月夜・四
「今回の任務はね、そもそも退治対象と長で大方の話がついているんだ。もちろん、あやかし側にそれなりの利点があるように」
「……やはり」
「とは言っても、あくまでも美味い餌をくれてやるから大人しくしてくれ、っていう話だからね。その餌さえ差し出せれば他の者まで危険な目に遭う必要ないと思うんだ。だから、逃げてもらって全然構わないよ」
「では、その餌というのはどうなるんですか?」
「まあ、私はそれなりに色々と大変な目に遭うんだけど、幸いにもむこうは気に入った餌をずっと側に置いておくたちだから……、死ぬことはないんだ。うん、本当に、ビックリするくらい何があっても死ねない」
「だからと言って」
「それでもそれなりに大事な奴らや……、愛しい妻が生きているなら。今の私はそれで充分だから」
「……」
「もしも君が無事に逃げ延びられて、なんかの縁で第七支部と行動をともにすることがあるなら、力を貸してあげてほしいんだ。私の大事な人たちは全員そこにいるはずだから」
「なら、なんで」
「ああ、でも、いま言ったことは彼女たちには秘密ね。とりあえず巻き込まれないように徹底的に縁を切ってきたから、もしもバレたらみんな無茶して救出に……いや、違うか。多分みんなで私を袋叩きにしに押しかけてきちゃうから」
「……あはは。分かっていらっしゃいますね」
「ま、彼女たちに袋叩きにされるのは構わないんだけどね。でも、今回の相手はどうあがいても、彼女たちには倒せないから」
「それほどまでに絶望的なのですね」
「だから、何があってもアイツに近づかせるわけにはいかないんだ」
「……そう、なのだとしても」
「さてさて、足止めしちゃって悪かったね。多分そのあたりからなら私の香りも微かに届くだろう。変に刺激しなければアイツも美味い餌を優先して、君は見逃してくれると思うよ。ああ、もういないかもしれないけど」
「お心遣い痛み入ります」
「……さて、さすがにもう逃げたかな。ふふ。せめて、しらべに真名で呼ばれてから──」
頭に響く独り言を掻き消すように、強い風が木々の枝を揺らしながら吹き荒んだ。
強烈な血の匂いをともないながら。
「……よう、ハンチョー」
いつのまにかリツの足元には、赤黒い水溜りができていた。
「ベトベトサンですか」
「ひひっ、その通りだぜ。ま、俺が一人で来たってことは状況は分かるよな?」
「……ええ」
分かりたくもない光景がありありと目に浮かぶ。
「なら、話ははえー。一応足止めはしてあるけどよ、ハンチョーを連れて転移術が使える状態じゃねえ。だから、さっさと逃げろ」
「……私に勝算はないと?」
「ま、ムリだろうな。単純な戦闘の巧さならハンチョーに分があるかもしれねーが、アイツの厄介なところはそこじゃない」
「なら、何が問題なのですか?」
「殺せないんだよ、特定の条件を満たさないとな。西の方の人間を食うあやかしにときどきいる類のやつだ」
「そうですか」
「おっと、悪いが俺にもその条件は分からないぜ。だいたい、分かってりゃ」
「……ええ、それは構いません。不甲斐ない上司で申しわけありませんでした」
「……別に、そこまで気にしてねーけどよ。落ち着いたら弔いくらいはしてやってくれ」
「……善処はします」
「……ひひっ! 全力で頼むぜ! じゃ、俺はそろそろこっちにいるのもつらくなってきたから、本拠地に戻るわ」
「ええ。有益な情報ありがとうございました」
「おう! じゃ、またな!!」
わざとらしいほどに陽気な声を残してベトベトサンは闇に消えていった。
「またな、ですか」
繰り返す言葉が葉擦れの音に混じり虚しく響く。
「あー、アイツまた逃げた!! 今度こそ完全に潰してやるつもりだったのに!! まあ、でもいいか」
それを嘲笑うかのように幼い声が静寂を破った。
現れたのは見慣れぬ衣を着た少年。
赤銅色の髪に濁った金色の瞳、口元をはじめ至る所を紅く汚し、なぜか右足だけ履物がない。
「こんばんは。お姉さん、今日はいい夜だね」
「……ええ。本当に」
履物はベトベトさんの言っていた足止めの結果だろう。
なら、紅い汚れは。
「こんな夜は最期にはちょうどいいと、詠まれてもいますからね」
「……へえ。そうなんだ」
刀を構える手は不思議と少しも震えなかった。
「なんか美味しそうな匂いもしてきたし、お姉さんのことは放っておいてあげてもよかったんだけどね。あのお爺さんからは、食事の邪魔になるだろうから始末して構わないって言われてたけど」
「それはどうも」
きっと長は、自分たちが救出に向かい気分を損ねたあやかしが約束を反故にする、という事態を恐れたのだろう。
斃しかたの分からないあやかしから多くの人々を守るためには妥当な判断と理解はできる。それに退治人になった以上、そんな最期も覚悟はしていた。
ただし、愛しい者に同じ覚悟を強要するつもりはない。
「ま、退かないならそれでもいいよ。ちょっと余計なものも食べちゃったし、少し遊んでから──」
「……」
「──わっ!?」
一足飛びに距離を詰め首を撥ね飛ばすと、幼い顔に慌てた表情が浮かんだ。すかさず残された身体から距離を取り息を吸い込む。そして。
「雪也さま! お逃げください!!」
リツは声の限りに叫んだ。
「痛た……、まったく、一晩のうちに二回も頭を飛ばされるなんて。せっかく子供の姿になってるんだから、みんなもう少し手加減してくれてもいいのに」
残響のなか不貞腐れた声が耳に届く。
「大勢の被害者を出しておいて、手加減もなにもないでしょう」
「そうかもしれないけどさ、さすがにちょっとひどくない?」
「御託はいいので、はやく頭を拾い上げたらどうですか? それとも、その状態で私とまともに遊べるとでも?」
「あはは! たしかに、お姉さんが相手だとこのままじゃちょっと大変かも!!」
地面に転がる顔が月明かりに照らされながら目を見開いて笑った。
「じゃ、ちょっと待っててよ。首をくっつけるくらいなら、ご飯を食べなくてもすぐにできるからさ」
きっと今下手に攻撃しても気分を損ねられ状況が不利になるだけだろう。なら、少しでも時間を稼いだほうが得策だ。
「ええ、どうぞ」
「ふふふ。お姉さんはいい子なんだね」
リツは刀を声が届いたことだけを祈りながら、刀を構えなおした。




