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 トラックを車庫へ戻した俺は、十畳ほどの広さがあるプレハブ制の詰め所へ、自分の私物を引き取るために入った。詰め所の中では、四十歳代前半の北川さんがタバコを吸っていた。 

 俺は自分のロッカーの中に残されたライターや、漫画本、タオルを紙袋の中にしまい込みながら、北川さんに別れを告げた。

「北川さん、俺、今日で辞めることにしました。いろいろお世話になりました」

 俺の言葉を聞いた北川さんの口元で【わかば】が揺れた。もちろんタバコの銘柄のことである。

「なんだ、小僧。辞めてどうすんだ?」

「東京へ行きます。東京で何でもいいから一番になります」

「ははは、東京か。東京なんてそこの荒川を渡ればすぐだ。いつでも行けるぞ」

 北川さんは笑いながらタバコの煙を吐いた。俺は苦笑いを浮かべてロッカーの扉を閉めた。

「いや、東京に住んで、生活するんです。埼玉は飽きましたからね」

 俺の言葉に北川さんは視線を下へおとしてにやりと笑った。

「小僧おまえ、年はいくつだっけ?」

「二十歳です」

「若いな。それくらいの年齢なら東京も悪くはないな」

 北川さんは遠くを見つめながら、タバコの煙を遠くへ吹いた。

「小僧を見ていると、昔うちにいた渡嘉敷って奴を思い出すよ」

「渡嘉敷さんですか?」

「ああ、沖縄から出てきた奴でうちに一年くらい居たけれど、辞めて沖縄に帰っていった」

「へー、その人と俺が似ているんですか?」

「ああ、似ている」

 北川さんは昔を懐かしむような目で俺の顔を見ている。北川さんの唇が微かに開いた。上唇と下唇との間から微かに煙が漏れた。

「渡嘉敷が最後に言った言葉が」

 北川さんは目線を俺から外して、西側に取り付けられている窓の外を見た。

「東京なんかより、東京なんかより、沖縄のほうがいいや。だった」

 北川さんが笑った。俺も笑った。北川さんが笑った理由を俺は《ここは、東京ではなくて埼玉だ。渡嘉敷は沖縄出身だからわかってはいない》ということだと思った。

「小僧。元気でやれよ」

 北川さんがCR―Zに乗り込んだ俺に声を掛けてきた。

「ええ、皆さんによろしく」

 俺は小さく手を降って別れた。運送会社は荷物の積み込み以外は顔を会わせる機会は少ない。特にこの会社の平均年齢は四十歳。俺と価値観の合う人はほとんどいなかった。それでも、俺がこの会社でがんばったのはお金を貯めるためだった。工事現場へ便器や水洗タンクを運ぶ仕事に耐えられたのも、給料がよかったからだ。俺が勤める運送会社の給料システムは、若くても年齢を重ねても報酬に大差はなかった。

 それが、小さな運送会社のシステムだった。


 大宮の自宅へ戻った俺は、引っ越しのための荷造りを始めた。プリエールマンションというハイカラな名前のマンションの最上階である三階に俺は住んでいる。二十七㎡フローリング。ユニットバス。

荷物は少なかった。

 翌日の昼には全ての荷造りを終えた。

 その後は東京でのアパート探しと仕事探しにおわれた。

それまで、埼玉から見て東京のターミナル駅は上野だった。だが、これからは池袋、新宿になる。理由は来月に埼京線が開通して、乗り換えせずに大宮から新宿まで移動できるようになるからだ。俺は京浜東北線で赤羽まで出て、赤羽線で池袋へ移動した。

 東の空に六十階建てのビルが見える。サンシャイン六十だ。

「いつか、あそこに住んでみたいな」

俺は胸を張った。サンシャインに負けないように、真っ直ぐ池袋東口のアスファルトに仁王立ちした。

「そこの彼氏。かっこいいね、そのポーズ」

 小太りでスーツ姿の男が声をかけてきた。

「ナウいから映画とかよく見るでしょう?」

 男は口角を上げて、俺の肩を抱いた。この手の男はどんな男か知っている。

「仕事ちゅうなんで」

 俺は男の手をふりほどいた。

「おい、待てよ!おまえ。男だったら話しを最後まで聴けよ。大人なんだからそれぐらいわかんだろ!」

 男は俺の背中側から肩をつかんだ。男の力は強い。俺は肩を回転させるようにして、男の手をはらった。

「大人だから、仕事優先なんだよ!」

 俺はこんな奴に捕まりたくはないと、足の親指に力を入れて走り出した。

「こっちだって、仕事だ!まて、このヤロ―」

 男の怒鳴り声が遠くで聞こえる。ここで止まったら負けだ。俺は人混みをすり抜けて男を巻いた。このスリルが埼玉にはない。俺の心臓はドキドキしている。でも胸の内はワクワクしている。新たな生活に、激しくなった血流が雄叫びをあげている。

―池袋は俺にとって最初のリングになる―

 そんな予感が全身を駆け抜けた。

 予感は悪寒に変わった。

 家賃が予定通りではない。

「五万円くらいの家賃で探しているんですが」

「この辺で五万円だと、風呂無し共同トイレの四畳半ですよ」

 池袋の街はそんなパンチを俺に浴びせてきやがった。

 パンチは、一発ではなかった。何発も何発も同じパンチが俺のボディーに効いた。ノックアウトされそうになった俺はリングを移すことにした。次の戦場は新宿だ。俺は新宿へ向かった。

 新宿でも同じだった。俺は渋谷へ向かった。

 渋谷も同じだ。俺はKOされそうになったが、夕方五時というゴングに救われた。重たい足を引きずって、汗だくになった俺の体は山手線のシートへ沈んでいった。

 その日の夜。俺は、夢を見た。運送会社の人たちや友達が俺を(なじ)る夢だ。「それぐらいでびびってるのか」「ビッグになるんじゃなかったのか」「もう立ち上がれないのか?」そんな言葉が、俺の体にまとわりついてきた。


 翌日、俺は踏ん切りを付けるため、生まれ育ったこの地の思い出深い場所を巡ることにした。

 子供のころ、西武デパートの屋上でカブトムシの形をした乗り物に乗った。

 大宮公園では花見に出かけた。疲れた俺を親父はおんぶして駅までの道を歩いてくれた。

 体育の時間は大嫌いだったがソフトボールの授業は大好きだった小学校の校庭。

 カブトムシを捕りに早朝にそっと進入した片倉工業の敷地は、商業施設に姿を変えていた。

 野球部で必死に練習した中学校の校庭は、相変わらずピッチャーズマウンドがなかった。

 高校のころアルバイトをした中央デパートの本屋は相変わらず学生でにぎわっている。車の免許を取って、友達とナンパに出かけた大宮駅西口周辺は再開発が急ピッチで進んでいる。

 なごり惜しかったがどれもこれも退屈な風景だ。

「サンクス、サンクス、サンクス、サンクス、おおみや」

 俺は吉川晃司のマネをして小さくつぶやいた。入道雲が俺の選択を後押ししてくれているように感じながら、俺はタンクトップの裾をズボンの外へ出した。

「やってやる!」


 引っ越し先が決まったのは一週間後だった。渋谷の不動産屋で紹介されたアパートは京王井の頭線で渋谷から十個目の駅。徒歩十分の距離。四畳半一間で風呂なし。共同トイレ。家賃は三万円。

 ここが俺のスタート地点になった。


 スタートは順風満帆とはいかなかった。東京の空気は埼玉の空気よりも温度が高く、(にご)っていた。

 東京の色は一色ではなかった。様々な色が瞬間で入れ替わった。五分前に赤だった看板は五分後には黒に替わっていた。昨日まで営業していた薬局は、来月にはレンタルレコード屋に変わる。

 東京の空気に馴染むには少しだけ時間がかかった。

 それから、四年後。俺は家賃六万円のアパートに引っ越した。風呂トイレ付き十七㎡、駅から十二分。

 東京は思ったよりも、優しい奴だった。変化が早い分、執着する必要はなかった。「おまえは××だ」と、決めつけられても、翌日にはその固定観念を覆すことができる場所だった。1+1=2と答える必要はなかった。1+1=2.0と答えてもいいし、二分の四と答えてもいい、そんな奴だった。

 そしてさらにそれから四年後には家賃十万円のマンションに引っ越した。おしゃれな路線として知られた東横線の沿線で、代官山や恵比寿にも気軽に移動できる場所だ。

 この頃に、東京という集団を理解した。東京は日本中の一番と二番が(つど)って、競う場所。日本中の土地で、地元のルールと期待を背負った挑戦者が、栄光というシンボルを手にするために足を踏み入れてくる場所だ。

 その反面、この土地で生まれて育った人は、この土地を憩いの場と考えている。憩いの場に集う人は心穏やかな人たちだ。

 誰もが自分の生まれて育った土地は安らぎの地であってほしいと願う。それは、東京だけではなく、日本中のいや、世界中の誰もが持つ感情だろう。

 そして、それから四年後小さな会社を立ち上げた。バブル崩壊後の(くすぶ)りが、至る所に残されていたが、ITなる言葉が小さな産声を上げ出したころだった。日食中のゴールデンリングのような存在だった。

 どんな過去があろうと、終着点は何千通りもあると気づかさせてくれた。望んで、願って少しずつ努力を重ねていけば、大体(だいたい)の望みはかなうと教えてくれた。

 東京は共存ではなく、競争の街だと教えてくれた。立ち止まればおいていかれるが、後戻りして、忘れ物を取りに帰るくらいは許された。

 大成功とまでは言わないが、私は小さな成功程度を何度かおさめた。よきパートナーに巡り会え、四十歳を目前にして子供も設けることができた。



つづく

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