消失
1992年10月某日、小説家岸辺の元にとある招待状が届く。その差出人は、かつて人気ドラマの主演俳優として名を馳せた道源兼光。かくして彼が住む孤島、緑青島で開催される誕生日会に参加することになった岸辺と編集者三宅だったが、島に到着して早々当人から本当の招待理由を告げられる。それは、2年前にこの島で発生した未解決事件で亡くなった妻雪子の死の真相を探ることだった。
「ここ、何か動かしたか?」
声の方に顔を上げると、先生はVHSの並んだ棚の前に立っていた。
「いえ、一度も触っていませんけど。どうしました?」
腕を組み、神妙な表情で棚を凝視する岸辺の隣に立って、上方の棚に視線を向ける。高さにして175cm、自分だと少し首を上げて見上げなければいけない。
視線はそのままに岸辺は指を差す。縦七段ある内の最上段、その棚の右端に置かれたケース一帯が、倒れたドミノのように傾斜していた。どうやら、そこにVHSケース一つ分程の空きがあるようである。
「『大江戸惨殺譚』のVHSケースが無いんだよ。自身の出演作をシアタールームで観るほどの自分好きな人間であれば、当然出演作のVHS版も所有しているはずだろう。他の出演作はここにあるのに、主演映画がないとは思えないし」
「昨日この部屋に入った時、確かに『大江戸惨殺譚』のケースを見ましたよ」
「ここじゃなかったか?」
先生は、ケース一つ分空いたスペースを指し示す。
「それは、ええと・・・すみません。なんとなく題名が目についただけだったので、正確には覚えていないんです」
合点がいっていない三宅に見かねた岸辺は、
「ほら、五十音順に並んでいるんだよ」
そこで漸く、全ての作品が五十音順に並んでいることに気づいた。各棚はそれぞれ、最上段左端から作品が五十音順に整頓されており、一段目の右端までケースが埋まると、下段の左端に戻っていくという流れである。云われてみれば確かに、丁度名前順的に『大江戸惨殺譚』が入るであろう部分だけが空いていた。
「ああ、成程」
「昨日はあったのなら間違いない」先生は何かを掴んだ様子だ。
一応、スクリーン画面の下に置かれたビデオデッキを確認してみたが、何もディスクは入っていない。
岸辺は、名前順的に『大江戸惨殺譚』の左隣であるケースを取り出し、三宅に示す。
「最近はVHSをあまり観ていなかったようだから、他のケースの上にはしっかりと視認できるほどの埃がついているだろう。だが、このケースだけやけに埃の積もりが薄いし、ここに微かに指紋が残っている」
他にもいくつか埃がついていないものがあるが、そっちは全部雪子氏の出演作のようだ。主人は亡き妻の姿を映像の中に求めていたのだろうか。ただ、隣の棚の最上段、カ行のケースにも同程度の埃が積もっているため、埃の積もり具合に関して、位置的な差異は無いようだ。
念の為他の棚を手分けして捜索してみたが、お目当てのものはどこにもなかった。
岸辺は一度溜息を吐くと、
「恐らく、身長165cm程の左利きの人物がこの部屋に忍び込んでVHSケースを取っていったんだ。そしてその人物こそ事件の犯人だね」
「えっ、犯人ですか」
「ほら」
岸辺は一度咳払いをして、
「今朝の犯行時、犯人はスクリーンに上映されていた映像の明滅を利用することで、自らの姿を闇に隠しながら犯行を実行した。そして、何かしら仕掛けを施してフィルムを燃やすことで証拠を隠滅したと云う推理をしただろう。であれば、『大江戸惨殺譚』の映像を確認することで、何か犯行に関するヒントが得られるかもしれないと思ってね。そして恐らく、犯人もそのことを案じてVHSを回収したのだろう」
「でも何故、身長や利き手まで分かるんですか?」
「まず、この部屋には椅子のような、高さを補うための踏み台になりそうなものはない。机の安楽椅子も到底持ってこれるような重さじゃない。かといって、一目を盗んでここに忍び込んだはずの犯人が、わざわざ————」
岸辺が説明を始めた矢先、視界の端に映っていた書斎の扉が音もなく開かれた。三宅は咄嗟に身構える。
「おや、こんなところにいらしたのですか」
扉の背後から顔を出したのは、多田だった。
「ご主人の部屋に無断で入られるのはお控えください」
怒りというより、困惑を孕んだ声色だ。
「すみません」
三宅に続き、岸辺も律儀に頭を下げながら、
「申し訳ありません。ご主人と昨日、二年前の事件に関する何かを見せて頂く約束をしていたので、それを探していました」
「そうですか……」
多田は書斎机の方を呆然と眺めていた。
「そういえば、何かご用ですか」
三宅の質問に多田は我に帰り、視線を二人に戻した。
「あ、お部屋の方に昼食をお持ちしたのですが、お二方ともご不在でしたので、どこにいらっしゃるのかと思いまして」
「そうだったんですか。すみません、宜しければ部屋の前に置いて頂いてもよろしいですか」
「かしこまりました、では」
多田がお辞儀して扉を閉めかけたところで、先生が呼び止めた。
「『大江戸惨殺譚』、どこにあるかご存知ですか?」
「え?VHSですか?こちらにないのですか」
「ええ、そうです。昨日まではここにあったようなのですが」
岸辺は棚の隅を示しながら答える。
「いえ。申し訳ないですが、私は存じ上げません。最近は兼光様もあまりVHSを鑑賞されていないご様子でしたが、この部屋の掃除はご主人が自ら行われていたので、私達使用人もあまり把握していないのですよ」
「そうなのですね、分かりました」
岸辺は感謝を述べると、すぐさま話を変え、
「実は、他に少し多田さんに見ていただきたいものがありまして」
岸辺は多田を、あの差出人不明の奇妙な手紙が広がった机に促した。
「今朝奇妙な手紙が届いていましたが、二十五年以上前から、ご主人の元にはこのような手紙が届いていたようです。多田さんは何かご存知ですか」
三百を超える数の手紙に圧倒されているようで、多田は漸く一枚手にとって確認を始めた。
「これは、なんなのでしょうか……全く知りませんでした」
心の声が勝手に漏れ出たような調子でそう呟く。
「差出人の名前や住所が記されておらず、文面も一切会話の体を為していない。恐らくですが、この手紙は、誰かが一方的にご主人に送っていたもののようです」
岸辺の言葉をうけ、多田は視線を傍に置かれた封筒の束に移し、
「今朝届いていた封筒と同じですね。確かに本土で道源家宛ての郵便物を受けとる際、いつもこの封筒があるとは感じておりました。それはもう何年も何十年も、しかし、ご主人はいつも平然と受け取られていたので、特段気にしていなかったのですが……この手紙の主は一体、何が目的なのでしょうか」
「分かりません、僕たちは脅迫のようなものだと考えていました」
「何十年もの間、兼光様は誰かに脅迫をされていた……ということでしょうか?」
多田は愕然とした面持ちで尋ねた、というよりも、独りごちた。
その後も多田は、何枚もの手紙に目を通していたが、次第に気分が悪くなってきたようで、表情が曇り始めた。
異様な雰囲気を払拭すべく、三宅は書斎机に広がった履歴書から二枚を手に取ると、多田のもとへ駆け寄った。
「勝手に漁ってしまったのは申し訳ないんですが、この方が黒田由美さんですよね?」
多田は、細めた目を近づけて二枚の証明写真を交互に凝視した後、微かに口角を上げ、
「おや、懐かしい。そうですね。確かに、黒田さんです。しかし、何故こんなものが?」
「兼光さんは、これまで届いた履歴書を全て保管していたようなんです」
多田を書斎机に促しながら、三宅は説明する。
「使用人の選考はご主人が行っていたのですよね。使用人の方達は、選考には関与していなかったのですか?」
岸辺の質問に多田は何枚もの用紙を見下ろしながら答える。
「この島で行われる面接に関しては、日程の連絡や船での送迎などで少し携わっておりましたが、書類選考はご主人一人でされておりましたので、履歴書自体は見たことがありませんでした。————こんなに応募者がいたとは」
履歴書が保存されていたこと自体知らなかったという口ぶりである。
「多田さんや鴨川さん、小川さんのものまで残っていますよ」
多田はかつての自分が書いた履歴書を手に取り、微笑みながら眺める。
「はあ、懐かしい。少し恥ずかしいですね」
照れ臭そうにそう云うと、他の履歴書に一枚ずつ目を通し始めた。大半が見知らぬ顔であるはずだが、中には昔の同僚もいるようで、卒業アルバムの同級生に想いを馳せるように、その顔を眺めていた。
「それと、多田さん。————どうしましたか?」
三宅は多田に尋ねようとした矢先、思わず口を噤んだ。
ある一点を見つめる多田の表情が、恐怖と困惑をないまぜにしたものに変わっていた。
「夏美。これ、私の娘です」
「えっ、娘さんも使用人の職に応募されていたんですか」
田代夏美、満23歳と記された欄の隣に映る彼女の顔はかなり健康的で、優しげな瞳は父親譲りであるようだ。
多田はそれに答えず、必死に眼球を履歴書に向ける。
やがて顳顬を伝った汗を拭うと、多田は怯えたような調子で口を開いた。
「違うのです。この履歴書が書かれた日付、26年前の1966年の8月22日。———この日の数日前に、夏美は亡くなっているのです」
「どういうことですか?」
突然のことに理解が追いつかず、三宅は履歴書をじっくりと眺める。
「夏美は私なんかとは違って、頭のいい子でした。死んだ妻に似て肌の白い綺麗な子で、18になる年に、地元で一番の名家田代家に嫁ぐことになったのです。私は大変喜びましたが、私の家は漁師の家系でしたから、家柄を重んじる向こうの意向で、滅多に会うことができなくなりました。そうして、私がここで働き始めて何年後かに、夏美が精神を病んで身体まで壊し、23歳で病気で亡くなったことを知りました。自分よりも他人を優先する子で下から、慣れない環境で随分辛い思いをしたのでしょう。それなのに私は、夏美を失った悲しみから逃れるようにこの島に……情けない」
多田は声を震わせながら、両目を覆った。ただでさえ主人を失ってしまっているのに、さらに悲しい記憶を思い起こさせてしまった。
「そして、夏美の命日が1966年の8月19日なのです。私の誕生日ですから、忘れもしません」
「そんな・・・」
何か聞きたそうにしていた岸辺も、
嗚咽を漏らす多田が落ちつくのを待ってから、三宅は尋ねた。
「では、この履歴書はどういうことなんでしょうか」
「夏美は晩年、殆ど寝たきりだったそうですので、とても使用人に応募することなどできないはずです。それにこの証明写真も、娘の結婚祝いで撮った写真です」
「18歳の頃の写真ですか」
岸辺は写真を眺めながら呟くと、
「——つまりこの履歴書は、夏美さんの死後、誰かが彼女の名を騙って出したもの、ということですか」
三宅は何と答えればいいのか分からず、無言で多田の反応を窺った。
やがて、多田は恐る恐る頷き、
「住所や経歴が正確に書かれているので、単なる悪戯ではないと思います」
「———もしかしたら、他の履歴書にも同様のものがあるかもしれませんね」
三宅は、再び履歴書に目を通し始めた。
二
「何をされているんですか?」
警察の知人に履歴書の真贋を確認していた矢先、再び扉の向こうから声が聞こえた。
振り向くと、鴨川が顔をこちらに向けていた。
「そう云われてしまうと返す言葉もありません。————そうだ」
岸辺は両手をズボンのポケットに突っ込みながら、思い出したように声を出した。
「『大江戸惨殺譚』がどこにあるかご存知ですか?」
「申し訳ないですが、棚にないのであれば、私には分かりかねます」
鴨川はそう云うと、無言で多田に視線を向けた。
「ああ、そうでした。まだ仕事があったのでした」
多田は、「温め直してお届けしますので、お二方も一度昼食を頂いてください」と述べて頭を下げる。そして、岸辺からの耳打ちに一度頷くと、慌てた様子で扉へと向かった。
申し訳なさそうに出て行く多田を見送ると、鴨川は視線をこちらに向けた。
「それから、隆平様からお二人に言伝を頼まれまして、一時間後であればお話しができるそうです」
彼女の目元には薄く隈が出ており、心労が鮮明に表れている。
岸辺は部屋を出る直前、三宅の方を振り返った。
「ここで見つけた手紙や履歴書に関しては、まだ他の人達には口外しないでくれ」
励みになりますので、高評価コメントの方よろしくお願いします!『監獄館の殺人』など、他作品もありますので、よろしくお願いします!