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第二章 夏の亡者(サマー・ゴースト) 1~2

第二章のはじまりです。寒くなってきましたが、夏の気分でお読みいただければ幸いです。

第二章 夏の亡者(サマー・ゴースト)


挿絵(By みてみん)


        1


 かしましくも、なくては物足りないと感じられるであろろう蝉のジャミ


ジャミいう声を聞きつつ、車イス用ステップ付きエスカレーターはさけて、


長く続く幅広な石段を汗をぬぐいつつ上っていく。すると真夏の太陽を照り


かえす白っぽい石畳が広大な区画いっぱいに敷きつめられていて、その先に


ようやく巨大な直方体建築物が威容をあらわす。F県立中央図書館。ここが


香里の選んだ夏休みの学習の場である。選ばれた理由はタダだから。そして


涼しいから。正面入り口から中に入るとひんやりとした冷気に迎えられ、ひ


と息つける。天井が異様に高いホールを歩きながら武志郎はいつも八つあた


りのように思う。実に嫌味なくらい豪華で大げさな建物だと。そして四階に


ある談話スペースへと向かう。一般フロアでは会話もできない、学校の図書


室以上に静けさを追求したような空間なのである。むろん、お喋りを楽しみ


にきているわけではない、勉強のためである。ひとりでの学習が難しいから、


しばらく勉強を見てくれと武志郎から香里に頼みこんだことが始まりである。


そのせいか今回の香里は実に厳しい。学習に関すること以外の無駄口はいっ


さいきかないようにつとめているようであった。図書館内の食堂での昼食時


ですら、香里は手製らしい弁当を隠すようにして仏頂面で食していた。武志


郎が彼女の弁当箱をのぞこうとするふ たを閉じて拒絶された。当然、華や


いだ話題が出ることはなく、夏休み中の学習計画についての話が主であった。


香里の立てたスケジュールがまた、武志郎にはそうとうに過酷なものであっ


た。なんと七月いっぱいで学校からの宿題すべてを片付けて、八月以降は以


前同様、香里チョイスのドリルや暗記学習を進めるというのだ。ところで宿


題はてんこ盛りである。日本史、世界史プリント。古典漢文プリント。英語


プリント。数学プリント。物理、化学プリント。漢字問題集。現国問題集。


英語問題集。読書感想文。新聞記事をまとめた上での感想文。環境問題作文。


税に関する作文──などなどである。


「漢字問題、いる? スマホで検索すれば一発なのに」初日、子供のような


ことをいって抵抗を試みた武志郎。


「たとえば将来、なにかに興味をもって本で調べ物をするとするでしょ。


そのとき読めない漢字をいちいちスマホで調べてたら、人の倍、時間がかか


るんじゃない? 読めたり書けたりできた方が得だと思うな」


「……にしても宿題全部、七月中は無理でしょ?」ぐうの音も出ないながら


も、一応いってみる武志郎。しかし香里の、じゃあ帰る、のひと言であっさ


りと降参した。


「朝十時からお昼まで。午後は一時から七時まで。一日八時間で約十日間。


これだけあって終わらないはずないですよね?」香里のいうことはもっとも


である。確かにやり続けられれば終わるような気はする。これまでは、それ


ができないから苦労したのである。そして昨年は圧倒的な宿題の物量を前に、


なにから手をつけるべきかを考えるだけでアップアップだったものだが、今


回は香里と同じ順番で進めることで取りあえず着手の段階からつまずくこと


はなかった。プリントを解いていくペースでいうと彼女の三分の一以下では


あったけれど。無駄口を叩かないかわり、武志郎が質問をすると香里はてい


ねいに設問の解説をしてくれた。決して回答は教えずに極力、武志郎が自力


で解けるよう導いてくれるのだ。本日が四日目となるのだが、武志郎も少し


ずつペースをつかみはじめていた。できないとあきらめていたことができて


いく喜びを感じつつあった。


「理数系の方は倍の時間がかかるかも……」昨日、帰りがけに香里からいわ


れた。だから武志郎はできる設問だけは昨夜のうちに解き、予習をしてから


今日、図書館へとやってきた。もう一度考えて、わからない問題だけを香里


に聞けるようにと。


 一見、順風満帆なスタートを切ったかのように思える夏休みであったが、


武志郎の心配事はひとつ、紗世である。武志郎はこの三日間、香里と一緒に


いて偶然にでもなんにでも、決して彼女に触れないように気を配ることだけ


は忘れなかった。ときには彼女が不審に思うほど不自然な形でも、とにかく


香里との直接接触を拒んだ。たとえば一昨日などは帰りの電車が珍しく混み


あっていたので、図書館に忘れ物をしたと嘘をついた。昨日は缶ジュースを


受け取るとき指先が触れそうになったのであわてて振りおとした。そして手


がつったと、また嘘をついた。だから三日間、紗世が出てくることはなかっ


た。せめて七月中、宿題が終わるまでは出てこないでくれ! 武志郎は心か


らそう願っていた。ところがである──。


 物理の設問の根本的なこと、設問の意味が理解できずに香里に質問をする


と、顔を上げた彼女は無表情のまま素早い動きで、武志郎の手に自分の手を


重ねようとした。


「は?」危うくよけた武志郎だったが、すぐに第二波がくる! からくも逃


げた武志郎は、そのまま立ち上がった。「なんなの? 香里」


「こっちが聞きたいんですけど」憮然とした表情で声を落とす香里。「別に


触りたいとか、触ってほしいとか、そんなんじゃない。でもそこまでさけら


れると、なんか、傷つきます……」


「ああ」周囲の冷ややか目を気にしてイスにかける武志郎。「だよね」とし


かいいようがない。お紗世がくる!などといえるはずがないのだ。


「勉強のためにきています」


「おう、はい」


「でも、そうまでされて集中できると思いますか?」


「…………」もはや、だよね、とすらいえない武志郎はどこか他人事のよう


に考えていた。人は簡単に傷つけられるし、傷つくんだなぁ、と。当人の思


いもよらないところで物事が動くこともある。香里に触れないことが香里の


ためでもあるのに、と。


「──帰る」参考書やプリントを片付けはじめる香里。


「香里!」武志郎は思わず香里の腕をつかんでいた。しまった!と思ったと


きは遅かった。右目の激痛とともにヤツがきた!




「待たせたな、ブシロー」あごをいくぶん持ち上げて、ニヘラと笑みをうか


べる紗世。


「はいはい」もはや致し方なしだ。武志郎は紗世の腕を離した。


「学問てのは楽しいものなのかい?」紗世はプリントをペラペラと見ながら


つぶやく。


「そうでもない」


「ほーう。だが、香里とやりゃあ楽しいってわけだ。そりゃあ、わっちのこ


となんざ忘れちまうはずだぁ、なぁ!」


「声がでかい」キッとにらむ武志郎。しかし紗世ってツンデレ?とも思った。


「おう、そうかい。ここはそういう所らしい、まあわかった」声をひそめる


紗世。


「助かるよ、紗世」


「ところでブシロー、香里はやっぱしおめぇに惚れてたんだなぁ」


「うん……かな?」


「勘違いにもほどがあるってのによ」


「どういう意味?」


「イミ?」


「勘違いってどういうことなの?」武志郎は瞬時に理解した。説明という単


語を知らなかった紗世は、意味という単語も知らないのだと。


「何年か(めぇ)、香里のおっかさんを助けたのは、わっちだからよ」


「は?」


「おめぇに取り憑いたわっちがしたことなんだよ。わかるだろ?」


「あ──」そういえば、あんなに高く、長くジャンプできたことはそれまで


なかった。


「ついでにいうと、(せん)にゃ、でけぇ荷車からおめぇの命も助けたぜ」


「お……」宅配トラックに轢かれかけたとき!? 「マジか!」


「声がでけぇよ、ブシロー」


「ごめん」といいながら舌打ちする武志郎。


「どうでぇ、わっちが幽霊だって合点がいったろ?」


「なんともいえない」確かに常識では説明できない事象ではあったけれど。


「かぁー、学問してる割にゃあオツムのデキがなってねぇ。なら、とっとき


だ、耳かっぽじって聞きやがれ」


「はあ」確かにデキがいいとはいえない。


「これは、去年だったか、おめぇ小間物屋でちっせぇ娘っ子に()めつけら


れて、身動きとれなくなったことがあったろう?」


「?」──小間物屋、娘っ子、ねめつける? あ! コンビニで幼稚園児く


らいの女の子ににらまれた! そんなことあった! すごく怖かった! 


ただ、誰にも話したことはない。武志郎には話す友達もいなかったし、オチ


もなにもない話だからだ。


「ありゃおめぇ、あの娘っ子にゃ、おめぇに憑いたわっちの姿が見えてたっ


て筋書きだろうよ」


「…………」怪談風のオチがついた。


「あの子にゃ、わっちもおったまげたよ」あはは、と小さく笑う紗世。


「…………」


「ブシロー?」応えない武志郎の頭をいきなりひっぱたく紗世。


「っ痛ぇ」


「呆けてんじゃねぇ」


「ああ、すまん」しばし思考が停止していた。「本当に紗世は普段、俺の中


にいるのか?」


「このスカタン、そういってんだろ! いいいかげん、信じやがれ」


「まあ、わかった」理解できたわけではないが。「信じる、けど……」


「なんでぇ?」


「紗世には、俺が見てるものが見えてるってこと?」


「おうよ」


「前に……その、せんずりがどうのとかいってたけど……」


「ああ」紗世は額に手を置いた。「ありゃあ、正直、見たくねぇ姿だ」


「見せたくねぇし」


「そりゃそうだ。あの笑い絵、生々しいもんな。ちゃんと隠しとけよ、


おっかあに見つからねぇように」笑い絵、聞いたことのない言葉である


が、それが孝雄からもらったエロ本のことであるのは想像がついた。武


志郎は恥ずかしさで泣きそうだった。


「紗世、お紗世さん、かんべんしてくれ、出てってくれ。香里には中途


半端な気持ちで手を出したりしないから」


「バカ野郎、おめぇが香里に手ぇ出さなきゃ、わっちは出てこれねぇじゃ


ねぇか」


「どうしろっての?」


「お願いしただろ? わっちを成仏させてくれって」


「彦五郎坊ちゃん?」


「ああ」うなずく紗世。


「どうやって助けるの? 俺になにができるの?」


「おう、どうやら本命の話ができるな。からくりは知らねぇが、わっち


らを斬った浪人者にブシローが取り憑くのを見せてもらった。となりゃ


あ、ブシローが斬らなきゃいいだけのことよ。そうだろ?」


「…………」──わけわかめ、わけわかめ、わけわかめ。


「試してみるかい?」


「な、なにを?」


「行ってきな」紗世は武志郎の目を見ながら彼の頬を、指先でちょんと


つついた。




 炎と煙に巻かれる木造家屋の中にいた。血まみれた刀を手にしている。


そして足元には小柄な男と、首を落とされた血染めの女が転がっていた。


「どういうこと? どういうこと!」両手で日本刀を握りしめたまま、


震える武志郎は煙にむせ、凄惨な光景に吐きそうになりながら、倒れて


いる女の首を見た。──むこうを向いていて顔は見えないけど、これが


本当の紗世? 


「この悪党!」甲高い女の声が聞こえた。斬られる! 武志郎の腕はと


っさに反応し、振りむきざまに刀を振るった。ガチン、と(はがね)(はがね)


激突音! 武志郎は背後からの袈裟斬りを手にした刀で受けとめた! 


が、それまでであった。女剣士はかえす刀で、武志郎の腹を豪快にかっ


さばいた! 声もなくその場にくずれ落ちた武志郎は、薄れゆく意識の


中で内臓が体外に流れ出ていくことを感じた。




「はっ!」腹を押さえて目覚める武志郎。隣の席には香里がいる。そし


て場所は図書館の談話スペース。はあはあと犬のように呼気が乱れてい


る武志郎に、香里が声をかけてきた。


「おかえり、ブシロー」


「……なんだ、紗世か」ようやく現実を把握する武志郎。指先がまだ震


えている。


「なんだたぁ、ごあいさつだな? まぁ、疲れたろ? 死ぬってのはおっ


かねぇ」


「紗世、お前があの夢を見せてるのか?」


「おう。(めぇ)んとき、おめぇが香里を抱いて、そんときわっちが香里


に入りこんだ。だから、おめぇはちょいの間、わっちを抱いていたんだ


な。この色惚けが」


「あ、そう。それで?」紗世を抱きしめた? 一生の不覚!と武志郎は


思った。


「そしたら、おめぇは跳んでった」


「跳んでった?」あのおぞましい悪夢の中に?


「おう。となりゃあ、わっちがおめぇに触れりゃあ、わっちらの愁嘆場(しゅうたんば)


ブシローが跳んでくんじゃねぇか? まあ、そう思ったのよ」


「なるほど」感心している場合ではないが。


「おら」手を伸ばし武志郎の腕に触れようとする紗世。うわわ! 大げ


さなくらいのリアクションで逃げる武志郎。そして再び周囲からの冷た


い視線を感じる。いくら談話スペースとはいってもバカ騒ぎが許される


場所ではない。


「香里のまねするな!」


「へへ、心配(しんぺぇ)すんな。ただ触っても跳んでかねぇよ。これま


たわっちの──」


「胸三寸?」


「そうゆうこった」


「この悪党!」武志郎は思わず、自分を斬った女剣士のセリフを吐いて


いた。


「おお、そういやブシロー、今度ぁ(おと)様の剣、よけたな?」


「オト様? あの女、乙っていうのか? 知りあい?」──二度も殺し

がって!


「こっちが勝手に知ってるだけよ。新徴組(しんちょうぐみ)山賀乙(やまがおと)様。


中澤琴(なかざわこと)様と並び称される女剣士様さ。あのお姿に、あの


強さだろ? 町の女どもがひゃあひゃあいって追っかけたもんよ」


「へぇ。紗世も一度、乙様に斬られてみれば?」


「おめぇに斬られるよかましそうだ。そんな話よりブシロー、気がつか


ねぇかい?」


「なにが?」


「おめぇ、この(めぇ)は一発で斬られたじゃねぇか? それが今度ぁ


よけられたんだぜ」


「だから?」


「バカだな、おめぇ! てぇことは、どうにかすりゃ彦五郎坊ちゃんも


助けられるってこったろが」


「……でも、今回は紗世も死んだあとだったよ」──過去を変える? 


それ以前にいつの時代だ? 戦時中には思えなかった。山賀乙、あの


かっこうはやっぱり侍だよな? 


「だぁなあ。いってぇどんなからくりなんでぇ?」


「紗世がわからないのに、俺にわかるわけないだろ?」


「おめぇ、なんのために学問やってんだ? ちったぁ、考えや……」ガ


クンと肩を落とす紗世。心なしか青ざめているように見えた。冷房がき


いているのに額に脂汗まで浮かべている。


「どうした?」──幽霊のくせして、なんでそんな苦しそうな顔するん


だ?


「……そろそろヤベぇようだ。おめぇとの逢瀬はいつも短ぇな、香里を


羨むねぇ」


「はぁ?」──やっぱ、ツンデレ? なわけねぇ。


「本日、これまでだ。また出してくれよ、お願いするぜ、頼むぜ。あて


にしてるぜ、ブシロー……」紗世は武志郎に手を伸ばす。その手をつか


んだ武志郎は、ひとつ大きくうなずいていた。そして、きた。右目への


衝撃が。紗世が目の奥へと戻ってくるらしき、禍々しい衝撃が。 




「香里?」武志郎は香里の手をつかんだまま、彼女の顔色をうかがう。


香里なのか?と。


「武志郎君……あれ? また、私、なんか頭が……痛い!」


「具合悪い?」


「うん。最近、たまにある。なんだろう? 太りすぎ? 高血圧?」


「れ、冷房にやられたんじゃねぇの? 少し外の風にでも──」


「ねぇ、待って。私、怒って帰ろうとしてなかった?」激しく頭を振り


ながら、武志郎をにらむ香里。


「あ? ああ」


「どうして手、握ってるの? 私に触りたくないんでしょ?」


「あ!」あわてて手を離す武志郎。「香里、聞いてくれ」


「なんですか?」まだふらつくのか、こめかみを指先でグリグリともん


でいる香里。


「あの、この間、決めたんだ。あの……」


「なんです?」


「中途半端な気持ちで、香里に手出ししないって」先ほど紗世にいった


セリフである。苦しまぎれではあるが、武志郎の本音でもあった。


「え?」


「あの、なんていうのかな……」どうしたって周囲の耳目(じもく)が気になる。


できれば続きは外で話したい。


「いって」


「は?」


「ちゃんといって、武志郎君」また、あの真摯な瞳である。武志郎はこ


れに逆らえない。


「……うん。この前、香里にもう終りっていわれたとき、どうしていい


かわからなくなった。あんな前から好かれてたなんてのも全然、思いも


よらなかったし。でも、このままじゃ嫌だって思った。だからメールし


た。また一緒に勉強してくれるっていわれたとき、本当に嬉しかった」


「うん」


「だけど俺、まだ自分の気持ち、わからないんだよ。ちゃんとわからな


いんだよ。こうやって香里といるのは嬉しいし楽しいんだよ。でも……」


「わかった」


「え?」武志郎には香里の表情がどこか誇らしげに見えた。人前で孝雄


にキスをされた、いつかの律子のように。


「ちゃんと私のこと考えてくれてるの、よくわかった。ありがとう」


「いや、そんな……」


「だからって、あのさけ方は極端すぎますよ。泣いちゃいそうでした」


「だよね」それは、そうだろう。


「武志郎君、今日はここまでにしようか? 恥ずかしいから」香里は好


奇に満ちた衆目を集めていることにようやく気づいたようだ。紗世が取


り憑いたことによる一時的な後遺症のせいで感覚がおかしくなっていた


からかもしれない。


「そうしよう」香里が人前で恥ずかしい話をさせたんだろ?と武志郎は


思ったが、もちろん口には出さない。そして彼は、香里にしても紗世に


しても、女とつき合うのって大変!とも思っていた。


 帰りがけ、ふたりで駅へと歩きながら山賀乙、中澤琴を知っているか?


と香里にたずねると、彼女は目を輝かせて食いついてきた。ふたりとも


に幕末を生きた女剣士なのだそうだ。中澤琴は昭和の時代まで生きたの


であるが、山賀乙は明治維新前に戦死したのだという。


「ふたりとも写真は残ってないけど、背が高くて、容姿端麗だったそう


です!」嬉しそうに話す香里。


「ああ、丘さんみたいな感じだったな」確かに山賀乙の背丈は蓮美くら


いだった。美人かどうかは、どうだっただろう? それどころの騒ぎで


はなかった。


「見てきたみたいにいいますね?」


「いや、イメージ、イメージ。ふたりとも新選組(しんせんぐみ)にいたの?」


「違いますよ。新徴組(しんちょうぐみ)です」


「シンチョウ組?」そういえば紗世もそういっていたような気がする。


けれど武志郎はその名称を知らなかったので、勝手に有名な新選組だと


思いこんでいたのだ。


「江戸の町の警備隊です。江戸庶民にはヒーローみたいな存在だったん


ですよ。元は同じ浪士組だし、沖田総司(おきたそうじ)のお兄さんがい


たから新選組と縁は深かったんですけど」


「江戸の警備? 京都じゃなくて?」歴史にうとい武志郎でも、新選組


が活躍したのが京都であることくらいは知っている。修学旅行委員のお


かげで得た知識であるが。それに時代劇などで見る幕末は、おおよそ京


の都が舞台であったような気がする。


「新徴組は江戸です。山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)なんて有名人もいるんですよ」


「ふうん……」紗世が斬られたのは幕末の江戸らしい。斬った男は何者


なのだろう?


「それでですね」香里は、そのあと、電車の中でも歴女ぶりを発揮して


江戸時代を語りつづけた。武志郎が江戸に興味を示したことがよほど嬉


しかったのであろう。


       2


「幕末か……」その日の夜、図書館ではほとんど手がつかなかった物理


のプリントを勉強机に広げてはいたが、どうしても気持ちがそれていっ


てしまう。このままでは七月中に宿題を終わらせるなどとても無理だろ


う。だが紗世はこの瞬間にも目の奥で自分の監視を続けているのかもし


れない。そう考えただけで、いてもたってもいられない気分になるのだ。


この時点で武志郎は、紗世が香里の別人格であるという可能性を捨てて


いた。それがとんでもなく非常識な判断であるということは間違いない。


だが、武志郎とはそういう男なのである。山原勇人の言葉を借りれば、


お人好しすぎ、ということなのだろう。


「どうしろってんだ?」武志郎は教科書にもほとんど出てこない新徴組


についてスマホで検索してみる。記事の数はそれなりにあったが、どれ


もこれも似たりよったりの内容であった。ネットよりも香里の話の方が


はるかにくわしい、そんな気がした。きちんと専門出版物でも読めば、


また違うのかもしれない。ただそのときは香里のいう通り、漢字をいち


いち検索しないと読めないに違いない。武志郎は思わず、香里スゲーと


つぶやいていた。ネット情報の中では隊旗の画像がなかなかにおもしろ


いと思った。新選組の方は「誠」の一文字が書かれている旗なのに対し、


新徴組の方は「SHINTIOU CO」とローマ字で書かれているの


である。しかもなんとなく不自然なローマ字、そしてCO。これでは


新地王商会になってしまう。武志郎はさすが江戸時代だと微笑ましく


思ったが、COの訳に自信が持てずに、また検索した。意味はどうやら


合っていたようだが、確かに勉強って必要かも? あらためて自身の学


力不足に慄然とする武志郎であった。


 紗世について思いを巡らせてみる。そして、また検索する。どうやら


人格や説明、意味という単語ができたのは明治時代になってから、たと


えば自由という言葉ですら江戸時代には存在しなかったということがわ


かった。武志郎はショックを受けた。普段、なにげなく使用している言


葉が、現に会話がそれなりに成立している幕末の女に理解されないとい


う事実に。昔からあるものだと信じて疑わなかった言葉の歴史の浅さに。


さらに好奇心で調べると、キス、接吻(せっぷん)という単語も維新前にはなかっ


たようだ。


「だから口吸いか……まんまじゃねぇか! エロいな江戸時代」武志郎


は紗世にも文字がよく読めるようにと、スマホを右目に近づけてみた。


「少しはこっちの言葉も覚えろよな」見えてるんだろ? そう思いなが


ら。

 ──などと楽しく歴史を学んでいる場合ではない。紗世には是が非で


も出ていってもらわねばならない。風呂もトイレも×××も、一生涯の


ぞかれ続けるなんてとんでもない話である。


「成仏ねぇ」──神社かなにかで祈祷を受けるとかじゃダメだろうか? 


ダメだろうな。目の手術を受けて紗世のかけらを物理的に取りだすとか? 


いや、それはそれで怖い、あの爆発から時間がたちすぎている。とっく


に目の細胞の一部と化しているかもしれない。結局、彦五郎坊ちゃんと


やらを助けるよりほかに手はないのだろうか? 


「爆発?」武志郎はここでハタと気づいた。あの不発弾はJR田町駅か


ら少し離れた三田の工事現場で爆発した。つまりあそこが紗世の死んだ


場所ということだ。それに紗世自身から死んだときの日時を聞ければ、


時間の特定でもきる! 紗世を斬ることになる男の正体もわかるかも


しれない! そうだ、香里なら江戸時代のマップとか持ってるぞ! 


「でも、だからどうしたって話か……」額をコツコツと叩く武志郎。


一回目と二回目、過去に戻った時間にズレがあった。一回目は彦五郎は


すでに死んでいて、紗世を斬る場面から始まった。二回目はふたりとも


斬り殺したあと。この差はなんだ? なにか法則でもあるのだろうか? 


それとも単なる時の気まぐれ? いや、それをいうなら紗世の気まぐれ


かもしれない。なにしろ胸三寸で、彼を江戸時代に跳ばせるらしいから。


しかし抑制がきくのならば、少なくとも二回目はふたりが斬られる前に


跳ばしただろう、それはありえない。厄介なのは紗世自身がアレをでき


る理由をわかっていないことだ。実に無責任な話である。アレがあの場


所、あの瞬間であるというのは、やはり紗世の怨念、執念のあらわれと


理解するしかないのだろうか。


「何度も試すしかないってこと? 怖いの嫌だなぁ。ほかに方法、ない


のかな?」まあないだろう。武志郎は、紗世が憑依(ひょうい)するたびに苦し


げにしている香里を見るのもつらかった。──そもそもなんで香里なん


だ? 三年間、出てこなかった紗世がなぜ、いきなり香里に取り憑いた


んだ? 他の人間で代用はきかないのだろうか? たとえば丘蓮美とか。


あいつなら頑丈そうだし。


「いや……」蓮美の体に触った瞬間、ぶっ飛ばされるだろう。バレー部


できたえあげたパワーが、同い年の女子とは思えないほどのアタックが


炸裂するだろう。


「同い年?」そういえば、紗世の年齢を聞いたことがない。自称、水茶


屋のアイドルだそうだから勝手に若いと思いこんでいたが、どうなのだ


ろう? そして、彦五郎坊ちゃん、ヤツは? 坊ちゃんという呼び方か


ら子供を想像していたがそうとは限らない、大人だって坊ちゃんと呼ば


れることはある。中学の教科書に載っていた夏目漱石の小説の主人公は


確か大人で、教師だった。もし幼い子供を助けられるのであれば、それ


はありかも?と心のどこかで思わないこともなかったが、まさかの色恋? 


どうだっただろう? 紗世に気を取られていたから彦五郎の遺体にまで


は注意がいかなかった。もし大人だったとしたら、彦五郎は紗世の男!?


「はぁあ! なんでそんなもんを俺が助けなきゃならねぇんだ!」いっ


てから武志郎は自室のドアをキッと見た。今のはひとり言としては声が


大きすぎた。両親に聞かれていたら心配されるレベルだろう。伸宜も篤


子も、案外、自分を気にしてくれていることを武志郎は知っている。


ドアの外に異変はなかった。ため息をひとつつく武志郎。


「もう無理……」破裂しそうな頭をかかえた武志郎は、物理のプリント


を脇に押しやり、新品のノートを開いた。そして次に紗世と会ったら聞


くべきことを箇条書きにしはじめる。確認するべきことを先にしてから


行動に移すべきだと思いいたったのである。この夏の目標が今、武志郎


の中で明確に定まった。彼はノートにガシガシと書きこんだ。



『なんとしてでも夏休み中に紗世を追っ払う! あわよくば成仏させてやる!』



これである。どうせ去年も終わらせられなかったのだ、宿題なんて二の


次である。生涯、幽霊に()きまとわれることを思えば宿題なんて、


そう、夏休みの宿題なんてもの、どうということはない。


「…………」ここで残念そうな香里の丸い顔が浮かんだ。「くそ!」


武志郎は夏休みの目標を上方修正することにした。



×『なんとしてでも夏休み中に紗世を追っ払う! あわよくば成仏させてやる!』

                    ⇓     

〇『なんとしてでも夏休み中に紗世を成仏させる! 宿題も勉強も全力でやる!』



 武志郎は片隅に追いやった物理のプリントを机の中央へと引きもどした!


(つづく)


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