云って中から現れたその男性は、眼鏡の縁を押し上げた。
「俊典様どうも、こちら小説家の岸辺先生と編集者の三宅さんです」
鴨川は恭しくお辞儀をすると、後ろの二人に向けて右手を差し出して紹介した。
岸辺と三宅は俊典と軽く挨拶を交わした。
「俊典様は、先程の隆平様のお兄様です」
「えっ、もうあいつには会ったのですか」
俊典は眼鏡の奥の両目を見開いた。繊維の細かいストレートの黒髪を左右に分け、細長い鼻には黒縁の眼鏡が掛かっている。英国の記者のような紳士服を纏ったその風貌は、次男に比べてかなり大人びた印象だ。白い肌やきめ細かい黒髪は母親譲りなのだろう。
「ええ、隆平様は先程玄関前で、死んだふりをして倒れておりまして、三宅さんがその被害者に・・・」
「正直本当に驚かされてしまいましたよ・・」
三宅は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「それは申し訳ない。あいつ親父に似て、あの歳になっても随分と子供っぽい所があるんですよね」
そう云う俊典の背後、部屋の奥の方から、小さな子供と手を繋いだ女性が近づいてきた。
「あら、お客様ですか?」
そう云う女性の手を離れて、少女は俊典の元に駆け寄って勢いよく抱きついた。
「おや、美香」
俊典も一度しゃがんで美香と呼ばれた少女を左手で抱き上げた。少女は恥ずかしそうに顔を俊典の胸に当て、横目でこちらを眺めていた。
「娘の美香です」
俊典はそう云うと、
「美香、挨拶して」
美香の顔をこちらに向けようとするが、美香は顔を隠してしまう。
「可愛い娘さんですね、今いくつなんですか」
三宅は微笑みながら、美香の方に顔を近づけ、「どうも」と、優しく話しかけた。
美香は顔の向きはそのままに、小さな左手を少し上げて掌を開いた。
「もう五歳なんですね」
「いえ、三歳です」
俊典は訂正する。
「どうも、こんにちは」
三宅の横で膝を曲げ、岸辺は無邪気な笑みを浮かべて美香に話しかけた。
「美香は恥ずかしがり屋なんですよ」
女性はそう云って俊典の隣で止まった。
「私の妻、真希です」
「初めまして。私以前読んだことあります、あなたの作品」
「それはどうも」
岸辺は視線を美香から外し、律儀に会釈を返す。
「立ち話もなんですから、どうぞ中に」
俊典は左手を部屋の方に向けて差し出した。
「申し訳ないのですが、お二人はご主人の部屋に呼ばれておりますので」
鴨川は申し訳なさそうに眉を顰めて云った。
その言葉に俊典は驚いた顔で、
「そうだったのですか、引き止めてしまっていたんですね。ではまた夕食の場で」
俊典は微笑を湛えてそう云うと、
「ほら、バイバイって」
胸に顔を隠している美香に向かって、手を振るように促した。美香は顔を隠したままだった。
「では、行きましょうか。失礼します」
使用人は再びお辞儀をすると、背後に振り返って歩き始めた。
「可愛いお子さんでしたね。俊典さんは何をなさっているんですか」
前を歩く鴨川に向かって三宅は尋ねた。
「自営業で映像制作スタジオを。父兼光様の莫大な遺産の一部を元手に始めたと聞いております。真希さんともそこで出逢ったと」
「経営ですか?流石ですね」
やがて、三人は廊下の最奥部に辿り着き、より一層豪華な装飾の扉の前に立った。
二階の一番奥の、他よりも大きな部屋。ここが招待主であり道源家の主人—道源兼光の部屋らしい。
鴨川は3回扉をノックし、
「鴨川です。お客様をお連れ致しました」
やがて中から力強い声で返事が聞こえた。鴨川はゆっくりと扉を開け、二人を中へと促す。
三宅は一度唾を飲み込み、岸辺の後を追って部屋に入った。
道源家の主人であり、かつては有名俳優道源寺鳳史として名を知らしめた、あの道源兼光。
人気絶頂期に突然引退を発表し、突如として表舞台から姿を消した彼は今、どのような顔をしているのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、三宅は恐る恐る視線を上げた。
部屋の正面奥に備えられた書斎机。そこに座した主人—道源兼光は、三宅の想像していた厳格な態度とは異なり、穏やかな笑みで二人を迎え入れた。
「どうぞこちらに」
主人はにこやかに微笑みながら、書斎机の前のソファの方に掌を差し出した。
岸辺と三宅は一礼して、主人と向かい合う形でソファに腰を下ろした。
部屋一杯に並んだステンドグラスによって、眩い後光が差し込むその部屋。その窓の向こうの空は、完全な曇天に覆われていた。
左右には莫大な書架が並べられた重厚な木製本棚が並び、その半分以上は映画のVHSであった。視界に入った莫大な背表紙の中でふと一瞬、主人の主演作『大江戸惨殺譚』の文字を捉えた。
主人は部屋の外にいる使用人に向かって目顔でサインを出すと、その視線を二人に戻して、
「やあどうも、ご足労頂いて感謝する」
顔には年相応の変化が見えはするが、目の前の彼にはやはり、昔テレビで見た二枚目俳優道源寺鳳史の面影が残っていた。スターらしい濃い顔立ちの中で、特に目を惹くのは真実を見透かすような凛とした双眸。その下の口許に浮かんだ、感じの良い笑みに緊張を解れる。
「どうもこんにちは。私、蘭陽社の—」
「いやいや、自己紹介はいいよ。もう分かっているから」
主人のその言葉に嫌味な部分は無く、慈愛に似た感情さえ感じられる。
「僕、再放送ではあるのですが、幼少期に『大江戸惨殺譚』をよく観ていました。こうして御本人と出逢えて光栄に思います」
「私もです。親が大ファンでした」でした—過去形にしてしまったことに途中で気づいた三宅は、チラリと主人の反応を伺った。
「おや、そうなの?それは嬉しいな。かなり古い作品になるから、あれを知っている若者も今や珍しいんじゃないかな」
三宅の邪推に反し、主人は恥ずかしそうに頭を掻きながら云った。
そこで背後の扉をノックする音が聞こえ、お盆を持った鴨川が入ってきた。鴨川はソファへと近づき、お盆の上に乗せられていた二つの茶碗を二人の前に差し出すと、一礼して部屋を出た。二人の前に置かれたその陶器製のそれからは湯気が湧いており、濃緑色の色から見るに緑茶なのだろう。
「どうだい、この島は。少し味気ない気もするが、居心地は良いだろう」
確かに館までの道中、本土では感じたことのない爽やかな風が何度も木漏れ日と共に肌に触れ、十一月の寒さの中でも活き活きとした自然が、本土のそれよりも幾分映えて見えた。
「ええ。空気が澄んでいて気持ちがいい」
岸辺も微笑を湛えながら、主人の朗らかな視線を返す。
「それは良かった。正直この島を購入した時は色々と切迫詰まった状況だったから、あまり島の状態なんて調べずに買ってしまったんだけど、結果としてあの時の決断は間違っていなかったと思えるよ」
細めた目で宙を見据えながら、主人は悠然とパイプに口をつけた。
「切羽詰まった状況—とは、やはり役者引退の際に何かあったのですか」
三宅は無意識にも好奇心からこう切り出していた。
「ううむ」
主人は徐に視線を落とし、顎髭を撫で始めた。
「まあそれも、今回あなた方に来て頂いた理由に関係しているんだが」
「理由?この島を舞台に小説を、と伺っていますけど」
三宅は首を傾げた。
「それは、あくまで君達にここへ来てもらうための表向きの口実に過ぎないんだ。実は、お二方にここに来てもらったのには、別の理由がある」
これまで主人が浮かべていた微笑が消え、表情が強張った。書斎机に肘を突き、その手で頭を抱えたまま、少しの間口を噤んでいた。
ややあって主人は顔を上げ、酷く険しい顔を上げて口を開いた。
「君達には、妻雪子の死について調べてもらいたいのだ」
「えっ・・・」
三宅はポカンと口を開け、呆然と主人のことを眺める。
「失礼ですが、そう云うものは警察や探偵にでも頼んだ方がいいのでは?僕達のことを買って頂いているのは光栄ですが、僕の専門はあくまで創作—フィクションですので、生憎この件に貢献できるとは思えません」
「警察は信用ならんのだよ。それに、探偵や警察が来たなんてことになれば、ここの者は皆警戒して口を閉ざしてしまうから。それに皆、君の作品に親しんでいるから幾分協力的だろうし。表向きはこの島の取材という体で動いてもらいたい」
それでも岸辺は応えることなく、毅然と茶を啜る。
「それに、この島を舞台に小説を書いてもらいたいと云うのも、あながち偽りではない。妻の死の真相を解き明かしてくれたなら、それを創作の役立てて頂いても構わない」
三宅は息を呑んで隣に座る作家、岸辺の方に視線を向けた。
「失礼ですが、雪子さんの死因は自殺である可能性はないのですか?」
そこで主人は悔しそうに眉を顰めて、
「私も事件当日この島にいたわけではないが、雪子は自殺ではない。雪子は自殺なんてするはずないのだよ。雪子は殺されたのだ、二年前この館にいた誰かに。多田達から少し聞いたんだろう、どこまで聞いたのかな」
三宅は、これまで聞いた情報—二年前の今日この島で、当人不在の中発生した雪子氏の不審死と館の半焼について答えた。
「それなら話が早い。私が雪子の死について知ったのは、事件の翌朝。私は肝臓の手術で本土の病院に滞在していたため、島での惨状は伝わっていなかったのだが、警察が到着した頃には既に、館は半焼していたという」
「では、消防による消化活動は行われていないのですか?」
岸辺は顎を摩りながら尋ねる。
「ああ、その時館内に居た俊典が云うには、気づいた時にはそこまで火の手が迫っており、館に備わっていた消化器程度ではまさに焼け石に水で、消防隊と警察がこの島に着いた時には既に火は弱まっていたそうだ」
三宅はそこで、部屋に来てから感じていた違和感の正体に気づいた。この部屋の家具や調度には、木製の物が一つも無かった。この部屋に限らず、館内全体を通しても木製のものは見ていない。本来なら木製が主流の物でも、意図的に避けるように他の材質が使用されていた。それも、かつてこの館を襲った火事の際に得た教訓なのだろうか。
「そして、肝心の雪子の状態なのだが」
主人は度々口に銜えていたパイプを置くと、右手で頭を抱えた。
「どうやら、雪子は火事の前に既に亡くなっていたようなんだ。火事が起こる何時間か前に、使用人の一人が自室で雪子の遺体を発見し、その場にいた者達によって遺体の確認や現場の捜索が行われ、その最中に館に火がついていることに気づいた」
「成程。ではご主人が、雪子氏が自殺ではないと思う理由は何なのですか?」
「遺体の状態だ。火事が発覚して間もなく、俊典の咄嗟の機転で、妻の遺体はほとんど死後そのままの状態で館外に運び出されていた。だが司法解剖の結果、遺体には何の痕跡も無かったんだよ」
「えっ」
三宅は困惑の声を発した。岸辺は声こそ発さなかったが、主人の言葉に眉を顰めていた。
「何も無かった・・・?」
「ああ、言葉通りだ。仮に自殺だったとしても、何かしらの痕跡が残るはずだろう。火事発生前に、その場にいた医者によって遺体に外傷が無いことは確認されていた。だが司法解剖の結果、遺体の内部にも毒物や薬物などの異常な成分反応は検出されなかったそうだ。右肘に皮膚が焦げた痕はあったのだが、恐らくは俊典が妻の亡骸を抱えて火中から脱した時に火の粉にでも触れたんだろう」
主人は半ば自嘲気味に云った。
「それに、その頃の雪子は足腰こそ悪かったものの、それ以外は健康そのもので、生来の持病なんかも抱えていなかった。あの日の二週間前に二人で健康診断を受け、その時に私は肺に異常が見つかって手術を受けることになったのだが、雪子はどの項目も引っ掛からなかった。事件二日前、手術のためにこの島を発とうとする私に向かって、雪子はいつも通り明るい言葉を掛けてくれたよ」
主人の口調は言葉を続ける内に重くなり、表情は翳り始めた。一度深くパイプを吸い込み、溜息のように吐き出しすと、
主人はこれまでより少し落ち着いた様子で、視線を再び上げて説明を再開した。
「それが捜査を難航させた理由だ。他殺と自殺の両方の線で捜査は行われたのだが、如何せん証拠が無かった。火事の影響もあって手がかりになりそうなものが見つからず、書道捜査の段階では自殺か他殺かの判断もできていなかったのが現実だ。その後も捜査は続けられたにも関わらず、事態は一向に進展することが無かった。更には、事件当時ここに勤めていた使用人が一人行方不明になってしまってね。警察が彼女の動向に疑念を抱きはじめていた矢先の失踪で、より捜査は混乱することになった」
「そんな・・・」
「私ももう長くない。妻の死に居合わせることのできなかったことが不甲斐なく感じている。このまま真相を知り得ないままこの世を去るのはどうしても避けたいのだよ。お願いだ。どうか協力してくれないか。勿論報酬は弾ませる。決して不満にならない程のだ」
主人はパイプを置くと、両手を卓上について頭を深く下げた。
「そんな、やめて下さい。頭を下げ……上げてください」
三宅は大仰な仕草で立ち上がった。
「—お断りします」
漸く岸辺の口から発された言葉に、耳を疑った。
「そんな、先生。主人にここまでお願いされているんですから」
三宅の訴えに全く耳を貸すことなく、岸辺は一直線に主人を見据え、
「報酬は要らない——そういう意味です。俄然興味が湧きました」
「そうか、感謝する」
「小説家として、ここまで興味を唆られる事件に出会うことなんてそうありませんから」
「は?」
三宅が気づいた時には、脳裡に浮かんだ疑問符がそのまま口から出ていた。この先生は、主人や雪子氏のためではなく、あくまで自分の興味のために依頼を引き受けたというのか。なんて薄情で、自己中心的な人なのだろう。しかし、これまでの彼との経験から、彼を突き動かす不純な動機にも納得ができてしまう。
「勿論、あなたと亡くなられた奥様雪子氏のために、最善を尽くすつもりです」
思い出したように岸辺は言葉を足すと、
「しかし、彼女が亡くなられた日に居合わせた全員が、今日もここに来ているわけではないですよね」
「ああ。今はもう、犯人を見つけ出して罪を償わせようなどとは思っておらん。我が家族と忠実な使用人の中に、妻を殺した犯人がいないことが分かればそれでいいのだ。もし、妻が自殺だったとしても・・・真相が判明したのなら、私は満足だ」
「分かりました。できることはやろうと思います。ただ—」
岸辺はそこでポケットから煙草を取り出して、
「プロフェッショナルである警察でさえ真相に辿り着けなかったのに、門外漢の僕に何かできることはあるのでしょうか」
「それが、あるんだよ」
主人は抽斗の中から薄茶色の封筒を取り出すと、二人の前に差し出した。
三宅が受け取ったその封筒には、ワープロで打たれたであろう人間味の無い字体で、
—道源兼光様へ—と。
それ以外には何も記されておらず、差出人の名前や消印も当然ない。
既に開かれた跡のある封筒の中に手を入れ、何度も折られた白い紙切れを取り出した。
「—雪子さんは私が殺しました」
三宅は広げた紙切れの中央に書かれていたことを読み上げた。
「今日の午前、君達がこの館に来る前に、一階の玄関口の前に落ちているのを小川が見つけたんだよ」
主人は至って深刻そうな面持ちで頭を抱える。
「本土からの郵便物はいつも多田が持ってきてくれるのだが、こんな封筒は見ていないと云うし、消印もない」
「僕達より前にこの島に居た誰かが意図的に落としたのでしょうね」
岸辺は鹿爪らしい面持ちで、折り目のついた紙切れを眺めている。
「ああ、やはり居るのだ。現在この島に妻の死について知る人物が」
「では、その手紙の差出人が二年前の事件の犯人と云うことでしょうか」
三宅は尋ねた。
「そう考えてもいいだろう。解剖でも特定できなかった死因を知っているのであれば、犯人以外有り得ない。—君はどう考えている?」
主人は岸辺の方に視線を向けた。
「さあ、ご主人の考えには賛成しますが、この段階で断定してしまうのはよろしくないかと。第一、この手紙の差出人=犯人なのかもまだ疑わしいですし、仮に犯人からの手紙だとしても、それが単独犯であるのかも分からないのが現状ですから」
三宅は新たに脳裏に浮かんだ疑問を口にする。
「成程。でも、この手紙の差出人はご主人に何を伝えようとしているのでしょうか。そもそも、差出人は味方なのか敵なのか。味方なら、こんな遠回しな表現を使う理由も、わざわざ手紙で伝える必要もないですよね」
三宅はそう云うと、横に座る岸辺の方を見た。
「ああ、一番可能性があるのは、犯人からの脅迫—かもしれませんね」
「脅迫?何故、二年も経った今頃に?」
「今日からの三日間、外部から客人が集まるからだろう」
主人は腕を組みながらそう云うと、
「一年の間に他から客人を招くのはこの時期だけなんだ。以前は一年に二回、六月の雪子の誕生日にも客人を招いていたんだがね。犯人がいつもこの島にいる人間としても、この期間だけ訪問する人間だとしても、容疑者が増えるこの期間を狙ったと考えるのが妥当だ」
「ですが、犯人には何のメリットがあるんでしょうか?この手紙だけでも、手掛かりになってしまうかもしれないのに」と、三宅。
「やはり、犯人には何か意図があるのだろう」
主人は毅然とした面持ちで二人を見据える。その相貌には、犯人の素性を明かし、妻の死の真相を明かすと云う確固たる覚悟が感じられる。
「実はな、このような手紙は・・・」
主人はそう云って左手に握った鍵を、机の天板下部へと近づけた。
どうやら、抽斗の錠に宛てがおうとしているらしい。
間もなく鍵が錠に嵌る音が聞こえたが、主人はそこで「まあいい」と独り言のように呟くと、鍵を回す手を止めた。
「どうされたのですか」
岸辺の質問に主人は宥めるように首を振った。
「いや、見せたいものがあったんだが、何も今じゃなくてもいいと思ってね。まだ時間はあるのだから、そう焦ることもない」
詮索されたくない様子を汲み取り、先生は話題を変えた。
「大変失礼な質問ですが、奥様が何者かによって殺害されたのだとして、その動機には何か心当たりはありますか?」
「使用人との関係は勿論のこと、家族との関係も良好だった。トラブルで云うなら、俊典のスタジオの経営状況が芳しくない時や、隆平の仕事絡みのイザコザで金を要求されたくらいか。どれも今は解決しているし、到底殺害の動機にはならないような瑣末なことだ」
「要求されたのは貴方ですか、雪子氏なのですか」
「両方だな。資産の管理は雪子がしてくれていたが、断ったのは私の判断だった」
「断ったのですか。なら、お二方はどのようにご解決を?」
「俊典は自分でなんとか工面したそうだ。隆平は未だに返済に追われているようだがね。幼少期は二人をかなり甘やかしてしまってね。そのせいか、二人は成人後も浪費癖が治らずに、何かあれば私達を頼ればいいと思ってしまっていた。だからこそ、自分だけで解決してみろと告げた。若い頃は辛酸を舐めることもまた経験だ」
主人は顔色を変えることなく、淡々と否定した。
「そうですか」と云ったきり、先生は質問をやめてしまった。次に掛ける言葉がなく、重苦しい沈黙が生まれる。三宅は空気を払拭すべく、話題を変えた。
「あ、あの人形、かなり珍しいものみたいですね」
部屋の端、本棚の上にひっそりと置かれた人形を指を指す。
「ああ、あれか」
主人はゆっくりと腰を上げると、その緑青色の人形を取って再び安楽椅子に身体を預けた。それは、男性の全身像を模した金属製の人形だった。全長40センチメートル程で、材質的にも片手で持つのは厳しそうに見える。アニメチックにデフォルメされた造形だが、外国人らしい顔立ちは整っている。全身を包んだ瀟洒な礼服も相まり、どこかの国の王子様のようだったが、その表情はどこか切なげだった。
「これは昔フランス旅行で買ったものだよ。偶然入った人形屋で見つけて、一目見て気に入ってしまってね。これは王子と姫で一双の人形なんだよ。夏はいつも窓を開け放っているから潮風に晒されて、今は緑青が吹いてこんな色になってしまっているけど、買った時は綺麗な青銅色だった」
主人は手に持ったその人形をどこか切なそうな目で眺めていた。
「素敵ですね。もう一つは雪子さんが持っているのですか?」
—と、そこで。
背後の扉を何者かがノックする音が聞こえた。
主人は抽斗の中を漁る手を止めて、何かね、と尋ねた。
「お話の途中に申し訳ありません。夕食の用意ができており、ダイニングルームで皆様がお待ちです」
扉の向こうから、鴨川の声が聞こえる。
「そうか、今行く」
主人はそのまま抽斗を閉めて立ち上がると、ソファに座る二人に、行こうか、と呟いて部屋を出た。
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