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おとこ女

 幕末、高場乱(たかばおさむ)先生の御回診といえば、福岡城下で評判になるほどの奇観でした。高場先生は福岡城下に住む町医で、高場流眼科医術を受け継いでおり、庶民の信用を得ていました。

 江戸時代、医師は身分制度の中で一種特別な存在でした。僧侶と同じく方外の者とされていたのです。ですから士分でなくとも苗字帯刀が許されていました。

 そのせいかどうか、馬上の高場乱先生は二本の刀を腰に差しています。傲然と胸を反らせ、口をへの字に結んで天を見上げています。その表情には、まるで小さな子供が大人ぶろうとして懸命に背伸びをしているような力みがありました。その後を三人の若者がついていきます。この若者たちは塾生です。高場先生は自宅の敷地内に興志塾という私塾を開いており、福岡城下の子弟を教育しています。塾生のひとりは薬箱をてんびん棒で肩にかけ、ほかのひとりは丸桶を担ぎ、残りのひとりは鋤を持っています。この三人も胸を張って真っ直ぐ前を向いて歩いていきます。

 人々が好奇の目で高場先生の回診を見物するのには理由がありました。なんと高場乱先生は女だというのです。そのとびきり小柄な体つきは確かに女性のようでもあり、顔の造作も女性のように小振りで可愛らしい。しかし、月代を剃って髷を結い、袴をはき、腰間には背丈と不釣り合いなほどに長い太刀を差しています。唇を固く結んで昂然と顎を上げ、馬上、堂々と進む様子はどう見ても男です。町民どもの噂には目もくれぬ、という態度でゆったりと高羽先生は馬を歩ませていきます。

 やがて一行は家老屋敷の前にさしかかりました。家老屋敷に用はありません。そのまま通り過ぎようとすると、屋敷内から用人が駈け出てきて高場先生に声をかけました。

「高場先生、お忙しいところを恐縮でございますが、当家主人が申しますには、ぜひ御休息かたがたお話などお伺いいたしたく、ぜひお立ち寄り下さいませ」

 高場乱は用人の顔を見おろしました。卑屈そうな使用人づらです。しかし、その表情の中には好奇と侮蔑の色がありました。高場先生はそれを見逃さず、黙って馬を門に向かって二、三歩進ませると、用人には目もくれず、家老屋敷の内に向けて大音声で言い放ちました。

「お言葉に甘えて立ち寄りたいが、わしの肝っ玉が大きすぎて、このような狭い門には入れぬわい」

 その小さな身体のどこから出るのかと思うほどの太い声です。高場先生は哄笑しながら去っていきます。腹の底から出ているような声質も、言語振舞もまったくの男です。後に続く三人の若者も調子に乗って口々に悪態をつきました。

「こぎゃん狭か門に入れるかい」

「能なし家老」

 どういうわけか興志塾には福岡城下の鼻つまみ者や暴れん坊が集まっていました。馬までが意気に感じたのか、脱糞しはじめました。馬は歩きながら容赦なく糞をボトボトと落としていきます。歩きながら脱糞できるのは草食獣の芸当です。ふたりの若者がその馬糞を鋤ですくって丸桶に入れ、持ち去ります。肥料として利用するためです。


 高場家は博多瓦町にありました。この時代、女性が家督を継ぐのは珍しいことです。武家であれば許されません。とにもかくにも男を養子に立てなければお家断絶となります。しかし、高場家は町医であったおかげで(おさむ)が家督を継ぐことができました。

 高場乱(たかばおさむ)が生まれたのは天保三年です。幼名ラン。父は正山です。ランが生まれたとき正山はすでに四十七才でした。高場流眼科は正山で九代目となる伝統ある医術です。正山にはすでに先妻との間に長男があり、ランは後妻との間にできた二人目の女児でした。

 ランは幼い頃から変わっていました。女児のくせに男の子といっしょに遊び、男の子のように話し、男の子のように振る舞いました。それだけならば正山もさほど気にすることはなかったでしょう。男まさりの女の子というものは、まま居るものです。ランの様子が少しおかしいと正山が思ったのは、ランが女子の服装を極度に嫌がったからです。三才の頃から何と言い聞かせても女装を嫌がり、裸で逃げ回りました。無理に着せると泣きわめいて抵抗し、吐き気をもよおしてえずいたりします。ついには逃げ出して脱ぎ捨ててしまいます。しかたなく男子の服を着せると満足しておとなしくなるのです。普通の女児が喜ぶような赤い着物をランは極度に嫌いました。髪型も同様で、女の子らしい桃割れや、おたばこぼんを嫌い、正山のような総髪にしてくれといって聞きません。ランの姉のセンとはずいぶん様子が違っていました。

 ランが五才になると、父の書斎に入りこんで医術の本を勝手に開いて見るようになりました。まだ文字は読めません。ですが、グロテスクな人体の解剖図をみると、ランの脳内で途方もない想像が展開しました。人間の内臓、筋肉と骨格、そして眼球の解剖図などを見ると、ランにはそれらが恐ろしくもあり、楽しくもありました。ランは、最初こそ恐ろしいと感じてすぐに本を閉じ、書斎から逃げ出しましたが、慣れるうちに好奇心が勝って様々な書物を引っ張り出しては図解を探しつづけるようになりました。父や兄は、そんなランを見つけると注意しました。

「おなごしの見るもんじゃなか」

 するとランは反抗します。

「女じゃなか、あたきは男たい」

 医術のための様々な道具類もランの関心を惹きつけました。ハマグリの貝殻で作られた軟膏容器、試験官、天秤、水銀朱の入ったガラス容器、薬匙、薬研、ランビキという蒸留装置など、ランの好奇心は踊ります。同時に引刀という今でいうメスや鍼などを見ると、子供らしく怖さを感じました。壁一面を覆う百味箪笥には数え切れないほどの引き出しがあります。そして、そのひとつひとつの引き出しを籤引きのように引いては中を見て、また閉めました。そのうち、どの引き出しに何が入っているかがわかるようになりました。薬匙の数本を黙って持ち出しては遊び道具にし、そのたびに父に叱られました。一方、女の子の喜ぶような人形や鞠にはまったく関心を示しませんでした。

「おかしな子だ」

 高場家の誰もがそう言いましたが、それほど深刻に考えていたわけではありませんでした。ランはランでまだ幼く、虫のように無邪気に生きていたからです。

 子供は五、六才にもなれば、自分の性を意識しはじめます。ランの自意識は男でしたが、まわりの男友達と身体が違うことに気づきはじめました。

(自分の身体は姉のセンと同じだ。どうしてなのか)

 ランは不思議に感じました。ランは子供心に恐ろしくなり、考えるのをやめました。そして、相変わらず男の子たちにまざって遊びまわりました。チャンバラごっこも、凧揚げも、相撲もやりました。夏になると男の子は川や海で素っ裸になって泳ぎます。ランも泳ぎたいと思いましたが、身体を見られるのが恥ずかしく、これだけは我慢しました。男友だちもいっしょに泳げとは言いませんでした。

 衣服が資産だったこの時代、女子は誰でも手習いの師匠について縫物を習います。ランも針の稽古をさせられましたが、決して好きではありませんでした。しかし、嫌いなわりには裁縫の出来は良い方でした。人より早く仕上げると、外へ飛び出していきます。学問は男の子と同じ学問をするといって聞きませんでした。

 学問と言えば儒教であり、男子は四書五経を習います。一方、女子は和論語というものを習います。具体的には「女今川」、「女大学」、「女庭訓」、「女孝経」、「百人一首」などです。これをランはどうしても嫌がりました。

「ととしゃん、あたきは男たい」

「ラン、にしゃはおなごしたい」

「ちがいましゅ」

 ランは可愛い顔を悲しませました。その目は真剣に何事かを訴えています。すでに老境に近づきつつあった正山は、私情よりも、むしろ医者の観察眼でわが娘を観察しました。

(どうもおかしい。単なるお転婆ではないようだ)

 とはいえ正山にも理由がわかりません。わが娘にいったい何が起きているのか。わからないものは、どんなに考えてもわからないのです。長年月を医師として生きてきた正山は、一種の諦観に達していました。物事はなるようにしかなりません。どんなに医師が懸命に治療しても患者本人に治癒力がなければ治らないのです。患者に十分な生命力があったとしも、その患者が医師の処方箋を守り、療養に努めなければ治るものも治りません。結局、なるようにしかならない。そのことを充分にわかった上で、自分にできることをするしかない。

(ランもなるようになるだろう)

 いずれは嫁にゆく女の子のことでもあり、正山は鷹揚に考えることにしました。

(本人がそうしたいなら、好きにさせておこう。まだ子どもだ。大人になれば)

 正山は、ランの好きにさせました。ランは、男子の格好を続け、漢学と剣術に熱中しました。


 ランが十才になった時、さすがの正山も驚くべきことを言い出しました。

「刀ば持たしてくんない」

「ラン、にしゃはおなごたい。無理ば言うな」

「ちごうとります。男たい」

 ランは泣き叫ぶような声を出しました。可愛い顔をしていますが、眉を怒らせ、正山をにらみつけています。教えてもいないのにランは男子の作法を身につけつつありました。

(甘かったか)

 正山にはランが可愛くもあり、哀れでもあり、考え込んでしまいました。ランは間違いなく女として生まれました。ところが日常の言語振舞は男子のそれです。そして、本人は男だと言い張っています。正山にはわからない。わが娘にいったい何が起きているのか。

(いくらなんでも度を超している)

 古来、おんな男、おとこ女、という類の奇談珍談は数多くあります。なかには信憑性のある記録も残されています。江戸の四谷に鍼師がいました。確かな腕の持ち主で妻子を養っていましたが、髪型も着物も女性のそれであったといいます。また蕎麦屋に雇われていた若い男が急に産気づいて出産したという話があります。事情を聞くと、この女性は幼い頃に親と死に別れたため八王子の旅籠屋に年季奉公に出されました。いわゆる飯盛女です。泊まり客の求めに応じて春を売ります。その商売があまりに辛く、ついに逃げ出しました。月代を剃って髷を結い、男装して姿を変え、男として蕎麦屋に雇われ働いていたのです。その働きぶりは誰の目にも男にしか見えませんでした。が、女はすでに子種を宿していたのです。

(ランもその類なのか。そんな馬鹿な)

 そんなことは、親としてどうしても納得できませんでした。娘の前途を思うと正山は暗澹としてきます。

(いったい何が悪かったというのか)

 自分の育て方に間違いがあったと後悔しないわけでもありません。しかし、はっきりと思い当たることは何もないのです。


 正山の知人に、筑前秋月藩出身の原采蘋(はらさいひん)という女流詩人がいました。福岡城下の名門亀井塾の同門です。原采蘋は常に武家姿の男装をし、諸国をめぐり名士を訪ね歩きながら漢詩をつくり続けている人物です。しかし、この采蘋(さいひん)は正真正銘の女性でした。どうして女性の采蘋が男然としているのか。それにはこんな事情がありました。

 原家の男子たちはいずれも病弱でした。このため父親の期待が過剰なまでに女児である采蘋の一身にふりかかりました。父は、幼い頃から采蘋を男として教育し、男の人生を強いました。

「無名にして故城に入るを許さず」

 父は采蘋に言い渡し、家から出しました。けなげなことに娘は父の期待に添おうと懸命の努力を続け、今も諸国を遊歴しているのです。幸か不幸か采蘋は男勝りの体格と、剛毅な性格があり、酒豪家でもありました。世人からは閨秀詩人として名を知られ、父の期待を裏切らない活躍をしています。とはいえ、女と生まれた者が男として生きることがはたして幸福といえるかどうか。正山は首をかしげざるを得ません。

(孝という道徳律に暗黒面があるとすれば、これ以上のものはないのではあるまいか)

 武家のなかに、奇妙な家訓を伝承している例があると正山は聞いています。正妻の第一子が女児だった場合、世継ぎが生まれるまでその女児を男として養育せよというのです。それもまた残酷なことだと正山は思います。医師の正山には、不自然なことは結局うまくいかないという信念のようなものがあります。無理が病を引き起こすからです。しかし、自然とはいったい何なのか。そこが難しいところです。ランにとっての自然は、正山の考える自然とは異なるようでした。

 正山はランに男の人生を強いるつもりは毛頭ありません。だから、女の子として育てたつもりでした。ですが、ランは女として生まれたにもかかわらず、男だと言い張っています。正山は当惑せざるを得ません。

「刀ば持たしてくんない!」

 ランの大声に、正山は正気に戻りました。なにか言い訳をしてランを納得させねばなりません。

「ラン、いずれ懐剣ば与えよう」

「あたきは男たい」

 懐剣は女性の持ち物です。悲鳴のような声でランは抗議しました。その顔は怒っていましたが、その目に浮かんでいる哀しみを正山は感じとりました。正山はつい言いました。

「まあ待て、わかったい。そしたら藩庁に帯刀許可ば願い出てみよう。許可の下りればよし、下りねばあきらめっちゃ。わしとてもそい以上はどげんにもしきらん」

「よろしゅう」

 ランは納得し、一礼して去りました。凛々しいランの後ろ姿を見ながら、正山は思います。

(ランが男ならよかったものを。・・・いや女らしく育ってくれればよかったものを)

 正山は混乱し、溜息をつきました。


 数ヶ月後、意外なことに帯刀許可が下りました。ランは欣喜雀躍しましたが、正山は複雑な思いです。ランの将来を思い描くことができません。長男の雲山は高場流医術を継承して高場家を継ぐことになるでしょう。その才もあり、性格も医師に向いています。姉のセンは平凡ながら素直に育ち、いずれしかるべきところへ嫁にいくでしょう。

(しかし、ランはいったいどうなるのか)

 親として何をしてやれるのかが正山にはわかりません。また、自責の念がないわけでもありませんでした。

(何か間違った育て方をしたのだろうか)

 思い出しても思い当たることがありませんでした。正山が戸惑う以上に、ランも苦しんでいます。

「ランよ、にしゃはおなごたい」

 父も母も優しく諭してくれます。しかし、そのたびにランの心には絶望が湧き上がります。

(誰もわかってくれない)

 ランの記憶はすべて男の記憶です。自分が女であったという記憶はまったくありません。心は、意識は、自我は男なのです。ところが、女の身体を持っています。自分の身体が女のそれであるとわかってくるにつれ、ランの自我は混乱し、緊張しました。男の心と、女の身体を持つ存在、その矛盾を調整するためにランの自我は常にフル稼働し続けねばならず、絶え間ない緊張を強いられてきました。誰にもわかってもらえず、説明もできず、訴える術もない。そもそも年端のいかない子どもが、自分でも不可解な内面をどうやって他人に伝えるのでしょう。ランにわかることは、自分の心が男で、身体が女だということです。しかし、外見は女ですから誰もが女としてランを扱います。訴えても誰も本気にしてくれません。ランの抱える葛藤は心理的かつ社会的なもので、要するに生活全般に苦痛を感じ続けねばなりませんでした。

 女装することにランは強い嫌悪を感じます。ときには吐き気をもよおして、実際に吐いたこともあります。自身の体を見ることも嫌でした。どうして男の子と違う身体なのか。訴えるべき相手のない怒りと哀しみがありました。

 ランの心の中には巨大な暗黒の塊があり、時にそれが吠えているように感じられました。その感覚をランは嫌い、恐れました。ただ、何かに熱中しているときだけは、それを忘れていられます。それを忘れている時だけが安心していられる時間です。それが唯一の安息です。漢学に熱中し、武術に集中したのは、そのためでもありました。へとへとに疲れるまで熱中し、夜は倒れ込むように眠りたかったのです。ランは休息を恐れました。休むと心の中の怪物が暴れ出すようでした。

 ランは自分の身体が男の身体に変化することを願い、空想しました。そういう夢を見たこともあります。幼い頃に見た夢を今も覚えています。

 仲のよい友だちと庭で遊んでいると、そこに大きな岩がありました。皆がその岩に登ろうとします。その岩は子どもの背丈よりも大きくて、なかなか登れません。ランは助走をつけて跳躍し、岩角にへばりつき、身体をねじ曲げて足を岩角にかけ、ついに登りました。やっと登りきると友だちを眼下に見て言い放ちました。

「オシッコすると」

 ランは前をたくし上げて、オチンチンから高々と放尿しました。悪童たちはキャアキャア言いながら遠巻きに見ています。夢の中では確かに男根がありました。

 そこで眼が覚めました。眠りから覚めると、下半身が濡れていました。寝小便をしたことに気づきました。小便の最後の数滴がいま出つつありました。生ぬるい感触の中で自分の身体を確かめました。もちろん身体は女のままです。


 やがてランの身体に第二次性徴期が訪れました。身体が丸みを帯びて女らしくなっていきます。ランにとっては胸の膨らみも月経も嫌悪すべきものでしかありませんでした。初潮を祝って母が赤飯を炊いてくれましたが、うれしくはありません。膨らみはじめた乳房も忌々しいだけです。ランはサラシを胸に巻き、胸の膨らみが目立たぬように猫背になりました。心は男なのに、身体は女として成長していきます。強気のランも、さすがに気が滅入ってしまいました。

(俺はいったい何なのだ。男でも女でもないもの。このまま生きてどうなる)

 自分自身の成長が疎ましくなってくると、食欲がなくなりました。自分の身体が疎ましく、その身体に栄養を供給する気分にはなれません。食べれば身体は女として成長していきます。それを止めたいと思いました。ランはほとんど食事に箸をつけなくなりました。両親に対する自責の念も湧いてきます。

(自分は期待を裏切っている)

 子どもは健気なもので、親の期待に添おうとして、子どもなりに必死で生きています。ランは自虐的になっていきました。姿勢のよかったランは、しょげかえり、うつむいてばかりいるようになりました。

 ランの異変に気づいた母は、しつこく食べるように言いつけますが、ランは聞きません。

「あたきは男たい。食べれば食べるほどおなごになっちおす」

 ランは力なく言います。母は、娘が哀れで見ていられません。母は、この娘を理解できないでいます。それがまた苦しいのです。自分の育て方に問題があったのかと考え込んでしまいます。今まで何度となく、女らしくするようにランを諭し続けてきました。しかし、痩せてうつむいている娘をみていると、死んでしまいそうに思えてきます。もはや男でも女でもどうでもよくなりました。ある日、母は思いあまってランを叱りつけました。

「男なら潔く食べないや」

 ランは反射的に母の顔を見ました。顔を見られた母はどうしていいか、わかりません。ただ目に涙をあふれさせてランを見ています。ランも泣きました。苦し紛れであれ何であれ、母が男と言ってくれたのです。その日からランは食べるようになりました。


 常に心の内面で葛藤し続けねばならないランにとって、漢学と剣術に熱中しているときだけが安心できる時間です。道場や塾には友人もいます。ですが、同時に敵もできました。敵は顔を見ればわかります。

(女の癖に)

 侮蔑、差別、嘲笑、好奇、そういった感情は顔の表情にありありと浮かぶのです。ランの眼にはそれがよく見えました。そういう時、ランは下腹に力を入れ、気迫をこめて見返すのが常でした。

(千万人と雖も我ゆかん)

 ランは孟子の言葉を自分に言いきかせます。しかし、弱気の虫がきざしてくると、視線をこちらの方から逸らしてしまいます。ランは自分を叱咤します。

(こんな気弱なことで生きてゆけるか)

 この先、数え切れないほどの人々から好奇と嘲りの視線を浴びるに違いない。それをいちいち跳ね返すだけの気力を育てねばなりません。漢学も剣術もランにとっては生きていくための切実な修練でした。

 ある日、塾の帰り道で四、五人の塾生にからまれました。いずれも福岡藩士の子弟です。亀井塾で進境の著しいランを見て、小面憎く思ったようです。数を頼んで嫌がらせに及んだのです。ひとりがチンピラのように顎を上げて言いました。

「きさん、おなごしん癖に、なして二本ば差しとる」

 ランは応えます。

「藩庁から許可ば得とる。文句のあっけんなら藩庁に掛け合えっちゃ」

「なまいきな。差してはおっても、どうせ使えまい」

 その男が刀の鯉口を切りました。ランの剣術はさほど優れているとは言い難い。どうしても体力では男にかなわないのです。男たちはそれを知っていましたから、ランを見くびっています。ランは一歩も引かずに黙って鯉口を切ると、無造作に歩みを進めす。

(いっそ、このまま死んでもかまわん)

 ランは自分でも意外なほどに死を恐れませんでした。命を惜しむには、日常に苦しいことが多すぎたのです。身体と心の矛盾は、ランにとって逃れようのない軛です。

(死んだ方が楽だ)

 そう思うことさえ珍しくはありません。驚いたのは男たちの方です。意外な展開に動転した男たちはランに気圧され、思わず後づさりすると、わっと逃げ出しました。こうなると腕前よりも気迫です。ランは刀を抜き打ちに一閃、横に薙ぎました。あっと言う間に刀身は鞘に収まります。一人の男の袴が切れて尻が露わになりました。

「フハハハハ」

 風を喰らうような笑い声がランの耳に聞こえました。

(誰か?)

 周囲を見回しましたが、誰も居ません。その不敵な声は、何とランの口からあふれ出していたのです。ラン自身が驚くほどの豪傑笑いです。口からというより、もっと奥深い臓腑から湧いて出ているかのような笑いです。奇妙な充実感がありました。

(これが俺だ)

 そのような感激が心中にあふれます。本当の自分に出会ったように思えました。

「うぬらは玉ば持っちょる癖に、肝っ玉はなかげなな。フハハハハ」

 ランの心の中にある暗黒の塊が吠えているようでもありました。似たような喧嘩沙汰が二度、三度と続くうち、ランにクソ度胸がついてきました。喧嘩の禅機を呑み込んだというべきかもしれません。少なくとも表面上、ランを軽蔑する者はいなくなりました。喧嘩に勝ってランは自信を得ました。

(たとえ身体は女でも、男として生きてやる)

 ランは覚悟をかためていきました。


 弘化三年、高場家に慶事がありました。長兄雲山が秋月藩の藩医に取り立てられたのです。町医が藩医となって出仕するのは名誉の出世です。姉のセンはすでに嫁いでいました。正山にとって、残る心配の種はランだけとなりました。ランはすっかり男として生きはじめていましたが、正山にはまだ思いきれないものがあります。

(女に男の人生が生きられるものだろうか)

 正山の眼には、ランは娘としてしか映らないのです。実際、ランは年頃の可愛い顔立ちをしています。正山は最後の賭けに出ることにしました。

 雲山が秋月藩へ出仕して数ヶ月後、正山はランに言い渡しました。

「雲山が秋月藩に出仕たため、この高場家を継ぐ者が必要になった。婿養子をとることに決めたから、左様心得よ」

 ランは大いに不服でしたが、この理屈には抵抗しがたいものがありました。この時代、家が社会の構成単位でした。家を守ることによって家族を守ることができます。なによりも家が大事です。しかし、ランに結婚などできるはずがありません。何しろ男なのです。

(父上はまだわかっておらぬ。婿養子など追い出してやる)

 ランは秘かに決心しました。ランにしてみれば、ほかにどうしようもないのです。ランは男として生きています。男である以上、恋愛対象は女性です。実際、ランが秘かに恋心を抱いた対象はみな女性でした。ただ、ランは恋愛を成就させようと思ったことはありません。自分一個のことでさえ辛いことが沢山あるのに、そのうえに恋愛の悩みまでもひっかぶる気にはなれませんでした。それに加え、相手に気の毒です。ランに言い寄られた女性は驚くに違いありません。なんといっても女性同士なのです。はた目には同性愛と見えるでしょう。

(相手は迷惑するに違いない)

 そんな理由から、ランは恋心を封印してきたのです。

 当時、衆道あるいは男色というものも珍しくはありませんでした。ですが、ランにその嗜好はまったくありません。ランの精神に同性愛の傾向があれば、表面上、結婚が成立し得たかもしれません。しかし、男の心を持つランには、女の心を持つ男が必要であり、その組合せが実現する可能性は万に一つしかないでしょう。もし、そのような組合せが成立したとしても、それで社会的に上手くいくとは限りません。

 正山は正山で、考え抜いたすえの決心でした。正山の最後の賭けというのは、結婚によって男とふれ合えば、万が一、ランの中に眠っている女性性が目覚めるのではないかというかすかな希望でした。「とりかえばや物語」の妹君のように、男との接触によって女性としての自覚が芽生えるかもしれません。ランには残酷な仕打ちになるかもしれませんが、試みるべき実験だと正山は考えたのです。

(女と生まれた以上、女の人生を歩めるものならば、それに越したことはないはずだ)

 ランは十六才で結婚しました。婚礼の儀式が型どおりにすみ、夫になるべき男と寝室で対面しました。本来ならば新妻のランが三つ指をついて挨拶をするところです。しかし、婿殿が驚いたことに、ランは男の寝間着姿で現れると、折り式の姿勢をとって、はっきりと言いました。

「魂消るのも無理はないが、俺は男やけん。結婚はしきらん。明日、おとなしく帰ってもらいたか」

「ちょー待ってくれ。あんたんこつは聞いとる。男勝りんおなごしだっち。そんつもりん来よったけん、心配なさるな」

「ちごとる」

 ランは鋭く言います。

「わかっちおらん。おいは男やけん。男同士の結婚やらなんやら、しきるか」

「ばってん、あんたくさ、おなごしやないか。恥ずかしがらなくてんよか」

 婿殿の眼にはランが女として映っています。無理もないことながら、婿殿の顔にわずかな好色の気が浮かびました。ランはゾッとしました。反射的にランの身体が跳躍し、婿殿のふところに素速く入ると、当身を喰らわせました。婿殿は気を失っています。

(これで明日の朝には帰っていくだろう)

 言葉で説明してもわからぬ以上、これしか方法がありませんでした。


 正山の実験は失敗しました。哀れな婿殿はさっさと出ていきました。せっかく迎えた婿養子をたった一晩で失った正山は、しかし、失望してはいません。むしろ、これで腹が据わりました。

(ランは男として生きることを選んだ。苦難の人生だろうが、ランならば生き抜くだろう。たとえ斃れたとしても悔いはあるまい)

 正山は高場家をランに継がせることを決めました。たとえ変わり者であっても医術の心得さえあれば、その医術の効能ゆえに人々から尊敬もされ、世に容れられるでしょう。また、男として生きる以上、何よりも生計の道を立ててやらねばなりません。これからは医術の勉学に励むようにと、正山はランにきつく言い渡しました。それでもランの女盛りの顔を見ると、正山の心に思わず迷いが浮かびます。それを振り切るように正山は語を継ぎました。

「今日から名を改めよ。乱と書いて、おさむと読む。今日から高場乱と名のりなさい」

 (おさむ)は納得しました。


 乱の医術修行の日々が始まりました。高場流眼科は、筑前須恵村出身の高場順世から興りました。もともと須恵村には岡眼科と田原眼科があり、身分にかかわらず治療したので評判が鳴り響いていました。そのため全国各地から眼病治療のために患者が集まりました。毎年千人もの患者が他郷から来訪したため、眼療宿場が栄えました。

 その須恵村にいた高場順世という人物が正明膏という目薬の製法を福岡城下に伝えたことから、高場流眼科が始まりました。順世は貞享三年(一六八六年)に亡くなったといいますからずいぶん古い話です。正山は九代目です。雲山は十代目、そして乱が十一代目になろうとしています。

 男尊女卑のこの時代、女医というのは珍しい存在でした。偶然ながら高場乱より五才年長の同時代人に楠本イネがいます。楠本イネは、オランダ人シーボルトと日本人タキとの間に生まれました。混血児だったため差別に苦しみましたが、医学を学び、産婦人科医として活躍しました。また、高場乱よりも三十年ほど年長になりますが、稲井静庵という女医が阿波徳島城下の芝原という所にいました。静庵は若くして視力を失いましたが、驚異的な努力で医術を身につけました。女医が極めて稀であったため、静庵は患者を安心させる手段としてあえて男装していたといいます。往診の際は馬に乗ったということです。徳島城下の人々は「芝原の女医」あるいは「芝原の化け医者」と噂しました。化け医者とは実にひどい言い様ですが、そのような偏見の強い時代でした。女医を目指す乱の前途も多難であるに違いありません。

 高場流眼科術がどのようなものであったのか、詳しいことはよくわかりません。伝統的な漢方医術を基礎としていたことはまず間違いありません。いわゆる五輪八郭の説です。そこに若干の蘭方知識を加え、漢蘭折衷の眼科術を成立させていたと思われます。

 富士川游著「日本眼科略史」によれば、支那医術史において、眼科が専門科として独立したのは宋から元の時代だとされます。日本に伝わった眼科術が蘭学の影響を受けて変わりはじめるのは江戸中期以降のことでした。宝暦四年(一七五四)、山脇東洋が腑分けを行ない、その結果を「蔵志」にまとめましたが、その中で伝統的な五臓六腑説の間違いが指摘されました。杉田玄白らは明和八年(一七七一)に腑分けを行ない、蘭書「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚き、その翻訳を志しました。そして、安永三年(一七七四)、「解体新書」が翻訳出版されました。

 これにおくれて、眼科医柚木太淳は寛政八年(一七九六)、幕府に請うて刑屍を得、その眼球を解剖しました。その結果は後に「眼科精義」にまとめられましたが、日本における科学的眼科学の第一歩でした。

 眼科医の井関順庵は、はじめ獣眼の解剖を試みていましたが、ついには人の眼球を解剖する機会を得ました。その成果は文化七年(一八一〇)、「眼目明弁」として出版されました。

 革命的な眼科手術法を考案したのは土生玄碩です。土生は宝暦十二年(一七六二)に生まれました。当時、馬医たちは白内障にかかった馬の角膜に鍼で穴をあけ、膿を掻き出す手術を行なっていました。それを見た土生玄碩は、独自の工夫で人への応用に成功し、その手術法を小鋒鍼法と名づけました。また、偶然から穿瞳術を発見し、名医として大いに名と財を成しました。

 江戸後期は眼科医術に新工夫がもたらされた時代でした。当時の医術は一子相伝の秘密主義だったため、高場流がこれらの新技術をどの程度まで採用していたかは不明です。ですが、福岡城下に代々続いた眼科医として一定の信用を得ていたことは間違いありません。あとは乱の腕前次第です。

 この時代の医師は今日の医師とはずいぶん異なるものでした。現在、医師という職業は誰もがうらやむもののひとつです。ですが、この社会通念は維新後に医療制度が整備された後にできあがった通念です。江戸時代、「医は賤業」といわれました。医師になるには何の条件もなかったのです。医師を名のれば医師になれたのです。体力がなくて農家にもなれない、才気がなくて商人にもなれない、しかたがないから医師になるということが実際にあったようです。江戸時代の人々は病になると、医師とともに祈祷師を呼びました。医術は祈祷やまじないと同程度の信頼度しか持っていなかったのです。それだけ医術の水準が低かったといえます。

 江戸時代、学問といえば何よりも儒学のことでした。それ以外のすべては方技と呼ばれ、一段も二段も低いものと見られていました。医は、封建時代的な差別待遇を受けていたといえます。しかし、医にも利点がありました。それは換金性が高いということです。儒学にどれだけ通じていても、それだけでは貧に甘んじねばなりません。ですが、医術を施せば、謝礼がもらえます。評判の名医ともなれば巨万の富を築くことができました。先に触れた杉田玄白や土生玄碩などは、借財に悩む大名に多額の金を貸すほどに裕福でした。貸した金の多くは返済されずじまいだったそうですが、それでもいっこうに困らなかったといいます。

 多産多死のこの時代、人々は様々な病に罹患しました。衛生状態は悪く、無知と貧困がそれに拍車をかけました。今日ならば容易に治癒しうる病気で人々は命を落としていきました。

 幕末に来日したオランダ人医師ポンペは次のように書き残しています。

『眼病もまたきわめて多い。世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない。その理由は、眼病の治療法をまったく知らないことに大半の原因がある。そのためにきちんと治療すればまもなく全快する病気でも失明してしまった例がきわめて多い。結膜疾患が特に多い。白内障もしかり』

 また日本の眼科医に対して手厳しい評価を下しています。

『治療がまずいのは、医師達は目の内部の構造も位置関係もほとんど知らないからである』

 柚木太淳や井関順庵の解剖学的知識は、流派の秘密主義に阻まれて普及していなかったのです。

当時の日本人は囲炉裏やかまどで火を焚いて煮炊きしたため、その煙により結膜炎を患う者が多いようでした。病み目、ただれ目、くされ目、ぼろ目などといわれました。大名や金持ちの商人などは別として、医者にかかること自体が贅沢と考えられていた時代です。多少の症状は我慢して放置してしまうことが普通でした。結膜炎を放置すれば、最悪の場合、失明にいたります。眼科医が活躍すべき機会はいくらでもありました。


 高場乱は、持ち前の熱中する性格のままに医術修行に励みました。その進歩の早さに正山は満足しました。乱は、内面の葛藤を忘れるため、目前の眼科術修行に全精力を傾注しました。三年も経過すると、正山に代わって乱が代診するようになりました。乱の診察ぶり、治療ぶりに目立った落ち度はありませんでした。ただ、正山は一言だけ注意しました。

「乱よ。患者は敵ではないぞ」

 乱は内面の緊張から常に言動が固く、険しい表情をしていました。知識と技術だけでは不十分であることを正山は指摘したのです。

(それもそうだ)

 乱は、意識しておだやかな表情をつくってみようとしましたが、かえってぎこちない表情になってしまいます。そうなると内心に動揺が生じ、手許までが狂うようでした。そんなときには正山がさりげなく治療を引き継ぎます。乱は落胆しました。

(不甲斐ない。精神的に動揺するようではダメだ)

 しかし、正山は逆のことを言いました。

(乱よ、もっとゆるめ。気楽にやれ)

 乱には父の言うことがわかります。わかるのですが、そのとおりにできません。それが歯痒く、ますます自分を許せなくなりました。

 ある日、高場眼科に一組の母子がやってきました。四、五才くらいの男の子が母親に耳を引っ張られて来ていました。男の子は医者が恐いらしい様子です。母親がガミガミ言い聞かせています。たまたま正山は他行していたので、乱が診察に当たりました。男の子は帯に竹棒を差しています。刀のつもりなのでしょう。乱は、昔の自分を見るようで思わず頬笑みました。すると、男の子の顔から緊張が消え、それまで身体をくねらせて嫌がっていたのが、おとなしくなりました。乱が診察すると結膜炎の初期症状です。乱は男の子を仰向けに寝かせると、メグスリノキの成分を蒸留した点眼液で目を洗浄し、まぶた返しという器具を使ってまぶたの裏側に軟膏を塗布し、眼帯を掛けてやりました。母親に二枚貝の器に入った軟膏を渡し、いくつかの注意事項を伝えて帰しました。

(そうか、力を抜けばいいのか)

 乱には何やらわかったような気がしました。女性の顔を持つ乱が頬笑むと、患者はその優しげな容貌を見て安心するようです。乱は生まれてはじめて、自分の身体の価値を認めることができました。このことは乱の精神的葛藤をわずかながら緩和してくれました。


 高場乱は、晩年に至るまで女に見られることを極度に嫌いました。乱にとって皮肉だったことは、きわめて女性的な容姿を持って生まれたことです。男装している乱を見ると、その容姿は実にかわいらしく、誰もが男装の女だとわかりました。このことは乱を苦しめました。乱は必要以上に男たろうとし、ただでさえ男性的な性格をますます男性的にしていき、時には芝居がかった言動をするようになりました。本来、女性の武器になり得たはずの女性的容姿が乱を苦しめたのです。

 乱よりも一世代若い同時代人に奥村五百子(おくむらいおこ)という人物がいます。五百子(いおこ)は弘化二年、肥前唐津に生まれました。父は僧侶でした。父は勤王の志が篤く、子どもたちを勤王活動に従事させるべく教育しました。五百子にも男と同じ教育を受けさせました。五百子には兄がいました。ある日、父は五百子に残酷なことを言い渡します。

「この寺の跡取りたる兄を死なすわけにはいかない。危険な仕事は五百子が為せ」

 五百子は驚かず、むしろ望むところだという顔をしました。これを残酷だと思うのは現代日本人の感覚です。「家」が社会の構成単位であった当時、誰もが跡取りの重要性を知っていました。父の言葉を五百子は当然のこととして受けとめました。

 兄と五百子は京都に出て、福岡藩士加藤司書の指示をあおいで活動していました。勤王家のあいだの連絡係として五百子は各地に使いをしました。女装、男装を使い分けて監視の眼をうまく逃れます。五百子が十七才の時、長州藩国家老宍戸家への使いを命ぜられました。五百子は、髪を大髪に結い、深編笠、義経袴、朱鞘の大小といった旅装で出かけました。ちなみに五百子は身長が高く、がっしりした顎骨を持っていたため、男装すると誰もが男だと信じて疑わないほどに男らしく見えました。長州藩境の関所役人も五百子を男だと思い込み、足止めしました。五百子が関所の様子を見ていると、女性はほとんど詮議を受けずに通されており、男性に対する警戒を強めている様子でした。五百子は後悔しました。男装が裏目に出たのです。長く待たされてイライラしてきた五百子は思いきって役人に申し出ました。

「私は女だ。そうそうに通せ」

 これには役人どもの方が仰天しました。男だと思っていた者が実は女だと分かり、鼻をあかされたのです。五百子が通せと迫ると、大袈裟なことに役人どもは槍ぶすまをつくって押し返してきます。

「長州人は臆病なり、十七才の娘がそんなに恐ろしいか」

 五百子が役人どもを大喝したのはこの時です。関所役人は五百子を怪しんで通しません。五百子は、自分の叔母が長州藩国家老宍戸備前守に嫁いでいることを告げ、怪しい者ではないと必死で訴えました。関所役人は、宍戸家との手紙のやりとりを許したものの、手紙では埒があきませんでした。ついには、もし五百子の言い分が嘘であったら首をはねる、という条件で叔母に面会することをようやく許されました。五百子は萩城下の宍戸家で叔母に面会し、やっと嫌疑を晴らすことができました。

 五百子は四十日間ほど長州藩に滞在して要人に面会し、長州藩の情勢を聞き取りました。ある日、馬関で偶然に高杉晋作と同宿し、一夜、時勢を論じあいました。やがて高杉は容儀を改めて言います。

「この高杉晋作、いまだ女を男と見誤るほど耄碌はしていない」

 男装の五百子を女と見破ったのは、後にも先にも高杉晋作ただ一人だったと後に五百子は語りました。

 維新後、五百子は結婚し、子供を授かりました。しかし、国事への参加意欲はやまず、国内はおろか朝鮮、中国にまで足を伸ばし、愛国婦人会の創設者として歴史に名を残しました。

 五百子のように男らしく無骨な身体的特徴を乱が持っていれば、乱の悩みも幾分かは緩和されたでしょう。しかし、現実は逆でした。どれほど男装してみても人は乱を女と見ました。晩年になってさえ周囲の人々は親しみをこめて「婆さん」と呼びました。ただし、本人の前で不用意に女呼ばわりすると怒鳴りつけられました。


 乱の医学修行が始まって四年目の嘉永四年、父正山が中気を患ったため、乱が家督を継ぎました。正山はすでに六十七才、乱は二十才でした。乱の眼科医ぶりには馬鹿正直なところがありました。治せるものは治せるとハッキリいって治療をしました。一方、自分の手に余る症状に出くわすと、正直にその旨を患者に告げました。乱は父正山や、兄雲山に相談したうえで治療方針を立てました。患者に対しても、その経過いっさいを伝え、処置をします。どうにも手に負えない場合は、須恵村の田原眼科を薦めました。

「高場先生は、すこし気張りすぎだが、正直なところがいい」

 そのような評判が広がり、患者から信頼されるようになりました。この時代、詐欺師まがいのヤブ医者が珍しくありません。治療する能力もないくせに困窮している患者をだまし、高額な薬料を請求する輩が少なくありませんでした。それとは対照的に、全身全霊を傾注する乱の診察ぶりに患者達は感激し、感謝しました。一方、乱は乱で、治療活動に全力投入することで精神の安定を得ていました。心と身体の不一致という終わりのない葛藤と闘い続けました。

 安政三年、乱は二十五才になっていました。眼科医としての仕事がすっかり板についてくると、乱の心身に余裕ができてきました。余裕は、乱にとってむしろ苦痛です。心と身体の不統一感、言うに言われぬ不全感に悩まされるからです。

(もっと何かしたい)

 疲労困憊するほどにエネルギーを傾注できる対象が乱には必要です。乱は私塾を開くことに決めました。幼い頃から漢学を修め、得意でもありました。その学識を活かすことができる。それにこの時代、学問といえばなんといっても儒学です。儒医という言葉があったくらいで、儒者と医者をかねる者が珍しくありません。乱の発想はごく自然なものだったといえます。

 乱が学んだ亀井塾は亀井昭陽の私塾です。朱子学ではなく、古学を教えていました。その塾風は自由闊達、個性尊重でした。実力さえあれば女性でも尊敬されました。事実、乱の先輩には亀井少琴や原采蘋などの女傑がいます。この塾風の中で乱ものびのびと学ぶことができたのです。

(あのような塾を俺もやりたい)

 乱は塾名を興志塾と決めました。


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