月夜・二
「はぁ……」
高木の枝に腰かけながらメイは深いため息を吐いた。長から言いつけられたあやかしの嗅覚に対処するための薬は欠かさずに飲んだ。それに今も月明かりを遮る暗緑色の葉に身を隠してはいる。しかしどこか落ち着かない。
「ひひっ! ずいぶんと辛気臭い顔してんな、坊ちゃん!」
不意に手のひらに乗せた赤黒い粘液が震えた。
「えと、はい。やっぱり、今回の任務は異常な気が、しますから」
「ま、そうだよな。あの偉そうなオッサンやら薄気味悪いお面の連中やらの目を盗んでオレを呼んどいて正解だったと思うぜ。たとえ、ちょっとだけでも」
「その、ごめんなさい、ベトベトさん。負担がかかったり、とかは、ない、ですか?」
「へーき、へーき!! 核はちゃんと本拠地のほうに待機させてあるから!!」
「そう、ですか。なら良かった、です」
「おう!! それに普段坊ちゃんに呼ばれてるときだって、身体全部で出てきてるわけじゃねーしな!」
「えぇ!? そうだったんですか!?」
「そうそう! だからあんまり気にすんなよ! ただ……」
楽しげに波立っていたベトベトサンの表面が俄かに静まる。
「坊ちゃんを連れて逃げられるほどの転移術は使えねーから、どうしたもんかな」
「……あはは」
いつになく真剣な声に思わずこわばっていた顔が綻んだ。姿形は異なるが目の前の者は自分の身を案じてくれている。
同じ人間というだけのものたちよりもずっと。
「えっと、御栄転、おめでとう、ございます」
「うん、ありがとう。いやぁ、本当にいい機会に恵まれて助かったよ。これで穢らわしいあやかし使いなんかの面倒をみなくて済むんだから」
「……え?」
「あれ? 誰のことを言ってるか分からない? 愚図だとは思ってたけどそこまでだったとはね」
「あ、あの、セツ班ちょ……」
「気安く声をかけないでもらえるかな。まあ、私に取り入っておきたい気持ちはわかるけれど、あいにく本部にあやかし使いなんかの席はないから」
「……」
一月と少し前にぶつけられた言葉が胸を締めつけた。
もちろん、実の兄やハクやリツのように信頼にたる者だっていることは分かっている。
ただ、そんな者達を危険に晒してまで守る価値が、よく知りもしない有象無象の人たちにあるのだろうか。
「坊ちゃん、本当に大丈夫か?」
不安げな声が浮かんでしまった疑問をかき消した。これ以上、大切な仲間に心配をかけるわけにもいかない。
「あ、えと、平気ですよ。ただ、ちょっと、考え事をしてて」
「考え事ぉ?」
「は、い。今回の退治対象の、方、とも。少し、お話が、できないかな、と」
「話ねぇ……ま、人を食うやつらも人を食わなきゃ生きていけねーわけじゃねーけどな」
「です、よね」
たしか国司たちのところで起きた騒動のときに知り合ったユウマも、同じことを言っていたはずだ。
「でもよー、人んちの生垣に食い残しをわざわざ引っ掛けていくような奴に、話が通じると思うか? あやかしだとか人だとか関係なくよ」
「う、えっと、それは、たしかに。でも」
蛮行を見逃す代わりに、仲間や自分とことを構えるのをやめられないか。そんな交渉ならできるのではないか。
「……坊ちゃん、話はここまでだ。はやく逃げろ」
「……え?」
「いいから……ぐっ!?」
「うわっ!?」
後ろ暗い考えは目の前のベトベトサンと同時に弾け飛んだ。
「え、と? ベトベト、サン?」
手のひらには赤黒い粘液の代わりに、砕けた小枝が乗っている。
訳のわからない状況のなか、下方からかさかさとした物音が聞こえてきた。
「あれー? おっかしいなー? ちゃんと的を狙って投げたのに」
続いて幼い声も聞こえてくる。目を凝らすと見慣れない衣を着た少年が鋭い小枝を手に、少し離れた場所からこちらを見上げていた。自分よりも幼く見えるその姿が今回の退治対象であることはすぐに分かった。
月明かりに輝く金泥色の瞳、それに。
「さっきの的はもう壊しちゃったから、新しいので遊ぼうと思ったのになー。どうせ、また美味しくないんだろうし」
口元、手足、そのほかの様々な場所が紅く汚れている。
深手を負っているようには見えない。
それなら、その汚れは。
「あーあ。探すのも面倒だし、ひとまず先に行って……っう!?」
至極冷静に投げつけた飛び道具が独り言を発する口を貫いた。
「かはっ……。痛いなあ……、もう」
飛び道具を引き抜きながら、濁った金色の目がこちらを睨みつける。それに怯むことなく、メイは枝を降り小刀を構えてあやかしに向かっていった。
「せっかく後回しにしてあげようと思ったのに! 怒ったからね!」
怒りに任せて鋭い小枝が何本も投げつけられる。狙いは正確ではあった。しかし、幼い頃から気を抜けば命を狙う物が飛んでくる暮らしをしてきた者が恐れをなすほどのものではない。
「えー、それを避けるのはズルくな……」
「……黙れ」
「!?」
一気に距離を詰めると濁った金色の目は大きく見開いた。
「わっ、ちょっと待っ」
「塵に帰れ。このバケモノめ」
「……へぇ?」
小刀を薙ぎ払うと同時に、月光のなかを幼い頭が舞う。
「……ハクさん。今、そちらに向かいますから」
刃を納め残された足跡を辿ろうとした、まさにそのとき。
「……」
「わっ!?」
立ち尽くした身体に肩を強く掴まれた。
「え、なん、で?」
予想外の事態に言いようのない怖気が全身を駆けめぐる。目の前の身体にはたしかに首から上がないはず。
「君もそんな酷いこと言う悪い子なんだね」
混乱するメイの遥か後方では、月明かりに照らされた幼い顔が楽しげに笑んでいた。




