第一章 春の地獄 13~14
飲酒にくわえ、暴力表現ついにきました。
どんなんでしょう?
13
魔の四日間が始まった。授業を受けているときも、休み時間も、全校
朝礼で校歌を歌うフリをしているときも、武志郎は常に針のむしろの上
にいた。結局、なんの結論も見いだせなかった彼は、毎日、教室で顔を
合わせている香里に話しかけることができない。そして彼女の方も武志
郎によってくることはなかった。それどころか、目が合いそうになると
顔をそむけた。ちなみに先日返却された期末試験の結果は笹井のいった
通り、文系に関してのみ、すこぶるよかった。武志郎にしては、との注
釈つきではあるけれど。これはまさしく香里の的確な指導の賜物としか
いいようがないのである。本当に世話になった、その思いも武志郎の胃
のあたりを重くした。
「なんか、お前らおかしくね?」明日は一学期の終業式というあの日か
ら四日目の昼休み。たまりかねたように孝雄と勇人が武志郎を詰問した。
「お前ら? 誰と誰のことかな?」とぼける武志郎はしかし、生殺しの
ようなこの状況にほとほと疲れきっていた。彼らに相談をしたかった。
「やっぱ、送りオオカミになったのか? 最悪だな」孝雄の口調は、い
かにも残念な人をまのあたりにしたかのようにわざとらしく沈んでいた。
「なってねぇよ!」なりかけただけである。
「鵜飼、慰労会のときの雰囲気と違いすぎるぜ。なにがあった? 話し
てみなよ、ブシロー」勇人は安定の大人発言である。武志郎は思わず彼
にすがってしまいたくなるが、「俺ら保田奈美穂失恋同盟じゃないの?」
こういわれて舌打ちをする。
「冗談はさておき、もう夏休みだろ? このまま放置してると明日あた
り律子が騒ぐぞ」
「あー、それがあった」孝雄のいうことはもっともである。武志郎は額
をコツコツと叩き始める。
「女帝も黙ってないと思うぜ」低くおどろおどろしい口調の勇人。確か
に怖い話である。
「お前らさ、有坂や丘に偵察してこいっていわれたんだろ?」孝雄には
前科がある。
「バカ、今回は違ぇよ。俺までハブにして女子だけで動いてる。連中は
男子のブシローが、女子の香里ちゃんをひどく傷つけるなにかをしたと
マジで思ってるんだ。いってる意味、わかるよな?」
「わかるけど」
「やつら、証拠をつかんでブシローを糾弾するつもりだよ。おそらくな」
「糾弾!?」そんな大げさな! テレビニュースでしか聞いたことのな
い単語である。
「丘ならやりそうだろ?」勇人のこのひと言は重かった。丘蓮美のクラ
ス内政治力はハンパではない、確かにやりかねない。「だから俺らも事
情を知っておくべきだと考えたわけ。なんもわかんなきゃ、ブシローの
弁護もできない。違うかい?」
「…………」証拠に糾弾に弁護、なんの裁判だ?と武志郎は思ったが、
ここで完全に心が折れた。「タカ、有坂にも絶対、いうなよ」そう念を
押す武志郎。こうして男子三人が頭をつき合わせての教室内密談が開始
された。
「──なるほど、そりゃブシローが悪いわ」話を聞き終えた孝雄が小さ
くいった。
「なんでよ? だからキスはしてないんだって」
「そこが問題なんだよ。なんでやめたの?」
武志郎は、期末試験慰労会の帰途、香里との間であったこと、話したこ
とを問われるがまま、つつみ隠さずに告白した。ただ、彼女の名誉のた
めに解離性同一性障害についての話題だけはさけた。なのでキスをしな
かった理由が不明瞭な説明となっていたのである。
「いや、だから、まだそこまで親密じゃないって思ったから」あとにな
ってではあるが。
「ふーん」腕組みした孝雄が武志郎の目をのぞきこむ。
「なんだよ?」
「そういやブシロー、前、いってたよな。保田奈美穂みたいなスリム女
子が好みだって」
「激しく同意」口をはさむ勇人。
「香里ちゃん、そりゃ痩せちゃいないけど、可愛いじゃん? ダメ?
あーゆー子」
「ダメってことないけど……」
「ヘイトだ、ヘイト! ぽちゃヘイト!」孝雄はときおり、ひどく無神
経な口をきく。しかもヘイトの意味がよくわかっていないようである。
「だ・ま・れ!」いってからハッと口元に手をあてる武志郎、少し声が
大きかった。
「まあ、それはさておいてもさ、ブシロー」勇人が真顔でいった。
「なに?」
「とにかくブシローから話しかけてやるべきなんじゃないか?」
「男らしくとか、そういうこと?」──それこそ男女差別じゃないの?
男ヘイトだろ?
「じゃなくて鵜飼、今、恥ずかしくて死にそうなんだと思うぜ。かわい
そうだよ」
「は?」
「そりゃそうだろ。多少──」ここで勇人はさらに声をひそめる、学内
で飲酒の話題はかなりマズい。「お酒が残っていたせいかもしれないけ
ど自分からキスを誘ってしまうだなんて、なんてことしたのよ、私。恥
ずかしくて消えてなくなりたい! そんな風に思ってるんじゃないか?
見たかぎり古風というか控えめな子だからな、鵜飼って」ウネクネとし
た女言葉を交えながらも、ふざけているようには見えない勇人。
「しかも拒否られたわけだし」孝雄がいらぬ補足を加える。
「…………」もしそうならば、香里の方からなにもいってこない理由も
わかる。そうかもしれない、そうなんだろうと絶句した武志郎は思った。
「な? ブシローから話しかけるべきだろ? ただのクラスメイトにも
戻れなくなるぞ」
「それは嫌だ!」思わず口ばしる武志郎。
「じゃ、がんばれ。丘や有坂がこじらせる前に動け」武志郎の肩をポン
と叩く勇人。
「わかった」呆然とうなずいた武志郎は、勇人へ聞かずにはいられなか
った。「なんで山原、そんなに女の気持ちがわかるんだ? すごくねぇ?」
「うん? 俺が何人の女とつき合ってると思ってるんだ? とくに年上
とつき合うといろいろとわかるもんだぜ」
「ははぁ……」再び絶句の武志郎。
「ほほう……」ひとりの女だけでも手一杯だってのに! おそらくはそ
う思ったであろう孝雄も負けずに絶句した。
武志郎を弁護するという意味合いはどこかへ吹きとんだけれど、実に
有意義な昼休みの密談となったようである。
そして放課後、なにをどう切りだせばいいのかわからないままではあ
るものの、閉じていた目をくわっと見開き、じっくりと固めた決意を胸
に武志郎が席を立つ。すると、鬼の形相をした律子と蓮美が彼に迫って
きた。
「ブシロー、どうなってんの?」ポケットに両手をつっこんだまま凄む
律子。
「香里のこと? 本人から聞いてないのか?」
「あの子がなにもいわないから心配なんじゃない! どうなってんのよ?」
「なにかした? ブシロー君」言葉少なではあるが威圧感が尋常ではな
い蓮美。
「香里とは、ちゃんと話す。きちんと話をする」おのれへの鼓舞をこめ
て、決意を表明する武志郎。
「それはいいけど。私、なにかした?って聞いてるの」蓮美はあくまで
も弾劾の姿勢をくずさない。が、武志郎はまた彼女にムカっ腹が立った。
なに様だ? お前は、と。
「いえないようなことはしてない。それに俺が香里と話すといってんだ、
お前が口をはさむことじゃねぇ」
「!!」ポカンと口と目を見開いて、そして真っ赤になり爆発寸前の蓮
美。なにかしらのプライドが激しく傷ついたようだ。
「…………」怒りにまかせてついいってしまった言葉を瞬時に後悔する
武志郎。この女はあとが面倒臭そうである。
「ブシロー、香里といつ話すのよ?」背の高い蓮美の腰に手を置いて、
さすりながら律子がいった。いきり立つ暴れ馬をなだめている牧童のよ
うに見えた。
「今日、今から」敢然と答える武志郎。
「帰ったよ、香里。とっくに」
「え?」目を閉じて決意を固めている場合ではなかった。「マジか!」
「マジよ、どうすんの?」
「そうよ、あんたが目をつむってシカトぶっこいてる間に香里は泣きな
がら帰ったのよ! 偉そうに、今日、今から? ハァア!」息を吹きか
えし本性剥きだしの蓮美は、香里の別人格なみに口が悪い。普段クール
を装っているだけに、こうなると始末に負えない感じである。それにお
そらく、香里が泣きながら帰ったという話は偏向情報に違いない。
「とりあえず、追っかけたら?」二次災害を恐れるように、遠巻きに見
ていた孝雄が大声で武志郎の背中を押した。「追っかけたら! どうよ?」
「サンキュ、タカ!」そういい残し、バッグをつかんだ武志郎は教室を
飛びだした。
「……おう、青春だねぇ」と笑う孝雄のふくらはぎに蹴りを入れる律子。
「なに、逃がしてんのよ! 裏切者!」怒りのほこ先を孝雄に向ける蓮美。
「いや、ちょっと待て。蓮美さん、部活、バレー部いかないと……」困っ
たようにヘラヘラ笑う孝雄。そんな彼らをニヤニヤとしてながめている勇
人らクラスメイトたち。まことに平和な学級である。孝雄はしばらくふた
りの女子からさんざんに吊し上げられていた。
自転車置き場まで一気に駆けてきた武志郎の足がハタと止まった。学校
から駅までの途上で香里に追いつければいいが、ヘタをすると彼女の家ま
で行くことになるかもしれない。自転車のフレームは歪んだままである。
そのガタピシとした状態で彼女の住む町まで行き、帰りは駅にして六個分
の長い道のりを走らせなければならない……。
「ありえねぇ」つぶやいた武志郎は自転車をあきらめ、回れ右をして校門
へと急いだ。
14
結局、香里の住む町に再び武志郎は降りたった。四日ぶりのことで
ある。同じ学区内に住んでいた保田奈美穂の家の前ですら、ときおり、
たまたまといったていで通りぬけていただけであるというのに。なに
やってんだ、俺。そう思いはじめると背にした駅に戻ってしまいそう
になる。なにもくることなかったのでは? 電話でよかったのでは?
メールで──きりがない。自身のヘタレぶりに舌打ちする武志郎。決
めたんだ、行くぞ、俺! 彼はゆるい下り坂の駅前商店街の方へと足
を踏みだした。
雑木林に囲まれた貯水池、「痴漢に注意!」の看板を横目に見なが
ら、犬の散歩をしている中年女性の一団とすれ違う。高まる緊張感、
そして聞こえてきそうな心臓の鼓動。裏腹に歩く速度がだんだんと遅
くなっていることを感じる。じきに香里の家に到着してしまう、その
ことを足が拒絶しているようだ。ただ同級生の家に行くだけだぞ俺の足。
一度立ち止った武志郎は、自分の腿を叩いて喝をいれた。
午後五時十七分。そんなわけで香里の家の前に着いても、インター
ホンを押す段になると武志郎のビビリぶりが遺憾なく発揮された。う
ろうろとして行ったりきたり、そのさまはまるで挙動不審者である。
とうの本人はそのことにまるで気づいていないようであるが。
「武志郎君」小さな声が聞こえた。見ると玄関ドアが細く開いていて、
中で香里の顔が半分だけ、夕刻近い南西からの日ざしを受けていた。
「あ──」言葉が出てこない武志郎。
「入って。ご近所の目があるから」
「あ……はい」ここで武志郎は初めて思いいたった。まだ日が高い、
完全に西へかたむくまでには少し時間がかかるだろう。主婦や老人、
子供らと人通りも多く、制服姿で落ち着きなくうろつく彼をうさん臭
い目で見る者がいたかもしれない。前回の夜間訪問時とはまるで状況
が違うのである。こうして彼は、なしくずし的に家屋二階の香里の部
屋へと連れられていった。仕事に出ている彼女の母親の帰りは午後九
時近くになるのだという。武志郎の顔から血の気が引いたことはいう
までもない。いいのか?という倫理観と羞恥心。いいの?という好奇
心と色欲。そして、ヤバくない?という江戸の荒くれ野郎への警戒と
戦慄。さらにいうと、香里の部屋着がTシャツに、太腿もあらわなミ
ニスカートであったことも武志郎を大いに動揺させていた。足を出す
のは恥ずかしいといってはいたが、ひとりでいるときには年相応の女
子らしいオシャレを楽しんでいるのかもしれない。
「あの、なんで俺がいるってわかったの?」香里から冷えた麦茶を受
けとり、ベッドに腰を下して肩をすくめている武志郎がたずねた。
「パトロールの警官から不審者がいるって通報を受けたので」勉強机
のイスに腰かけた香里が答える。
「はぁあ!」飲んでいた麦茶と氷を吹きだしそうになる武志郎。
「嘘です」おもしろくもなさそうな抑揚のない声。
「はぁ?」
「勉強してて、その窓から見えたから、武志郎君が──」
「なるほど」武志郎は、レース生地のカーテンが吊られたアルミサッ
シの窓から外部を見下ろしてみる。確かに門扉のあたりがよく見えた。
あそこでフラフラしているところを見られていたかと思うと恥ずかし
くなる。そして無遠慮にならないていどに気をつかいつつ香里の部屋
を見わたす。むろん、興味津々なのである。同年代の女子の部屋に上
がるのは物心ついてからは初のできごとなのだ。六畳間の和室で木製
の学習机とベッド、書棚とクローゼットが機能的に配置されていて、
室内の中央にはラグマットが敷かれている。可愛いらしい小物やぬい
ぐるみのたぐいがあちらこちらに飾られているのはいかにも女子らし
い。しかし、天井に江戸時代の美人画や役者絵のポスターが貼られて
いるのいかがなものか。そして香里の性格をもっとも表していると思
えるのは雑然とした所がなく、整頓と清掃がいき届いているところだ。
ただ家具も他の品も、どれもこれも古そうな物ばかりであった。鵜飼
家は経済的に苦しいらしいと孝雄がいっていた、それは事実なのだろ
う。武志郎は胸がしめつけられる思いがした。この質素な部屋で香里
は毎日、新品の暗記シートとドリルを準備してくれていたのだ。
「あんまり見ないでください、可愛い部屋じゃないから恥ずかしいです」
「そんなことないよ。あ、すごいね、これ」
書棚に並ぶ本へと目を向ける武志郎。浮世絵のカラームック、古地図
本、解説書、箱入りの歴史小説、棚の一角がすべて江戸時代関連の書籍、
文献で埋めつくされていた。
「江戸時代、好きだから」
「歴女っていうんだろ? テレビで見たことある」
「可愛い趣味じゃないです。引きますよね」
「いや、熱中できることがあるのっていいと思うよ、マジで。俺、な
にもないし」
「そうなんですか?」
「江戸時代のどこがいいの?」
「いいです。そんなの聞いてもおもしろくないです」
「いいから、教えてよ」そんな話をするためにきたわけではないのだ
が、どうにも香里のテンションが低すぎる。なにを話すにしても、こ
のままではやりにくい。歴女は趣味の歴史の話になるとがぜん、雄弁
になるとテレビでいっていたのを武志郎は思い出したのだ。
「私の好きな江戸時代は……」ボソボソと無表情のまま話しはじめる
香里。しかし、その話しぶりは趣味を語るというより、江戸時代のど
こがいいのかという武志郎の問いに対し簡潔に答えているだけのよう
であった。
「江戸の町では着物でも食器でも家具でもリサイクルが当り前で、
なんでも再利用しました。トイレの糞尿ですら肥料として再利用され
ました。ヨーロッパや中国では路上や木のかげでたれ流しだった時代
にです。だから道端にはゴミ屑なんて落ちてなくて、江戸の町は世界
一清潔だったんです。江戸の人々は多種多彩な料理を楽しむグルメで
した。相撲の番付表になぞらえて食事処の番付表もあったくらいです。
江戸前寿司やそば、天ぷらばかりが名物として有名ですが他にもおい
しい物であふれていたんです。それから彼らは旅行好きでした。今で
いう旅行ガイドの本も数多く出版されていました。出版といえば、そ
の当時、識字率だって世界一でした。どの町にも寺子屋があって、わ
ずかな賃金で子供たちに読み書きソロバンを教えるような文武両道の
すばらしい大人たちがたくさんいたからです。そんな人々がいたから、
人と人の間に義理人情が息づいていたから、江戸は百万人都市であり
ながら三十人ていどしか同心、今のパトロール警官がいなくても町の
治安は保たれていました。今よりもずっと安全だったんです。花魁や
遊郭、いわゆる風俗店ですら今と違って風情とか優雅さがあった。
もちろん私は今の風俗店がどういうものなのかはよく知りませんけど。
──まだ、話しますか?」
「いや、いい」じゃっかん怖気づく武志郎。まるでロボット、コンピ
ューターの音声解説を聞いているようであった。確かに雄弁にはなっ
たし、知識は果てしなくあるようだが、気持ちが上がったようにはと
ても見えない。以前、勉強の合間に江戸の話をしていたときの香里は、
もっともっと目を輝かせていたのに。
「だからいったじゃないですか……おもしろくないって……私なんて……」
「え? な、なに? え?」武志郎は泡をくった。下を向いた香里の
目から涙がポトポトと落ちているのである。「か、か、香里? なに?
どうした?」立ち上がり、おろおろとするばかりの武志郎。一気に顔
を上げた香里は天井を仰いで呼気を整えた。そしてティッシュで目元、
鼻元をぬぐっている。「どうしたんだ、香里」
「もう、いいです。鵜飼さんで」
「え?」
「一昨日、笹井先生に怒られました。内申点のこと、嘘ついてごめん
なさい」
「ああ、それ。うん」──笹井のヤツ、自分で香里を責めるなってい
ったくせに!
「期末が終わったらいわなきゃ、いわなきゃってずっと思ってたんだ
けど」
「うん」
「いえませんでした。本当にごめんなさい」
「いや、いいんだよ! 俺も笹井には怒られた、そんなこと知らない
方が悪い!ってさ。それに、少しは点取れて、両親なんか飛びあがっ
て喜んじゃって、結果オーライだよ。マジ、オーライだからさ!」身
ぶり手ぶりをまじえ、多少大げさに騒いでみせる武志郎は必死である。
香里に罪はない、むしろ恩人なのだ。
「それだけじゃありません」
「え?」
「塾に行ってるとか嘘、いいました。うちにそんな余裕ないのに、見
栄をはったんです」
「違うだろ」──それこそ嘘だ。
「私、武志郎君に好かれてるかな?なんて勘違いしちゃって……あん
な、恥ずかしいこと……どうしょうもないです」
「いや、勘違いってか……」
「いいんです。武志郎君、やっぱりデブは嫌いなんじゃない。今日、
はっきりわかりました」
「へ?」──き、今日? まさか、昼休みの密談、聞かれていた?
えー、嘘ぉ!
「そうじゃないかと思ってたけど、やっぱりそうだった。早くいって
くれないと」
「…………」──どうしよう、どうしよう!
「わかってました。私、保田奈美穂さんみたくスリムじゃないから」
「あ、あの……」──うわっ、やはり聞かれてた! 間違いないよ!
「武志郎君、今日、きてくれてありがとう。助かりました」
「え? え?」
「だって、学校で泣いたらりっちゃんたちが騒いで、大変なことになっ
ちゃう──」言葉をつまらせた香里の目から懸命にこらえていた涙が再
びあふれだす。武志郎に背を向け、勉強机に突っ伏した香里は声を殺し
て泣きつづける。
「香里……」
「鵜飼さんでいいってば!」
「…………」
「大丈夫! 大丈夫だから、明日からは大丈夫だから! もう帰って!」
武志郎は思わず、香里を後ろから強く抱きしめていた。強く、強く。
するときた! あのえぐられるような右目の激痛が──。
周囲がゆらめいていた。燃えていた。木造の室内が業火につつまれて
いる。火事!?と思う間も与えられず、武志郎は手にした日本刀を振り
下ろしていた。おぞましいほどの哀しい悲鳴が響きわたる。血しぶきが
武志郎の顔や胸に撥ねかかる。目の前に粗末な和服を着た女が倒れてい
た。あさっての方を向いている時代劇のようなかつらをつけた首、そし
て胴体がほとんど離れた血まみれの状態で。死んだ! 武志郎は思った
が、首を斬り落としたのはまぎれもなく武志郎自身であった。さらに、
彼女の脇に転がっている小柄な男の姿が目に飛びこんできた──。
「うわぁあ!」叫びながら赤い血に濡れた刀を懸命に手から振りほどこ
うとする武志郎。投げだしはしたものの、感触は掌に残っている。女の
肉を、腱を、骨を断ち切った、首を切断したという感触が。武志郎は炎
と煙に巻かれながら両手を広げて絶叫した。
「この悪党!」甲高い声が聞こえ、瞬時のうちに背後から袈裟懸けに斬
られた武志郎は、振りかえり、一歩踏みだすも、次の一閃で腹を裂かれ、
板の間に倒れふした。意識が完全に途切れる前に、刀についた武志郎の
血を払う侍のような衣装を着けた女の姿が見えた。
「ブシロー、おい、ブシロー!」女の呼ぶ声。母さんではない、母さん
がブシローなんて呼ぶはずがない。「しっかりしやがれ、この野郎!」
「!」息を吹きかえした武志郎は咳込みながら、目玉のみを動かして周
囲を見る。炎につつまれてはいない。先ほどまでと変わらない香里の部
屋にいるようだ、浮世絵ポスターが貼られた天井が目に入る。ラグマッ
トの上で仰向けに寝ているようであった。──夢? 跳ねるように体を
起こし斬り下された肩口、そして腹に手をやる。血は出ていないし、痛
みもない。夢、夢か? 両方の掌にも血痕はない。しかし、女の首を落
としたという感触は鮮明に残っている。あの女の断末魔の悲鳴は耳に焼
きついている。
「ブシロー、大丈夫か?」女に見下ろされていた。
「うわあっ!」武志郎は大声を上げて、後ろに跳びのく。彼を斬り殺し
た女が追ってきたのだと錯覚したのだ。それほどリアルな夢であった。
「なんでぇ、なんでぇ、男のくせしやがってわあわあわあわあ。ちったぁ、
落ち着けってんだ」香里はいいながらラグマットの上にドッカリと腰を
下し、あぐらをかいた。
「…………」──出た、江戸の荒くれ野郎。なんだよ! 次から次から!
「おいおいおいおい、涙なんか浮かべてどうした?」
「!」知らぬ間に泣いていたらしい。武志郎は歯ぎしりしながら涙をぬ
ぐう。
「まあ座んな、ブシロー。そんなへっぴりじゃ、ろくろく話もできやし
ねぇ」
「…………」舌打ちして、一度迷うが、ベッドにかける武志郎。
「おう、前に座れよ。それともわっちを上から見下そうって算段かい?」
香里はあごをなでながらニヤリと笑う。
「うるせぇ! 前に座ったらパンツが丸見えだろが!」思わずどなって
しまった武志郎。もう破れかぶれである。あの悪夢にしても、この野郎
のせいかもしれない。とにかく、香里に巣食う荒くれ野郎の正体をつき
止めてやる!とそう思った。ところが彼女の大胆なあぐらのせいで、先
ほどから淡いピンクの下着がチラチラとのぞいている。正面に腰を下し
たりすれば、それこそ落ち着いて話もできないだろう。
「パンツ? なんでぇ、パンツって? 聞いたことはあったような」
「パンツはパンツだよ!」武志郎は香里の股間のあたりを指さす。
「ああ、湯文字け! こりゃいけねぇ!」赤くなった香里はあ
わてて膝を合わせて横座りに変更した。
「なんだよ、ユモジって?」
「だいたいこの女、なんて着物を着てやがんだ! まるっきり裸じゃね
ぇか!」
「……それで、あんた誰?」武志郎は前回の出現時には聞けなかったこ
とを切りだす。
「わっちかい? わっちは紗世ってんだ。やっとまともに話がで
きそうだなぁ」
「サヨ? 女の人格なのか?」
「ジンカク? なんでぇ、それ?」
「キャラクターっていうか、わかるだろ? 人格だよ!」
「わかんねぇよ!」
「もういい。サヨってどんな字書くんだ?」
「おお、てめぇの名くらいならわかるぜ、薄絹の紗に世間さまの世で紗
世よ」
「……あ、そう」とっさに漢字がうかばない武志郎は、あとで検索する
ことにした。
「わっちはこれでも『鉄火小町』といわれていてな、物見が出るくれえ、
名の通った茶屋娘よ。世が世なら絵師に美人画、描かれてたほどのもん
なんだ」
「は?」武志郎には彼女がなにをいっているのか理解できない。
「あれよ、あれ」香里、いや紗世は天井に貼られたポスターの一枚を指
さす。それは『水茶屋アイドル笠森お仙』とタイトルだけは現代の活字
が躍る、浴衣姿で細見の女性が描かれている浮世絵のポスターであった。
「アイドル?」よくはわからないが、アイドル級の美人だといいたいら
しい。人格が女であることだけは確かなようだ。
「なあブシロー、おったまげずに聞いてほしい」紗世は落ち着かないら
しく、またあぐらをかいて、棚にあった大きめのぬいぐるみで下着を隠す。
「なんだよ?」とっくにいろいろ、おったまげだよ! 心の中で毒づく
武志郎。
「どうも、わっちぁ幽霊らしい」
「はい?」
「情けねぇこったが、わっちは百鬼夜行の類になった。物の怪? 怨霊?
ま、そんなもんだろうな」
「じゃなに? 紗世さんが香里に取り憑いたってこと?」──そういう
意識の人格ってこと?
「いやぁ違う、取り憑いたのは香里じゃねぇ。おめぇにだよ、ブシロー」
「はぁ?」
「わっちはもっぱら、おめぇの右目の奥にいる。もう何年も前からだ」
「右目!?」思わず声が裏がえる武志郎。
「昔、三田あたりの商家の並びでおっきな炸裂があったろう? 忘れた
かい?」
「いや……覚えてる、けど」忘れるはずがない。中二の夏休み、墓参り
に行ったとき。商店街で第二次世界大戦中の不発弾の爆発事故に遭遇し
た。保田奈美穂と偶然、出会った二度目の夏に。
「あんとき、地下に埋まってたわっちの髑髏のかけらがおめぇの右目に
飛びこんだ。あれからわっちは、おめぇの中にずっといる」
「はぁ? 嘘だろ?」──東京大空襲のときの骨って話? 香里の好き
な江戸じゃなくて戦時中の人格ってこと?
「わっちだって信じられねぇよ! どんなからくりなのかもわからねぇ!
だからこうして恥をしのんで、てめぇごときヘタレにつれぇ胸の内を打
ち明けてるんじゃねぇか!」
「ヘタレ!?」
「おうヘタレすぎて……たまに泣けてくらぁな!」
「え?」武志郎は息をつまらせた。紗世の目に、本当に薄くにじむ涙を
見たからだ。
「けっ! なんでもねぇよ! 見るなバカ野郎」拳で目元をぬぐう紗世。
「あの……一応、紗世さんを信じるとして、なんで今は香里に取り憑い
てるの?」女子の涙には本当に弱い男である。
「おめぇが香里って女に口吸いしそうになりやがるのを見て、わっちぁ、
めっぽう腹が立った」
「それは知ってる」
「そしたらこうなった」
「なんの説明にもなってない」
「なんだ? セツメェたぁ?」紗世はどうやら人格や説明という単語を
知らないらしい。
「つまり紗世さんもどうしてこうなったのかわからないってこと?」
「ああ。だがな、おめぇに戻る術は心得てるぜ。こないだ試したからよ」
「どうやるの?」
「なーに、出るも戻るも、こう、ちょいと肌が触れればいいだけよ。あ
とはわっちの胸三寸さ」
「なるほど」胸三寸の意味は武志郎にはよくわからなかったが、香里を
思わず抱きしめてしまったせいで、紗世という人格が噴出したというこ
とだろう。紗世が幽霊であるとはどうしても考えられない。やはり香里
の中の別人格というのが正解。一度、香里に触れて、それから二度と触
らずにいれば、この茶番劇も終わるに違いない。そう考えた武志郎はベ
ッドから立ち上がった。
「お、ブシロー、わっちに触れようって魂胆かい?」
「そしたら、紗世さんは消えるんだろ?」紗世に手を伸ばす武志郎!
「色惚けわっぱ!」紗世、正確には香里のたくましい足が武志郎の胸に
渾身の蹴りを入れた! はねとばされ、壁に激突した武志郎は、薄いピ
ンク色のパンツをしっかり拝むことだけはできた。「前もこうして、ぶ
っとばしたろ! 忘れたのか? 触れただけでおめぇに戻るわけじゃね
ぇんだよ!」
「……なるほど」胸三寸とはつまり、紗世の気持ち次第ということのよ
うだ。彼女に消える意志がなければ、武志郎がいくら触れようと香里に
居座りつづけるということらしい。しかし──。「それ、香里がかわい
そうじゃね?」
「……んなこと、いわれるまでもねぇ。けどよ、けどよ」口ごもる紗世。
「紗世さん、わかった。もう一回、話し合おう。それでどう?」とにか
く紗世が冷静になりさえすれば元の香里に戻るらしいことはわかった。
そして紗世という女、話せばわかる人間、いや人格だと、なぜか武志郎
は思ったのだ。
「ブシロー」
「うん?」
「ありがとよ」
「お、お、おう」どうしてだか武志郎は、中一の夏、なわとびの練習中
に自転車の保田奈美穂からふいに声をかけられたことを思いだして赤面
した。なんの関係もないのに。
「あと、ブシロー、わっちはただのの奉公人、武家の娘でもなんでもね
ぇ、お紗世でいいぜ。さんづけなんざ勿体ねぇや、なぁ」
「ああ、わかったよ、お紗世」さんづけをするな。宿主と同じことをい
う、やはり紗世は、香里の作りだした人格なのだろう。「あの、やっぱ
紗世でいい? なんか時代劇みたいでいってて恥ずかしい」
「あ? ジダイゲキたぁなんだか知らねぇが、ま、好きに呼びな。だが
ブシロー、せっかくだが、あんましときはかけられねぇんだ」
「どういうこと?」
「香里だよ。今、わっちがおめぇとこうしてること、この女、まるっき
りわかっちゃいねぇ。わっちがおめぇに戻ったとき、あんましときがた
ってるとヤベぇだろ?」
「ああ、なるほど」前回、紗世が出てきたときは確かに短時間だった。
「なんで、ちゃっちゃと喋るぜ」
「わかった」
「今んところブシローへの頼みはふたつ、ひとつは香里と逢瀬を重ねて
ほしい」
「はぁ? オウセ?ってなに?」
「かぁー、そんなことも知らねぇのか! 逢引きだ、逢引き!」
「逢引き……つき合えってこと?」──じゃましに出てくるくせに!
「おめぇらの話聞いてると、学問所はどうも長めの藪入りになるようじ
ゃねぇか?」
「ヤブイリ?」
「いちいち面倒だな! 盆の休みだ!」
「ああ、夏休み?」──お前が面倒なんだよ!
「となりゃおめぇ、休みの間おめぇらが逢瀬を交わしてくれねぇと、わ
っちが表に出てこれねぇだろが」
「だけど……どうやって」──出てこなくていい!
「知るけ! てめぇで考えろ! ブシローだいたい、女のことでグズグ
ズ、ウジウジやりすぎなんでぇ!」
「な、なんで、そんなこと」図星であるが。
「わっちがいつもブシローの目ん玉ん奥にいること、忘れんな。次、頼
みのふたつ目、わっちを成仏させてくれ。三途の川を渡らせてくれ!」
「はい?」
「だから助けてくれ! 坊ちゃんをよ!」
「なにをいってるんだ?」
「おめぇ、先刻、見ただろ? おめぇが斬った娘──あれがわっちだ」
「……はぁあ!?」
「ブシロー、わっちの顔、見たかい?」
「いや、見てない」──斬った首なんか見てられるか!
「そうけ。でな、あの前に、おめぇ、いや本当はおめぇじゃねぇが、
おめぇは坊ちゃんを殺めやがったんだ!」
「…………」──ほかの人まで斬った? 俺が! かんべんしてくれ!
「わっちはいい! 彦五郎坊ちゃんを助けてくれ! 頼む! ブシロー!」
紗世は膝立ちして武志郎の腕にしがみついた。そして涙を流して懇願す
る。「坊ちゃんさえ助かりゃ、わっちの思い残しは消えるんだ! お願
いだ! 後生だ! ブシローよ!」
「…………」武志郎がなにもいえずにいると、紗世はふらりと後ろむき
に倒れそうになり、床に片手をついた。
「おっと、そろそろヤベぇな。ひとまず退散するぜ」
紗世が手を握ってきた。そのとたんガクン!と強烈な衝撃が、再び武
志郎の右目を貫いた。
「あ、あの、あれ? 武志郎君!」香里はあわてたように、武志郎の手
を離してラグマットに尻餅をついた。
「あ、え? 香里? 香里か?」
「あれ? どうしたんだろ? 私」香里は頭痛でもするのか、額に手を
当ててしきりに頭を振っている。どうやら本人に戻ったらしい。
「あ、あのね、香里」──どうだった? 香里がどんな状態のとき、ああ
なった!? 懸命に思い出す武志郎。確か、そうだ! 香里が泣いていて、
それで俺がつい抱きしめた、それで……。「香里、すまない! 俺が、そ
の、悪かった!」
「え?」
「その、香里を抱きしめた、で、その、その拍子にふたりして転んだんだ」
「…………」
「ええと、どういえばいいのかな──」
「武志郎君」香里はまだ痛むのか両手で頭をかかえるようにしながらも、
充血した瞳を武志郎へとまっすぐに向ける。「どうして、私を抱きしめた
の?」
「あの……」
「デブは嫌いなのに」武志郎を見つめる香里の目、その目はある意味、現
実。まがい物っぽい自称幽霊の紗世と相対するよりもむしろ怖いと武志郎
は感じた。香里の真摯な瞳に恐怖を感じた。しゃにむに逃げ出したくなっ
てくる。そのせいなのか、人を殺した悪夢や紗世のせいでいら立ちがつの
っていたのか、自制のタガが外れ、期せずして大声を張りあげてしまった。
「デブが嫌いと誰がいった! あんなのタカのでまかせだ!」武志郎の心
奥を探れば完全なでまかせとはいいがたい。しかし少なくとも彼は、そう
した他者への雑言を口に出したことは一度もない。鳥の巣頭、電柱女、も
みじ饅頭……思うことは多々あるけれど。
「だって保田奈美穂さんみたいなスリムな子が好きなんでしょ!」香里の
真剣な目がいじましいものへと変化した。そのさまは痛々しいとすら感じ
られる。
「俺は中学のころからずっと保田奈美穂という人が好きだっただけだ!
彼女の体型が好きだったわけじゃねぇ! バカにするな!」もはや歯止め
がきかない武志郎。
「じゃ、なんで私を抱きしめたりしたのよ! 女ならなんでもいいってこ
と!?」頭痛の余波のためなのか、つもりにつもった武志郎への鬱憤なの
か、香里の口も止まらない。
「あ、それは……」口ごもる武志郎。無理もない、彼自身もよくわからな
いのだ。ただ、胸の内に愛おしさがこみ上げたこと、それだけは確かであ
る。確かではあるが、照れくさくてとても言葉にはできない。
「最低! 最低です! 抱きしめられて、ちょっと嬉しかった私がバカみ
たいじゃないですか!」
「え?」
「あ」あわてて口を押えた香里は「今のはなしで」といって自虐的な笑み
をうかべた。
「お、おう」
「大きな声出したら、少しスッキリしたみたい。なんか、頭痛まで治まっ
たし」
「香里、大きな声も出せるんだな」
「出せますよ、そりゃ。武志郎の気を引きたかっただけです。好きな人の
前じゃ猫かぶってるだけです」
「怖ぇな」好きな人。さらりといわれたが武志郎はドキドキしてしまう。
「はい。怖いですよ、私。しつこいし」
「しつこい?」
「話しちゃおうかな、誰にもいったことないんだけど」香里はモジモジと
下を向いた。「もっと怖がられるかもしれないし」
「いいよ、聞かせてよ」武志郎がベッド上で座りなおすと、香里はラグマ
ットに正座した。紗世のときの彼女とはえらい違いである。
「武志郎君はね、私にとって白馬に乗った若殿様なの」
「若殿?」それをいうなら普通、王子様である。彼女らしいといえばらし
いけれど。武志郎は勉強ができない馬鹿殿の聞き違いかと疑ってしまう。
「覚えてないですよね? 中二のとき、私たち一度、会ってるんですよ」
「マジで? どこで会った?」
「やっぱり覚えてない」ふくれっ面をしてみせる香里は、しかし目を細め
て笑っている。
「悪い、全然、わかんない」
「ちょうど三年前の夏、お盆のころに東京で爆発事故があったでしょ?」
「ああ、不発弾の?」紗世と同じ話題だ、と武志郎は思った。やはりふた
りは同一人物であり、同じ知識を持ち合わせているということだろう。ま
さか香里までがそのとき武志郎に取り憑いたとはいわないだろうけれど。
「あの爆発で父と弟が亡くなったの。ふたりで和菓子屋にいて」
「ぇええ!」──和菓子屋。確か事故現場の隣の店で、全焼したと聞いた。
「私と母は近くの洋品店にいて助かったんだけど、あの騒ぎではぐれちゃ
って。それでお母さん、人波に押されて頭を打ちそうになったところを、
バスケ部の男の子に助けてもらったの」
「え? はぇえ!」
「すごいジャンプだった。奇跡みたいなジャンプだった。遠目に見ただけ
だけど私にはキラキラして見えた」
「…………」
「武志郎君がいなかったら、私、ひとりぼっちになってたかもしれない」
「…………」
「あれから武志郎君が私の白馬の若殿様。えへへ、しつこいでしょ?」
「信じられない」記憶の糸を手繰る武志郎。しかしあのときの香里も、彼
女の母親の顔すら思い出すことはできなかった。あのときは保田奈美穂の
安否を気づかうことで精一杯であった。
「私も信じられなかった。入学式で武志郎君を見かけたとき、卒倒しそう
になったんだから!」
「そりゃ、どうも」実に不思議な巡りあわせである。保田奈美穂がいなけ
れば、武志郎が今の高校に進学することはなかった。あの夏、彼女と偶然
出会っていなければ、香里の母を助けることもなかっただろう。香里が武
志郎を意識することもなかったのだ。
「私、一年のころ、剣道部の練習とか試合、ちょくちょく見にいってたん
ですよ」
「え! マジで?」
「はい。私の若殿様が剣の修行をしてる!って勝手に盛りあがってました」
「がっかりしただろ」武志郎はめったに選手に選ばれたことがない。たま
に試合に出ても勝てたためしがない。
「そんなことない。がんばってる武志郎君が大好きでした」そういってか
ら香里は、あははと笑った。「今日、私、だいたん!」
「…………」紗世いわく、わっぱ(子供)の武志郎でも香里の気持ちは理
解できた。彼女は白馬の若殿様と決別しようとしているのだ。最後だから、
思いの丈を吐きだしているのだろう。それでいいのか? 武志郎は自問し
た。本当にそれでいいのか?と。
「そのころ、大倉君と仲よくなって。武志郎君の話、よく聞いてたの」
「タカと? 一年のときから?」
「うん。部活をよく見にいってたから声をかけられたの。武志郎君には見
向きもされなかったけどねー」舌を出してベーとする香里。
「あ……そう。すまん」
「大倉君には一度、つき合わない?っていわれた」
「ま、マジ?」──あのチャラ男が! 有坂にいいつけてやろうか!
「大倉君、優しいから。武志郎君が保田奈美穂さんしか見えてないこと知
ってたから。私を哀れに思ったんじゃないかな? だから武志郎君が悪い
の」武志郎をにらむ香里。
「…………」
「冗談です。でも、その保田奈美穂さんがあんなことになって、二年にな
って武志郎君と同じクラスになって、修学旅行委員になって、私、運命か
な?なんて舞いあがっちゃったんです。最低。内申点で嘘ついたり、キス
を、その、誘ってみたり、最低でした」
「そんなこと──」
「でも、これで終わります! もう大丈夫です! 二学期も修学旅行委員、
がんばりましょう! 武志郎君!」
香里の勢いに押されるようにして彼女の家を出た武志郎は、ただひとつ
灯りがついている二階の窓を見上げた。最後は明るくふるまっていたが、
また泣いてやしないだろうか? そればかりが気になった。
「白馬の若殿様……」そんな風に思われていたこと、武志郎は実にショッ
クだった。そんなものにはなれはしない。自分がいかに何者でもなく、い
かに無力であるかを思い知らされたような気がするのだ。そして、紗世の
いった通りだ、と思う。──香里は俺を本当に好きだからキスをしたかっ
た。そんな彼女にキスをしようとした俺、抱きしめた俺はなんなんだ。た
だの色惚け坊主、本当にそうだ。紗世のいう通りだ。
「……紗世、お紗世か」とても信じられた話ではないが、武志郎が彼女を
斬り殺し、その前に彦五郎坊ちゃんとやらも殺したらしい。そして、その
坊ちゃんを守れなかったことが心残りとなって紗世は成仏できずにいる?
彼女はらしくない涙を浮かべながら腕にしがみついてきた。坊ちゃんを助
けてくれと。
「わけわかんねぇ。モテ期到来か?」苦笑いを浮かべる武志郎。香里と紗
世、同じ人間であるのに二股をかけているような、そんな不可解な気持ち
になったのである。
「父さんさ、三年前の爆発事故、覚えてる?」武志郎は夕食の席で伸宜と
篤子にたずねてみた。不発弾の爆発があったあたりに人骨が埋まっていた
可能性はあるだろうかと。
「あっても不思議はないなぁ。空襲で逃げおくれた方はたくさんいただろ
うし」
「戦後の食糧難で餓死された方も大勢いたみたい。誰もかれもがキチンと
お墓に埋葬されたとは限らないわね」篤子は手にした白米大盛の茶碗を複
雑そうに見る。
「たとえばさ、空襲のさなかに刀で人が斬られたりとかあったと思う?」
確か、夢の中の景色、木造家屋は盛大に燃えていた。あの火災はアメリカ
軍の爆撃によって起こったのでは? 武志郎はそう考えたのだ。しょせん
は夢である、戦時中の軍刀を江戸の侍の日本刀と勘違いしたのかもしれな
いと。
「どうだろう? 空襲のさなかは考えにくいんじゃないか。みんな逃げる
のに必死だと思うし」伸宜の意見はしごく当然で納得できる。「ただ、戦
争終結反対派のクーデターなんてのもあったみたいだから、そのときには
刀くらい振るっただろう」
「そういうんじゃなくて、たとえば、商店街の女子供が斬られたりとか……」
「女子供はありません。昔から日本人には武士道があるんだから」きっぱ
りといい切る篤子。武志郎はそれもどうかと思う。だとしたら、この掌に
残る苦い感触は? あのときの武志郎は日本人ではなかったのか? 夢を
思い出した彼は食欲がなくなるどころか、吐き気を覚えた。
「なんで突然そんなことを聞くんだ?」けげんそうな顔で缶ビールを飲む
伸宜。
「うん、夏休みの宿題」箸を置き、父に平然と嘘をつく武志郎。心は痛ま
ない、それどころではない。
「そうだ! おじいさんに聞きなさいよ。もうすぐお盆のお墓参りだし」
篤子が無邪気に笑う。
「ああ、そうだね」確かにその手もある、と武志郎は思う。しかし、一カ
月も先である。
「うん、俺たちよりは宿題に役立つ情報が聞けそうだ。そうしろ武志郎」
「わかった」父さん逃げたな、と武志郎は思ったが仕方のないことだろう。
彼の両親はともに戦後三十年以上たってから産まれてきたのだから。
「しかし、最近の学校じゃ戦中、戦後の近代史なんてあまりやらないと聞
いてたけど。そうでもないんだな」
「いいことなんじゃない」
「ごちそうさま」手を合わせる武志郎。紗世が香里の作りだした人格であ
るならば、香里に聞くのが一番てっとり早い違いない。彼女の学んできた
近代史の中から紗世の人格が生まれたはずだから。あの夢とのつながりは
不明であるが。しかし、問題は紗世よりも香里である。今日、きっぱりと
絶縁状を叩きつけられたようなものなのだ。
自室のベッドに横になった武志郎は自身に問いかける。香里をどう思っ
ているのか? 正直、わからなかった。どうしてだか無性に彼女を抱きし
めたくなった、あの気持ちはキスをしようとしたときの衝動とは別物のよ
うな気がする。では、好きなのか? 惚れたのか? それすらわからない。
額をコツコツと叩きながらベッド上で七転八倒する武志郎。このままでい
いのか? よくない。だったらどうする? こんな中途半端な気持ちで近
づくのは懸命に白黒をつけようとした香里に失礼じゃないのか? 香里は
三年近くも思い続けた白馬の若殿様を今日、切ったのだ。
「白馬の若殿様?」しかし、考えてみれば香里だって失礼な女だ。勝手に
そんな理想像を押しつけられる方の身になれ! それで理想に破れたよう
な顔をして決別? なんだそりゃ!とは武志郎には思えなかった。剣道部
を退部し、勉強もできず、クラスでも孤立していた武志郎を彼女は想って
くれていた。ただ理想を追い求めているだけの女子ではない。好きとか嫌
いとか明確なものではなく、どこかグレーな部分で、どうしたって彼女を
悪く思うことが武志郎にはできないのだ。
「…………」跳ねおきた武志郎は机に向かい、香里にメールを送ることに
した。なにをどう打つかを決めていたわけではない、なにかをしないでは
いられなかっただけのことである。書いては削除、書いては削除を繰り返
す。いいわけ、弁解、逃げ口上、なにを書いてもそんな文にしかならない。
そんなことを書いてどうする? 俺! 一度など書きかけた長文がスマホ
の電池切れで消えてなくなったりもした。ほとほと疲れはてた彼は、あき
らめ半分、意を決してごく短い文面を香里に送信した。
『ひとりで勉強してても全然はかどりません。香里、お願いだからもう少
しだけ、夏休みの間だけでも俺に勉強、教えてください! 武志郎』
(つづく)