絶望をもたらす苦痛
「なんだこの声!?」
「まさ……か……」
エラノールさんが、かすれた声を出す。どんな状態でも沈着冷静だった彼女が、真っ青な顔になっている。
「エラノールさん、あれは何!?」
「いるはずが……ないのです。もしいたら、この森はとっくに壊滅している。ああ、でも、この薄気味悪さ。森で感じたのはこれ……」
「エラノールさんしっかり! あれはいったい……」
「苦痛軍に、間違いありません。子供のころに聞いたあの声と同じですから」
その言葉は、背後から聞こえた。振り向けば、彼女もまた険しい表情をしていた。
「イルマさん、そのペインズってたしか異界からの侵略者じゃ? 確か何でも食うとかなんとか」
イルマさんがこれ以上もなく表情を硬くしていた。インプの対応をしていてもらっていたはずだったが、この事態でこっちまで出てきたのか。
「はい。数いる侵略存在の中でも最も恐るべき怪物です。単体で、街どころか小国すら壊滅させうる能力を持っています」
「は? ……一体で?」
それはもう、怪物ではなく怪獣では? 放射性廃棄物をガブ飲みしたのでは? そんな益体もないことが頭によぎるほど突拍子もない話だった。
「ペインズには最悪の能力があるのです。食って力を蓄え、それを使って生物に侵食します。人だろうが動物だろうがモンスターだろうが、己の部下にしてしまう。一度そうなってしまっては助かりません。ダンジョンと契約してても、です。そしてそれは、ダンジョンマスターも例外ではありません」
「……はっ。まじですか」
思わず笑ってしまった。なんだそのチート。確かにそんな力をもっていれば一体でも国を滅ぼしうるか。
「私も戦います……が、申し訳ありません、勝てません」
「無理、ですか」
「侵食された兵士なら問題ないのですが。元である隊長級となると、戦闘訓練を受けたハイロウが五人は欲しいところです」
「うちの戦力を含めても?」
「……ストーン・ゴーレムがあと二体いてくれれば」
今から取り寄せても間に合わない。敵は、刻一刻と近づいている。分かるのだ。飢え、痛み、狂気。尋常でない気配がダンジョンのすぐ近くに迫っている。
「……援軍を呼ぶことは?」
「可能ですが。それまで、ダンジョンが持つかどうか」
どうする。どうすればいい。さすがにこれはないだろう。今まで何とかやってきた。何か落ち度があったか? 生っちょろいこと言わず、借金してでも戦力を整えればよかったか? 偵察にもっと力を入れればよかったか? ……ダンジョンマスター様とか言われて、舞い上がっていたか? ただの日本人、量販店員ごときがちょっとあがいた程度で何かできると勘違いしたか? そうだ、しょせん俺はこの程度……。
くぅん、と足元で鳴かれた。コボルトだ。何匹ものコボルトが、気づけば俺を囲んでいた。皆、震えている。ペインズを恐れているんだ。
がつんと、自分の額をぶん殴る。凹んでいる場合か。弱さを理由に逃げている場合か。たとえ俺がザコだとしても、こいつらを守らない理由にならない。だって俺が呼んだのだ。俺が責任を持たなきゃならないのだ。俺が契約した。ダンジョンマスターとして。
放り出していた兜をかぶる。やるべきことをやろう。
「ゴーレム! こっち側にこい! スライムも! お前らは沼まで下がれ! イルマさん! 氷の魔法使ってましたよね。壁は作れますか? このバリケードを補強するような」
「は、はい。可能ですが、ペインズには……」
「少しでも時間が稼げればそれでいい! コボルト! コアルームから本とコインとってこい! 援軍が来るまで全力で粘るぞ!」
わん、とコボルトたちが走り出す。俺はバリケードを即席で補強し出す。完璧など不可能だが、一秒でも稼げるなら何でも突っ込む。
「ミーティア。逃げるなら今だぞ」
「もう無理よ。今出たら追いかけられて兵士の仲間入りよ」
「そうか。じゃあ手伝ってもらう。あの呪文はまだ使えるか?」
「使えるけど、たぶん抵抗されるわ。あれらがちょっとやそっとの呪文で死ぬならハイロウがあんな決死の表情しないわよ」
「そうか。そうすると後は……」
そんな話をしながら手を動かす。突如、爆音が洞窟前で轟いた。
「今度はなんだーーー!?」
思わず叫んだ。赤い光がみえた。あれは、炎か。ほんの一瞬、恐ろしい気配が緩んだ。誰かが戦っている?
「私が見てきます!」
疾風のごとく、エラノールさんが飛び出る。やはり速さは彼女が一番か。ついていった所で俺では文字通りの足手まとい。
「イルマさん、氷の壁いつでもやれるように準備を」
「はい、すでにできてます」
彼女の周囲の空気が冷たい。頼もしい。ギリギリ、何とかできるんじゃないかという気になってくる。そうでなくても何とかしなければならないのだが。
わずかな時間で、エラノールさんが戻ってきた。男が一人、必死の形相で彼女の後ろを走っている。銀色の短髪。きっちり着こなしていた礼服も、さすがに今は乱れがち。カミソリのような気配もどこへやら。あいつは。
「工務店の……! なんでここに?」
さすがに、クソ野郎という言葉は飲み込んだ。工務店の男は、袖から何かを取り出すと、大きく広げた。あれは、巻物? あんなの袖に入らんだろうにどうやって。
「発動! スパイダーネスト!」
そのまま後ろにぶん投げると、巻物が光に変換された。その光は一瞬で引き延ばされ、洞窟入り口をびっしりと覆う蜘蛛の巣となった。壁か!
「もどりました!」
「と、突然の訪問、失礼、します……っ!」
華麗にエラノールさんが。息を切らせて工務店の男が。それぞれバリケードの中に逃げ込んできた。
「お、おう。……細かいことは後回し! 手伝ってもらうぞ!」
「もちろん、です。あれを放っておいたら、なにもかも死んでしまう! まだ、死ねませんので。ミヤマ様には、お聞きしたいことがあります!」
「お、おう?」
はて。こいつにそんなこと言われる覚えがないのだが。というか、こいつもしかして……。
などという物思いをする時間はなかった。クモの巣が、大きくたわんだ。
「イルマさん、壁ぇ!」
「グラキエース・パリエース・ファケレ! 立ち上がれ霜の柱、閉じられた棺、とこしえの冬の国よ! 停滞をここに! ウィンター・ウォール!」
膨れ上がる冷気。放たれる氷雪。瞬く間にバリケードが氷に覆われる。幅一メーター以上ある、分厚い氷の壁だ。これでダメとか一体どういう怪物なんだ……という疑問は、すぐに解消された。蜘蛛の巣を突き破り、そいつが現れたからだ。
「オオオォォォォォ……」
そいつは、不気味な紫色のオーラを漂わせていた。二メートル程度の体躯をもつ、人型の怪物。一番似ているのはオークだろうか。あれにありったけの狂気と苦痛をねじ込めばあんな顔になるかもしれない。特徴的なのは、黒い茨のような何かを体に巻き付けているという事。まるで有刺鉄線だ。そんなものが体に刺さっていたら、そりゃ痛いだろう。あんな声も出る。
そいつが、はっきりとこちらを見定めた。ずきり、と胸が痛むこれは……コアだ。コアがこいつに反応している。俺が耐えられる限界の力を注ぎこんできてる。分かってる。あれは倒す。
「不意打ちでエクスプロージョン・ファイアーボールを叩き込んだのに、ろくなダメージが入ってませんね……兵士がすべて倒せたのは幸いでしたが」
「入り口辺りの爆発、それだったのか。よくやってくれた」
こいつ一体でも手に余るのに、兵士とやらまでいたら完全に無理ゲーだ。……工務店のが、なんか泣き笑いみたいな表情しているが今は突っ込んでる暇がない。
エラノールさんがさっそく大弓を放つ。この状況でも狙いは冴えわたっている。一射ごと、確実に獲物に命中。顔、首、胸。どこも致命傷であるはずの場所に刺さっていく。だというのに、その歩みは止まらない。さっきのオーガもそうだが生き物だろ、そこは死んでおけよ。
俺も、コボルトが投石紐で使う鉛玉を用意してある。わざわざひし形に鋳造した特別なやつだ。古代ローマ兵は、こいつで鎧をぶち抜いたという。さっきからコアが無駄に送り込んでくるパワーを思いっきり込めて。
「ピッチャーナツオ君。第一球……」
凍ったバリケードの隙間を縫って、大きく振りかぶり。
「投げましたッ!」
およそ人が投げたとは思えない、空気を割く音が響く。狙いたがわず、ド真ん中。ペインズの胸板にデッドボール。血肉がはじけ飛んだ。
「う、わ……いや、よし」
自分でやっておいてあれだが、グロいことになってしまった。だが、ダメージは入る。殺せないチート野郎では、ない。
「オオオオオォ!」
流石の怪物も、今のはダメージと認識したらしい。咆哮を上げて突撃してくる。あの速度、さすがに二回目の投球は間に合わない。バリケードがどれだけ持ってくれるか……。
「い、まぁッ!」
ミーティアが、吠えた。跳ねるように突進していたペインズの動きが、一瞬だけ固まった。巨体が、全力疾走していたのだ。そんな時に走るリズムを崩したらどうなるか。足がもつれる。何とかバランスを取ろうと、バタバタと足ふみ。そこへ
「発動! スピリット・スネア!」
工務店の男が再び巻物を広げた。巻物は光となり地面へ。そしてペインズの足元に、無視しえない土の小山を作った。引っかけた。顔面から、氷の壁に突っ込んだ。
死を連想させる、鈍い音がした。
「お、おおおう……」
思わず、うめく。絶望的に強い敵である。情け無用で行くべきである。でも、酷いことをしてしまった感が強い。
「いやあ、安物の巻物でしたが持ってきてよかったです……ねっ!」
「学生がよく生活費稼ぎに書いてるんですよね、あれ!」
ハイロウ二人も、あまりの事に気の抜けた会話を……しているだけだった。工務店の男は言いながらもナイフを投擲。閃光のごとき一投が放たれ、ペインズの体に刃が半ばまで突き刺さった。次の瞬間、そのナイフは消え持ち主の手元に戻った。魔法のナイフなのだろう。いいものを持っている。
イルマさんも拳大のオーブを掲げ、光弾を次々と打ち出している。マジックアイテムなのか、彼女の魔法なのか。どちらにしても油断のない二人だ。俺も気を引き締めねば。
で、そのきっかけを作ったミーティアだが……。
「う、わぁ! ミーティア、目!」
血の涙なんて初めて見た。例の、金縛りの魔眼を使ったのか。そんなに負担がかかるものとは思わなかった。ミーティアは男前に目元を腕で拭う。
「こんなのすぐに治る。それより、まだぴんぴんしてるよ! ああ見難い!」
「横着せず水で洗いなさい」
ミーティアをエラノールさんに任せてペインズの様子を見る。生きている。今のうちにダメージを稼がねば。幸い、いい感じの瓦礫がすぐ近くに。こいつを後頭部に叩き込んでやればたとえ怪物といえど無事では済むまい。持ち上げる。思いっきり自分の頭の上に振り上げる。
ペインズががばりと起き上がった。
「オオオォォ!」
「あああああ!?」
びっくりしてその顔面に全力でぶん投げた。直撃。怪力を込めてぶん投げたというのに、びくともしない。それどころか、今までのダメージすら無かったかのように、拳を振りかぶった。俺めがけて。手元にあったとはいえ、大盾を引き寄せられたのは奇跡のようだった。
「オオォッ!」
……気が付いたら、仰向けに倒れていた。大昔の特撮のオープニングのように、世界がぐにゃりと歪んでいる。なんだこれ。どうなった? 遠くで、誰かの泣き声が聞こえる。誰だ? イルマさんか?
「……っかり……しっかりして! ミヤマ様!」
やっとまともに聞こえた。そして全身がしびれている。呼吸がうまくできていない。苦しい。痛い。……そうか、殴られたのか。それは痛いわ。え、何。衝撃強すぎて記憶が飛んでいる? やばいぐらい殴られてない俺?
「わんっわんっ」
コボルト数匹に持ち上げられる。体に力が入らないから、されるがままだ。ぼやけていた視界がやっとまともになってきた。兜がどっかにいってしまった。大盾が破片になって散らばっている。
一呼吸ごとに体がきしむ。もしかしてどこか折れたりしてるんだろうか。
「オオオッ!」
ペインズが吠えている。腕の一振りごとに、氷の壁が壊れていく。分厚いからこそまだ持っているが、崩壊は時間の問題だ。攻撃は続いている。イルマさん、エラノールさん、ミーティア、工務店の男。だけど、決定打といえるものを出せている人はいない。あれだけの猛攻を受けても、怯みもしていない。
このままでは、時間を稼ぐなんて夢のまた夢。援軍は間に合わない。そもそも呼べてすらいない。
まともな手段ではだめだ。ひどい手段を思いつけ。たとえば、足の指を狙う。指がなくなるだけで、まともに歩けなくなると聞く。あの体で踏ん張りが効かなくなるというのは大きい。……ミーティアにもう一回だけ止めてもらって、実行? いや、エラノールさんが刀を持っているならともかく、木刀や木槍では厳しいだろう。却下……いや、保留。次。
急所を狙う。目、鼻、喉、股間……だめだ、もうみんながやってる。若干嫌がっているようだが、そこで終わっている。人体急所なんだからもっと致命的にダメージ入れよ。
もっとだ。もっとえげつない手じゃないとだめだ。相手の土俵で戦わない。相手の強みを出させない。こっちの強みだけで快勝する。相手が筋力お化けなら、それが使えない状態に持っていく。
さっきの足の指の案は悪くない。力を出させない。悪い足場。……マッドマンの沼! よし、いいぞ。あそこなら動きも鈍くなる。だけど、まだ足りない。もっとだ、もっと致命的な何かを。ああ、くそ、呼吸するのも辛い。あばらにヒビでも入った……。
「これだ」
やつを、見る。……よし、いける。がたがたの体を引き起こす。激痛が、稲妻のように駆け巡る。泣きたい。でも無視だ。
「イルマ、さん……こっち、へ……」
もっと大きな声を出したかったが、蚊の鳴くような音しか出なかった。でも、彼女は来てくれた。
「ミヤマ様! 大丈夫ですか!?」
「氷の壁を、もう一度頼む」
「でも、わずかな時間しか」
「その時間が、欲しい。みんなで、沼まで引き上げる。そうしたら……」
痛みで喉が詰まる。馬鹿野郎。ここで言わなかったらみんな死ぬんだぞ。コア! ダンジョンコア! 何とかしろ! 今だけでいいから! ……ぎしぎしと、体中に何かがねじ込まれる。きっとよろしくないことが起きている。でも、痛みが少し治まった。ありがとうよ、これならいける。
「そうしたらあいつを、沼に落とす。落として、ストーン・ゴーレムで上から押しこむ。泥で、窒息死させる」