プロローグ(1992年10月某日)
「で、どうです?」
ソファに縮こまるように座る三宅は、目の前の先生の機嫌を伺うように云った。
「どうですって……何が?」
岸辺は原稿に視線を落としたまま憮然とした調子で答える。先生はここ最近機嫌が悪い。それは壺のせいだった。先生は一週間前、だ「祈りの壺」という名前の、いかにもな一品を、二百万円もかけて摑まされたのだ。近くに置いておくだけで願いが叶うというその壺を枕元に置いて寝たが、昼夜逆転生活は全く直らなかったと、先生は涙まじりにそう嘆いていた。人一倍疑り深い性格の先生が、どうしてそのようなものに騙されたのかが不思議でならないが、兎に角そのようなことがあって、ここ最近の先生は執筆にも精を出せずにいた。そしてそれは、編集者の三宅にとっても由々しき事態である。
「短編の進み具合です。締め切りももう二週間後ですし……」
三宅は居心地の悪そうに両手を膝の上に置き、控えめに部屋を見渡す。先生の座る書斎の向こうの棚には、一部が欠けた「祈りの壺」が置かれていた。
「分かっているよ。だから今こうやって必死こいて原稿に向き合っているんじゃないか」
岸辺は眉間を八の字に曲げて、不機嫌そうに煙草の煙を吐き出す。
「そうですよね……」
三宅は目の前の作家の機嫌をこれ以上損なわないよう、視線を傍のヒーターへと向けた。
「そんなに原稿を回収したいなら、君も作品のネタの一つでも持ってきたらどうだい」
岸辺は視線を目下の原稿に向けながら云った。
そこで三宅は待っていましたと云わんばかりに顔を上げ、
「そう云うと思いましたよ、先生。実はですね」
岸辺はあくまで視線を原稿に落としたまま、
「何だよ。そう勿体ぶらずに早く教えてくれ」
「先生、知っていますか?宮城県から船で北東にずっと進んでいった所にある緑青島。何あそこには、或夫婦が昔からずっと住んでいるらしいんですけどね」
三宅は一度そこで岸辺の反応を窺うが、彼の意識は原稿に注がれている。
三宅は徐に人差し指を立て、
「そこで先生。あなたの出番です」
「ん?」
岸辺はそこで漸く顔を上げ、演劇役者のように力説していた三宅の方へ視線を向けた。
岸辺の関心が向いたことに酷く満足げな三宅は、したり顔で宙を見据える。
「実は、その道源家のご主人、道源兼光さんから直々に岸辺先生にお会いしたいとの連絡があったんですよ。ご主人の誕生日に客人として来てほしいとのことです」
「僕に?一体どうして」
「聞いたところだと、先生の作品を以前お読みになったらしく、緑青島を舞台に作品を描いて欲しいとのことです。しかもこの方、昔の人気ドラマ『大江戸惨殺譚』で主演を務めていた[道源寺鳳史]ですよ。どうですか、凄くないですか?」
「行かないよ」
「どうしてですか。もしかして『大江戸惨殺譚』、知らないんですか?有名なのに。最高視聴率34%だったそうですよ」
「知っているよ。子供の時に見たこともある。ただ、もうだいぶ昔のことだから覚えていないし、そんな鄙びた島に行くなら、原稿に向かっていた方がいい」
岸辺は鹿爪らしい面持ちで煙草を吹かした。
三宅はなお悪戯っぽく微笑むんでコーヒーを啜る。
「なら、これはどうですか。二年前にその島でとある事件が発生したらしいんですよ。兼光さんの不在中に、奥さんの雪子さんが亡くなってしまったらしいんです。しかも、警察の懸命な捜査にも関わらず、未だにその原因を特定できていない。所謂未解決事件って訳です」
岸辺は一度溜息を吐くと、視線を上げた。
「現実の事件で人を釣ろうとするのは頂けないな。それで、彼の誕生日ってのはいつなんだい?」