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短編集

最後の一滴

作者: セクト

1. 今日の一篇


「……『It will fall today, and I shall die at the same time.』」

田中の綺麗な音読を聞きながら、ぼんやりと考え事をしていた。

あの人は今どうしてるだろうか。


「せんせー? 読み終わりましたよ?」

「……え、ああ、すまない。 考え事をしてた」

いけない、先生ともあろうものが授業中にぼーっとしてしまうなんて。

「最近そればかりじゃないですか。しっかりしてくださいよーせんせー」

「やっぱさー、彼女と別れたこと気にしてるんだよ」

噂好きの前橋がやじを飛ばしてきた。

一体どこからそんな情報を仕入れてくるのか……

そんな前橋のことをあしらいながら、続きの文章の音読を促した。

今は授業中だ。

「ほら、次は前橋だ。 次の文から読んでくれ。」

「はーい。今度聞かせてねー」



2. 最後の一席


前橋の言う通り、俺には彼女がいた。


彼女と出会ったのはとある休日。

たまにはお洒落なカフェで、持ち帰ってきた仕事でもしようかなと思ったが、めちゃくちゃ混んでいる。

手元のトレイから香るコーヒーの香りを感じながら、買う前に席を確保するべきだなと後悔した。

店舗内をぐるぐる回りながら、空いている席を探す。

そのとき、カフェで感じるような香りとはまた違った、甘い香りが俺を誘惑した。

振り向くと、そこには店舗内で唯一残っていた壁際の一人用席と、その隣に座っている香りの発生源があった。

その彼女は、いわゆる綺麗系の見た目で、クールで落ち着いている女性だった。

「ここ、いいですか」

形式的な許可を取りながら隣に座る。

「うん、いいよ」

初対面の人にタメ口か、と思いながら隣に座る。

まあ、仕事ができるならなんでもいい。


……と思っていたのだが、集中できない。

隣の彼女がじっと俺を見ているからだ。

何か気になることがあるのか聞こうと思い、視線の源へ声をかけようと思ったが、先に発言されてしまった。

「ねぇ、あなたはよくここに来るの?」

「……えっ、いや、今日が初めてだけど」

年下に見えるのもあってか、釣られてタメ口になってしまった。

「そうなんだ。 私は毎週ここにいるよ」

何を思ってそんな発言をしたのかは定かではないが、その内容は程なく証明された。

お互いのことについて毎週話すたびに――例えば趣味とか仕事とか――、俺たちは睦言を交わす関係になっていた。



3. 香りの一振り


「そういえば、最初に会った頃から思っていたけど、いい香りするよな」

「そう?」

今さら、最初に感じていた香りの正体が気になった。

香水でも付けているのかと思った。

だが、どうやら違うらしい。

ちょっと興味があるように聞くと、ドラッグストアへ連れていかれた。


シャンプー売り場の近くへやってきた。

市販の安いシャンプーを買いに来るだけのコーナー。

彼女に連れられて、普段なら見向きもしない、凝った形をした容器が並ぶ棚へまっすぐ向かった。

彼女が手に取ったのは、手のひらサイズの小瓶の容器。

そこに書かれている商品名は、ものすごく達筆な筆記体で書かれていて読み取れなかった。

「これ」

そう言って、その瓶を押し付けてきた。

「私の香り、ラズベリーの香り」


その日は彼女が俺の家に泊まることになった。

シャワーを上がった後に、使ったこともないヘアオイルの使い方をレクチャーしてもらいながら、その香りを堪能した。

「これが君の香り……」

「ふふ、いいでしょ、私の香り」

そう彼女は微笑んだ。

その笑顔とその香りに、更に惹かれた。


その日から、風呂上がりに彼女の香りがするヘアオイルをつけることになった。

プラスチックでできた容器のポンプを押すと、ノズルから適量が出る。

手のひらに乗ったその液体を髪に付ける前に、彼女の香りを嗅ぐ。

そうして毎日使っているうちに、容器の中の液体は半分より少なくなっていた。



4. 最後の一夜


二人の仲を崩したのはどうでもいいことだった。

「なあ、ここにあったもの、勝手に動かすなって言っただろ」

彼女が俺の部屋のものを勝手に片付けるのだ。

確かに部屋は散らかっているかもしれないが、ここがベストポジションなのに。

最初のうちは小言を言うだけだった。

だけど、いつまでも俺の部屋で勝手なことを繰り返す彼女に嫌気が差してきた。

自称温厚の俺でさえ、彼女へ苛立ちを繰り返すようになった。


シャワーの後に付けるヘアオイルは習慣になっていたが、いつの間にか嫌になってきた。

日に日に少なくなっていく液体の残量が、俺達の仲を表しているようにも感じた。

油性ペンで水面を書き足してやろうと思ったが、意味がないことに気づく。

……馬鹿らしい。

肺炎で亡くなったおじいさんになった気持ちで、そんな考えを否定する。


最後の一滴を使い終わって、ヘアオイルの容器を捨ててしまった翌日。

ポストには置き手紙が入っていた。

――さよなら。

その一言だけが、彼女の字で書かれていた。

彼女の勝手な行動に我慢できなかった昨晩、今まで溜めてきた文句をぶつけた。

それを聞いた彼女はムッとして、代わりに合鍵をぶつけられてどこかへ行ってしまった。

少し強く言い過ぎたのかもしれない。

そう思って交換した連絡先へメッセージを送るも、電話を掛けるも、彼女からのリアクションはなかった。

俺たちは別れたのだと、気づいた。



5. 補習の一時間


それからというもの、彼女とは一切連絡を取っていない。

取れていない、という方が正しいか。

どうしてそんな情報を手に入れているのか、目の前で補習を受けている前橋を中心として、俺の恋仲の噂はクラスの中で話題になっている。

小テストの再試験を終えた前橋が、雑談を持ちかけてきた。

「あのさセンセー、補習終わったご褒美に元カノの話を聞かせてよ」

いつもどうやって情報を仕入れているのか分からないが、それだけでは足りないらしい。

「今さら何を聞くことがあるんだ」

「実は馴れ初めとか知らないんだよねー」

そりゃそうだ。

そんなことさえ知られていたら怖い。

前橋はその話を補習のご褒美に聞きたいらしい。

補習をなんだと思っている。

だが、離してくれそうにないので、しょうがなく話題提供に協力することになった。

「せっかくだからさ、思い出の香りをもう一度買ってみたら?」

前橋の最後の一言が余計だった。



6. 最後の一瓶


前橋との雑談を切り上げると、さっさと帰らせて職員室での仕事を進める。

次の定期テストの中身を考えなくちゃならない。

だが、どうしても集中できない。

忘れたと思っていたのに、前橋に話したことを今更思い出して、仕事の邪魔をする。

残業するのはやめて、今日は帰ることにした。

今日は他にも行きたいところがある。


今日はドラッグストアのポイントの3倍の日。

足りなくなっていたティッシュペーパーを買いに行く。


ティッシュペーパーのコーナーへ向かっているときに、シャンプーコーナーを横切る。

彼女の香りのヘアオイル。

それが1個だけ残っているのを横目で見ながら、通り過ぎる。

別に買う必要なんかないだろ。


目的の物を見つけ、一番安いティッシュペーパーを選ぶ。

他に買うものは何かなかったかなと思い出そうとするけど、あの香り以外思い浮かばない。

気になって、最後の一瓶だけ残っているラズベリーの香りが詰め込まれた容器を手に取ろうとする。

同じ瓶を手に取ろうとする手に触れる。

びっくりして手を引っ込め、その手の持ち主を見る。

そこには彼女がいた。

「あなた……」

気まずい。

買いに戻らなければよかった。

「ふぅん、これを買いに来たんだ」

久しぶりに見た彼女の顔は、驚いた顔から微笑みへと変化していた。

「私のことが忘れられなかったんだ」

「見るくらい、別にいいだろう。 一つしかないなら、俺はいらない」

そう言い返すと、彼女は微笑みながら棚を見渡した。

「あなたにはこれは似合わないよ。 別のを見繕ってあげる」

唖然として何も言えなかった。

思えば彼女は最初から不思議な子だった。

何を考えているのか読めない。

それから、彼女は俺に手を差し出してきた。

「この手はなんだ?」

「あなたの部屋に置いてきた合鍵」

「……俺に似合う香りを見繕ってからにしてくれ」


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