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興志塾

 高場乱(たかばおさむ)が郊外の住吉村に居を移したのは明治四年九月でした。今日ではすっかり都市化しているこの地域も、その当時は一面の人参畑でした。人参といっても朝鮮人参です。

 日本で朝鮮人参の栽培が試みられたのは、八代将軍吉宗の時代です。天領日光で試験栽培したところ良好な結果が得られました。吉宗はその栽培方法のいっさいを公開し、各藩に栽培を勧めました。会津藩や松江藩をはじめとする複数の諸藩が産業振興のため人参栽培にのりだしました。福岡藩もそのひとつです。人参栽培は幕末まで続き、維新後は福岡県の管理下に置かれました。

 その人参畑に隣接する一画に高場乱の医院と興志塾が移転しました。生け垣に囲まれた敷地には木造平屋の家屋二棟があります。一棟は医院兼住居、ほかの一棟は塾生らの寄宿舎で馬小屋を兼ねています。敷地内には広い庭と畑があり、塾生は剣道や相撲、農作業に汗を流すことができました。便所、祠のほか、桐、柿、松、杉の立木があります。玄関口の門柱には「めいしゃ」、「めぐすり五黄湯」の看板が掛けられており、ここが眼科医院であることがわかります。

 福岡城下の人々は、乱のことを「人参畑の先生」あるいは「人参畑の婆さん」と呼ぶようになっていました。乱はこれが気に入りません。

「婆さんじゃなか、爺さんたい」

 相変わらず女に見られることを嫌います。乱は四十才になっていました。この間、日本の歴史は幕末維新の混乱期でした。福岡藩政も佐幕と勤王の狭間で大揺れに揺れ、混乱し、多くの血が流れました。しかし、町医の乱に直接の関係はなく、乱の日常は医業と塾経営とに忙殺されていました。

 乱は勤王思想の持ち主でしたが、志士活動に身を投じることはありませんでした。幕末の混乱期とはいえ、大部分の日本人は日々の生活を守り続けていたのです。乱もそんなひとりであり、政治にさほどの関心を持ちませんでした。

「国会、国会、何こくかい」

 全国的に自由民権運動が盛んになり、国会開設の請願運動が福岡でも盛り上がっていた明治十二年頃に乱が放った言葉です。おのれの内面にある身体と精神の矛盾は、乱が志士活動へと飛躍するにはあまりにも重すぎました。また、苦労して身につけた医業と塾を捨てる気にはなりませんでした。

 高場乱の興志塾は、人参畑に移る前も後も、不羈独立、縄墨逸脱を塾風としています。

「あれは人参畑だ」

 福岡城下の人々は興志塾の塾生を見ると、袖を引き合い、道を空け、関わり合いにならぬように気をつけました。それをいいことに塾生達は、当たるべからざる風で城下をのし歩きます。塾には城下の暴れ者や鼻つまみ者が集まっていたので、梁山泊、豪傑塾、腕白塾などの異名もありました。

 おのれの情熱を燃焼し尽くしたい乱にとって、おとなしい優等生は必要ありません。むしろ手のかかる腕白小僧こそ好ましい存在でした。そのため乱は、おとなしそうな若者や、歴とした藩士の子弟は入門を断り、彼らにふさわしい塾を紹介してやりました。

 寄宿生達は当番制で様々な雑用をせねばなりません。炊事、洗濯、掃除、買い物、風呂焚き、乱の往診のお供など様々です。

 塾生のなかに松浦愚という男がいました。愚とはひどい名ですが、本人は至ってこの名を好んでいます。その松浦愚は奈良原到という塾生と仲よしでした。ある日、このふたりが醤油の買い出しに行くことになりました。醤油樽には荒縄が巻きつけられ、樽の両側に把手が長々と伸びています。その片方をそれぞれが持ち、樽を真ん中にして道幅いっぱいに広がって歩きました。ときどきブラブラと醤油樽を揺らしながら歩きます。通りかかった人々にとっては迷惑このうえないのですが、このふたりは人参畑の塾生なので、誰もが道をゆずりました。悪童達は愉快このうえなく、天馬空をゆくが如き心境です。帰り道、ふたりが櫛田神社の前に通りかかると、長い顎髭の宮司が拝殿上で説教をしていました。ふたりは好奇心のままに近づきました。ずうずうしくも一番前にズカズカとわりこみ、宮司の演説を聞きました。宮司は九州の武将菊池武時の故事を物語っていました。

「九州随一の勤王家菊池武時は、逆臣北条探題の兵三千を蹴散らさんものと、手勢百五十を引き連れてこの櫛田神社前を横切った。すると豈にはからんや、鳥居の前で武時の乗馬が四肢をツッパリ後退りをする。これぞまさに武時に不利を知らせ給うありがたい御神慮であった。にもかかわらず、武時、憤然として矢をつがえ、この神は牛か馬か、と叫んで神殿めがけて射放った。二本まで矢を射ると馬は途端に駆け出したので、武時は戦場におもむいて奮戦した。しかし衆寡敵せず命を落とした。武時があのような無礼をはたらかず、馬を下りて神妙に神前に祈ったならば、あたら好漢命を落とすこともなかりしに、無礼をはたらき神慮を無視したがために、勤王の義臣といえども落命の憂き目にあったのである」

 要するに神社の霊験を宣伝していたのです。すると突然、松浦愚と奈良原到のふたりは拝殿に躍り上がり、宮司を殴り倒し、蹴りつけ、ついには醤油の樽を頭上に見舞いました。宮司はぐったり伸びてしまい、神聖たるべき拝殿は醤油びたしになりました。ふたりは意気揚々と去っていきます。

 ふたりが宮司に殴りかかったのは、いつも乱から教えられている勤王論に照らして、宮司の説教は神と皇室の位置関係が逆転していると悟ったからです。そう思えばとっさの行動に打って出るというのが乱の教育方針です。行動が伴わねば教育の意味はないというのです。

(皇室あっての神ではないか、あのエセ宮司め)

 いわゆる尊皇論というものでした。ふたりは手ぶらで帰ってくると、乱に事の次第を説明しました。

「ようしなさった。感心々々」

 驚くべきことに、乱は涙を流さんばかりにふたりの手を押し頂いて褒めました。乱の教育とはそのようなものでした。大袈裟に言えば、乱は英雄を養成しようとしていました。興志塾に限らず、幕末維新の子弟教育は、士大夫を養成し、一朝有事の際に英雄的事業を為し遂げる者を育てようとしていました。もちろん英雄豪傑がそうざらに居るはずはないのですが、少なくとも英雄の資質を持った者を待望する気分を教える側が濃厚に持っていました。月給取りの養成機関のような今日の学校教育とはずいぶん違っていたのです。

 奈良原到という少年は特に矯激な性格で、黒旋風という仇名をつけられて塾生からさえ恐れられていました。

 たとえば、興志塾では朝の飯炊き当番が起床番を兼ねています。まともに声をかけても誰も起きないので、鍋をすりこぎでガンガン叩いたり、ふとんをはいだり、蹴飛ばしたりするのが常です。この程度のことは誰でもします。ただ、奈良原が飯炊き当番の朝には、塾生の誰もが自然に早起きしました。というのも奈良原の起こし方が滅法手荒いからです。声をかけても起きない奴には、竃から火のついた薪を持ってきて、懐中に放りこむのです。火傷をした塾生は一人や二人ではありません。

 塾の課業は朝飯前の素読から始まります。素読は個別指導です。乱は心張り棒で一字一字を指し示しながら、読みを教えます。弟子はその読み方をそのまま暗誦します。何度か復唱させて記憶が定まれば、あとは自習となります。弟子は昨日までの分とあわせて素読を繰り返し暗誦します。一日に一行ないし二行ほど進みます。覚えの悪い者や、集中に欠ける者には乱がポカリとやります。

 松浦愚は覚えが悪く、乱は毎度のように手を焼きますが、それこそ乱が望むところの塾生です。乱は根気よく教えます。

 朝食後は手習い、写本などを塾生が自習します。質問のある者は先生の居室まで行って質問します。

 乱は、医業に差し支えない限り時間をつくり、塾生たちに訓詁、考証、回読、講義をします。訓詁とは語の意味を研究すること、考証とは根拠を明示して考証することです。乱の教える訓詁や考証はきわめて精妙で細かいところまでゆるがせにしないものでした。回読とは文字どおり何人かで書物を順繰りにまわして読むことです。松浦愚などは読み方の分からないところに来ると詰まってしまいます。顔を赤くして狼狽していると、乱が叱り飛ばします。

「男子たる者、立て板に水を流すがごとくにスラスラと話せずしてどうするか。わからぬ所は飛ばせ。回読ごときにオロオロするな。恥を知れ、そんなことで大事が成るか」

 訓詁や考証において緻密な乱は、一転、回読では細部にこだわりません。わからない場合は読み飛ばすのもよし、口を濁して誤魔化すのもよし、として大目に見ました。わからないからといって動揺したり、狼狽したりすることを特に厳しく叱りました。矛盾するようですが、細心と大胆とを教えているつもりです。

「準備は細心にせよ、だが、いったん行なえば断の一字あるのみ」

 講義では三国志や水滸伝や日本外史などを講じました。乱が古今の英雄を講じはじめると、室内に乱の豪気が満ち、塾生の誰もが感応して、子弟の一体感が生まれました。塾生の脳裏には英雄豪傑が疾風怒濤のごとく駆け回る映像があざやかに浮かび上がります。塾生たちはこうして浩然の気を養いました。

 夕食の前には、庭で塾生に相撲を取らせます。乱も行司役をかってでて、励まし、褒め、叱咤し、塾生と一緒にはしゃぎました。

 胆識という言葉があります。実行力という意味です。高場乱の教育は最終的にこの胆識の涵養にあったようです。

 興志塾には塾則がありました。


一、例外の外、夜間の外出を禁ず

一、出入りの声掛け

一、寝て本を読むな

一、遊びは庭でせよ

一、衆道禁止

一、酒は飲んでも飲まれるな

一、懷手、頬杖をやめろ

一、口喧嘩するな

一、田畑を荒らすな

一、束脩謝儀は定額なし

一、休日、日曜祭日

一、右之条を守ラザル人、来るを禁ず


 塾則の反対が実態だったとすれば、塾生達の行儀の悪さが目に浮かぶようです。束脩謝儀とは入学金と授業料のことですが、決まった額はなく、塾生達の実家の経済状況に応じた額が支払われていたようです。ちなみに、この時代、医療行為に対する診察料や薬料にも定額はなく、患者が経済状況に応じた謝礼を支払うことになっていました。

 よほど高名な塾は別として、この時代の教育費は全般的に安いものでした。その安さが日本人の教育水準を上げていたと考えられなくもありません。家が貧しければ無料でよかったのです。あるいは野菜などの物納でもよかったし、大掃除の手伝いなど労役でもよかったのです。塾経営はもうかる商売ではありません。乱は眼科医としての収入を惜しげもなく塾経営に充当しました。志というものです。生計を立てることが志ではありません、生計で得た収入を投げ打ってでも為すべきこと、為したいことが志です。戦後の日本人がとらわれ続けている立身論、つまり勉強して、良い学校に入って、役人になるか大会社に入って、多額の退職金をもらって、という類の思惑は志ではないようです。


 高場乱が人参畑に移って三年目のある日、一人の闖入者が現れました。夕食後、乱が講義をしていると、庭先に汚い風体の若者がヌーッと現れたのです。着物は破れ、草履も履き古しており、ボロボロの手拭いで頭から頬かぶりしています。その男は何も言わずに突っ立って見ています。乱も塾生も、この奇妙な侵入者に気づきましたが、講義の真っ最中でもあり、放っておきました。ボロボロの風体の男は乱の講義に聴き入っているようでした。やがて講義が終わると、男はスッといなくなりました。塾生達は当然ながら不信に思います。

「何だい、あの野郎」

「先生の講義を盗み聞きしやがる」

「今度来やがったら、血祭りにしてやる」

 翌日、その汚い若者が再び講義中にヌーッと現れました。乱はすかさず声をかけました。

「なにか用か。とにかく入りなさい」

「目を診てください」

 男はやっと要件を言いました。

(よほど愚鈍なタチなのだろう)

 哀れを感じた乱は講義を中止し、診察してやることにしました。診察室に灯りを入れ、診察するために若者の顔を間近に見ました。垢だらけの顔面の中に意外にも聡明そうな眼と、意志の強そうな口元がありました。

(意外だな。この男)

 診察すると、右眼が結膜炎に罹っていました。乱はテキパキと処置をして、二言三言の注意事項を述べ、軟膏を与えてやりました。若者は無口な性格らしく、「ハイ」とも言わず、黙ってうなずくだけでした。

 翌日、その若者は再び診療を受けるためにやってきました。ちょうど夕食前で、塾生達が庭で相撲を取っている時です。乱は、たまたま診療室からその様子を見ていました。塾生らの相撲は実に荒っぽく、容赦のない張り手の応酬をします。結果、鼻血と唾が飛び交います。張り手といいながら拳骨を握っているのです。立会いの蹴手繰りが決まると、相手はぶっ倒れます。倒された塾生は足を抱えて悲鳴をあげます。行司役は助けるどころか、この塾生を蹴り上げます。

「土俵は寝る所じゃなかたい」

 言葉も技も実に荒っぽい。しかし、みな真剣です。己の限界に挑戦するかのようであり、一朝有事の際に役立つ自分を練り上げているようでもあります。もちろん、それが乱の教育方針です。若い塾生たちは有り余ったエネルギーを惜しげもなく費消しています。

 乱が、ダンマリの若者の右眼を診ると、昨日の治療が効いたらしく症状は緩解しています。男は、乱の治療を受けつつ、庭の相撲を興味深げに見ていました。診療が終わると、若者がついに口を開きました。

「先生、私を先生の塾に入れてください」

「いや、ここはあのとおりの暴れ者の集まりです。おやめなさい」

 若者はさらに頼みました。若者の目に強い意志を感じはしましたが、乱は断りました。

「あなたのように温和しい人はこの塾には向きません。もっとよい塾を紹介してあげましょう」

「ぜひ、ここに入れてください」

「あなたのように温和しくて行儀のよい人は、あの者達にいじめ抜かれて追い出されるだけです。おやめなさい」

「そこを曲げて、お願いします」

 若者は頑固でした。乱はついに許しました。

 興志塾が始まって以来、行儀がよくて温和しい若者が長続きしたことがありません。新入りには試練が待ち構えています。様々な言いがかりをつけられては先輩達に殴られ、布団蒸しにされて半死半生となり、男色の餌食にされ、食事を奪われて食わせてもらえず、夜はふとんを剥ぎ取られて眠れません。誰もがいじめ抜かれて、泣いて出ていきました。この塾では、先輩達のいじめを跳ね返す剛胆さがなければやっていけないのです。乱にはそれが目に見えるようで、気の毒に思いました。しかし、本人が「どうしても」と言うので許しました。あとは本人次第です。

 新入りの若者は、寄宿舎の方に歩いていきました。ちょうど炊事係の塾生達が部屋の真ん中に鍋を置き、夕食の準備を整えつつありました。塾では序列が厳しく、まずは塾頭から箸を付けることになっています。相撲を取っていた塾生達は身体を洗うため井戸に集まっていました。新参者の少年は、夕食の支度が調いつつある部屋に入ると、放胆にも塾頭が座るべき位置にドッカと坐り、黙々と食べ始めました。炊事係がこれを見咎めましたが、その態度があまりにも堂々としているため気を飲まれてしまいました。食べるのが当然という態度で食べているのです。

「あれは誰だ?お客人か?」

 食事係は勘違いしてしまいました。やがて身体を洗い終わった塾生連中がやってきました。すると、見知らぬ男が飯を食っています。その堂々たる食べっぷりに誰もが言葉を失いました。新参者は先輩に挨拶ひとつせず、食い続けています。心配になった乱が様子を見に来たのはちょうどそんな時です。乱も眼を見張りました。

(堂々と食べよる)

 あり得べき事ではありません。やがて新参の少年は腹が満ちたらしく、這って部屋の隅に移動すると長々と寝そべりました。

(肝の太か男たい)

 乱も舌を巻きました。新参の男は悪びれる様子もなく大きなゲップをして寝ています。


 その夜、さっそく先輩連中の反撃が始まりました。無口で無愛想な新入りに親切にしてやる者などいません。皆ふとんを敷くとさっさと寝はじめました。新参者のふとんを世話する者はいません。この新入りは挑戦的でした。無謀にも、そばに寝ている先輩からふとんを剥ぎ取ったのです。取られた方は当然ながら怒って喧嘩になりました。ところがこの新入り、滅法強く、先輩の方が殴られて、引き下がることになりました。ふとんを奪われた古参の塾生は塾頭に訴えました。やむなく塾頭は全員に起床を命じ、みなを車座に座らせました。

「きしゃんの名は?」

 塾頭は新参者に問います。

頭山満(とうやまみつる)

 新入りは無愛想に答えました。塾頭は全員に自己紹介をさせ、新参者にふとんを与えてやりました。こうして、その晩は治まりました。

 翌朝の炊事当番はよりによって暴れ者の奈良原到でした。誰もが起こされる前に目を覚ましましたが、何も知らない新入りの頭山満だけがぐずぐず寝ています。奈良原は凶暴な顔に喜色さえ浮かべ、燃えさしの薪を頭山のふとんに放りこみました。

 ちなみにこの奈良原到は、日清戦争後の台湾に渡ります。奈良原は警官隊の一員として、日本統治に抵抗する高砂族の捕虜を数多く斬り殺したことで知られます。狂人と紙一重の性格です。

 頭山は突然の熱さに目を覚ましました。奈良原と目が会いました。驚くべきことに頭山は顔色ひとつ変えず、無言で動かず、ただ奈良原の目を見ています。焦げ臭い匂いが部屋に満ちました。奈良原の顔からサディスティックな喜色が消えました。ふとんと共に頭山の皮膚も焦げているに違いありません。ですが、頭山は痛覚のない魚類のように平気な顔をしています。やがてふとん内の空気が尽きると薪の火が消えました。頭山は煙とともに起き上がり、奈良原に言いました。

「おはよう」

 さすがの奈良原も度肝を抜かれ、頭山を見直さざるを得ませんでした。これが縁でふたりは無二の親友となります。

 頭山満にはこれに類する武勇伝が少なくありません。まだ十才の頃のことです。冬の一日、蒟蒻を買ってくるように言いつけられ、十銭玉を持たされました。頭山少年は蒟蒻屋のおやじに黙って十銭玉を差し出しました。

「これみんな蒟蒻ば買いなさると?」

 少年はうなずきます。この時代、蒟蒻は二~三厘で買えたのです。十銭となると蒟蒻三十ないし五十個分となります。蒟蒻屋は真に受けてしまいました。

「容れ物ばなかと?」

 少年は黙って着物の襟を開いて見せました。ここに入れろということです。蒟蒻屋はさすがに躊躇しましたが、十銭の利に目がくらみ、頭山少年の襟内に蒟蒻を容赦なく放りこみました。真冬です。氷のように冷たい水と共に蒟蒻が容赦なく頭山少年の腹部から背部にまで詰め込まれました。玄界灘の季節風が容赦なく吹きつけています。凍えるように冷たい水が着物をビショビショに濡らしました。冷え切った蒟蒻群は容赦なく体温を奪っていきます。それでも頭山少年は平気な顔をして寒風の中を歩いて帰りました。子供とはいえ実に不可解な行動です。

 頭山少年は喧嘩ぶりも尋常ではありませんでした。頭山少年の無口をいいことに、近所の腕白坊主達がいじめにきます。腕白たちの年令は頭山少年よりも二つ三つ上です。その悪ガキ連中が頭山少年をとりまいて殴りつけ、地べたに倒し、蹴りつけました。頭山少年はグウともいわず、されるがままでした。鼻血が流れ、着物が破れ、履き物は投げ捨てられ、ついには額が割れて血が吹き出しました。それでも頭山少年はされるがままに横たわっています。ただ、目だけは相手の顔を見つづけています。やがて悪ガキどもは殴り疲れてきました。相手が歯向かってこないので張り合いをなくし、帰ろうとしました。すると頭山少年はやおら立ち上がり、腕白坊主連中の頭目らしき少年に組みつき、放り投げ、殴りつけました。その喧嘩ぶりは実に強く、今まで負けていたことが不思議なほどでした。結局、悪ガキどもの方が降参しました。そんなに強いのなら、どうして最初から戦わないのか、その理由はわかりません。こうした不可思議な喧嘩作法にせよ、先の蒟蒻の件にせよ、どうも頭山少年には独自の意図があるようでした。

 この少年は、幼い頃、ひどい悪戯をしました。父親が何度となく叱りましたが、いっこうに悪戯が止まりませんでした。一度は養子に出されましたが、あまりに悪戯がひどいため実家に戻されました。その悪戯が十三才の時にピタリと止みました。その理由は誰も知りません。誰かに何かを言われたというのでなく、本人に何事か思い当たることがあったようです。

(これではいけない)

 それで悪戯が止まりました。頭山満はそういう性格でした。他人の声には耳をかさず、他者の考えや他者からの評価を完全に無視する度胸を持っています。一方、自分の心の声には忠実であり、その結果がどんなに悪くてもそれを甘受する覚悟を持っています。

 高場乱に似ていなくもありません。乱は、諸事息苦しい封建の世に女と生まれましたが、自分は男であると言い張り、ついにそれを押し通しました。他者に素直すぎる性格であったら、もっと違った人生になっていたでしょう。もちろん幸運もありました。私情よりもむしろ医師としての温かい観察眼で乱を受容してくれた父の存在が大きかったといえます。

 ともあれこの頭山満という少年です。頭山は無口で温和しくかつ無愛想でした。積極的に塾生と仲よくしようとはせず、いつもひとりで居ます。後に作家の夢野久作は頭山満の風貌を「ヌーボー」と形容しますが、言い得て妙です。ヌーっと現れて、ボーっとしている。馬鹿か利口かわからない。ですが、このヌーボー男がいったん行動にでると、やることなすことが異常なほどに極端でした。

 興志塾内にゲヂゲヂという遊びがありました。塾生は誰もが蓬頭垢面で、髪の毛がボサボサでした。そのボサボサ頭がゲヂゲヂのようであったことから、この遊びの名称となったようです。ゲヂゲヂ役ひとりが顔を伏せています。そこに何人かが集まり、誰かが頭の毛を引っ張ります。誰が引っ張ったかをゲヂゲヂ役が当てれば役を交替するのです。そんな他愛もない遊びです。荒っぽい塾生は髪を引っぱるだけでなく、時に殴ったりします。頭山はこの様子を興味なさげに見ていましたが、ある塾生に誘われました。

「おまえもやらないか」

「いいだろう」

 頭山は部屋にあった火鉢を持ちあげると、いきなりゲヂゲヂ役の頭めがけて投げ落としました。火鉢が割れ、舞い上がった灰が部屋中に満ちました。ゲヂゲヂ役は気を失っています。荒くれ者の塾生も度肝を抜かれてしまい、ただ茫然と突っ立っています。頭山は悠々と部屋を出ていきました。いったい頭山の意図は何だったのでしょう。もっとやれということなのか、馬鹿な遊びはやめろということなのか。本人がいっさい説明しないので不明です。

 相撲を取ると塾内に頭山にかなう者はいませんでした。漢学でも頭山が最優秀でした。頭山が初めて回読に参加したとき、塾頭は頭山に恥をかかせようと思い、難解な左伝をテキストに選びました。左伝は上級者向きのテキストで塾生の誰もが読めません。どうせ頭山も読めまいと高をくくっていたのです。塾頭はいきなり頭山を指名しました。しかし、塾頭の意に反し、頭山はスラスラと読み上げると、その意味をたちどころに解説しました。頭山の外見から愚鈍な馬鹿者と思い込んでいた塾生達は、みな鼻をあかされました。

「次の方どうぞ」

 頭山はニヤニヤしながら言います。皆すごすごと部屋を引き下がりました。頭山の漢学はすでに完成していたのです。

 頭山は記憶力が抜群でした。八つか九つの頃、親に連れていかれた桜田義士の講談を帰宅後、スラスラと諳んじたため、家族一同が驚いたといいます。それほどに優秀な頭山はなぜ敢えて興志塾を選んだのでしょう。

 漢学の勉強が目的ならば、興志塾に来る必要はありません。もっと優れた秀才の集まっている塾がほかにあります。ではいったい何のために頭山は興志塾に来たのか。まことに奇妙でした。

 高場乱の講義中、塾生の誰もが憂憤慷慨たる乱の高説に魅了されます。そんな中、頭山は悪戯をします。にぎりっ屁を隣の塾生にするのです。された方は腹を立てますが、高場先生への遠慮もあり、誰もが我慢します。なぜ頭山はこんな馬鹿げた真似をするのか。

 頭山が興志塾へ入塾した理由は、胆力を練るためだったようです。頭山はすでに幾つかの塾を渡り歩いていましたが、いずれも物足りなくて退塾していました。

 前の塾でもヌーボーとした頭山は塾生になじめず、浮いていたようです。どうしてもいじめの対象になります。頭山自身がそうなるように仕向けているようでもありました。あるとき、塾生達が相談して頭山を布団蒸しにすることになりました。頭からふとんを何枚もかぶせられ抑えつけられると、息ができなくなり、死ぬほど辛いのです。その気配を察知した頭山は、日本刀を持ってきていました。塾生が見ている前でこれ見よがしに抜いて見せました。充分に見せておいて、夜寝るときは日本刀を抱いて寝ました。塾生は皆恐れて近づきません。ところがです。頭山は寝相が悪く、寝返りを繰り返すうちに日本刀が鞘から抜けてしまい、熟睡したまま、自分で自分を斬りました。朝、起きたとき、頭山は血まみれの自分を発見します。

(自分の敵はつまるところ自分だ)

 そう悟った頭山は塾をやめ、ひとりで平尾山の山小屋にこもりました。仙人になるつもりだったようです。独自の修行するうち、不慣れな炊飯の煙で目を病んでしまいます。その治療のために高場医院を訪れたのです。その際に偶然、乱の講義を聴き、また、塾生達が荒々しく相撲を取る光景を見て直感したようです。

(ここは面白そうだ)

 奈良原に薪の燃えさしを突っ込まれても怒らなかった理由もそこにありました。何があっても動じない自分を鍛え上げる。私利私欲をすて去り無私の自分を育て上げる。頭山は痛覚さえ私欲と考えていたようです。とっさの間合いに相手の度肝を抜き、気力で相手を圧倒する。そういう心根の鍛錬には興志塾ほど適した塾はありませんでした。

 このような教育観および修養観は、この時代にあってはさほど特異ではありません。なにしろ儒学は修身斉家治国平天下を大真面目に考え、実行しようとする学問です。天というものを意識し、天意を感じるために私心を去ろうと努めたのです。

 興志塾は胆力の追求に極端に性急な塾風でした。なにしろ塾頭たる乱は、心と身体の性が異なるという人格形成の根源にかかわる悩みを持って生まれています。その乱にとって、私心を去ることは己の精神を平衡に保つために是非とも必要なことでした。気力を奮い起こさねば一日とて生きられぬという切迫感があります。そういう乱の性格傾向が塾風に正直に反映されていました。そのような高場乱の教育観と頭山の修養観とが期せずして一致したようです。

 ただ、頭山の鍛錬方法は塾内でも突出して苛烈であり、ほかの塾生には真似ができませんでした。このヌーボー男はいつしか塾生の誰からも一目置かれる存在となり、ついには高場乱も唯一「頭山さん」とさん付けで呼ぶようになります。


 興志塾には頭山満のほか、平岡浩太朗、箱田六輔、進藤喜平太、来島恒喜、美和作次郎、的野半介、宮川太一郎、阿部武三郎、月成勲、吉田庚などの猛者が集まりました。これら塾生が後に玄洋社設立の中核メンバーになったことから、その社史に高場乱の名が刻まれることになります。

 頭山満が人参畑の興志塾に在籍した期間は一年ほどでしかありません。やがて頭山と同志たちは興志塾を離れ、自由民権運動のために全国各地を遊説してまわるようになります。明治八年になると、矯志社、強忍社、堅志社といった政治結社が福岡に結成されますが、これらのいずれにも興志塾出身者が参加していました。これら政治結社は青年教育のための義塾を併設していたので、その講師として高場乱が招聘されました。乱は、人参畑を離れて講義をして回りました。おかげでたくさんの教え子ができました。そして、明治十四年、玄洋社が設立されます。


 版籍奉還や四民平等を成し遂げた明治政府は不平士族の叛乱に手を焼いていました。不平士族の多くが西郷隆盛の挙兵を待望していました。それらの不平士族は自由民権運動に不満のはけぐちを求めたため、運動が過激化し、いったん事あらば暗殺や争乱に発展しかねない状況でした。明治政府は集会条例や保安条例などで規制を強化し、密偵活動を活発化させました。

 福岡にできた政治結社の面々も当然ながら腹に一物もっていました。矯志社は、明治九年秋から兎狩を催すようになりました。兎狩は名目で、実質は軍事訓練でした。江戸時代の藩主達は鷹狩りと称して軍事演習を実施しましたが、それを真似たのです。西郷隆盛が挙兵すれば、これに呼応して兵を挙げる予定です。福岡の官憲はこうした政治結社の動きをいちいち偵察しています。

 その日、兎狩を終えた矯志社の壮士たちが帰途についていました。そのなかに松浦愚もいました。折悪しく陸軍の一隊と狭い路上で鉢合わせしてしまいます。道を譲れ、譲らぬ、という言い合いとなりました。旧士族は陸軍を百姓兵と馬鹿にしていました。一方、陸軍士官は部下の手前、譲るわけにいきません。押し問答をするうち松浦愚が陸軍士官に怪我を負わせてしまいました。

 福岡県庁は陸軍からの訴えを放置できず、松浦愚らの実行犯と矯志社社長の箱田六輔を逮捕しました。さらに累は及んで、頭山満、進藤喜平太、宮川太一郎、奈良原到、大倉周之助、林斧介、阿部武三郎らまでが逮捕の憂き目にあいます。その理由は陰謀密議の嫌疑です。

 頭山らには大ざっぱな志こそありましたが、詳しい計画などありません。それでも取り調べは行なわれました。その方法は拷問です。福岡県庁裏の獄舎で頭山、進藤、奈良原の三名が木馬責めにかけられました。三角形の木馬にまたがると、腰に荒縄が巻きつけられ、その下に漬物石を載せる仕掛けです。誰も口を割らないので漬物石が増えていきます。

「俺はまだまだ平気だぜ」

 この三人は獄吏よりも互いを意識していました。誰が最もよく耐えるかを競い合っていたのです。股が裂け血が滴り、荒縄はじっとり湿っています。さらにその下の床に血だまりができています。すでに三人とも下半身は血まみれです。それでも三人は目と目で競い合います。

「まだまだ」

 彼らにとっては拷問も一種の競技であり、自己の鍛錬でしかありません。進藤は後に語っています。

「拷問ちうたて、痛いだけの事で何でもなかったが、酒が飲めんのにはまいった」

 この時代の日本人の荒肝というのは、現代日本人の想像を絶しています。その痛みこそが人間にとっての大問題のはずですが、彼らは別次元の感覚で生きていたようです。

 取り調べが終わって牢に戻る時、頭山はしばしば仲間の牢の前で立ち話をしました。牢番は容赦なく頭山の背中を六角棒で突き、殴ります。

「早く行け、牢に入れ」

 牢番は怒鳴りますが、頭山はハエほどにも思わぬ所作でしゃべり続けました。


 年が明けて、明治十年二月、西南戦争が勃発しました。武部小四郎、越智彦四郎らをリーダーとする一派は、西郷の蜂起に呼応せんとし、わずか百名程度の人数で福岡城占拠を目指しました。いわゆる福岡の変は、明治十年年三月のことです。ちょうど政府軍が博多湾に集結しつつあった時です。無謀でした。計画は失敗し、首謀者の一部は薩摩へと逃れましたが、大部分は逮捕されました。官憲が取調べたところ、逮捕者の多くはかつて高場乱に教えを受けた塾生だとわかりました。

 人参畑の興志塾に巡査がやって来ました。乱は出頭に同意し、塾頭に後を托して出かけました。乱が先頭を切って歩き、巡査がそれに従います。城下瓦町まで来たとき、乱の顔見知りに出会いました。

「先生、どちらへ」

「なあに、巡査を連れて役人の下宿に行くところです。何日か泊まってきます」

 取り調べでは当然、氏名、年令、性別を確認せねばなりません。

「高場乱、四十七才、男」

「あなたには人参畑の婆さんという仇名がありますね。本当に男ですか」

「男じゃい」

 怒声を発した乱の眼光が異様に光ります。乱の逆鱗に触れた若い取調官は意気を飲まれ、取り調べを続けることができません。すでに明治五年に戸籍法が施行されていましたが、乱の知ったことではありません。

 年配の取調官が席を替わります。いかにも権高そうな役人面をしています。取調官は乱を見下し、詰問します。

「お前の教え子が多数謀反に加担している。塾生の謀反を煽動したのはお前だろう」

「高場乱、不肖といえども、もしこの俺が反乱に参加しておれば、あのような不様な失敗をするものか。きしゃんなど今ごろ死んでおるところだ。そのきしゃんが今こうして生きているのが何よりの証拠ではないか。俺は何も知らぬ」

「たとえ直接に関与していなくても、お前の教え子が多数謀反に加担したという事実は、平生のお前の指導が悪かったことの証拠ではないか。その責任をどう取るのか。免れることはできぬ」

「なるほどのう。確かに俺の指導が誤っていたかもしれぬ。俺の弟子が多数謀反に加担したことの責任を免れようとは思わぬ。甘んじて罰を受けよう。だが」

 乱は逆襲に出ます。

「俺の監督不行届を責めるのならば、いやしくも天子様の命を奉じて福岡県民統治の任に就いている福岡県令渡辺清の責任はどうなる。県令の統治下にある県民の中から多数の謀反人が出たことの責任は、この(おさむ)の責任より重大のはず。ただちに渡辺県令の罪を明らかにし、この乱の細首とともに渡辺県令の首を獄門台にさらすがよかろう。それでこそ正義の何たるかを世に知らしめることになろう。官吏諸君、あえて躊躇するなかれ」

 「法官為めに辞屈し」と古書にあります。乱の気迫が勝ったのです。乱の拘留期間はそれほど長くありませんでした。牢内での乱は普段と変わらぬ様子で、獄卒が煙草を吸っているのを見つけると、俺にも分けろと要求しました。

「牢内で食べた差し入れの牛肉が旨かった」

 出獄後の乱の言葉です。この牛肉を差し入れたのは奈良原到の弟にあたる宮川五郎三郎でした。五郎三郎はまだ九才でしかありません。幼いながらも獄内にいる兄やその仲間を励まそうと考え、牛肉の煮付けを母親に作ってもらい、それを持って差し入れに行ったのです。当初、監獄の門番は差し入れを拒否しました。しかし、三郎五郎は屈せず、是が非でも差し入れをさせろとわめき、鉄の門扉の隙間に腕と足を差し込んでしがみつき、テコでも動かぬと言い張りました。門番は五郎三郎を振りほどきましたが、五郎三郎はしつこく門扉にしがみついて泣きわめきます。年端のゆかぬ子供のことでもあり、門番もついに根負けし、かつ哀れを感じて許しました。牢内の食事は話にならぬほど粗末でしたが、週に一度は必ず差し入れられる五郎三郎の牛肉のおかげで興志塾の面々は体力を維持することができました。乱も牢内でその牛肉を食べたのです。

 結局、証拠らしい証拠も見あたらなかったため、ほどなく乱は釈放されました。しかし、福岡の乱の首謀者は五月中に処刑されました。首謀者の武部小四郎、越智彦四郎らの死に様を牢内から伺い見た頭山と奈良原は、その潔い死に様に感銘を受けたと後に語っています。

 西南戦争勃発以前から逮捕拘留されていた頭山らが釈放されたのはようやく九月下旬です。すでに西南戦争は終わっていました。彼らは容赦のない拷問や、劣悪な牢内の環境によく耐えましたが、ひとり松浦愚のみが病を発しました。重態となったため松浦は放免され、自宅で療養していましたが、ついに若くして亡くなりました。死の直前「男子たるもの畳の上で死にたくない」と愚は言い言いしたといいます。やむなく家人が手を貸して庭に出しました。愚は戸外で息を引取りました。乱は手のかかった教え子の死を悼みました。

 塾の同窓達も松浦の死を知り、頭を垂れましたが、だからといって悲しみはしません。なんといっても皆まだ若く、自分自身を塵と同じに思っています。風が吹いて塵が巻き上げられる。運のよい者は屋根の上まで吹き上がるものの、運の悪い者は軒下に吹きつけられる。松浦には運が無かった。ただそれだけのことです。したがって、貴紳顕官といっても屋根の上の塵に過ぎない。後年、頭山らが在野の浪人でありながら、政財界の大物と平気で交際できたのは、そういう気構えがあったからです。ある意味でこれ以上の平等思想はないかもしれません。


 出獄後、頭山らは向浜塾、開墾社、向陽社、玄洋社と政治結社を設立しながら、その組織を成長させていきました。内政、経済、外交、軍事などの諸分野に民間の立場から介入しつつ、政治力を伸張し、自由民権運動から大アジア主義へと運動方針を変化させていきます。幕末に雨後の竹の子のごとく出現した浪人は、維新後も輩出し続けました。その最大の者が頭山満だったといえます。やがて頭山満は戦前の日本で知らぬ人がいないほどの有名人になります。

 乱は、頼まれれば若者相手の講義に出かけました。さながら玄洋社の教育長とでも言うべき立場でした。しかし、政治活動そのものには参加せず、あくまでも人参畑における医業と塾業を生活の中心としました。玄洋社の社員名簿をみると興志塾出身者が少なくありません。そして乱自身も社員でした。頭山満は晩年、高場乱を次のように評しています。

「無私と親切以外に持ち合わせのない婆さん」

 乱はその言葉どおりの熱心さで患者や塾生に接しました。着衣も履物も終生質素なものを身にまといました。男であることに強くこだわった乱ですが、針仕事だけは厭わず、自分の着衣のみならず塾生の着物も手入れしてやりました。酒は飲まず、茶と煙草を好みました。趣味は菊の栽培です。風呂は毎日たてました。食事は一日五回、一回当たりの量はごく少なかったといいます。

 乱は高場流眼科術伝承のため養子をとりました。名を(こたう)といいます。すでに明治元年に医師免許制が布告され、明治九年から医術開業試験が実施されており、世は西洋医学の時代に変わりつつありましたが、まだまだ伝統的な医術にも需要がありました。(こたう)(おさむ)を父と呼ぶようきつく言い付けられました。


 かつての塾生である来島恒喜が大隈重信の馬車に爆裂弾を投げつけ、直後に首を掻き切って自殺したのは、乱の死の二年前でした。この報せを聞いた時、乱は哀しみのあまり来島の行動を匹夫の勇と嘆きました。

 乱の晩年、ふたりの土佐人が人参畑を訪ねてきて乱に入門を請いました。乱が会ってみると、どう見てもすでに三十年配の成人で教えるには遅すぎました。いまさら乱の教育を受けても無駄です。乱は容赦なく断りました。しかし、このふたりは真剣でした。言葉をつくして入門を懇願します。ふたりとも年長だけに礼儀作法に落ち度がなく、乱としては断りにくくなりました。

「高場先生の腹中に蔵せられるご高見を是非にでも学びたいのです」

 乱は黙りました。遠いところを見るような目をして、真顔で何事かを考えている風でしたが、突如、高々と放屁しました。

「これ予がかつて腹中に蔵せし所以のものなり」

 そう言うと、乱は奥へ引っ込み、二度と出て来ませんでした。ふたりの土佐人はあんぐりと口を開け、あきらめて帰りました。乱は心の底まで男だったに違いありません。


 晩年の乱を描いたと思われる肖像画が残っています。乱が牛の背に横坐りしています。月代を剃り、髷を結い、大小は差していません。右手に切り花を一輪持っています。戦国時代の末期に永田徳本という医師がいました。永田は首に薬籠をかけて横ざまに牛の背に乗り、「甲斐の徳本、一服十八文」と呼ばわりながら道を流したといいます。両者の風貌はやや似ていなくもありません。

 高場乱は、明治二十四年三月三十一日に五十九才で亡くなります。身体と心の性が異なるという矛盾に満ちた人生を、誰にも理解されることなく、それでも見事に知恵と才覚と気力で生き切った人生でした。

「俺も医者だからわかる。自分の病はもう治らないから」

 晩年に体調を悪くした乱は医師の診察を拒絶し、ときどき養子の応に按摩をさせるのみでした。やがて応や塾生達に看取られながらおだやかに命のリズムを止めました。


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