愛娘
1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。
俊典が退出して間もなく、真希は不安そうな面持ちで二人を眺めながら席についた。
肩上で切りそろえた明るめの茶髪と丸い目によって、とても三十を過ぎているとは思えない程童顔に見えるが、シュッとした鼻だちは上品さを感じさせる。部屋に入ってきてからずっと視線を左右に泳がせているのは、不安の表れだろうか。
先程までは、目の前の彼女が写真の黒田由美に酷似していると信じて疑わなかったが、いざ二人が赤の他人だったと分かった今では、特段似ているとも思えなくなってしまった。思い込みとは恐いものだ。
「美香ちゃんの具合はどうですか?」
三宅は彼女の緊張を解そうと尋ねる。
「え、ええ。とりあえず安静にしていれば問題ないそうですが」
真希は節目がちに答えた。
「この頃、しょっちゅうあんな風に熱を出すんです。滅多に泣いたりする子じゃないので、気づけないこともあって」
「泣かないとは珍しい。とても強い子ですね」
「そうであればいいんですが・・・」
視線を床に落としたまま、真希は少しの間口を噤んでいた。
「あまり脳の発達が順調ではないみたいで、病院で診てもらったのですが、未だに……」
「それは申し訳ない。つかぬことをお聞きしてしまいました」
真希の表情がさらに翳ったことで三宅は閉口する。代わりに岸辺が、
「では、俊典さんとの出会いについて教えていただけますか」
「えっ」
真希が驚いたように顔を上げ、繊維の細い薄茶色の髪が滑らかに揺れた。
「それは事件に関しての質問なんですか?」
真希は足の上に乗せた両の掌を結び合わせた。
「そうですね。全員に聞いているので」
真希の表情に少し戸惑いが見えたが、
「私が俊典さんの経営しているアニメーションスタジオに入ったことがきっかけでした」
「真希さんもアニメーターをなさっているのですね」と、三宅。
「はい。それまでは他のスタジオに在籍していたんですけど、そこでは、ごく簡単な業務しか担当させてもらえなくて。もっと本格的な制作に携わりたいと思っていた矢先、彼のスタジオを紹介されました。とはいっても、少人数の下請けスタジオですけどね」
「紹介とは、一体誰から」
岸辺の質問に真希は即座に、
「母です」
特に躊躇することなく即答した。
「というと、灰原楓さんですか」
思わぬ形で巡ってきた話題に、岸辺は慎重に言葉を選ぶ。
「ご存知なんですか?ええ、昔役者をしていた時の繋がりだと……確かそう云っていたと思います」
「『青柳香那』さん、『大江戸惨殺譚』の廉を演じている方ですよね。とても綺麗で印象に残っています。まさかあなたが娘さんとは」
「私が生まれる前に役者を辞めてしまったそうですけど。一時期は映画なんかも出ていたと聞きました」
「確か、兼光さんの引退直後に灰原楓さんも役者業を引退されたそうですね。人気絶頂期にどうして引退されてしまったのですか?」
「かなり詳しいのですね」
「え、ええ。親がファンだったので、私も小さい頃よく観ていましたから」
なんとも云い難い複雑な表情でこちらを眺めていた真希は、やがて口を開き、
「正直、役者時代の母のことは殆ど何も知らないんです。何故だか全然話してくれなくて。ただ、昔から気持ちのコントロールが上手く出来ず、精神的に参ってしまっていたと。人前に立つ役者のような仕事は柄に合っていなかったと云っていました。その経験から、引退後は心理療法士をしていました」
「ヘー、心理療法士ですか」
役者引退後に心理療法士をしていたとはまるで知らなかったが、心理学は全くの専門外なので、深く質問することは出来ない。
「では、俊典さんとの出会いは、兼光さんと灰原さんの繋がりからだと。いやぁまさか、あの豆太郎と廉の子が、滝の子供と結婚してしまうとは」
「違うよ。豆太郎と滝の子供が、廉の子供と結婚」
先生から瞬時に指摘を受け、三宅はたじろいだ。
「ああ、そうですね。それに真希さんも、こう云われるのはあまり気分が良くないですよね、すみません」
罰が悪い顔で頭を下げた三宅に、真希は淑やかに、
「そんなことはないですよ。私もすごく驚きました。お義父さんがあの道源寺鳳史だということは結婚直前に知ったんですけど、あの廉を演じていたのが若き日のお母さんだったなんて、神様の悪戯を疑ったのは後にも先にもあの日だけだと思います」
真希は少し恥ずかしそうに微笑みながら云った。
「それなら、ご両親もこの島に来たりしないんですか?」
三宅の質問に、真希は視線を窓に移した。
「父は私が生まれる前に事故で亡くなりました。母も三年程前からいわき市から函館に転勤になったので、今は滅多に会えないんですよ。時折、葉書は送ってくれるんですけど」
岸辺は目を閉じて弔いの意を示すと、
「差し支えなければ、お父様についてお聞きしてもよろしいですか」
岸辺は、聞きづらい質問を少しの躊躇いもなく放っていく。
質問の意図が掴めないようで、真希は初め首を傾げていたが、
「母からの伝聞で聞いたくらいです。心理学の専門学校で出会ったという話と、私が産まれる数日前に車の衝突事故で亡くなったということだけしか」
「思い出すこともお辛いですよね」
三宅は非礼を詫びる。
「でも、産まれた時から母と二人だったので、それが当たり前だと思っていましたし、父親がいないことに特別寂しい思いをすることはありませんでした。それはきっと、母が人一倍懸命に育ててくれたことも大きかったと思います。でも、丁度美香が生まれる前に母が転勤してしまったので、はやく孫の顔を見せてあげたくて」
彼女の表情は慈愛に満ちていた。母親から十二分の愛を受けて育ったことが想像できる、そんな柔らかな笑みを浮かべていた。
岸辺は優しく頷くと、
「では質問を変えますね。二年前の事件日、黒田さんに何か不審な点があったりはしませんでしたか」
「黒田さんですか。あの時に初めて会ったので、どのような人だったのかは分かりません。でも彼女は、まだ三歳だった美香の遊び相手になってくれましたし、とても親切に子育てのアドバイスをくれたので、とても優しい人だなと思いました」
岸辺は無言で頷くと、
「事件発覚時は自室に残っていたのですよね。その時のことを教えて頂いてもよろしいですか」
「そうですね。あの夜は美香がなかなか寝付いてくれなくて苦労していたんですけど、俊典さんがお守りを代わってくれて。十二時頃に床につきました。美香は私か俊典さんのどちらかが側にいないと泣き出してしまっていたので。そして、二時頃に黒田さんが部屋に来て、事件について聞きました。大慌てで部屋を出た俊典さんについて行こうとしたんですけど、美香を見ていてくれと云われて部屋に残りました。その後、また黒田さんが部屋に来たと思ったら、火事だから逃げてと云われて、急いで美香を連れてこの館を出ました。その後に、お義母さんを担いだ俊典さんが出てきて安心したことをおぼえています」
そう云うと、真希はほんの少し広角を上げて、
「特別な日にはいつも、母からもらった首飾りをつけていたんですけどね。寝る前に外して机に置いたまま、部屋から出るときに取り忘れてしまったんです。母がフランスで買ったかなり貴重なものらしく、唯一の形見だったので、大変心残りで」
諦観するような淡い笑みを浮かべていた。
「何より、美香ちゃんが無事で良かったですよ」と三宅。
「そうですよね。それに、逃げている最中も美香はまだ半分寝ているような状態だったので、火事のことをあまり憶えていないのが不幸中の幸いでした」
「一回目に黒田さんが部屋に来た時、俊典さんの様子はどうでした?」
岸辺の質問に真希は特に訝かる様子もなく、丸い目を宙に向けて、
「その頃にはもう美香と一緒に寝ていましたよ。私はノック音で目が覚めたんですけど、真夜中に何度も扉を叩かれているのが少し怖くて、寝ている俊典さんを起こして出てもらいました。」
岸辺は煙草ケースを取り出しながら、
「では、今回の事件についてはどう思います?何か思い当たる点などがあったりしませんかね」
中から煙草を一本取り出しかけたが、やがて思いとどまったのか、ケースごとポケットにしまった。
「全く分かりません。だからこそ怖いんです。犯人の目的はなんなのか、何故お義父さんを狙ったのか、美香も狙われてしまうのではないかと思ってしまって。他の方とは年に二回ここで会うだけですし、道源家の内情も詳しくは知りません」
「そうですか」
岸辺は一度腕を組み直すと、話題を変えて、
「そういえば、『大江戸惨殺譚』はどこにあるか分かりますか?」
真希は右手でティーカップを持ったまま首を傾げた。
「なんのことですか?」
「『大江戸惨殺譚』のVHSですよ。それが兼光氏の部屋から無くなっているんです」
「VHSですか?私は見ていないと思います」
例に倣って通り一遍の感謝を述べると、岸辺は飄々と部屋を後にした。
三宅は今一度真希に向かって丁寧にお辞儀をして、真希を向かいの部屋まで送った。
励みになりますので、高評価コメントの方よろしくお願いします!『監獄館の殺人』など、他作品もありますので、よろしくお願いします!