見えない動機
1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。
「真希さん、黒田さんとは関係ありませんでしたね」
三宅は大袈裟に溜息を吐きながら、岸辺の開けた扉へと入る。
「ああ、完全に早とちりだった」窓際の席に腰を下ろした岸辺は、窓の方に視線を向けながら煙草を吹かす。
壁一枚を隔てた向こうでは、今もなお止めどない豪風が館中の窓を揺らし、白い粒が壁を叩きつけている。その鈍い轟音が冷気と共に部屋の中まで入り込み、昂った神経を煽る。
「そういえば昨夜、夕食に呼ばれて書斎を出る前の兼光さん、何か云いたそうにしていましたよね?結局何を云おうとしていたんでしょうか」
「さあ、今はもう分からずじまいだからね。———それより、黒田家に電話してみてくれないか」
「え、黒田家?どういうことですか」
「あの抽斗に入っていた履歴書には電話番号が載っていただろう。それで彼女の履歴書に残っていた電話番号にかけてみたら、新しい履歴書の番号は繋がらなかったんだが、古い方は実家に繋がった。母親らしい人が出たんだが、事件について聞かせてほしいと云ったらすぐ切られてしまってね。先程の電話で警戒されてしまったかもしれないし、君の方が向いていると思う」
「そんな無茶な」
「真希さんは黒田由美の娘ではなかったが、黒田由美がご主人との間に子供を身籠っていた可能性は依然残っているからね。それを確かめられれば、二年前の事件における黒田由美の動機が確固たるものになり、今回の事件の解決にも繋がるわけさ」
客室には置き電話はない。あるのは一階玄関ホールか、主人の書斎だ。
二
岸辺は勢いよく扉を開け、再び書斎に入る。三宅はVHSが並んだ棚を確認したが、変化はない。
「やっぱり、犯人が持っていってしまったんですかね」
「ああ、僕達の予測が当たっていたと考えていいだろう。それより電話だ」
折り畳まれていた履歴書を受け取ると、三宅は云われるままに黒電話の置かれた小机まで歩を進めた。岸辺は書斎机の抽斗を開けて中を確認しているが、何かが減っているような気配はない。
まずは、警察に電話を掛ける。電話線は未だに生きており、案外あっさりと本土の警察署に繋がったが、その返答は決して喜ばしいものではなかった。この館を孤立させている豪雪は本土にも牙を向いていたらしく、現在雪は降り止んだものの、膝下を埋めてしまうほどの積雪によって未だ港にも辿り着けない状況だという。しかも、本土の方が豪雪の影響を早くから受けており、今朝鴨川さんが通報を行った時点で、既に歩くこともできない程の積雪になっていたらしい。
打ち砕かれた期待に肩を落としながら、三宅は静かに電話を切った。警察の到着は予定よりも遅れる可能性が高く、結局自分達で犯人を突き止めなければならないようだ。
なんとか気を取り直し、履歴書の電話番号を入念に確認しながらダイヤルを回す。やがて、五コールが過ぎた頃に高齢の女性らしい声が聞こえた。
「もしもし?」
声量はかなり大きく、思わず三宅は電話を耳から遠ざけた。
「あっ、黒田さんのお宅でお間違えないでしょうか。私蘭陽社で編集者をしている三宅と申します」
「はい?なんて?私はクスリなんて要りませんよ」
察するに、電話口の女性はかなり耳が遠いらしい。
傍で会話を聞いていた岸辺の方に視線を向けると、彼は一度頷いた。どうやら、この人が黒田由美の母親らしい。
「出版社の名前なんです。そちらは黒田由美様のお母様でお間違い無いでしょうか」
「そうですけど。一体何の御用ですか」
三宅は一呼吸置いてから、できるだけ丁寧な口調で、
「黒田由美さんについて伺いたいのですが—」
そう云い終える前に、
「もう勘弁してください。娘は十分苦しみましたから。あることないこと書かれるのはもう我慢できません」
その声は震えており、嘆願するような口調だった。メディアによって娘に関する流言飛語が拡散され、大いに苦しんだことが察せられる。
「いえ、私記者ではないんです。逆に、娘さんの無罪を証明できるかもしれないんです」
何とか宥めるために、こう口走ってしまった。
「もういいんです、もういいですから。十分罰は受けましたから。どうかもう・・・」
そこで電話口から相手の声が離れた。
「ちょ、ちょっと、切らないでくだ—」
「道源兼光氏が殺されました」
岸辺は三宅の握っていた受話器を咄嗟に取った。
「はい?」
相手の声の大きさが元に戻った。何とか切られずに済んだらしい。
「娘さんの無念を晴らすことができるかもしれないのです。実は僕達は今、由美さんが勤めていた緑青島に居るんです。そこで再び殺人事件が起きました。今度はあの道源雪子さんの夫、道源兼光さんが殺されてしまったのです」
「え?」
「まだ確信を持つことはできませんが、二年前の事件において、由美さんは被害者である可能性があります」
実際、黒田由美が雪子氏殺害犯ではないという確証はまだないが、どうしても話を聞かなければならない。
「どうか、お話しを聞かせていただけないでしょうか」
「由美は決して人を殺すような子ではありませんから」
彼女は平静を取り戻したようで、自分に云い聞かせるように云った。
結局、岸辺が受話器を握ったまま、質問を続ける。
「そういえば、お名前をお伺いしても?」
「アキです、黒田アキ」
どうやら黒田由美の苗字は変わっていなかったらしい。
黒田アキはそう云うと、ああ、と何かを思い出したように声に出し、
「なんか、さっきも変な人からお電話頂いたけど、その人も一緒に居るんですか?」
「変というのはどのような?」
岸辺は問い返した。
「挨拶もせずに娘の話を聞きたいとか云って。いかにも性悪な記者みたいな話し方をする人だったけど」
「え、分かりません」
どうやら彼女は、その当人と電話していることに気づいていないらしい。
「早速質問させていただきたいのですが、由美さんには子供がいたのですよね。ご結婚はなされていたのですか」
「由美が家を出たのは、高校を卒業してすぐだったよ・・・」
何故か黒田アキは語り口調で、岸辺の質問とは一切関係のない話を始めた。
「昔は貧しくてねぇ。由美が生まれて直ぐに当時の夫と離婚して、私一人で育てることになったのよ。働きに出ている間は家で一人にしちゃうことも増えて、夫の残してったVHSをよく見せてたの。そうしたら由美、高校を卒業したら役者になりたいって云い出して、友達と一緒に上京しちゃったのよ。酷いでしょう、私は由美のために懸命に働いていたのに。その私を一人にして出ていくなんて」
追憶するような彼女の声は若干震えている。
「初めは頻繁に電話をくれていたんだけどね。でも、次第に役者への興味が薄れたらしくて、それからは目的もなく色んな仕事を転々としているって云っていた。でも些細なことで喧嘩して以降連絡がつかなくなっちゃって」
そこで黒田アキは一度言葉を止め、深呼吸する音が受話器越しに聞こえた。
「それから五年位して私が再婚することになって、その相手がなんと大地主黒田家の息子だったのね。顔はイマイチなんだけど、性格はかなり良くって。事務所に来た時に一目惚れしたって云われた時のことは今でも憶えているわ。それで—」
昔話に機嫌を良くしたのか、黒田アキは途端に饒舌になった。最初の彼女の様子からは大違いで、元々かなりの話好きらしい。
対し、それを聞く岸辺は無表情を一切崩すことが無かった。結婚に至るまでの惚気話を一通り聞かされた先生は、感情の篭っていない祝福の言葉を云い終えると、
「再婚して苗字が黒田になったのであれば、どうして由美さんは以前から黒田姓を名乗っていたんですか」
「そりゃあ簡単は話よ。黒田と黒田が結婚したんだから。元の苗字も黒田なのよ」
岸辺は面食らったように、
「珍しいこともあるものですね。—それで、由美さんとはどうなったのです?」
脱線しかけた話題を修正した。
「ああ、そうね。その話だったわね」
興奮気味だった黒田アキは平静を取り戻すと、
「それで、結婚して向こうの家に住み始めたんだけど、久しぶりに由美に連絡して、こっちに戻って来ることになったのよ。その時はもう、家を出てから七年も経っていたから由美も見違えるような大人になっていたんだけど、夫ともかなり気があったし、良ければ一緒にここで暮らさないかってきいてみた。ほら、小さい頃から由美には辛い思いをさせてきちゃったから。親として少しでも子供の役に立ちたくてね。由美も新しいお父さんと家を気に入ってくれて、家に戻ってきてくれたのよ」
「それは良かったです。どちらにお住みなんですか?」
「いわき市」
「おや、方言は使われないんですか」
「私も昔、東京の方で仕事をしていたことがあったから……」
異様な空気に包まれ、岸辺は強引に話題を戻す。
「高校卒業から七年であれば、あなたの元に戻ってきた頃の由美さんは二十四歳ですかね。使用人として一度ここに勤めていた時期というのは、そちらに戻る前ということですか」
「ええ。確か……こっちに帰ってくる直前まではそちらで使用人として働いていたって」
「成程。由美さんが再び使用人としてこちらに戻ったのが、それから二十二年後なのですが、どうして彼女は二十年以上も経って急にこの島に戻られたのでしょうか」
岸辺は三宅のメモを参照しながら尋ねた。黒田由美は二十四歳の時に、一年間勤めた道源家の使用人を辞めて福島県の母親の元に帰り、その二十二年後、四十六歳の年になって急にまたこの島に戻ってきたのである。そして、その半年後に雪子氏殺害事件が発生、どうしてもそこに何らかの因果関係があると思えてならない。
「それが私にもよくわからんのです」
黒田アキの声のトーンが落ちた。
「一緒に生活し始めて五年位経った頃、家族で和菓子の店を始めたんです。私の夫はほとんど仕事という仕事はしていなかったけど、遺産だけは腐るほどあったから。初めは趣味程度の感覚でやっていたんだけど、由美が本格的に携わり始めた途端に繁盛し始めてね。そんなこんなで少しずつ店舗を増やしながら、二十年位由美を中心に切り盛りしてたわけ。そんなある日、急に由美が居なくなったんです。温泉旅行に行くと云って家を出たきり連絡が取れなくなって。途方に暮れていたところ、由美が電話をくれたんだけど—」
「電話はどこから掛けられていたんですか」
「その時は分からなかった。どこにいるのか教えてくれなくてね。警察が電話番号を調べて、この辺り—いわき市内の公衆電話からだって分かったんだけど。由美はいなくなった理由さえ話してくれず、もう会えないっていうことと、ちはるをよろしくね、とだけ云い残した。それからはもう連絡がつかなくなっちゃって」
「ちはる—さんとは?」
岸辺は訝るように質す。
「孫よ、私のね。由美の娘」
「失礼ですが、現在年齢はいくつですか?」
「72よ」
「ちはるさんの方です」
「ああ。27歳」
「成程—1965年生まれですかね」
岸辺からの視線を受け、三宅はメモの頁を捲る。
今から27年前の1965年—黒田由美が一度使用人を辞職し、黒田アキの元の戻った年と大凡一致する。つまり黒田ちはるは、母親が緑青島から戻って間もなくに産まれているということだ。
「大変失礼なことをお聞きしますが、黒田さんには夫はいらっしゃいますか」
岸辺は神妙な面持ちで尋ねたが、黒田アキの返答はまだ聞こえない。
三宅は緊迫した空気に思わず息を呑んだ。
「—本人に代わりましょうか?ちはるも瑛太郎さんも、丁度今うちに遊びに来てくれているから」
岸辺は驚きの表情を隠しきれていなかった。
「お願いしてもいいですか」
間もなくして電話先の声が代わった。漏れ聞こえるのは低く落ち着いた声、黒田瑛太郎らしい。先生は軽く事情を説明すると、黒田アキにした質問をそれとなく繰り返し、黒田ちはるにも同様の質問を行なった。黒田由美に関するメディアの行いによって二人も心に傷を負っているようで、その口調には警戒と猜疑の念が含まれていたが、質問に関する答えは全員一致していた。口裏を合わせて偽証しているような気配はないし、尤も、今日こちらから電話をしてくることを見越して予め対策を立てているとも思えない。そして何より、家族を失った痛みが声を通して伝わってきた。黒田由美には間違いなく夫子がいたのだ。
やがて、二人にはこれから用事があるからと、受話器は黒田アキの手に戻った。岸辺は感謝を述べ、再び質問に戻る。
「由美さんと瑛太郎さんはどのように出逢ったのかご存知ですか」
「勿論知っているわよ。二人は昔からの幼馴染ですもの。瑛太郎さんは高校生の時から由美に気があったらしいんだけど、想いを伝えることのできないまま卒業して、離れ離れになっちゃったことがずっと心残りだったみたい。でも、由美がこっちに戻ってきたことで八年越しの再会を果たして、瑛太郎さんも漸く想いを伝え、めでたく結婚したの。全く一途で素敵な人よね」
幸福な過去を思い出すような口調でアキは振り返った。
「それはなんとも微笑ましい、素敵な話ですね」
「でしょう。そうして由美が戻ってきてから3ヶ月ほどで結婚、瑛太郎さんが黒田家の養子に入って、次の年の春にちはるが産まれたわけ」
三宅は電話を代わり、より詳細な年月を確認した。
1964年の3月に緑青島から母の元に戻り、6月に再会した幼馴染と結婚、翌1965年5月に娘を出産。まだ黒田由美が娘を身籠った時期が、瑛太郎と出会う前だった可能性もかろうじて残っていたが、酷な話、使用人辞職前にもうけた子供だとすれば、出産まで少なくとも14ヶ月はお腹の中にいたことになる。紛れもなく、ちはるは黒田由美と瑛太郎の子供であった。
岸辺は黒田アキに断り、電話を保留にした。
「良かったですね。ちはるさんは兼光氏との間にできた子供ではなかった」
「ああ、結果としては最も望ましいけど。結局、黒田由美による雪子氏殺害の動機となりえた、兼光氏との過去については堂堂巡りとなってしまった」
二人はしばしの間口を噤み、それぞれ思案を巡らせた。
「でも、約二十年家族と暮らしていたのに、その家族に何も云わずに突然姿を消して、昔の職場に戻るなんておかしいです」
「そうだね。聞いてみたほうがいいかもしれない」
再び受話器を取った岸辺は、黒田アキに待たせたことを詫びてから質問に戻った。
「・・・・由美さんが緑青島に戻った理由について、何か心当たりはありますか」
「全く。そもそも、由美が島に戻っていたことも知らなかったの。雪子さんの事件が新聞で報じられて、その記事で由美の名前を見つけて初めて分かったのよ」
黒田アキはそう強く断言すると、
「あの頃の由美は店の経営が生き甲斐って感じだったし、何も不満なんて感じていなかったと思う。幼少期とは違って金銭的な心配なんてなかったし、三世代で穏やかに暮らしていたわ。それなのに、何も云わずに急に居なくなったと思ったら、そちらで使用人として働いていた。二十年以上前に少しだけ勤めていた使用人にわざわざ戻る理由なんてわからん」
「由美さんが再びこの島に戻る以前に、彼女に変わった様子はありませんでしたか。或いは、この島や道源夫妻について話していたことがあったりはしませんか」
アキは少しも間を空けずに答えた。
「道源夫妻については、由美が戻ってきた時に少し話を聞いたけど。私もあの作品は見ていましたから、かなり驚いたわよ。名前は何だったかしら……ええと、必殺仕—」
「『大江戸惨殺譚』ですかね。—それ以降、由美さんから話は聞いていませんか」
岸辺の返事にアキは思い出した様子で、「そう、それそれ」と上機嫌に云うと、
「でも、そうね。それからは別に話していないわ。他の仕事に比べてかなり印象に残っていたみたいで、島での暮らしを少し教えてもらったことはあるけど。未だに何か、緑青島に特別な感情を抱いている風には見えなかったし、いなくなる直前にも一切島のことを口にしていなかった。ただ・・・」
黒田アキは躊躇うように言い淀んだ。
「失踪する三ヶ月前に、由美が癌を患っていることが分かった。手術をすれば問題ないと云われていたんだけどね。あの時は店のほとんどを由美が動かしていたから、長期間の入院で経営に支障が出ることを嫌がって手術を受けたがらなかったのよ。ただでさえ過労で参っていたのに、癌の問題も増えたから気分も落ち込みやすくなって、かなり悩んでいたようだったわ」
「結局、手術は受けたんですか」
「分からない」
岸辺の質問に黒田アキはそう答えると、
「私達の説得で由美は漸く手術を決断してくれて、由美がいなくなった日の一週間後には、手術のための入院が控えていたの。だから由美がいなくなった時、初めは手術の前の気晴らしで旅行にでも行ったのかなって思った」
黒田由美がこの島に戻ってくる以前に、癌に罹っていたことは新たな情報だが、聞けば聞くほど、彼女がこの島に戻ってきた目的が分からなくなってくる。
「それであれよ。新聞で由美がその島にいたことが分かったと思ったら、また行方不明になって・・・」
アキは次第に言い淀んだ。
「事件後、由美さんも本土に戻ってきていたそうですが、彼女からの連絡は?」
「なかった。事件のことを知ってすぐに連絡しようとしたけど、こちらからは電話できないから、由美が電話してくれるのをずっと待っていたんだけど」
そこで妙な間が空き、受話器から鼻を啜る音が聞こえた。
「結局、犯行を自白する遺書と由美の遺体が発見されて、この家にも警察や記者が押し寄せてきた。世間は当たり前のように由美を犯人だと決めつけて、どうして雪子さんを殺したのかとしつこく聞いてきた」
「それは酷い」
「散々聞かれたけど、私達は何も答えなかったよ。それに正直なところ、由美がどうして急にいなくなっちゃったのかは今でも分からない。世間で由美は凶悪な殺人とされて流言飛語を散々書かれたけど、あの子がそんなことをするような人間じゃないことは、私達が一番知っているから」
あの人はそんなことする人ではないと、そう何度も聞いたが、「人殺しするような人」など、どこにもいないのではないか。そんな不遜な疑問を三宅は抱いた。
励みになりますので、高評価コメントの方よろしくお願いします!『監獄館の殺人』など、他作品もありますので、よろしくお願いします!