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 ― 一九八五年 ―

 出社は午前七時。正規の出社時間は午前八時半だったが、俺はいつもこの時間に車庫の鍵を開けた。南京錠でできた鍵は、三段に(つら)ねられた数字を決められた数列にあわせると、U字型の金属にしがみついた飯ごうの形をした本体が、重力に引かれて下へおろされる。 

 俺はU字型の(つる)を右手でつまんで、飯ごう型の本体を左へひねって、金網フェンスで仕切られた車庫の門をゆっくりと引いた。

 観音開きのフェンスを半分だけ開き、大型トラック一台分が通行することが可能な幅を確保した俺は、自分が車庫まで乗ってきたホンダCR―Zのドライバーズシートへ腰を沈めた。掛けっぱなしのエンジンとカーステレオが静かな朝の空気に溶けていく。

 俺はサイドブレーキをたおして、クラッチペダルを踏み込んだ。サイドブレーキをたおした左手は、シフトレバーへ移されて、楕円形にふくれた先端を斜め左前方へ押し込んだ。そして、クラッチペダルからゆっくりと左足を上げて、代わりに右足でアクセルペダルを踏み込んだ。

ジャリ、ジャリ、ジャリ

 タイヤが砂利をかき分けて、CR―Zは車庫の奥へ進んでいった。

 俺は、車庫に駐められている二トンショートトラックの運転席に乗り込んだ。サンバイザーの裏に挟み込まれたキーを右手で取り出して、ハンドルの下に空いた長細い穴に差し込んだ。そして、キーをゆっくりと時計回りに回した。カチッと音をたてた後に―ギュルルルル―とエンジンが鈍く短い音をたてた。

 キーを回す行為を二回ほど繰り返したが、エンジンは「ギュルルルル」と音をたてるだけで、規則的な回転音が続くことはなかった。俺は、左側のハンドル下に突起した五百円玉ほどの大きさのレバーを反時計回りに回して、三度(みたび)キーを時計回りにまわした。「ギュルルル、ブルン、ブルン、ブルルルルルル~ン」エンジンは俺が座った運転席を震わせながら、規則的な回転を続けた。

「夏なのに、チョークを引かないと、エンジンがかからない。一度、修理に出したほうがいいな」

 俺は助手席に置かれたバインダーに挟まれた伝票に目を通した。

「きょうの配達先は横浜の一軒家。それから代官山と恵比寿のマンションか。三時には戻れるな。まずは、横浜からだ」

 俺は、独り言を呟いて、ゆっくりと平ボディー、二トンショートトラックを車庫から移動させた。


 俺の運転するトラックは新大宮バイパスを東京方面へ向かうため、下笹目(しもささめ)の交差点を左折した。道路は空いている。片側三車線の新大宮バイパスを三分程走ると、荒川に掛かる笹目橋のたもとへ到着した。

 赤信号が灯る交差点の先頭で、俺が運転するトラックは停まった。フロントガラスの先には、ゆるい登り坂が見える。坂の先には荒川に掛かる、笹目橋が見える。長さ六百二十メートルの笹目橋を渡ると東京都板橋区へ入る。

 笹目橋は渋滞が始まる前で、快適に埼玉県から東京都へ移動することができた。俺は渋滞したこの橋と環状八号線を運転することが苦痛で、正規の出社時間より一時間半も早く車庫を出るようにしていたのだ。

「早起きは三文の徳っていうが、本当だね。時間が節約できる」

 俺は独り言をつぶやきながら、カーラジオのボタンを押した。AMラジオの周波数は文化放送に合わされている。理由はよく解らなかったが、埼玉県内ではなぜか文化放送は感度良好で聞きやすかった。

「おんぼろトラックめ、クーラーもFMラジオもついていねー。今度所長に文句を言ってやろう」

 カーラジオから流れる、おニャン子クラブのセーラー服を脱がさないでを俺は口ずさみながら愚痴った。午前七時とはいえ、八月一日。車外の気温は二十五℃は確実に超えている。車内の気温は三十二℃。

 助手席のサイドボードに貼り付けられた温度計が、水銀の赤い色をあとニセンチで頂上へ突き刺さる高さまで押し上げている。運転席の真下にエンジンがあるため、エンジンの熱が運転席へ入り込んでくる。そんなことから、外気に比べて運転席内の温度が異常に高くなることも理解ができる。

 暑さで、俺の怒りのバロメーターは小刻みに上昇していく。

 俺の怒りの限界は井荻の踏切で破裂した。

「チクショー!この踏切、いつになったら開くんだよ!」

 環状八号線………、いや、笹目通りには二つの踏切があり、この踏切が朝と夜はほとんど開かなくなる。

 埼玉方面から横浜方面へ移動するにはこの笹目通りから、環状八号線を抜けて、第三京浜で下っていく方法が一番便利である。高島平から首都高速道路にのって、用賀で降りるルートもあるが、首都高速道路は必ず渋滞する。通行料金も五百円がかかる事を考えると、笹目通りから環状八号線へ抜けるルートが正解である。

「この踏切さえなければ、いいのに」

 俺は、なかなか開かない踏切が開くことを待ちながら、地図を開いた。開かれた地図のページは、埼玉県南と東京西部が二万分の一のサイズに縮小されてえがかれている。

「早くこいつができないかな」

 俺の視線の先には未開通の外郭環状道路が記されている。着工予定の土地の上を道路の幅だけ点線で記されている。点線は荒川を超えて、川越街道で止まっている。

「こいつができれば、この笹目通りも空くのにな」

 俺は独り言をつぶやいた後に、伝票に書かれた配達先の住所を地図で確認した。横浜の一軒家が午前中の指定なのでここが一番最初だ。

「横浜市神奈川区三ッ沢~」

 俺は地図の上を右手の人差し指でなぞった。いま開いている地図では環状八号線を用賀までしか確認することができない。俺は地図帳の左下を見た。四角い小さな長方形の中に数字が記されている。

「この先は、二十四ページか」

 俺はページをめくって二十四ページへ進んだ。二十四ページには用賀から先、第三京浜入口から横浜市神奈川区の目的地三ツ沢周辺までが描かれていた。俺は、井荻の踏切から三ツ沢までのルートを確認した。蒸し暑い空気と甲高い踏切の音を聞きながら。



つづく

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