第3話 新しい名前
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桜菜の掌に乗ったまま移動した先は、壁一面に広がる本棚の正面だった。
辞書のようにぶ厚い本が隙間なく並べられていて、豪奢な装丁を予想させるアンティーク調の背表紙には書名であろう金文字が綴られている。読めはしないが、室内に点された蝋燭の火に照らされて煌めく文字を見上げていると、自分は価値のある書物なんだと語りかけられている気分になった。
その内の1冊を抜き取ったツクモさんがページを開き、細い指先で文字をなぞって、また戻す。すると、本棚の一角が淡く光って、カチリと音がした。
『隠し扉?』
「ええ。ここから地下室に行けるんですよ」
どうぞ、と促され、桜菜が隠し扉をくぐる。簡単な棚がある短い廊下の先は途切れていて、見下ろせば暗闇が広がるばかりで、何も見えない。
どうやって下りるのだろうと思っていたら、桜菜が棚にある小瓶を1つ手に取った。毬藻に似た濃い色の苔玉と、小さなガラス玉が3粒入っている。カラン、とガラス玉同士がぶつかり合って音が鳴ると、苔玉が柔らかい光を放った。
光がどんどん強くなり、眩しく思えるほどになった頃、桜菜は小瓶の底を地下室に向けた。すると、それに呼応するかのように、地下室の至る所がぽつりぽつりと光り始めた。
(何か来る?)
少しずつ輪郭を見せ始めた地下室から、四角い何かが近づいてくるのが見えた。それは、畳1畳分ほどの、魔法陣が描かれた板だった。
廊下の端にぴったりとくっついた板を、棚に小瓶を戻した桜菜が指差す。
「これに乗るんだよ。エレベーターみたいなものだと思えば怖くないからね」
『だとしても手すりぐらいはほしくない?』
飾りっ気のないただの板に乗って階下に降りるなど恐怖でしかない。落ちたら最悪死んでしまう高さだろうに。
「そうですねぇ。フィフィは普段地下へは行きませんし、わたくしもこれを使いませんから、手すりについては考えたこともありませんでした」
ツクモさんが顎らしき箇所に手を当てて、ふむ、と考える素振りをする。
「まあ、それはとりあえず置いといて、今は地下室へ移動しましょう。フィフィ、雪葉さんをお願いしますね」
「はーい」
桜菜の頭を撫でてから、ツクモさんはふわりと体を浮かばせて、ふよふよと下へ下りていった。なるほど、浮遊できるなら確かにエレベーターは必要ないな。
「じゃ、あたしたちも降りようねー」
そう言って、桜菜はピョンと板に飛び乗った。重さを感じ取ったからなのか、別の力が働いたのか、板がゆっくりと下降を始める。
『あんた、なんでフィフィって呼ばれてるの?』
気になっていたことを聞いてみれば、
「こっちの世界での名前がフリューリングだから、あだ名がフィフィなんだ」
と返された。
『春? なんで?』
「雪葉がつけてくれたんじゃん!」
本名に一文字も掠っていない呼び名を疑問に思えば、信じられない! という顔をされた。
「こっちの世界に来た時にね、本名を知られないようにしないといけないから別の名前を考えてってツクモちゃんに言われたんだ。でもここって普通に英単語使ってるから、名前を英語にしたらばれちゃうと思ってさ。ママの持ってたいろんな国の辞典を見ていいのがないか探してたら、雪葉がこれはどう? って選んでくれたんじゃん」
そんなことあったか? と記憶を遡れば、小学生の時、宿題そっちのけで世界中の国の単語辞典を読み漁る娘に困った伯母に助けを求められ、桜や菜の花に近いと思った単語を適当に指差したのを思い出した。
「あたしの名前は雪葉が決めてくれたから、雪葉の名前はあたしが決めてあげるね」
さあ聞け、と言わんばかりに桜菜が胸を張る。なんだ? 冬にでもするつもりか?
「雪葉の名前はね、シュネーブラットよ」
顔の高さに持ち上げられ、正面から見つめられる。
『シュネーブラット?』
「そう! シュネーとブラット! で、あだ名はシュシュ! あたしとそっくり!」
フィフィとシュシュ。確かに似ている。
「こっちの世界ではあたしの方が先輩だから、なんでも頼っていいからね。お姉さんにまっかせなさい!」
『キャラがブレブレ。先輩なのかお姉さんなのか統一してよ』
「うるさい!」
軽く怒られたタイミングで、板の下降がとまった。
「2人とも、こちらへどうぞ」
左側から声がかかり、そちらに向かう。光る苔玉により明るく照らされた地下室は多角形で、角こそ石柱が建っているものの、壁は石材ではなくガラスだった。
太陽が射さない地下室がなぜガラス貼りなのか。視界が効くようになって初めてわかった。
ガラスの壁の外を泳ぐ、魚の群れ。茶や灰など地味な色が多いが、地下室内にある苔や水流に揺れる光る水草に反射して金銀に煌めく鱗はまるで波打つ銀河のようで、ため息が出るほど美しい。
この地下室は、水の中に建てられていたのだ。
『光ってるのは何?』
床のレンガの隙間や石柱に貼りつき輝く苔と、水中の煌めく水草について聞いてみた。
「共明苔っていう、魔力を宿した魔性植物だよ。振動とか衝撃で光を放つ性質があるんだけど、同じ株から増えた苔同士なら1つが光れば周囲の苔も反応して光るの。だから地下室とか坑道とか、苔が育ちやすい場所では重宝されてるんだ。外の水草は鏡茅。ここでは共明苔の光を反射させて光ってるけど、使い方によっては魔法すら跳ね返す防具にもなるんだよ」
なるほど。太陽と月、ということか。
『へえ。説明が上手だね、お姉ちゃん』
素直に褒めて、ちょっと茶化せば、えへへぇっと桜菜が照れたように笑った。