10. 魔塔主の部屋
「ひゃあぁっ!」
ほんの数秒の出来事だったが、あまりにも奇妙な感覚に襲われて恐怖すら感じてしまう。「ついたよ」と声を掛けられて目を開けると、どこかの屋内にいた。
「ここは……?」
「魔塔の厩舎だよ。馬は部屋に連れて行けないからね」
魔塔の厩舎? あの一瞬の間に、遠く離れた森から魔塔にいるということは、転移魔法を使ったということかしら。
頭の中を整理していると、厩番のおじさんが驚きながらやって来た。
「魔塔主様! まーた馬ごと転移してきたんですか? 馬が嫌がるからやめてくださいと申し上げましたでしょう?!」
確かにデイジーは興奮気味にその場で足踏みをして、落ち着かない様子だ。
「あはは、ごめんごめん。馬に乗って帰るとか、まどろっこしくてさ」
「まったく。……それで、そちらの女性は?」
「じゃ、その馬はよろしく」
「あっ! 魔塔主様!!?」
もう一度転移魔法を使うのだと察したラシェルは、ぎゅっと目を瞑り身構えた。案の定、先程の奇妙な感覚が全身を襲う。
「はい、到着」
エスティリオに再び声をかけられて目を開けると、今度は室内にいた。
重厚なマカボニー家具と、落ち着きのあるダークグリーンのカーテン。壁際の書棚には本がずらりと並び、奥にある続き間にはベッドが見える。
「転移魔法、怖かった?」
連れてこられた場所をぼうっと見ていたラシェルは、間近にあるエスティリオの顔を見上げて気がついた。
「もっ、申し訳ありません。私ったらはしたない事を……失礼致しました」
「エルならいくらでも抱きついてきてくれて構わないよ。まあその格好だと、ちょっと刺激が強すぎるけど」
恐怖のあまり、いつの間にかエスティリオにしがみついていた。それも今は、素っ裸の状態に貸してもらったローブを羽織っているだけ。
そういえばさっきは、厩番の男性の前でもこの格好だったと思うと頬が熱くなる。
「ちょっと待ってて」
パッと体を離してしゃがみ込んだラシェルの横をエスティリオは通り過ぎると、別の部屋へと続く扉から出ていき、いなくなった。と思ったら、すぐに戻ってきた。
「今湯浴み出来るよう、お湯を出してきたから。あんな奴らに触られて、気持ちが悪いでしょ?」
「いえ、そんな。ここは魔塔主様のお部屋ですよね? 宿舎に戻って入りますので」
「だめ。今すぐ洗ってきて。じゃないとここから出さないから」
置かれている調度品の質とエスティリオの態度からして、ここはエスティリオの私室なのだろうと推測した。
一使用人のラシェルが、魔塔主の部屋で湯浴みなど出来るはずもないので断ると、間髪入れずに却下された。
エスティリオなら簡単に、ラシェルを軟禁する事くらいは出来てしまう。扉と窓を開かないようにして、音が外に漏れないようにする魔法くらいは、簡単にかけられるだろう。
「それでは……お言葉に甘えさせて頂きます」
諦めて渋々了承したラシェルに、エスティリオは愛らしい笑みを浮かべて頷き返してきた。
「エルが入浴している間に、後処理諸々を済ませてくる。ゆっくり浸かって休んで。出たら部屋の物も自由に使っていいから!」
早く用事を済ませたいのか、エスティリオは説明もそこそこに、部屋から出ていってしまった。
人様の部屋の物を物色するつもりなど毛頭ないが、エスティリオが無防備過ぎて呆れてしまう。
きっと大切な物もあるでしょうに。不用心過ぎるのではないかしら。
もしかしたら触れられたくない物、見られたくない物などは予め魔法がかけられていて、魔力無しのラシェルなど警戒する必要すら無いのかもしれない。
先程エスティリオが入って戻ってきた扉を開けると、浴室があった。
借りているローブを脱いで畳んだラシェルは、お湯が注がれている湯船へと近付いた。
すごい。いとも簡単に下から水を汲みあげて、さらにお湯に変えちゃうなんて。
ライオンのオブジェの口から出ている湯は、1階にある水溜めから魔塔主の部屋がある最上階まで、魔法を使って汲み上げている。しかも水の状態からお湯に変えながらだ。
ここまでのことを魔力だけで出来る人はそう居ない。湯を沸かす魔道具もあるが、風呂に使うような大量の水を温めるとなると、相当な魔力量が必要で、あまり一般的でない。普通は薪を使って湯を沸かす。
こんな部屋へ住めるのは、魔塔主になれるくらいでなくては駄目ね。
恐らくこの部屋にはそこここに、魔法を上手く操れなければ使えない物が、他にも沢山ありそうだ。
髪の毛と身体を丁寧に洗ってから湯船に浸かると、冷えた体にお湯の温かさがしみ渡る。
それにしても、エスティリオはどうしてあんな山奥にいたのかしら?
間一髪の所を助けて貰って良かったと思う一方で、やはりそこは大きな疑問だ。
偶然通りかかったというのは不自然すぎる。
農場長には出掛けると言ってきたが、詳しい調査ルートまでは教えていないし、そもそもラシェルだって大体の行き先を決めていただけ。薬草を探しながら、その場その場で道を選んでいたのだから。
付けられていた……?
まさかね。そんな暇では無いわ。
仕事が山積みの状態で、薬草栽培士の使用人の後をつけるほど暇では無い。
そういえば、山賊にカバンを漁られた時に出された記録用紙はどうなったのだろう。それに魔晶石や洋服もだ。
今回の外出でせっかくとった記録が無くなってしまうのは惜しい。とくにマルガロンの調査記録は今後の栽培に重要なものだ。
他の持ち物について言えば、魔晶石は先月買い換えたばかりで、ラシェルの懐はだいぶ寂しい。さらに着替えの服も無くなったとなると、次に貰う給金だけでは到底足らない。
もしかしたら何ヶ月か、魔晶石無しの生活を覚悟しなければならないかもしれない。そうなるとランプすら付けられないラシェルは、不便な生活を余儀なくされる。
エスティリオが戻ってきたら、色々と聞いてみなくては。
考えを巡らせながらゆっくりと湯に漬かっている内に、のぼせてきたのか頭がぼうっとしてきた。これはまずいと思ったラシェルは湯船から上がって、棚に置かれていた布で体を拭いた。
「服……どうしましょう……」
着替えを持っていない事に、今更ながら気が付いた。
かと言って先程まで羽織っていたローブに、もう一度袖を通すのは気が引ける。あのローブは魔塔主のみが着用を許された服であって、ラシェルがおいそれと身につけて良いものでは無い。
エスティリオが戻ってきたら、誰かに服をラシェルの部屋から持ってきて貰うよう頼めないか、聞いてみるしかない。
脱衣所には湯上がり後、休めるようにか、長椅子が置いてある。
エスティリオがノックもせずに入ってくる事など、まずないだろうと踏んだラシェルは、とりあえず布を体に巻きつけて、座って待つことにした。
…………?
ラシェルが目を開けると、大きなシャンデリアが吊り下がった天井が見える。
浴室にこんなシャンデリアなどあったかしら?
頭が上手く回らない。
いつの間にか寝てしまったのだと気付いて慌てて身体を起こすと、体を包み込むもの全てが柔らかい。
「ここは……ベッド?」
ラシェルが座ったはずの長椅子は、ふかふかのベッドに変わっており、ワンピースまで着ている。それも、下着まできっちりと付けて。
「嘘でしょ……」
椅子で休憩しながらエスティリオの帰りを待っていたら、いつの間にか眠ってしまったんだわ。
とんでもない失態を犯してしまった。
お風呂で火照った身体が、またさらに熱くなった気がする。
ラシェルがどうしようかとベッドの上でオロオロしていると、水差しとグラスをトレーに乗せたエスティリオが、寝室に入ってきた。
「あっ、目が覚めた? 喉乾いているでしょ。今水を持ってきたんだ」
「魔塔主様、申し訳ございません。私いつの間にか眠ってしまったようで。度々のご無礼をお許し下さい」
「無礼だなんて思ってないし、許して欲しいって言うなら俺の方だよ」
ベッドから出ようとするラシェルに、もう少し休んでと肩を押さえられた。
「着替えのことをすっかり忘れて出ていっちゃって。湯冷めしてない? 髪の毛は乾かしたんだけどさ」
「かっ……髪の毛を? 何から何までありがとうございました。あの、それで……この服は……」
髪の毛まで乾かして貰っていただなんて。
となると、この服はやはり……?
モジモジとして口篭ると、エスティリオはしれっとした顔で言ってのけた。
「大丈夫、ちゃんと我慢して着替えさせたから。あの男たちみたいに変なことはしてないよ」
大丈夫とは? 我慢というのは一体??
新たな疑問が浮かび上がるが、今の返答からして、エスティリオが着替えさせてくれた事は間違いない。
差し出されたグラスを受け取り、水を一気に飲み干した。それをエスティリオはゆったりと笑いながら眺めている。
「ごめん、怒った? だって他の人にエルを触らせたくなかったからさ」
「いいえ、本当にお手数をお掛けしました。1人で湯に浸かって、すっかりリラックスしてしまったようです」
「そう? それなら毎晩、ここに入りに来てもいいよ」
「まさか。私には不相応でございます」
「なんで? 家主の俺がいいって言っているのに」
ラシェルの横髪をうしろにかき上げたエスティリオが、顔を覗き込んでくる。
どうしてこうも、『エル』を甘やかしてくるのだろう。
言葉に詰まって目をそらすと、エスティリオはしゅんと項垂れてしまった。そんな顔をされると罪悪感が生まれてくる。
「私は……魔塔主様に良くしていただく理由が、よく分かりません」
「そんなの、エルが一番よく知っていんじゃない?」
「私が……ですか?」
さっき水を飲んどばかりなのに、口の中がカラカラに乾いてくる。
やはりエスティリオは、エルが本当は何者なのか知っている?
それ以外に、エスティリオがエルに構う理由が見当たらない。
今すぐここから逃げ出したい。魔毒蟲に喰われる前に――。
ぎゅっと掛けていた布団を握ると、その手を上から柔らかくエスティリオの手で包まれた。
「だってエル、可愛いから。俺のタイプってこと」
にっこりと、満面の笑みで言われてしまった。
そういう事、なのね。
ラシェルの今のこの容姿が、たまたまエスティリオの好みなだけというなら納得がいく。
そばかすの浮き出た頬に、小さな鼻と目。肉付きも悪く華やかさもないエルの容姿は、一般的には美人の部類には入らないが、人の好みは人それぞれ。
正体がバレている訳では無いと知るとホッとして、思わず息を吐くと、エスティリオはクックっと笑っている。
「エルは知らないんだ? 自分がどれだけ魅力的か」
「滅相もございません。でも魔塔主様にそう言って頂けると、少し自信が湧いてきますわ」
「うん、もっと自信持ちなよ。ああでも、それ以上魅力的になられると、ライバルが増えて困るな」
「ライバル、ですか……。魔塔主様にこの様な言い方をすると、自惚れ屋だと思われそうですが……」
「なに?」
「私には他に想い人がおります。他の方からの好意は受け取れないのです」
エスティリオがエルを好きなのなら、遠ざけなければ。
ただの雇われ農民が魔塔主夫人になれるとは思っていないが、愛人くらいならばされるかもしれない。
ラシェルの知るエスティリオなら、他に想いを寄せる人がいる女性を、無理に妾にしようなどとは思わないはずだ。
先手を打って嘘をつくラシェルに、エスティリオは目の色を変えた。
「それって誰?」
「恐れながら、私だけの秘密にさせてくださいませ。私のような者が想いを寄せていると万が一にでも知られたら、恥ずかしさで表に出られなくなってしまいます」
「ふぅん、エルは俺より、その人の方が惹かれるんだ」
「ふふっ、魔塔主様の好みと同じように、好みは人それぞれですわ。私よりも美しく、気立ての良い女性なら沢山おりますでしょう?」
「そう? エル以上の人なんて、他に見当たらないんだけど」
エスティリオがこんな情熱的な人だとは知らなかった。
『エル』に言っているのか、それともラシェルが言われているのかよく分からなくなり、不覚にも心臓がドクンと飛び跳ねる。
ドキドキしている場合じゃないわ。
正体が知られたら、生きてはいられないのだから。
「今は熱に浮かされているだけでしょう。後で冷静になってみれば、あれは何だったのだろうと思う日がやってきます」
「そうかな。好きになってから結構経つんだけど」
ボソリと口にしたエスティリオの呟きは、ラシェルの耳にはよく聞き取れなかった。
何と言ったのかと首を傾げるラシェルに、エスティリオは「まあいいや」と天井を仰いでいる。
「要はエルを振り向かせれば良いだけだし」
「魔塔主様……?!」
「逃げられるなんて思わないでよ。俺、どこまでも追いかけるから」
エスティリオの恋心に油を注いで、余計に燃え上がらせてしまったようだ。
口をパクパクと動かすが、言葉がうまく出てこない。
諦めてもらおうと思ったのに……。
ニコニコとしながら猟奇的な言葉を吐くエスティリオを、ラシェルはただ曖昧な顔で笑い返すしか出来なかった。